第14話 気晴らし
6月に入ると、本格的に梅雨の季節になった。
目の前のグラウンドに広がる水たまりが、憂鬱な気分にさせる。
タータンに浸透しきれなかった水が足元を冷やしていく。
東北総体まで、残り1週間。
もう、時間はないのに……。
「海里さん。まだ練習するの? 本格的に雨が強くなってきたわよ。」
棚橋先生が声をかけてきた。
まだ部停は解けていないため、相変わらずの一人での練習。
こうやって付き合ってもらっているだけでもありがたいの だが……。
そうだよね。早く終わりにして帰りたいよね……。
でも……。
「あと1本だけいいですか?」
「……。わかったわ。無理しないようにね。身体の調子を整えるのも大事よ。」
「はい。」
私はほぼ雨の水に浸っているスタブロに足を置き、スタートの合図を待った。
「よーい……。スタート!」
棚橋先生の声と同時にスタートを切る。
やはり、水に足を取られて重く感じる。
いつものテンポが刻めない。
だけど、本番も雨が降るかもしれない。これくらいで妥協はできないんだ。
少しでもペースを上げようと思った、その時だった。
――っ!!
第3カーブに差し掛かった時、足元が滑った。
私の身体はそのまま外側へと放り出されるように転がっていく。
すぐに起き上がったが、私の身体は泥だらけになった。
足は……大丈夫、痛くない。身体も、けがはしていない。
土が水を含んでクッションになってくれたおかげらしい。
冷静に自分の身体の状態を確認していると、慌てて棚橋先生が駆け寄ってきた。
「海里さん! 大丈夫!? けがはない!?」
「はい……大丈夫です。」
「本当に!? あとでひどくなるかも知れないから保健室に行きましょう!」
「いえ。本当に大丈夫です。」
「でも、腕すりむいているじゃない! ほら! ひざも!」
「水で流して消毒すれば大丈夫です。」
想像以上におろおろしている棚橋先生の姿を見ていると、なぜか申し訳なくなってきた。
まだ走ることはできるのだが、これ以上やると棚橋先生に余計気を遣わせてしまうかもしれない……。
「先生……。すみません。今日はここで練習を終わりにしておきたいのですが、いいですか?」
「そうね。その方がいいわ。本当に、保健室に行かなくて大丈夫なの?」
「はい。ご心配をおかけしてすみません。」
「もしひどくなったらすぐに言うのよ? 大事な大会前に怪我をさせてしまったってなったら大変だから……。」
「……はい。わかりました。今日も練習に付き合っていただき、ありがとうございました。」
そう言って、棚橋先生に一礼し、私はトラックを後にした。
部室に戻る途中、どうしてもさっき言った棚橋先生の言葉が気になった。
――「大変だから」……か。
誰にとって「大変」なのだろう。
今さら誰か私を心配するわけでもない。
多分、大会前に怪我を「させてしまった」、棚橋先生自身が「大変」になるのだろうな。
今の時代、生徒が怪我をすると必要以上に大人の方が慌てる。
それに慣れてしまっている生徒は、自分の限界を低く見積もってしまうんだ。
挑戦をしないで、無難な道を歩む。私は、そんなことはしたくない。
それじゃ、ダメなんだ……。才能の無い私は、それじゃ、勝てないんだ……。
無意識に唇を噛みしめながら、水道で足と腕を洗いはじめた。
泥が洗い流された肌から、擦り傷が現れてくる。
ちょっとだけだけど、沁みるな……。
部室で着替えを済ませ、頭からタオルをかぶって一呼吸をつく。
朝から雨だったから、一応タオルと着替えを持ってきておいてよかった。
それに、何があるかわからないからって、母さんがいつもバッグに小さい消毒液を入れておいてくれたのが、こんなところで役に立つなんて……。
母の勘の良さに、心から感謝だ。
今日はいつもより早く練習が終わっちゃったし、これからどうしようか。
ふと、帰り道にあるカフェが頭をよぎった。
何度か家族で行ったことがあるカフェで、店内は犬連れでも大丈夫だからナナも行ったことがある。
その時にナナの相手をたくさんしてくれて、それ以来お世話になっている。
夫婦で経営しており、店内も落ち着く雰囲気になっている。
それに、販売もしている古本がたくさんあるので色々参考になる本もある。気分転換にはちょうどいい。
普段、一人では行かないけど、なぜか今日は行ってみたくなった。
「よし……行ってみようかな。」
無意識に発した一言で身体が動き出す。
タオルをバッグにしまい、カフェ『Encounter』に向かった。
◇◆◇
カフェの扉を開けると心地よい鈴の音が店内に鳴り響いた。
「いらっしゃいませ。……あら? あなたは……ナナちゃんの!」
「はい……。あの……こんにちは。」
「いらっしゃい! 今日ナナちゃんはいないの? 学校帰り?」
「はい……。一人でも、大丈夫ですか?」
「もちろんよ! じゃあ……あちらに座って! メニュー今持ってくるわね!」
「ありがとうございます……。」
お店の奥さんに言われるがまま、店内で一番大きい本棚の前にあるテーブルへと案内された。
時間帯のせいなのだろうか、店内には誰もおらず、私だけだった。
快く招かれたせいもあるのだろうか、少し安心したような気がした。
1人で来るのは初めてだったので、ゆっくりと店内を見渡す。
木調で統一されており、静かなBGMが流れている。
やっぱり、落ち着くかも、ここ。
