初夜
——セイルには、やっぱり愛した人が居たのね……。
まさかそれが自分の事だとは微塵も思わずに、メルチェは唇を噛みしめ、自らが身に纏っているドレスを見下ろした。
窓から射し込む月の光に照らされて輝きを放つ様子に、セイルがどれほどに想いと共に大切にしていたかが伺い知れた。
「とても素敵なドレスね。これ以上のものなんて、きっとこの世に二つと無いわ。貴方の心が込められているからなのかしら」
メルチェの言葉に、セイルは溜息を洩らした。
「だが、私の想いは叶わなかったのだ。それはただの夢の残骸に過ぎぬ」
「貴方にそんなにも想われているだなんて、その人が羨ましいわ」
セイルに憧れを抱き、遠目から見つめていた頃と、彼の直属の侍女として召し抱えられた頃と心の距離に差が無かったのだと思い知らされる。今や千年以上の時が経ち、こうして再会したというのに、その距離は開く一方だ。
どれほどに求めても近づく事ができないのならば、いっその事……。
「……今日だけは、私をその人だと思ってみてはどうかしら?」
寂しさが募り、メルチェはそんな言葉を口にしていた。
今、彼を離してしまえば、もう二度と触れる事が出来ない様に思えたのだ。例え一夜限りであろうとも構わない。彼が愛した人の身代わりであろうとも構わない。傷ついたセイルの心と、再び失恋した自分の心を癒す事ができるのならば……。
「世迷言を。私はもう二度と人間を信じぬと決めたのだ」
「その人は、人間だったの?」
メルチェの言葉にセイルは苛立った。
「ああ、そうだとも。人間はいつも私を裏切る。どれほどに私が愛そうともな!」
「私は裏切らないわ」
メルチェの言葉に「何も知らずにバカげたことを言うな!」と、セイルは声を荒げた。だが、メルチェは俯き、首を左右に振った。
「バカげたことなんかじゃないわ。裏切りようが無いじゃない。私は貴方の『生贄』なのですもの」
ロルベーアにも、トイフェルにも、自分の居場所はどこにもない。かつて恋をした男には想い人が居た。
メルチェは深く傷ついていた。
孤独という恐怖は、どんなにか強く勇敢な者の心をも蝕むのだ。無価値であると烙印を押されて生きることは、最早拷問といっても過言ではない。
「もうどこにも、私の居場所なんか無いの……」
絶望した様に言うメルチェを、セイルは不憫に思った。自分が彼女をこの城に呼び寄せてしまったわけだが、あの場合、アガティオンの目もあり、何の咎めもなく帰すわけにはいかなかった。
ロルベーアを落とす為に、前もって計画されていた作戦行動中であり、メルチェはそれを邪魔した障害だったのだから。
つまり、メルチェは殺されてもおかしくはない状況だったのにも関わらず、穏便に済ませる為に生贄として招かざるを得なかったのだ。
「案ずるな。この国にお前に危害を加えるような者など居ない。不安ならばアガティオンに守らせよう」
「そういう事じゃないの」
メルチェはセイルの手を強く握りしめた。彼女の手の震えがセイルに伝わる。
「お願いよ、セイル。少しでも私を哀れに思うのなら、私に居場所を与えて頂戴。貴方の子を宿せば、私はそれだけでどれほどに救われることか」
メルチェの言葉にセイルは真紅の瞳を見開いた。
「……自分の居場所を作る為に、私の子を孕むというのか?」
メルチェは頷くと、震える声で言葉を続けた。
「私にはそれしか残されていないの。誰も私を必要となんてしていないのですもの。それがどんなにか寂しい人生なのか、貴方には分かるかしら? 生きている必要の無い私に、愛情を注げる存在を与えて頂戴。それが出来るのは貴方しか居ないのだから」
「お前は無価値などではない」
セイルの放った言葉に、メルチェは首を左右に振った。
「いいえ。私には何も無いもの。解っているでしょう? 私は『生贄』なのだもの」
傷つかないはずが無い。彼女は両親から捨てられたも同然なのだ。気丈に振舞ってはいたものの、自分の置かれた立場を不安に思い、恐れるのは当然の事だ。
不憫に思い、セイルはメルチェの頬にそっと手の甲で触れた。瞳を閉じるメルチェのその姿は、愛して止まなかったフリューゲルそのものだった。この娘はフリューゲルではないとどれほどに自分に言い聞かせても、心がかき乱されていく。
差し込む月の光が、メルチェが身に纏うドレスに輝きを与える。光が目に沁みる様に、セイルの真紅の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
夢にまで見た愛する者が、今自分を求めているという錯覚に駆られる。
理由など、もうどうでも良くなっていた。ただただ高揚する気持ちを味わい、酔いしれる事をセイルは選んだのだ。
メルチェの唇に優しく口づけをすると、彼女をそのまま押し倒した。
「後悔することになるぞ? 今ならまだ止められる」
「後悔する様な価値なんて、私の人生には何も残っていないわ」
メルチェはセイルの角の後ろを優しく撫でつけた。気持ちよさげに細める真紅の瞳を見つめると、セイルはメルチェの顔を手で覆った。
「目を、閉じて居ろ」
「どうして?」
「その方が……いや、何でもない」
セイルの手で覆われたメルチェの瞳から、すぅっと涙が伝う。
——本当は貴方に心から愛されたかったわ。
「貴方が与えて頂戴、セイル。私の人生に、『価値』を……」
「私が人間に与える『価値』など意味をなさぬ。それでもよければ、一時だけでも酔いしれるがいい」
「だが、所詮は幻想にすぎぬ」と、セイルは悲し気に呟いてメルチェの首筋にキスをした。
互いを想う気持ちはまごう事無き真実であるというのに、交錯する二人の夜が更けていった。