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ellipse  作者: 華里仁
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第5話 一週間前

 夕暮れ時、空がオレンジ色に染まり始める。

 グラウンドは、ほのかな湿気と土の匂いが漂っていた。周囲の木々が風に揺れ、葉っぱの重なる音が聞こえる。


 ――今日はやけに静かだ……。


 いつもなら他の部活動の声が聞こえるけど、今日は耳に入ってこない。

 集中、できているのかな。


 これからの時期は最後の調整段階だ。

 この3か月で私の陸上人生は終わるかもしれない。

 後悔は、したくない……。


 深呼吸をしてスタートラインをじっと見つめた。

 その先に広がるトラックが、まるで自分を試すかのように無言で広がっている。


「オンユアマーク!」


 マネージャーの声がグラウンドに響いた。

 ゆっくりとスタート位置につき、スタブロに足を乗せ、両手をライン手前に置く。

 これまでに修正してきたことを、頭の中で整理する。


 前足の脛が地面と水平になるように……。

 屈曲している両足で、スタブロを押す……。

 3歩目までに出来る限りの加速する……。

 そして、音……。


「セット!」


 思考が停止し、一瞬の静寂の時間が来る。

 背筋を伸ばし、全身の筋肉を意識的に緊張させる。スタートの合図を待ちながら、全てを集中させた。

 一瞬、息を止める。


 『ピーッ!』


 ホイッスルの音と同時に両足がスタブロを押し込む。

 反発する力が身体を前へと進めた。

 一歩、また一歩と加速をする。


 ――よし、スタートはうまく切れた。最初の100mは、ペースを上げすぎないように……。


 最初のカーブを抜け、直線に入る。

 少しずつ息が荒くなり、足に疲労が積もり始める。


 ――ピッチは大丈夫。ストライドも問題ない。体幹もぶれていない。まだ……いける。


 顎を引き締め、2つ目のカーブに入った。

 250m、300m……だんだんと足が重くなってくる。

 直線で出したスピードが遠心力に変わり、私の身体を外へ引っ張る。

 それに抗うように身体を少し内側に傾斜させながら、腕の振りで調整する。


 最後の直線。

 肺に無くなった酸素を全身にいきわたらせるように、短い呼吸をする。


 ――もう少し……もう、少し……!


 最後の力を振り絞り、フィニッシュラインを駆け抜ける。


 楕円のトラックを走り切った後、この1周で積み重なった疲労が一気に押し寄せてくる。

 一気に呼吸が乱れ、身体が重くなるのを感じた。

 腰に手を当てながら、全身をなだめるように足を動かし続ける。


「海里先輩!」


 マネージャーがストップウォッチを持って駆け寄ってきた。

 まだ息が切れている状態の私に、笑顔で画面を見せる。


 ――56”62


 ……よし!