すると、奥さんがメニューと水を持ってテーブルに来た。
「はい。お水どうぞ! メニューここに置いておくわね。」
「ありがとうございます。」
ふと奥さんを見ると、じっと私の顔を見てきた。
「な……なんでしょう?」
「もしかして……なんか悩み、ある?」
「え? なんでですか?」
「うーん……。私ってそういうのわかっちゃうのよね。」
「特に……無いです。」
「そう? それならいいけど……。余計な事聞いちゃったわね。常連さんだと、ついつい話したくなっちゃうのよね。ごめんなさい。」
「いえ……。」
「じゃあ、メニュー決まったら呼んでちょうだいね。」
突然の会話に少し動揺しながら、メニュー表を開いた。
少し心を落ち着かせたかったのでカモミールティーのホットを注文し、椅子にもたれかかる。
もう一度店内を見渡すと、至る所に本棚が並んでおり、どの本棚もびっしりと本が詰まっていた。
後ろを振り返ると、店内で一番大きい本棚が「何か本を取りなさい」と言わんばかりに圧をかけてくるようだった。
ふと、『心の灯 著:アンドレ・フェルナン』 という本に目が留まり、そっと本棚から取った。
パラパラとページをめくると、どうやら哲学書のようだった。
その中の一文が私の目に飛び込んできた。
『苦しい時は、苦しいと叫べばいい。楽しい時は楽しいと叫べばいい。その両方の叫びを真摯に受け止めてくれる人物こそが、あなたにとって最高の宝である。』
思わず今までの自分を振り返った。苦しいって、誰かに言ったことは……ないな。
しいて言うなら、両親とナナくらいかな。
少し物思いに耽っていると、奥さんが紅茶を運んできた。
「はい! カモミールティーお待たせしました。ごゆっくりどうぞ。」
頭を下げて、そっとカップに手を伸ばす。カモミールの匂いが、私の心を落ち着けてくれるようだった。
ゆっくりと口に含むと、更に香ばしい匂いが口の中に広がって鼻から抜けていく。
静かに呼吸を繰り返しながら、身体の緊張が和らいでいくのを感じた。
すると、扉の鈴の音が聞こえて来た。
誰か店に入ってきたらしい。
自然に目が扉の方を向く。だが、その姿を見た時、ホッとしていた身体に緊張が走った。
――斗士輝? しかも、女性連れ?
思わず目を背け、慌てて本で顔を隠した。
悪いことはしていないのに、なんで顔を隠さなきゃいけないんだろう。
でも、隣にいるのは……? やっぱり、所詮斗士輝もその辺の人と変わらないんだな……。
そう思っていたら、奥さんが私の隣のテーブルに斗士輝とその女性を案内した。
なんて余計な事を……。私の心臓の鼓動が、第3カーブに入った時くらいに早まった。
「ね? なかなかいいお店でしょ?」
斗士輝と一緒にいる女性の声がハッキリと聞こえてくる。
どうかこのまま気付かないでいて……。
「うん……。ん? あれ? 海里?」
なんで速攻で気付くんだこの男は!
私は深呼吸して、本を下げ、斗士輝の方に顔を向けた。
別に、何も悪いことはしていない。堂々としていればいい。
「こんにちは。」
「おす……。」
すると、隣にいた女性が急に話をかけてきた。
近くで見ると、ロングコートに身を包み、茶髪なロングヘアーで目鼻立ちが整っている。
女性の私から見ても「かっこいい」と思えるような雰囲気を醸し出していた。
「あら!? あなたが海里ちゃん!?」
一瞬呼吸が止まった。この女性、なんで私の名前を知っているの?
「斗士輝から聞いていたのよ! すごい人がいるって! あ、自己紹介が先かしらね。私、斗士輝の姉の喜子です! よろしくね!」
「あ……藤浦 海里です……。」
お姉さんだったんだ……。あれ。なんで今一瞬ホッとしたんだろう。
気のせいかと思い、斗士輝の方に目をやると、何やら頭を抱えている。
斗士輝はため息交じりに口を開いた。
「俺の、姉貴……。」
「お姉さん……。なんですね。こんにちは。」
喜子さんに頭を下げ顔を見ると、ずっと笑顔で私を見ている。本当に斗士輝のお姉さんなのだろうか。クラスで言えば陽キャのような人だ。
「海里ちゃん、斗士輝が誰かの話をするなんて珍しいのよ! 3年生になって、あなたの話を頻繁にするからずっと会いたいって思っていたの!」
「え……。そうなんですか……。」
「そうなのよ! この子って基本無骨でしょ!? だから中学校以来友達もいなくて、話せる人もいなくてねぇ! 姉としてはずっと心配してたのよ!」
「は……はぁ……。」
あまりの明るさに、少し圧倒されそうになった。再び斗士輝を見ると、まだ頭を抱えている。
喜子さんの笑い声が店内に響く中、奥さんが水とメニューを持ってきて斗士輝と喜子さんはコーヒーを注文した。
「じゃあ斗士輝、今の私に会いそうな本を探してきて! よろしく!」
喜子さんがそう言うと、斗士輝はまたため息をつきながら立ち上がり、店内の本棚を探しに回り始めた。
その時を待っていたかのように、喜子さんは小さい声で私に語り掛けてきた。
「ねぇ、海里さん。少しお話しいいかしら。」
私は思わず自分のコップに目を落とした。カモミールティーはまだたくさん残っている。
少し目を閉じ、喜子さんに向き直した。
「……はい。」
喜子さんは笑顔になり、優しい口調で話し出した。
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