第19話 限界を超えた先
靴紐を結び直す音が聞こえる。
決勝の招集場所は、思っていたよりも冷たく感じる。
誰も喋らない。いや、喋れないのかもしれない。
スパイクのピンの音が、乾いた空間の中に反響し、耳の中に静かに消えていった。
斗士輝達と別れた後、母さんと父さんに会った。
私をちゃんと見てくれている人たちがいる。
それが、どんな言葉を投げかけられるよりも力になる。
この東北大会では、それを実感している。
でも、まだだ。満足してはいない。ここで上位に入って、全国に行く。
それが、私なりの恩返しだ。
ベンチに座り、いつも通り瞑想をしていた。
ゆっくりと、全身に空気をいきわたらせるように呼吸を繰り返す。
コンクリートで冷やされた空気が、かすかに私の肺に入ってきた。
ゆっくりと目を開け、トラックを見つめる。目の前に映る景色が、蜃気楼のようにゆらゆらと動いている。
きっと、暑いんだろうな。
「それでは、選手の皆さん。移動します。」
競技員の声で、我に返った。選手たちは頬や足を叩きながら立ち上がり、次々と移動していく。
私は最後にゆっくりと深呼吸をした。吐く息が震えている。少し、身体が固い。
軽く腕を回しながら、決勝の舞台に向かう選手たちの後についていった。
「それでは、選手の皆さんはスタートの位置についてください。」
一斉に選手たちが飛び出していった。各レーンにはすでにスタブロが置いてあり、皆すぐにスタートの準備を始める。
私も自分の走る第4レーンに着いた瞬間、いつも通りスタートの準備をする。
招集場所にいる時はわからなかったけど、日が落ちる時間なのにとても眩しく感じて、軽く頭痛がする。
周囲の風景が予選と準決勝時よりもぼやけて見える。一瞬、疲労のせいかとも思ったけど、身体の調子は悪くない。
気のせいかと思い、スタブロの調整に集中した。
ピンを踏み込み、高さの調整が終わると、すぐにスタブロに足を乗せた。
スタートの練習をし、調子を確認して戻って来る時だった。
――頭の奥が、痛い……?
これまで味わったことのない刺激が、私の頭から沸き起こってきている。
暑さのせいだろうか。でも、走れないほどじゃない。
実際、スピードを落とした時にその痛みは出てきた。
目を閉じ、頭を両手で抑えて軽く叩く。
大丈夫と何度も言い聞かせ、ゆっくりと目を開けた。
自然と、痛みは次第に引いていった。
「それでは女子400m決勝です。出場する選手を紹介します。」
会場内にアナウンスが響き渡り、BGMと共に選手たちの名前がコールされ始めた。
コールされると、次々に大歓声が沸き起こる。スタンドにあるビジョンには、次々と選手たちの姿を映し出していた。
「第4レーン 藤浦 海里。」
手を挙げて礼をする。BGMの音に負けないくらいの声量で「海里ーー!」という声が耳に届いてくる。
喜子さん。本当に最後までいてくれたんだ。きっと、斗士輝もいるんだろうな。
父さん、母さんも見てくれているんだろうな。
後ろを振り向き、また礼をした。
元の位置に戻り視線をビジョンに移した時、険しい表情をした選手たちの姿が写っている。
私はこの人たちに勝たないといけない。その思いが出た時、ある思いが脳裏をよぎった。
――勝つ……? いや、私は私のベストを尽くす。
今は勝つことよりも、自分の全力を尽くすことに集中する。
後悔しない様に、今できる限りすべての力を出し尽くす。
その結果がどうなろうと、全部受け入れる。だから、最後まで全力で走らせて……。
すべての選手のコールが終わると、静寂が会場を包み込んだ。
「オンユアマーク。」
その合図とともに、全員がスタブロに足を乗せ始めた。
軽く体を左右にゆすり、重心を固定する。
周囲の音は、何も聞こえない。感じるのはタータンから放熱される熱と、自分の呼吸だけ。
「セット。」
腰を上げ、足裏全体に軽く力を込める。腕には自分の体重を少し乗せる。
一瞬、呼吸を止める。
――パァン!
