第18話 支援者
まだ、心臓の高鳴りが収まらない。
走り終えて1時間経っても、まだレースの興奮が残っている。
次のレースは、午後2時頃。少し心を落ち着けないと。
スマホの画面を開き、時間を確認する。
気晴らしに競技場を歩いていると、どこからか明るい声が聞こえて来た。
その声のする方向を振り向くと、喜子さんが走ってくる。
「あの、見に来てくれてありが――」
見に来てくれたことのお礼を言う前に、喜子さんは私の事を抱き締めた。
少し離れると、喜子さんは満面の笑顔になり、口を開いた。
「海里ちゃん! すっごかった! 私陸上の試合見るの久しぶりだけど、めちゃくちゃ興奮させてもらったよ!」
「あの……。応援、ありがとうございました。喜子さんの声、ちゃんと聞こえました。」
「この前言ったでしょ? 元応援団の団長よ、あたし。他の選手の応援に負けるもんかって張り切っちゃった!」
喜子さんの声が無ければ、私はどうなっていたのだろう。あのまま固まって身体が動かなくなったかもしれない。
「実は私。コールされる前身体が動かなくなっちゃって……。でも、喜子さんのおかげで、走ることができました。」
「そうだったの? あの走りからは全然想像できないけど……。よっぽど緊張していたのかもしれないわね。大丈夫。次も任せておいて!」
力強くガッツポーズをする喜子さんを見て、思わず笑顔になる。
ふと喜子さんの後ろを見ると、斗士輝の姿が見えた。
喜子さんは私の視線を追い、斗士輝を見る。そして、私に耳打ちをしてきた。
「あの子ね、海里ちゃんが走る前、なんだか緊張しているみたいだったの。ずっとしかめっ面しててさ。レース中なんかずっと立っていたのよ。ほんと、変な弟よね。」
その姿を想像してしまい、思わず吹き出してしまった。
そっか、ちゃんと見ててくれたんだ。
「でもね、海里ちゃんが走り終えた後、すっごい喜んでた。「海里すげぇ!」とか言いながらね。」
喜子さんは振り向いて斗士輝に声をかける。斗士輝はゆっくりと私たちの元に歩いてきた。
「おす。」
斗士輝のいつも通りのあいさつ。それに私も「おす」と返した。
「予選突破、おめでとう。」
「ありがとう。」
「次は何時?」
「2時頃。」
「そっか。」
「うん。」
「いけよ、全国。」
「うん。」
私たちのいつもの会話。別に今までなんとも思わなかったけど、このそっけない会話が私の緊張をほどいていく。
その会話を聞いていた喜子さんが、斗士輝の頭にチョップした。
「ちょっと、あんたもっと海里ちゃんに気の利いた事言えないの?」
「……。普段からこんな感じ。それに、もう頑張っている奴に頑張れって言えないだろ。」
「だったら、もっと別の言い方すればいいじゃない。」
困ったように頭をかきながら斗士輝は空を見上げる。本当に、不器用な奴。
「……楽しめよ。」
「……うん。」
その言葉が出た時、喜子さんは斗士輝の足を蹴った。
「ほんっと、気の利かない奴だなあんたは! ねぇ海里ちゃん?」
私は笑いをこらえることができず、声を出して笑ってしまった。でも、今までのモヤモヤが晴れるように、心の中がどんどん澄んでいくような気がした。
「じゃあ、私たちは観客席で見てるからね! 次のレースも、しっかり応援するから!」
「はい、ありがとうございます。」
喜子さんは私の手を握り、「ちゃんと見てるからね」と言い、斗士輝と静かにスタンドの方へ歩いていった。
――もう、一人じゃないんだ。
身体の内側から力が湧いてくる。予選の疲れは全くない。
太陽がどんどん上り、暑さが増したせいか、遠くの景色がゆらゆらとぼやけて見える。
決勝まで、絶対残る。そのためには、ベストに近い記録を出す必要がある。
でも不安はない。私は私のやれることをやるだけだ。
なぜだろう。今は速く走りたくてしょうがない。
はやる気持ちを抑えながら、私は再び歩き出した。
◇◆◇
準決勝は3組で行われ、その内の8名が決勝に残れる。
今、この招集場所にいる大半の選手が、58秒台を走るだろう。
私は3組目。全体のタイムを見た後に走るのはいくらか気が楽だ。
それ以上のタイムで走ればいいだけだから。
「それでは、待機場所に移動します。」
競技員の声がかかると、選手は次々に移動を始めた。
それに合わせて、私も後ろをついていく。
待機場所に到着すると、1組目の選手が颯爽とスタート位置に向かっていった。
やはり、上位進出するような選手は手際が良い。
スタブロの設置からスタートまで、スムーズに流れるような動作に目を奪われていた。
日が昇っているせいか、いつも以上に太陽が眩しい。
タータンの白線も、朝よりもぼやけて見える。
私は目をこすり、選手たちの動きに注目した。
「オンユアマーク。」
1組目の選手たちがスタブロに足を乗せる。一瞬の静寂が会場を包み込んだ。
「セット。」
――パンッ!!
