第10話 準決勝、そして。
雨はまだ降り出していなかった。
だけど、雲はどんどん分厚くなっていて、湿った空気が肌にまとわりつく。
トラックの照り返しが弱まり、気のせいか少し暗く感じる。
午前の予選を終えた私は、昼食を軽くとりながら身体を休めていた。
今は午後からの勝負に臨む前のリカバリーの時間。自分の身体の調子を整える必要がある。
予選の感触は悪くなかった。むしろ、思ったよりも動きが良かった。
でも、これからが本番だ。この後は準決勝、そしてその2時間後には決勝がある。
決勝へ確実に行くためには、まずは2位以内に入る必要がある。
ここからさらに、集中力を高めていかないと……。
「海里、調子どう?」
朱が隣に座って声をかけてきた。
私が「大丈夫」と応えると、朱は何か言いたそうにこちらを見てくる。
「……何? 朱。」
「いや……なんか、普通すぎるなって思って」
「普通?」
「そう、普通。いつも通りの海里。緊張とかしないの?」
「別に……。」
本当は、少しだけ焦りがある。
でも、それを言葉にしたら、余計に気持ちが乱れそうだったから口をつぐんだ。
朱は「やっぱり鋼のメンタルだなぁ」と笑い、立ち上がる。
そして、軽く手を振りながら言った。
「まあ、頑張ってね。あと一つ勝てば決勝だね。」
その言葉が、妙に胸に引っかかった。
「あと一つ。」
そう、ここを突破しなければ決勝には行けない。
当然のことなのに、改めて言われると、なんとなく重くのしかかる。
少しだけ、深呼吸をした。
――私は、勝ち進む。
自分にそう言い聞かせ、スパイクを手に取った。
準決勝の招集時間は、もうすぐだ。
◇◆◇
招集会場には、予選を突破した選手たちが集まっていた。
みんな、表情が引き締まっている。予選とは違う空気が流れていた。
ベンチに座り、軽く足を叩きゆっくりと目を閉じる。
私は、第2組の第4レーン。
リストを見た時に、隣の第5レーンには県内トップクラスの選手の名前があった。
昨年のインターハイにも出場している実力者。予選のタイムも、私より速かった。
――誰が相手でも、関係ない。
そう思おうとしても、心がざわつく。
私より前にゴールする選手が、隣にいる。
その事実が、妙に身体を締め付けてくるようだった。
「1組目の選手、移動します」
誘導員の声が響き、先に1組目の選手たちがトラックへ向かっていく。
フィールドのモニターに映る彼女たちの姿を、私はじっと見つめた。
――私は、私の全力を出す。
それは当然のことなのに、改めて意識すると、身体が少し強張った。
私は小さく息を吐き、拳を握る。
「2組目の選手、トラックに入ってください。」
いよいよ、私たちの番だ。
◇◆◇
トラックに立つと、空はさらに暗くなっていた。
遠くの山の方に、黒い雲が渦を巻いているのが見える。
「まだ、降らないで。」
そう呟きながら、スタートラインに踵を合わせる。
スタブロをセットし、軽く足を乗せ感覚を確かめる。
もう一度ピンをしっかり踏む。固定は、大丈夫だ。
ゆっくりとスタブロの後ろに下がり、合図を待つ。
「オンユアマーク」
全員が一斉にスタートの位置まで移動した。
私は深く息を吸い、ゆっくりと吐きながらスタブロに足を置いた。
「セット」
上体を持ち上げ、前傾姿勢を作る。一瞬、息を止めてスタートの合図に集中した。
——パンッ!!
合図の音と同時に飛び出す。
スタートの感触は悪くない。
1歩、2歩、3歩……テンポを作りながら、スピードを乗せていく。
バックストレートに入る。
自分のリズムを崩さないように、タータンから感じる反発を意識して走る。
フォームも乱れていない。順調だ。
でも、いつもとは違う異変にすぐに気づいた。
――速い。
隣の第5レーンの選手が、明らかに速いペースで走っていた。
彼女は後半の伸びが良い。でも、前半から飛ばしていた。
私は自分のリズムを崩さないように走るが、その背中は近づかず、むしろ徐々に差が開いていく。
――焦るな。
焦る気持ちを抑えながら、第3コーナーに入っていく。
ここからギアを上げる。ラストの直線でしっかりと追い上げられるはずだ。
だけど、その背中が近づくことはなかった。
――まさか……まだ伸びるの!?
彼女もスピードを上げていた。
必死に食らいつくが、完全には並べない。
どうしても身体半分リードされている。
ホームストレートにさしかかり、最後の勝負に入る。
腕を振る。ストライドを広げる。ピッチを上げる。
心臓の鼓動がどんどん早くなり、呼吸も乱れる。
横目で彼女を見る。向こうも、必死だった。
――届け!
