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ellipse  作者: 華里仁
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第21話 見えない世界の中で

 奈良橋先生から退院の許可が出たので、一旦家に帰った。

 手術の事は、一度よく考えてから決めろと言われたが、なるべく早くするようにとくぎを刺された。

 自分の部屋の扉が重く感じる。部屋の中に入ると、不気味な違和感に襲われた。

 日が暮れる時間とはいえ、見慣れたはずの天井、机、本棚。当たり前のようにそこにあるはずなのに、夢を見ているような感覚だった。

 視界の半分が白く覆われ、距離感がつかめない。

 右目は相変わらず、白いまま。まるで霧の奥にあるようだった。

 自分の部屋が、始めてくる場所のように感じる。


 ――やっぱり、怖い。


 このままずっと見えなかったら、どうしよう。

 でも、手術をして全国大会に行けないなんて……。

 まだ決断できずにいた。時間だけが過ぎていく。

 ベッドの上で膝を抱えて静かに目を閉じる。心の中が、ぽっかりと空いたようだった。

 ふと、階下から母の声がした。


「海里、先生が来てくれてるわよ」


 階段を下りると、玄関に立っていたのは棚橋先生だった。白い封筒を持って、いつも通りの優しい笑顔を浮かべている。


「海里さん……。急にきてごめんなさい。病院にも行ったんだけど、私と会うと動揺するかなと思って……。顔、見せてくれてありがとうね。あの、これ……。」


 そう言いながら、封筒を差し出た。


「これ、海里さんに渡さないと思っていたの。東北大会の3位の賞状。」


 先生の手から賞状を受け取った瞬間、 私の身体が震え出した。

 込み上げてくる感情を抑えるのに必死だった。ただ、嬉しさからくる感情ではないことが、はっきりとわかった。

 封筒から賞状を取り出し、自分の名前と順位を見た。賞状の文字が、滲んで見える。左目で見ているはずなのに。


「……ありがとうございます。」


 声は震えていた。頭を下げながら、すぐに顔を上げられなかった。

 棚橋先生は気づいていたのか、何も言わず、母さんと私に軽く頭を下げて帰っていった。

 玄関の扉の閉まる音がした瞬間、感情が堰を切ったように溢れ出す。

 そのまま階段を駆け上がり、部屋の扉を閉め、手から賞状がひらひらと音もなく落ちていった。


「なんで……。なんで……!」


 足元に落ちた賞状が、ふわりと裏返る。その瞬間、今までの練習の日々、努力、苦しみ、喜びも――全部が一気に蘇ってきた。


「なんでこうなるのよ……!」


 部屋の扉の開く音が聞こえた。

 頭にふっとぬくもりを感じる。


「海里……。あなたは、本当によく頑張ったわ……。」


 母さんの優しい声が、耳に入って来る。でも、私の気持ちが晴れることは無かった。


「頑張っても何もならなかった! やっと報われたと思ったのに……! これまでやってきたことは無駄だったの? なんで? なんでなの……!」


「海里……。無駄な事なんて、一つもないわ。お母さんも、お父さんも、あなたのこと誇りに思ってる。」


「でも……。でも……!」


 部屋にいるのが耐えきれなくなり、気づいたら外へ走り出していた。

「海里!」という母さんの声が聞こえたが、私の足は止まることがなかった。

 ジャージのまま、スニーカーも履き潰した練習用のまま。目の前が少し歪んで見える。でも、構わず走った。行き先なんて決めていなかった。


 ただ、逃げたかった。


 見えない目からも、決断しなきゃいけない現実からも。

 どうしようもなくなった私は、走ることしかできなかった。


 気付いた時には、いつもナナの散歩で来ていた堤防を走っていた。

 夕陽が差し込む時間帯。なのに右目には白だけしか映らない。

 どうせ全国大会に行けないなら、目なんか見えなくなっていい。

 速度を上げようとしたその時だった。平衡感覚を失ったせいか、足がもつれて倒れ込んだ。

 痛みが左膝に走る。でも、それすらも感情の波には敵わなかった。


「……ううっ……。悔しい……。辛すぎるよ……。」


 涙が止まらない。堤防に舗装されたタータンへ額を押しつけるようにし、嗚咽を堪える。

 どこにも逃げ場はなかった。


 その時だった。誰かが走ってくる音が聞こえた。

 息を切らしながら、全速力で走って来る音。


「……海里!」


 声がした。聞き覚えのある、低くて、優しい声。

 顔を上げると、夕陽に照らされた斗士輝の輪郭が、ぼやけた視界の中でもわかった。

 でも、その姿を見た瞬間、どうしても顔を見せたくなくなって、立ち上がって走り出そうとした。


「……あっ……!」


 でも、足が思うように動かず、また倒れ込んだ。

 距離感が掴めない。右目がよく見えないから、地面の段差もわからなかった。

 膝を打ちつけて、うずくまったその瞬間。

 大きな手が、私の手を強く掴んだ。


「……落ち着けよ。」


 低く、でもどこまでも優しい声が、耳元に届いた。


「なんでそんな無茶すんだよ……。」


 斗士輝の声は、震えていた。ただ、冷静な声色が、私の心を落ち着けるようだった。

 顔を見上げると、どこか苦しそうな顔をしている。


「……目の事、聞いた。」


 私は何も言えなかった。ただ、握っている手に少しだけ力がこもっている。


「なんで……。知ってるの……。」


「大会で海里が倒れた後、姉貴とすぐに医務室に行ったんだ。当然、入れなかったけど。それで、救急車で運ばれる前に、無理言って海里の父さんと連絡先の交換をした。」


「父さんと!?」


 斗士輝は頭を掻きながら、申し訳なさそうに続けた。


