第4話 夜のトラック
部集会が終わると、短時間の練習をこなしてすぐに解散となった。
今日は分割走と加速走。気温はまだ少し冷たいけど、体はすぐに温まる。
練習が終わる頃には、Tシャツ一枚でも汗が滲んでいた。
着替えを済ませて校門を出ると、日はすっかり落ちていて、街灯がオレンジ色の光を投げかけていた。
家までの道を歩きながら、自然と今日の練習のことを考える。
――スタート。
やっぱり、ここが課題だ。後半の伸びは悪くないのに、出遅れるせいでいつも余計な力を使ってしまう。
――どうしよう。
家に着くと、リビングの電気がついていた。
学校から歩いて帰れる距離に家があるのはありがたい。
私は「ただいま」と言いながら玄関を開ける。
リビングに入ると、母がテレビを見ていた。
「おかえり。練習、どうだった?」
「いつも通り。」
「そう。じゃあ、ご飯にしましょうかね。手、洗っておいで。」
「よっこらしょ」と言って立ち上がり、キッチンに入っていった。
母は特に深く聞いてこない。私も、自分から話すことはない。
父は仕事で遅いので、夕飯を食べるのは大抵、母と二人きりだった。
「地区予選、もうすぐね。」
「うん。」
「調子は?」
「悪くない。」
「そう。」
それ以上何も言わず、私は黙々と夕飯を食べる。
母は絶妙な間を作って会話をしてくる。
さすが、元剣道部だ。余計なことは言わないけど、なぜか心が見透かされているようだ。
別に仲が悪いわけじゃない。こういう会話が、いつものことだった。
「ナナの散歩って行った?」
「まだよ。今日はお買い物とかで忙しくて。海里、行ってきてくれる?」
「わかった。」
ナナは黒柴の女の子で、3歳になる。
私が高校に入学した時、入学祝いの帰りにたまたま通りがかったペットショップで出会った。
最初飼うつもりは無かったらしいが、あまりの可愛さに家族全員一目惚れしてしまったのだ。
その結果、今は家の中で一番のアイドルと化している。
そのナナは、お気に入りのベッドでいつもこちらの様子を伺っている。
食後、ナナを連れて散歩へ出ることにした。
ナナはリードを見せると尻尾を振りながらすぐに私へ駆け寄ってきた。
ニコニコと口角を上げて近寄って来る姿に、張り詰めていた心が少し和らいだ。
柴犬特有の性格なのだろうか、家族には愛嬌を振りまくが、他人にめっぽう厳しい。
まだかまだかと足をパタパタさせているナナに首輪とリードをつけ、お散歩用のバッグを持ち、玄関を開ける。
外に出ると、夜風が頬をかすめた。
歩き慣れた道を進み、公園を抜けると、河川敷に出る。
川沿いの堤防上はタータン舗装のランニングコースになっていて、私のお気に入りの練習場所だ。
この時間なら、ほとんど誰もいない。
ゆるやかなカーブになっているコースを見て、無意識にトラックをイメージした。
――どうすれば、スタートをもっと速くできる?
