第20話 代償
白い天井が見える。
だが、右目から見える景色は、視界に入るものすべてが白い。
目に入る光が、再び私の頭を刺激した。
ここは……どこ……?
「海里! 良かった……。」
「母……さん……?」
痛みをこらえながら体を起こすと、左手にぬくもりを感じた。手から汗がにじみ出しているのがわかる。
母さんが、ずっと手を握ってくれていたのだろうか。
頭痛が激しさを増していき、思わず頭を抑える。
そうだ、私はレースに出てたはず。でも、ここは? 結果は?
「……母さん。私のレース……結果は? ここ……どこ?」
「海里……。ここは、市民病院よ……。結果は、3位。本当に、頑張ったわね……。」
母さんはそのまま黙ってしまった。すると、扉の開く音が聞こえ、白衣を着た男性が入ってきた。
「藤浦海里さん。気付かれましたか。私は医師の奈良橋です。ちょっとだけ、確認させてもらいますね。」
母さんが席を立ち、奈良橋と名乗った医師が私の近くまで寄ってきた。
医師は私の目を開きながら、光を当ててくる。右目に光を当てられた時、全体にモヤが広がって奇妙な感覚だった。
「うん。運ばれていた時よりも少し安定していますね。」
運ばれた? 全然状況がつかめない。私は、一体どうなったの?
「……あの。私、なぜここにいるんでしょうか?」
「海里さん。あなたは競技が終わってすぐに倒れたんです。そしてここに運ばれてきました。」
「倒れた……。私に、何が起きたんですか……?」
「海里さん。これまで視界が視界がもやがかかったり、視野がぼやけたりしたことはありませんか?」
突然の質問だったが、記憶を呼び起こす。確かに、ここ最近練習中やレース前にそんなことがあったような……。
特に、決勝の時は頭痛までした。
「……あったような、気がします。」
「日の光が異常に眩しく感じたりしたことは? また、頭痛の症状はありませんでしたか?」
「……あります。」
医師は「ふむ」と言いながら手に持っていたカルテを見始めた。
「海里さん。診断の結果を先に申しますと、水晶体が腫れて眼圧が急激に上昇したようです。診断名は『急性緑内障』です。」
「急性緑内障? そんな、これまで全然なんともなかったのに、急になるんですか?」
「今お聞きしたところ、元々白内障の症状が出ていたようです。白内障や緑内障は年齢に伴うものが多いのですが、最近は年齢が若い方も少なくありません。特に、紫外線やストレス。脱水などがトリガーになることもあります。」
確かに、思い当たることはある。でも、一番気になることはそこではない。
「先生。私、来月全国大会に出場するんです。治りますよね?」
医師は母と目を合わせた。母は静かにうつむき、医師はゆっくりと口を開いた。
「海里さん。このままだと、眼圧が危険な値まで上がる可能性があります。そうなると、視神経まで影響が出ます。」
そんなことはどうでもいい。影響が出るくらいなら構わない。
「大丈夫です。走れなくなるわけじゃないですよね?」
「海里さん。一刻も早く手術することを医師としてお勧めします。そうでないと……。」
「そうじゃないと、なんなんですか?」
「失明する可能性が非常に高いです。」
「失明」という言葉を聞いた時、身体に寒気が走った。それを認めたくないという感情が、私の内側から湧いてくる。
失明? なんで私が?
「手術すれば治るんですよね? 最近の医療は進歩していますよね? 早く治りますよね?」
動揺を抑えきれなかった。自分でも何を言っているのかわからないくらい気が動転していた。
それに反するように、医師は冷静に、淡々と告げる。
「海里さん。確かに手術の時間はかかりません。ただし、経過を見るために1か月ほど激しい運動は控えてもらわないといけません。」
「1か月も!?」
もう、何も言葉が出なかった。1か月……。ちょうど全国大会と重なる。
練習なんか、できるの?
腹の底から、どこにもぶつけようのない感情が湧いてくる。
まだ、望みはあるはずだ。冷静になろうと、深呼吸をして気持ちを落ち着けた。
その時、また扉の開く音が聞こえた。入ってきたのは、父さんと棚橋先生、そして、もう一人の陸上部の顧問だった。
3人共、表情が曇り、うつむきがちだ。その表情を見た時、奈落に突き落とされるような気がして、全身がこわばった。
沈黙を破ったのは、父さんだった。
「海里。気付いて良かった。皆心配してたんだぞ。よく、頑張ったな。」
私は何も返せなかった。話すことが無いわけじゃない。ありがとうと言いたかった。
でも、身体が震えて声も出なくなっていた。
父さんの表情が厳しくなり、話を続けた。
「海里。お前の症状、奈良橋先生から聞いたな。先に母さんと一緒に先生から聞いてたんだ。それで、病院に駆けつけてくれた顧問の先生たちと、相談してたんだ。」
私は無意識に首を振っていた。
やめて。もう、それ以上話すのは、やめて。
「残念だけど。次の全国大会は、辞退させてもらうことにした。」
私の身体から、何かが抜けていく。これまで私を私でいさせてくれた何かが、私の中から離れていく。
プツン、と何かが切れる音がした。
次の瞬間、私の周りにある物が、次々と病室の壁に当たっていく。
枕、テレビのリモコン、水の入ったペットボトル。スマホ。
激しい衝突音が病室内に響いていく。
「海里! 落ち着いて! ごめんなさい! ごめんなさい! でも、母さん、あなたの目が見えなくなるのは耐えられないのよ! あなたはこれからもっと素晴らしいものを見なきゃいけないのよ!」
母さんと父さんが私を抑え込んでくる。奈良橋先生も私の肩を抑え、動きを制御した。それを振り払おうとしたが、頭痛がひどくなってきて力が抜けていく。
「海里さん。落ち着いてください。これ以上激しく動いたら、また眼圧が高くなる可能性があります。あなたは、いつ失明してもおかしくないんですよ。」
奈良橋先生の言葉が耳に入り、自然と力が抜けていった。いや、抜かざるを得なかった。
ベッドに座りながら私の身体を抑えている父さんが、これまで見せたことのない、寂しそうな表情を私に向けながら話し出す。
「海里。恨むなら父さんを恨め。お前がどれほど頑張ってきたか、知っている。もちろん、母さんも知っている。」
知っている。母さんと父さんは一番私の事を見てきてくれた。でも、このどうしようもない感情はどうしたらいいの?
ふと、頬に冷たい雫が流れていくのが伝わってきた。私の目から、溢れてくる涙が抑えられない。
「……私、頑張ってきたんだよ? ずっと一人で……。誰からも認めてもらえなくて……。でも、頑張って……。」
生まれたばかりの赤ん坊のように、私の嗚咽が病室内に響く。
それ以上、何も話すことができなかった。
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