第11話 県総体決勝戦
陸上競技、特に短距離種目ではスタートから0.100秒未満でスタートをしても、フライングとされる。
そして、フライングをするということは……。
失格を意味する。
すでにスタートをして飛び出した選手達が、ゆっくりとスタートの位置まで戻る。
競技委員がフライングをしたレーンの選手の前で旗を振ったら……失格。
私の足が少しずつ震え出す。
――お願い……まだ走らせて……。
心の中で何度も祈った。
こんなに祈ることなんて、今まで無い。
競技員が外からゆっくりと歩いてくる。
雨が降っているので合羽を着ているだけなのだが、私の目に映るその姿は、死を伝える死神のようにも見えた。
徐々に私の方に近づいてきて、私の前で歩く速度を落とす。
私の心臓は、走り終えたかのように鼓動が早まる。
そして、競技員は失格を意味する旗を出し、第4レーンの選手の前で止まった。
静まり返るスタジアム。第4レーンの選手が肩を落とし、ゆっくりとトラックを後にする。
急激に力が抜け、肺の中にたまっていた空気を一気に吐き出した。
400mでフライングが出ることは珍しい。100mや200mならまだしも、この種目でミスをするなんて。
よほど緊張していたのか、それとも、雨でコンディションが狂ったのか。
憶測が恐怖となり、全身に寒気が走る。
もし、自分だったら? もし、これで終わりだったら?
余計な考えが、私の頭の中に棲みついた。
自分を落ち着かせるために、雨が降っている空を見上げながらゆっくりと深呼吸をする。
『思いっきり、走っておいで。』
ふと、母の言った言葉を思い出した。
そうだ、まだ、全てを出し切っていない。
私は、まだ走れるんだ。
震えている足を叩き、軽くジャンプする。
タータンの反発が、私に力を取り戻させた。
――全力で、やり切る。
そのことだけ考えろ。
顔を叩き、自分がこれから走るレーンをじっと見つめた。
「オンユアマーク。」
再び合図が聞こえた。
一度集中を切らされた状態で、再び100%の状態に持っていくのは簡単じゃない。
しかもこの雨、この気温、この湿度。スタートでミスをすれば、全国が遠のく。
でも、ここで中途半端な走りはしたくない。
意を決してもう一度スタブロを踏み込む。
大丈夫、足に力は入る。
「セット。」
前傾姿勢になり、腸腰筋に力を込める。
もう一度呼吸をし、一瞬止めた。
頬から伝わる雨粒がこぼれ落ち、タータンに吸収されていく。
――パンッ!!
合図が聞こえた瞬間、スタブロを足裏全体で踏み込んだ。
ガシャンという音と同時に、私の身体は前に押し出されていく。
1歩2歩3歩と、徐々にスピードが乗っていく。
自分でも驚くほど冷静に、そしてスムーズに加速していくのがわかる。
何度も練習でやってきた自分の感覚を信じ、このままカーブの頂点に向かって加速させる。
顔に当たる雨粒が、徐々に増えていく。
目を細めながら、私の目はレーンだけを捉えていた。
ある程度スピードに乗り、バックストレートに入っていく。
少し前に倒れ込むような姿勢となり、自然と足が前に出る。
まだ身体は軽い、息も乱れていない。
大丈夫、このままバックストレートでは、リズムを落とさない様にテンポを刻めばいい。
「フッ、フッ」という呼吸が、足のリズムと合っている。
もう、雨粒の痛みは感じない。
――第3コーナー。
選手たちが一気に近づくポイントだ。
コーナーへ入る手前に少しギアをチェンジする。
スピードで外へ身体を持っていかれない様に、腕の振りとピッチを調整する。
そのままスピードは落とさず、ラストの直線へ向けて整える。
息が上がってくる。身体も、重くなってきた。ペースも、乱れてきた。
だけど、まだ、いける。
そう自分に言い聞かせ、カーブを抜けていく。
――ホームストレート。
3人が横一線に並んだ。
ここからは、最後まで粘れるかが勝負。
一人の選手が抜け出していく。
私も後半が強いんだ。まだ、いける。
だけど、足に鉛がついているように重い。
吐く息も、身体中の熱を帯びているように熱い。
心臓が締め付けられるようだ。
腕は地面に引っ張られているように上がらなくなっている。
――それでも、出し切るんだ。
もう、周りを気にすることなんでできない。
周囲の音なんて、聞こえない。
苦しくて上がりそうになる顎を、意識的に下へと向ける。
今はただ、フィニッシュラインを駆け抜けることだけを考える。
先行していた選手の肩が並ぶくらいまで捉えた。
あと、40m……30m……。
心の中で距離を数えながら最後の力を振り絞る。
倒れ込みそうになる身体を引き起こして胸を張る。
――いけ!
最後の一足が、フィニッシュラインを駆け抜けた。
その瞬間、私の全身にこれまで感じたことのない重さを感じた。
呼吸が乱れ、一向に落ち着く気配がない。
でも、自分の着順とタイムをこの目で見なければ。
朦朧とする意識の中、電光掲示板を見つめる。
「2 藤浦 海里 56.89」
1着の選手が、手を挙げて喜んでいる。
電光掲示板のタイムを見ると、1着の選手は「56.68」。
ほんのわずか、届かなかった。
私は東北大会への切符を手にすることができた。
でも、1着ではない。
ベストタイムでもない。
その悔しさが、少しずつ私の感情を侵食していく。
「くそ……。」
思わず声が漏れる。
今発した言葉が、本音なのだろう。
まだ呼吸は落ち着かない。心臓の鼓動が収まる様子もない。
ふと、今走ってきたレーンを見つめなおす。
雨のせいなのだろうか、白くモヤがかかっているように見える。
ただ、雨の音だけが、やけに大きく聞こえてきた。
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