「仕方ないだろ。どうしても、その……。心配だったから……。姉貴も事情を海里の父さんに話してくれて、了承してもらったんだ。」


 その光景を想像したら、さっきまでのどうしようもないような気持ちが少しずつ晴れていくような気がした。


「……ばかじゃない。」


「そうかもな。」


 落ち着きを取り戻した瞬間、斗士輝と交わした約束の事を思い出した。

 手術をしても、しなくても、私はもう、全国大会に出られない。


「約束、守れなかった。ごめん……。」


「……いいさ。ていうか、東北大会の記録、全国入賞レベルだろ。それだけでもすげぇよ。」


「……。すごくない。出られなきゃ、意味ない。全部、無駄だった。」


「……。ちょっと、座って話しないか。」


 斗士輝が手を離し、堤防に座るように促してきた。

 刈られた芝生の上で、並んで座った。


「俺は海里じゃないから、海里の悔しさの100%はわからない。でも、その感情は、知ってる。」


「どういう意味?」


「俺の親父。もう、亡くなってるんだけど。昔自分がラグビーをやっていた頃の話をよくしてくれたんだよ。」


 私は静かに耳を傾けた。


「それで、花園予選の決勝。海里でいう、インハイ予選の決勝戦だな。そこで強豪と戦ったんだよ。一進一退の攻防だったらしい。」


「……それで、どうなったの?」


「引き分け。それで結局、親父たちは花園には行けなかったんだけどな。ラグビーで引き分けだと、どうなると思う?」


「……知らない。じゃんけんとか?」


「いや。抽選なんだ。キャプテンが箱の中から紙を取り出す。そこに書かれている言葉で、勝敗が決まるんだ。そこに書かれた言葉をキャプテンがチームの前で読み上げた時、親父たちは何も言えなかったらしい。」


「なんて、書いてあったの?」


 斗士輝はジッと私の目を見つめながら口を開いた。


「『勝ちを譲る』。だったらしい。」


「そんなのって……。」


「あぁ……。俺もそれを聞いた時はびっくりしたよ。『勝利』とか『敗退』じゃないだって。でも確かに、親父達は勝ってない。でも、負けてもいない。だから、『譲る』という言葉で納得するしかなかったんだと思う。」


「『勝ちを譲る』……。」


 私は薄暗くなった堤防の上から、流れていく川を眺めた。

 右目は見えないけど、時折聞こえる水音が、流れの様子を感じ取れた。

 ふと、私の肩に力強く斗士輝の手が置かれた。


「海里は、負けてない。それはハッキリしている。今回は、勝ちを『譲った』だけなんだ。もっと違う景色が、海里を待っているかもしれない。」


 斗士輝の言葉が私の言葉に2つの気持ちを湧き起こさせた。

 1つは、希望。でも、もう1つの気持ちの方が、今の私は勝っていた。それは、不安。


「……私、怖いんだよ。もう、走れないかもしれない。手術したとしても、治るとは限らない……。」


「……それでも走るよ。海里なら。たとえ、どんな状況に置かれても。辛くて悔しくても、1mmでも前に進もうとする。俺は、海里の事をそう思っている。」


 斗士輝の目は真剣だった。嘘偽りのないまっすぐな眼差し。その瞳を見ていたら、自然と涙が溢れてきた。

 涙で濡れた頬を手で拭いながら、私は決意した。


「……私。手術、受ける。」


「……ああ。手術受けて、俺の試合見に来い。海里がちゃんと見えるまで、勝ち進んでおくから。」


 そう言われた時、涙が再びあふれた。悔しさや悲しさだけじゃない、温かさに触れた涙だった。

 涙が落ち着いた時、ようやく言葉を返すことができた。


「……うん。」


 ふと、斗士輝が手を差し出した。


「何?」


「渡せよ。」


「何を?」


「海里の悔しい思い。全部試合にぶつけてやるから。」


「……悔しい、思い……。」


「……恥ずかしいから、早くしてくれ。」


「……うん。」


 私は渾身の力を込めて斗士輝の手を握った。

 怒り、悔しさ、悲しさ、そういった感情を全て込めて全力で握った。

 斗士輝は歯を食いしばりながら痛みに耐えているようだった。

 手を離した時、斗士輝は手を開いたり閉じたりしながら笑っていた。


「……強いな。でも、ちゃんと受け取ったぞ。」


「……うん。」


「じゃあそろそろ帰るか。お母さんとお父さん、心配してるだろ。」


 私はハッとした。感情に身を任せたままここまで来てしまっていたことに今気付いた。

 きっと心配してるだろう。特に母さんが……。

 すると、斗士輝が私の目の前でしゃがんだ。


「何、してるの?」


「乗れよ。」


「はぁ?」


「距離感つかめないんだろ。もう日も暮れてるし、変なところで転ばれても迷惑だしな。ほれ、乗れ。家まで送ってやる。」


 斗士輝の言うとおりだった。暗くなると余計に視界が悪くなり、何がどこにあるのかわからない。

 それにしても、おんぶか……。いつ以来だろう。


「……私、見た目よりも重いよ?」


「ラグビー部なめんな。100kgまでは余裕だ。そういう練習もしてるし。」


「フォローになってない。」


「……いいから、早く乗れ。」


 少し意地悪したくなり、ちょっとだけジャンプして斗士輝の背中に飛び乗った。

 バランスを崩しそうになったがさすがはラグビー部、重心を調整してすぐにバランスを保った。


「わざとだろ。」


「……なにが?」


「……いや、いい。」


 私が乗っていることを感じさせないくらいスクッと立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。

 歩くたびに感じる揺れが、私の心をリラックスさせる。

 斗士輝の背中が、温かい。

 私は目を閉じて、見えない世界の中にある優しさを、静かに感じた。

良かったらまた次話も見に来てください。

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