選手たちが一斉に飛び出す。
激しい音を立てたスタブロを残し、ランナーは一瞬でカーブの向こう側に消えていった。
やはり、全員速い。特に戦闘を走る選手は全然身体がぶれていない。
コーナーに入っても、まったくスピードが落ちない。スピードを維持しながら抜けていく。
最後のホームストレート。会場の声援がスタジアムに響き渡る。
そして、フィニッシュ。
私は電光掲示板を見つめた。1位の選手は、57.30。やっぱり、速い。
しかも、まだ余裕のある走りだった。いつもの私なら、ここで委縮していただろう。
でも、今は走りたくてしょうがない。
トラックにまた目をやると、2組目の選手たちがすでにスタートの準備が終わっていた。
「オンユアマーク。」
2組目の選手たちがスタートの位置に着く。
こうやって冷静に誰かの走りを見ることはなかったな。
私は次の出番に備えるため、ゆっくりと呼吸しながらストレッチをしていた。
「セット。」
――パンッ!!
2組目の選手たちもスムーズにスタートした。1組目の選手達よりもペースが速い。
特に、後半のレーンの選手たちは差がほとんどなかった。
最後のホームストレート、身体一つ分抜け出した選手が1着でフィニッシュラインを駆け抜けた。
また私は電光掲示板に目をやる。タイムは、57.20。2着も、57.50。つまり、57秒を切るくらいの走りをしなければ、私は残れない。
やはり、ベストタイムを狙うくらいの走りをする必要がある。
「それでは3組目の選手。トラックに入ってください。」
競技員の指示を聞き、3組の選手たちが一斉にトラックへ入っていった。
私は、第5レーン。すぐにスタブロの調整を行う。
スタートラインの白線に踵を合わせ、歩測で位置を調整する。
しっかりとピンを踏み込み、高さを合わせる。
全て、いつも通りだ。
すぐにスタートの練習をする。午前中の疲れは、全く感じない。むしろ、調子がいいくらいだ。
ゆっくりとスタート位置に戻って空を見上げながら深呼吸をする。
なんでだろう。不思議なくらい、身体が軽い。
予選のレース前の緊張が嘘みたいだ。
会場内に3組の選手たちの名前がコールされ始めた。
「第5レーン 藤浦 海里。」
腕を挙げ頭を下げ、すぐに後ろを振り向く。
「海里ーーーーー!!! ファイトォーーーーー!!」
喜子さんの声が響き渡った。私の耳にも、しっかりと入ってくる。
たった一つの声援が、こんなにも力を与えてくれる。
声のする方向に向かい深々と頭を下げた。
気のせいか、予選の時よりも拍手が多く聞こえているような気がした。
コールが終わり、次第に会場は静かになっていった。
「オンユアマーク。」
静かにスタブロに足を乗せる。鳥の声、風の音、それらは次第に聞こえなくなっていった。
聞こえるのは、自分の呼吸音だけだった。
「セット。」
腰を上げ、一瞬だけ呼吸を止める。
私の汗が、タータンに染み込んでいく。
――パァン!
スタブロを踏み込んだ反発が、私の身体を前に出した。
1歩目を踏み込んだ瞬間、いつもとは違う感覚があった。
2歩目、3歩目と踏み込む音がハッキリと聞こえる。
タータンからの反発が、私の身体を弾ませた。
――予選よりも、身体が軽い?
周囲は全く見えず、ただ、自分の両サイドに轢かれている白線のみが視界に入って来る。
カーブを抜けると、それは如実になっていった。
ピッチとストライドが、これ以上ないくらいに軽やかになっている。
もっと足を回せと、身体が私に伝えてくる。
バックストレートでどんどんスピードが上がり、自分でも抑えきれないくらい足の回転が速くなっている。
第3コーナーに入る瞬間、呼吸が乱れてきていることに気付いた。
「フッ」と自分をなだめるように一呼吸し、カーブに入っていく。
練習でも感じたことのない遠心力が、私の身体を外へ向かわせる。
だけど、私はそれを許さない。腕の振りと身体の傾斜でそれを拒んだ。
――ここだ!
最後のホームストレート。息は少し乱れている。少し身体も重い。
だけど、まだ足は回せる。ここからもっと伸びる。
自分の足がタータンをしっかりと捉えている実感があった。
いつもなら徐々にスピードが落ちるはずなのに、まだいけると身体が伝えてくる。
心と身体が分離され、自分を上から見るような感覚に一瞬陥った瞬間、フィニッシュラインを駆け抜けたことに気付いた。
一気に呼吸が乱れ、肺が酸素を求めてくる。
全身に重力がのしかかり、身体が重く感じた。
なだめるように呼吸を繰り返しながら、電光掲示板に目をやる。
「1 藤浦 海里 56.99」
そのタイムを見た瞬間、誰にも見られない様に小さくガッツポーズをした。
これで、決勝に行ける。全国に一歩近づいた。
でも、まだ決まったわけじゃない。
浮かれそうになる気持ちを抑え、足早にタータンを後にした。
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