その姿を捉えるのと同時に、フィニッシュラインを駆け抜けた。
ゆっくりとスピードを落としながら、大きく息を吐く。
後半の追い込みのせいか、足が軽く震えている。
隣の彼女とは、ほんの僅かの差。
――届かなかった。
モニターに映る結果を見て、私は息を呑んだ。
心臓の鼓動が不気味なリズムを刻んでいるようだった。
吐く息もいつもよりも落ち着かない。
「2 藤浦 海里 59.65」
彼女は、59秒台前半。私は、2位。
決勝には進めた。だけど、ギリギリの通過だった。
息を整えながら、ゆっくりとスパイクの紐を緩める。
――このままじゃ、勝てない。
それが、今の率直な気持ちだった。
私は、強く拳を握った。
その時、ポツリと顔に冷たいものが落ちてきた。
空を見上げると、黒い雲の間から雨粒が降り始めていた。
◇◆◇
雨が強くなってきた。
束の間のリカバリーの時間。今は部員の集合場所で軽くマッサージをしながら休憩していた。
次はいよいよ決勝だ。だけど、私よりも速い人がいるということに気づいてしまった。
自分の実力を冷静に考えれば当たり前の事なのだけど、焦りがじわじわと胸の中に広がる。
その気持ちを振り払おうとするように、私はゆっくりと深呼吸をした。
――大丈夫、私はまだ走れる。
そう思い込もうとした時、雨が少しずつ強くなる音が聞こえる。
その時、手元に置いていたスマホが震えた。
『海里。ちょっと出てこれる?』
母からのメッセージだった。
いつも母はさりげなく会場に来てくれる。
だけど、いつもは連絡なんかしないのに……。
私は少し疑問を持ちながらも、母のいる場所まで向かった。
会場の入り口まで行くと、母が傘をさして待っていた。
軽く手を振り、笑顔を見せてくれる。
走って母に駆け寄った。
「母さん。どうしたの?」
「うーん? ちょっと海里の顔が見たくなって、ね。」
「うん……。」
さっきの準決勝の事と、強くなってくる雨音が不安な気持ちを増長させる。
いつもみたいな返事が出来なかった。
なぜ、お母さんはそれ以上何も言わないのだろう?
正直、母の顔を見るもの怖くなっていた。
その瞬間、フッと頭に温かい感触が乗った。
「大丈夫。海里なら、大丈夫。」
母の手が私の頭を撫でていた。
思わず目頭が熱くなってくる。お母さんは、わかってるんだ。私の不安を。
もう一言、何か言ってしまったら私の中に溜め込んだ全部が出そうだった。
「海里……。今日は仕事でここに来られなかったからって、お父さんから伝言。」
「……何?」
「『全力でかましてこい』だって。」
いつもの父の言葉に、思わず笑みがこぼれる。
ふと、頬に冷たい一筋の線が走っていくのを感じた。
「何それ。」
「ほんとね。お父さんらしいわね。」
「うん。」
「突然呼び出してごめんなさい。じゃあ、お母さん、ちゃんと見てるからね。」
「うん。」
「いってらっしゃい。思いっきり、走っておいで。」
「……うん。」
そう言って、私は休憩場所まで戻った。
母の手のぬくもりが、私の頭にまだ残っている。
心が、自然と軽くなるのを感じた。
今はもう、走りたい気持ちでいっぱいだ。
不安な気持ちはまだある。でも今は、後悔をしないようにすべてを出すだけだ。
相手が誰であろうと、関係ない。
最初から全力で、飛ばしていく。
今はただ、そのことだけを考えていた。
「ありがとう。母さん。父さん。」
心の中で何度もつぶやき、荷物を握りしめ、招集場所まで向かった。
◇◆◇
招集場所に着くと、すでに数人集合していた。
これまでとは違い、異様な緊張感が漂っている。
ベンチに座り、小刻みに足を踏む選手。
その場で足踏みをし、リズムを取る選手。
皆、今から行われる決勝に向けて準備をしている。
私も、ユニフォーム姿になり、スパイクのひもを締める。
ベンチに腰を掛け、ゆっくりと目を瞑った。
――私の全部を、出す。
「全員集まっていますね。それでは選手の皆さん、移動します。」
誘導員の指示に従って、移動を始めた。
トラックには、すでにスタブロが並べられている。
選手たちは自分のレーンに行き、準備も始める。
第5レーン。私のスタート位置。
このスタートから東北大会に行けるか決まるんだ。
スタートの白線に踵を合わせ、歩測で距離を測り、スタブロを置く。
高さを合わせ、雨が降っているからいつもよりも入念に支柱を踏みつける。
スタブロに足を置き、スタート。
全部、大丈夫。いつも通りだ。
空を見上げると、顔にいくつもの雨粒が当たる。
気のせいか、熱くなりそうな気持ちを押さえてくれているように感じる。
「選手のご紹介をします。」
アナウンスの声が聞こえ、ハッとした。
左右のレーンを見ると、皆手足をブラブラさせながら、自分の名前を呼ばれるのを待つ。
「第5レーン 藤浦 海里。」
名前を呼ばれ、右手を挙げ振り向いて礼をする。
予選からやっていること、一連の動作に違和感はない。調子は悪くない。
第8レーンの選手まで呼名され、一瞬静かな静寂が訪れた。
「オンユアマーク。」
一斉にスタート位置へ着く。
スタブロに足を乗せ、軽く反発を確認する。
滑りもない、しっかり反発する。
大丈夫、やれる。
「セット。」
軽く前傾姿勢になる。
一度だけ深呼吸し、一瞬息を止める。
――……?
いつもよりもスタートの合図が……遅い?
――パンッ!!
「しまった!」と思いながら、スタートを切る。
身体の反応が遅れた? それとも、早かった?
一瞬の迷いが頭の中を駆け巡ったその瞬間だった。
――パンッ!!
ピストルの音が2回、鳴った。
まさか、これって……。
――フライング。
トラックの外にいた競技員が、旗を振って走るのを制止する。
身体に当たる雨が、急に冷たく感じてきた。
良かったらまた次話も見に来てください。
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