第1話 On your mark
誰もが一度感じたことであろうことを、青春物語として書いてみました。
お楽しみいただければ幸いです!
カーブに差し掛かる。
内側の足で地面を強く蹴る。腕をコンパクトに振る。視線はまっすぐ前へ。
心臓の音がうるさい。吐く息が燃えているようだ。
朝の静かなグラウンドに、スパイクの音が響く。
身体が、冷たい空気を切り裂いていく。
——あと100m。
心の中で数えながら、加速する。息は苦しくない。まだ、いける。
フィニッシュライン直前に前傾なり、一気に駆け抜ける。
「……57秒5。」
腕時計に刻まれているタイムを確認する。うん、悪くない。
いや、ベストじゃない時点でダメなのかもしれないけど。
ゆっくりとトラックを周って息を整え、汗をぬぐった。
一体何度この距離を走ってきたのだろう。
私が陸上を始めたのは中学から。
400mを走るようになったのも、その頃からだった。
最初は、ただの興味で始めただけだった。
けど、いつの間にか本気になっていた。
県立千賀状高校。
東北地方にあるこの学校は、公立で部活動に力を入れている数少ない学校だ。
トラックは1周400mで2レーンしかないタータンコースだけど、十分だ。
過去、全国大会に出場している運動部も多い。
だから、この学校に進むことを選んだ。
……なのに、結果がついてこない。
努力しても、何度走っても、全国大会には届かない。
去年は県大会止まりだった。
それでも、やめようとは思わなかった。
400m。
限界まで足を動かして、すべてを出し切れるギリギリの距離。
走り切った瞬間の高揚感が好きだった。
今年は……今年こそは。
昨年の県大会で負けてから、ずっと走ってきた。
皆が遊んでいる時間も、部活の時間が終わっても、私は走ってきた。
誰が誰と付き合っているという女子が飛び付くような話も、まったく興味が湧かなかった。
今流行っていることが何かもよくわからない。
それくらい、走ることに費やしてきた。
そのおかげか、タイムも東北大会には出られるくらいになってきた。
でもまだだ……。
――もう一本。オンユアマーク……。
再びスタートラインに立ち、スタンディングスタートの姿勢を取る。
ふわっと風が吹きショートボブの髪を乱していく。
無意識に前髪をかき上げ、地面に視線を落とす。
ゆっくりと腕時計の『START』に指を添えた。
――セット……。
心の中で合図を出す。
深く息を吸い、一瞬だけ息を止める。
『START』を押すのと同時に、再びトラックを走り出した。
◇◆◇
誰もいない部室。
制服の襟元を乱さないように着替えて、シューズを履き替える。
ふと、部室の窓から校舎を覗く。
ようやく、学校が動き始めていた。
多くの生徒たちは、眠そうな顔で校舎へ入っていく。
自分の荷物を持って部室を出て、誰とも目を合わせずに校舎へ向かう。
今日は始業式。最上級学年の初日だ。
3年生の教室がある廊下を歩くと、思った通りの雰囲気。
廊下では、知らない人たちが誰と仲良くなるか探るように会話している。
何度も経験してきたけど、この感じは正直苦手だ。
各教室の扉に張り出されている名簿には席の番号が書いてある。
1組から順に自分の場所を確認していく。
――あった。
3-2組。
教室に入って静かに座る。
周りの会話を聞くつもりはなかったけど、耳には勝手に入ってくる。
「今年の担任、誰かな?」
「席替えとかあるのかな?」
「最近街中に新しいショップ出来てさ!」
「このSNS見て! 超かわいくない!?」
「かっこいい人いるかなぁ?」
……どうでもいい。
私はカバンからノートを取り出して、無言でページを開く。
朝練内容とタイムを記入するのが、日々の習慣になっていた。
「……おはよう。」
急に低めの声が聞こえてきて、思わず顔を上げた。
立っていたのは、背が高くてがっしりした男子だった。
短く刈られた髪、鋭い目つき。
顔を見ると、頬に傷がついている。
「……おはよう。」
そう答えると、彼は無言で椅子を引いて前に座った。
振り返ってボソッと呟く。
「……よろしく。」
それだけ言って、前を向いた。
……何? この人。
それにしても、頬に傷って。
朝からケンカでもしてきたの?
話しかける気もなさそうだし、興味もなさそう。
でも、しつこく話しかけられるよりはいい。
どうでもいいや。
私はもう一度、ノートに視線を落とした。
◇◆◇
毎年代り映えしない始業式が終わり、ぞろぞろと教室に戻る。
教室に入ると、すでに仲良しグループが出来つつあった。
どれも、私にとってはどうでもいいことだ。
担任の先生が教室に入ると、一斉に着席する。
今日から1週間の流れを一通り説明し終えると、私の嫌いな時間がやってきた。
「じゃあ、皆の事をお互いに知ってもらうために、今から自己紹介してもらいます。」
これだ。なんでこんなこと言わなきゃいけないんだろう。
さらに担任の先生は続けた。
「内容は……まず名前、そして部活、最後に頑張りたいこととか主張があったら何でもどうぞ。 あ! 出席番号順に並んでいるから……1番! じゃなくて、最後の方から!」
クラス中がどよめいた。
パターンから外れたことをすると、人は簡単に動揺する。
そんなの、どうでもいいことなのに。
席順は50音順に並んでいるから、割と早く私の番が来る。
こういうの、正直面倒くさい。
自己紹介が次々と進み、頑張りたいことで「3年生こそは恋人作る」とか「帰宅部部長です」とか言って皆に笑われている人もいた。
次は、私の番か……。
「藤浦 海里です。陸上部です。よろしくお願いします。」
最低限のことだけ言って、すぐに座った。
他に言うことはないし、言いたいこともない。
目標なんて、人に話すものじゃない。
自分で決めたことを、自分が守ればいい。
特に私がやっていることは、自分との闘いなんだ。
だから、自分だけがわかっていればいいんだ。
拍手がまばらに起きる。
いつものことだ。
嫌な視線が刺さるのを感じる。
「わざとあんな態度取っているのかな。」
「かっこつけてるだけじゃない?」
そんなこと言われるのも、もう慣れた。
少しの時間だけ我慢すればいい。
でも、その嫌な視線は一瞬で消えた。
急に目の前に壁が出来たからだ。
椅子が私の机に少しだけ当たり、思わず机を引いた。
「橋野 斗士輝。ラグビー部。よろしく。」
それだけ言って、彼もさっさと座った。
……なんか、似てる。
クラスの何人かがヒソヒソ言ってるのが聞こえる。
「なんか怖そうじゃない?」
「目つきヤバいって。」
「近付いたら殴られるって。」
「あいつ、練習中に先輩を殴ったっての聞いたことある。」
「怖っ……関わらない様にしよう……。」
確かに、話しかけづらい雰囲気はある。
でも、それだけじゃないの?