スタブロの反発と腕の振りがぴったりと合った。スタートは完璧だ。
鋭い腕の振りとスタブロの反発で、ぐんぐんスピードが乗ってくる。
第6レーンの選手のペースが速い。だけど、私は負けていない。
カーブを抜けバックストレートに入ると、周りの選手のギアが上がった。必死にピッチを上げ、それについていく。
少しずつ息が乱れてくる。でも、第6レーンの選手との距離が全然縮まらない。
それどころか、外側のレーンの選手達との距離もまだ離れている。
――焦るな。まだ、やれる。
第3コーナーに入ると、選手たちの距離が徐々に詰まる。
バックストレートでスピードに乗った身体を安定させるために、歯を食いしばって遠心力に抗った。
ホームストレートに入る手前、私を含めて5人の選手がほぼ横一線に並んだ。
一瞬、第6レーンの選手が身体一つ分抜け出した。
――ここで、出すんだ! 全部、出すんだ!
ずっと速いペースで走っていたせいか、準決勝のような後半の伸びが出ない。
腕も重い、足も重い。あごがあがって身体もぶれている。
これ以上、スピードが……出ない。
――ダメ……なの……?
あきらめかけた、その時だった。
「……り……!」
何か、聞こえる。
喜子さん? いや、違う。男の人の声。
ほんの一瞬、スタンドに視線を向けた。
最前列で必死に叫ぶ人の顔が、見えた。
不器用で、言葉足らずなあいつ。自分だって必死なくせに、そんな姿を全然見せないあいつ。
そんな奴が必死に叫んでいる姿が、スローモーションのようにハッキリと見えた。
――斗士輝……。
「海里ーーー!! いけぇーーーーー!!」
残り80m。まだ、戦える。
上がっていたあごを引き、自分のレーンをしっかりと足の裏の全面で捉えた。
腕もまだ上がる。足も動く、まだ回せる。呼吸は苦しいけどそんなの関係ない。
全部、出すんだ。
残り30m。1位の選手はまだ身体一つ分抜け出している。そのすぐ後ろに続く数人は、横一線だ。
――あきらめない! 絶対、あきらめない!
拮抗している選手達の熱が、一瞬身体を覆う。
その熱を振り払うように手を伸ばした瞬間、私の身体が一歩前に出る。
そのまま、フィニッシュラインを駆け抜けた。
1位の選手が手を挙げて喜んでいる。横一線でフィニッシュラインを駆け抜けた4人が、一斉にスピードを落とした。
急激に呼吸が荒くなり、全身が震え出した。足がガクガクと震え、手もしびれている。
心と体が落ち着かない状態だったが、目は電光掲示板を追っている。そこにはすでに、名前とタイムが表示されていた。
1位は55.52。2位は55.67。2位までに私の名前は無かった。でも、その下の表示を見た瞬間、私の心臓が高鳴った。
「3 藤浦 海里 55.87。」
やった……。ベストタイム……。全国に出場できる。
自分の名前を見つけた瞬間に、綺麗な光彩が輝いて見えたような気がした。
これまでの努力が報われた。思わず自分の顔を両手で覆い、内側から湧き上がってくる喜びをかみしめる。
喜んでいいよね? 私、頑張ったよ……ね?
喝采が起きているスタンドを見ようと振り向いた、その時だった。
――息が……苦しい!
急激な吐き気と頭痛が私を襲ってくる。足元がふらつき、胸の奥がざわざわしている。
思わず膝をつき、閉じそうになる目を開けた。
視界の端が白く濁っている。光が滲んで輪郭がぼやける。
頭の奥がズキンと脈打ったかと思うと、今度は目の奥に針を刺されたような痛みが走った。
早くトラックから出ないといけないのに、足が動かない。立ち上がろうとしたが力が入らず、そのままトラックの上に倒れ込んだ。
――頭が割れそう……! 目が、目が痛い!
今は何も見たくないのに、目を閉じても光が入り込んでくる。喉の奥がひりつき、吐き気が込み上げる。
何が起きているのかわからない。ただ、世界が崩れていくような感覚だけが、はっきりとあった。
「大丈夫ですか! 誰か! 急いでタンカを……!」
叫び声が響き渡り、頭の中を激しく打ち鳴らす。でも、その声も遠くなっていった……。
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