 公式じゃないけど、自己ベスト更新だ。

 深く呼吸をして、ストップウォッチを受け取った。

 もう一度、タイムが刻まれている画面を見る。

 この時期に今までで最高のタイムが出たのは嬉しい。

 だけど……。


「先輩自己ベスじゃないですか!」


「うん……。」


「あれ? 嬉しくないんですか?」


「まだ……本番じゃないから……。」


 そう、これは地区予選じゃない。県大会でもない。

 練習なんだ。

 これで満足してはいけない。

 本番で出せなければ、何の意味もない。

 持っていたストップウォッチをマネージャーに手渡す。


「今日の練習は、後は流しですよね。じゃあ、私は中距離の練習の方に行きます。」


「うん。タイム、ありがとうね。」


「ピッ」という音が聞こえ、マネージャーが中距離ブロックの方へ走り始める。

 今出したタイムは、ストップウォッチのリセットボタンですぐに消える。

 記録には、残らない。

 それじゃ、意味がないんだ。


 地区予選まで残り1週間。

 私は再び、スタートラインまで戻った。


 ◇◆◇


「ただいま。」


 玄関を開けると、父の靴があることに気付いた。

 こんなに早く帰ってくるなんて、珍しいこともあるんだ。


「おかえり。」


 父がリビングの扉を開け、顔をのぞかせた。

 ナナが父の足元をすり抜け、私に駆け寄って来る。

 尻尾を振り回しているナナを撫でながら、「ただいま」と声をかけた。


「今日早いね。」


「たまには、な。」


「そ。」


「母さん、料理作って待ってたぞ。大会まで1週間だから、力つけさせるって張り切ってる。」


「ん。じゃあ、先に手を洗ってくる。」


「おう。」


 父はそんなに背が高くないけど、母の話では学生時代の頃は運動神経が良かったらしい。

 今ではお腹が出ている立派な中年のおじさんだけど。


 部屋着に着替えてキッチンに行くと、テーブルの上には料理が並んでいた。

 平日に皆で食事をするのは久しぶりだ。


「調子、どうだ。」


「うん。悪くない。」


「そうか。」


 父も母と同じで、特に深くは聞いてこない。

 だが、何か話をしたそうな様子だ。

 大会前だし、何か参考になる話が聞けるかもしれないから話題を振ってみよう。

 そういえば、やってた部活について聞いたこと無かったな。

 いつも遅いから話すこと自体少なかったし……。


「そういえば父さんってさ、高校の時部活何してたの?」


「ん? ラグビー。」


「え? ラグビーやってたの? 知らなかった。」


「海里から聞かれたことなかったからな。ウィングってポジションやってたぞ。花園までもう少しだったんだけどな。」


「ウィング? 花園?」


 全然知らない単語が出て、私の頭は困惑した。

 それを感じ取ったのか、父は話を続ける。


「ウィングってのは……簡単に言えば足が速くないといけないポジションだ。花園は全国大会のことだな。」


「へー……。インハイのこと?」


「いや、違う。総体とは別に、ラグビーの全国大会は冬にやる。」


「冬? なんでそんな時期に?」


「ラグビーって激しいからな。夏の炎天下の中でやるには酷なんだ。春にもセンバツっていうのがあるけど、やっぱりメインは花園だ。」


「そうなんだ……。それにしても、その体で足速かったの?」


「昔は、な。父さん痩せてたもんな、母さん?」


 母はクスクス笑いながら父の膨れたお腹を撫でまわす。


「そうね……昔は、ね。」


 父と母は笑いながら見つめあう。

 両親の仲が良いことは何よりだ。

 緊張して張りつめている心に、少しの緩みができる。

 和やかな雰囲気になったせいか、思わず本音が漏れた。


「父さん……。試合の時って、やっぱり緊張した?」


「そりゃしたよ。特にキックオフの瞬間。怖いっていうのもあった。」


「怖い?」


「そりゃそうだ。自分より遥かに大きい相手が、すごいスピードで走って来るのを生身で止めるんだぞ。そんな戦いが今から始まると思うと、足が震えてたよ。」


「父さん、ビビりだったの?」


「ハハッ! そうかもしれないなぁ。でも、皆最初の瞬間は震えてたと思うぞ。」


「そうなんだ。」


「でもな、そこで勇気を出すんだ。負けるもんかってな。苦しい思いしてやってきたものを全部出すんだって。」


「そっか……。」


 やってきたものを、全部出す。

 全身全霊で。

 それは、今の私ならわかる気がした。


「海里。」


 父が優しい目をして私を見つめる。

 一瞬の静寂が、家族の間に流れ込む。


「父さんと母さんは、お前を心から応援している。大会では思う存分、自分を出しておいで。」


 思わず視線を落とした。

 なぜかわからないけど、胸の奥から何か込み上げるものを感じる。


「……うん。」


 それが、私ができる精いっぱいの返答だった。

 残りの時間で全てを出し尽くそうと、心に誓った。

良かったらまた次話も見に来てください。

評価いただけますと、とても励みになります。

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