私は別に怖いとも思わなかったし、関心も湧かない。
むしろ、変に愛想を良くしない分、こっちのほうが楽だ。
「じゃあ、次」と先生が言うと、何事もなかったかのように自己紹介は続いた。
この人たちの切り替えの早さには本当に感心する。
真剣に聞く気にもなれず、思わず机に視線を落とした。
その時だった。
「ごめん。」
不意に、小さな声が前から聞こえる。
視線を上げると、斗士輝がこちらを振り向いていた。
「え、何が?」
「さっき、椅子ぶつかっただろ?」
「あぁ……。全然。大丈夫。」
そう返すと、斗士輝は少し頭を下げてまた前を向いた。
でもなぜか、悪い気はしなかった。
……本当に、不思議な人だ。
全員の自己紹介が終わり、そのまま帰りのHRになる。
初日だから特にすることはなく、そのまま下校。
よし、今から部活だ。
席を立とうとした時、また前の椅子が私の机に当たった。
するとまた斗士輝が振り返った。
「ごめん……。」
同じことを繰り返しているようで、ちょっと面白くなってきた。
「いいよ、全然。気にしないで。」
「……またぶつかるかもしれない。」
「大丈夫。」
「……ありがとう。」
ん? 今ありがとうって言った?
本当に危険な人ってそんなこと言う?
皆が思っているような人ではないのか、も?
「どういたしまして。」
そう返し、私も荷物を持って席から立った。
すると斗士輝が話を続けた。
「お前さ……陸上って言ったよな。」
「うん。」
「種目は?」
「400。」
「そっか。キツイよな。400。」
「……うん。」
「タイムは?」
「56秒9が自己べス。」
「速いな。」
「……まだまだだよ。」
「……そっか。頑張れよ。」
「……ありがとう。」
「じゃあ」と言って、お互い席から離れた。
素っ気ない会話だったけど、あまり干渉されないからだろうか、なぜか心地良い感じがした。
気のせいかと首を傾げ、足早に部室へと向かった。
◇◆◇
放課後、私はまたトラックにいた。
朝とは違う空気。日が少しだけ眩しい。
朝の練習では感じられなかった何かが、今なら掴めそうな気がした。
「オンユアマーク!」
スタートラインに立つ。
深く息を吸って、体を沈める。
「セット!」
後輩の女子マネージャーの声が響く。
吸った息を一瞬止めた。
ホイッスルの音と同時に足が動き出す。リズムを刻む。足跡が楕円の軌道を描くように、カーブへと流れていく。
「48! 49! 50!」
タイムをカウントする声が徐々に聞こえてくる。
フィニッシュラインまでもう少し……。
動け、私の足。もっと……もっと早く……。
「52!」
マネージャーの甲高い声がハッキリと聞こえ、そしてまた遠ざかる。
今日の練習は150×5、200×3、350m×3のテンポ走だ。
今は350mの最初。まだまだ上げていける。
どんな練習でも手を抜きたくはない。
一本一本集中しながら、自分のフォームをチェックする。
ジョギングに切り替え、息を整えながらトラックを周回する。
レストの間で息を整えないと……。
息が落ち着き始め、ふと、隣のグラウンドでやっているラグビー部を見た。
休憩の時間だったのか、水が入ったボトルを全員に回して飲んでいる。
その中の一人が、私に気付いた。
斗士輝だ。
ラグビー部の中でも体格が良い方なのですぐにわかった。
斗士輝が私に手を挙げ、腕だけ振って走るそぶりをする。
そして、グーサインをした。
――ハハッ……何それ。
……え? 私、今笑った?
突然の自分の行動に驚いたが、斗士輝に何か返さなければと思い、とっさに手を挙げた。
背中越しだったから斗士輝が見ていたかどうかはわからない。
だけど、なぜか心が軽くなった。
今日初めて話したのに、なぜか初めてな気がしない。
いや……どうでもいいか、そんなこと。
「オンユアマーク!」
マネージャーが合図を始める。
スタートラインに戻る。
よし、もう一本。
「セット!」
ゆっくりと息を吸う。身体はまだ走れると言っている。
一瞬息を止め、身体を沈める。
ホイッスルが響く。
私の足が再び地面を強く蹴り始めた。
良かったらまた次話も見に来てください。
評価いただけますと、とても励みになります。