何度かその場でスタートの姿勢を作り、足の置き方を試してみる。
地面を蹴る感覚、重心の置き方。何かが違う気がする。
でも、何が違うのか分からない。
すると、急にナナが尻尾を振りながらぐいぐいとリードを引っ張り始めた。
人影がゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。どうやらそれに気を取られているようだ。
でも、ナナは人嫌いなはずなのに……。
「ちょっ……ナナ? どうしたの?」
ぐいぐい引っ張るナナに私はついていくしかなかった。
人影が街灯に照らされて顔がうっすらと見える。
「何してんの?」
聞いたことのある声がしてよく見ると、斗士輝だった。
ジャージ姿で、手にはペットボトルを持っている。
「……散歩。ていうか、なんでここにいるの?」
「個人練習。たまにここで走ってる。さっき終わったとこだけど。」
「……そうなんだ。今まで会ったこと無かったけど。」
「気付いてなかっただけじゃね? 俺も今初めて気づいた。」
痺れを切らしたのか、ナナが斗士輝の所へ駆け寄った。
斗士輝は嫌がりもせず、下から手を伸ばし、ナナに自分の匂いを嗅がせている。
すると、ナナの方からすり寄って、斗士輝に背を向けて座り始めた。
斗士輝は笑顔になり、ナナの頭や体を優しくなで始める。
ナナが人に懐くなんて……。
それに、この人こんな顔するんだ……。
「……今、スタートの練習してたろ?」
思いがけない言葉に、少し動揺した。
見られていたらしい。私は黙って、河川敷のコースを見つめた。
「……苦手、だから。」
「ふーん。」
斗士輝はペットボトルを開け一口含んでから、少し考えるような顔をした。
「競技は違うかもしれないけど、ラグビーって初速大事なんだよ。最初の3歩ってやつ。それに、速い奴らは『音』が全然違う。」
「音?」
「うん。地面に乗る感じっていうか……こう、無駄がない。バタバタじゃなくて、ダン、ダン、って感じ。」
「ダン、ダン、……?」
「うまく地面から反発もらってるってことじゃね?」
私は地面を見下ろす。無駄のない走り。地面の反発を使う走り。
顧問の先生は長距離が専門だし、あまり詳しく話を聞いたことがなかったけど……。
頭の先から蹴り足までまっすぐになってるってことなのかな。
音……か……。
「やっぱ、斗士輝の走りも音が違うの?」
「俺?」
「うん。」
斗士輝は少し笑って、「どうだろな」と曖昧に答えた。
「自分で音はわかんねえよ。でも、ラグビーは”速く見えなきゃダメ”なんだ。」
「速く見える?」
「相手より先に動いて、味方のフォローをしなきゃいけない。だから、俺らは最初の3歩にこだわる。そこが勝負だから。」
最初の3歩……か。
「じゃあ……さ、私のスタート、見てくれる?」
「え……。いいけど……俺、陸上の専門家じゃねーぞ?」
「それでもいい。リード、持ってもらえる? 犬、飼ったことある?」
「……あるよ。だいぶ前だけど。」
それを聞いた後、私はナナのリードを斗士輝に渡した。
堤防にある距離標をスタートラインに見立て、クラウチングスタートの構えを取る。
斗士輝はリードをしっかり握りながらナナと見ている。
深呼吸をして、地面に意識を向ける。
「……セット……。」
そう言いながら、自分で合図を出してスタートを切った。
走り出すと、斗士輝の言葉が頭をよぎる。
――重心を意識。地面の反発。
3歩、4歩、5歩……スピードが乗る。だけど、まだ何か違う気がする。
20メートルほど走って止まり、斗士輝の方を振り返る。
私の後を追おうとしてナナが両方の前足を伸ばしている。
ナナが苦しくならない様に、斗士輝がリードの張りを調整しながら必死に止めようとしている姿が、なぜか滑稽に思えた。
「どう?」
「……速い。でも、違和感がある。」
「違和感?」
「スタブロ使ってないってのもあるしな。」
「良く知ってるね。普通言わないよ? スタブロって。」
「ラグビーはスクールでずっとやってたけど、中学時代は元陸上部だから。」
「そうだったんだ。種目は?」
「200。遅かったけどな。ラグビーで必要だと思ったからやってただけだし、お前みたいに陸上一本じゃなかったからな。」
斗士輝はタータンを軽く蹴りながら続けた。
「最初は違和感あるんだよ。今までの感覚と変えるってことは、頭と体が慣れてないってことだ。」
「慣れたら、変わる?」
「多分な。それにしても、本当にすごい奴だな。俺なんかの指摘をちゃんと聞いてさ。間違ってるかもしれないのに。」
「私はただ、もっと速くなりたい。そのためなら、なんでも吸収する。」
私はもう一度、同じ距離標の横に立った。
今度は、もっと意識してみる。
――最初の3歩、音……。
斗士輝が言ったことを反芻しながら、もう一度、走った。
――『タンツ!』
音が、少し変わった気がした。
斗士輝の方を振り返ると、グーサインを私に向けている。
でも、たった少しでも違いを感じられるなら、何か意味があったのかもしれない。
――本当に、変な奴。
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