思い出の価値
この魔国トイフェルに於いて、人間がまだ魔族の支配下にあった頃、フリューゲルは貧しい両親から売られ、奴隷の様な立場で城に仕える使用人だった。
いつもボロを着ており、人が嫌がる仕事ばかりを押し付けられて、当然ながら入浴など許されなかった為、酷く臭っていた。
「ねえ、見て。魔王様よ! 今日も素敵だわぁ~!!」
セイルは人間からも魔族からも、その見目麗しさを称えられており、彼が通る度に使用人達は色めき立った。
フリューゲルもまた例に漏れず、輝く瞳を向けてうっとりとした。
だが……。
「あんたは手を止めずに働きなさいよ。奴隷なんだから!」
「こっちに来ないでよ、臭いわ!」
セイルを見つめているとすぐさまこうした罵声を浴びせられるので、フリューゲルは慌てて隠れた。
彼女にとってセイルとは、手が届かぬどころか雲の上の存在そのものなのだ。自分はあの美しい真紅の瞳に映る事すら許されない。恋するなど以ての外だ。
このままこき使われてつまらない一生を終えるのだろう。
顔や体も痣だらけの自分は、卑しくちっぽけな存在でしか無いのだから。
「……お前、随分と穴の開いた服を着ているな」
突然掛けられた声に振り向いたフリューゲルは、我が目を疑った。誰もが憧れを抱くその男が、自分のすぐ側に居たのだから。
彼は長い睫毛を揺らし、不思議そうにフリューゲルを見つめて言った。
「妙だな。使用人の服が足りていないのか? 予算がひっ迫しているという報告は受けていないが」
「それは、あの! 私にはそんな価値なんかありませんから!」
階級に厳しい魔族の世界では、下の者から声を掛ける事を厳禁とされている。魔族の頂点に君臨するセイルから声を掛けられぬ限り、誰も彼と会話を交わすことを許されないのだ。
セイルに声を掛けられたフリューゲルをやっかむ者達も、黙って指をくわえてみているしかない。
セイルはフリューゲルの毅然とした様子に関心しながら、問いかけた。
「価値か。それは誰が決めるものなのだ?」
「少なくとも私自身ではありません」
フリューゲルの言葉にセイルは真紅の瞳をパチパチと瞬き、品よく笑った。
思わずほうっと見惚れる程の笑顔である。
「では私が決めよう。良いか?」
「それは大変ありがたい事です」
その日から、フリューゲルは魔王直属の侍女として召し抱えられることとなったのだ。
◇◇◇◇
扉の前で、魂が抜け出た様に呆然としているセイルを見つめ、メルチェは小さくため息を吐いた。
「とりあえず座ったらどうかしら?」
メルチェの言葉にセイルは「そ、そうだな」と言い、その場に座ろうとしたので「こっちに座ったらいいじゃない!」と、自分のすぐ隣を指さした。
普段の優雅さはどこへやら。ぎこちない動きでセイルは赴くと、メルチェの隣へと腰かけた。ベッドが揺れ、メルチェが思わずセイルの肩に触れてしまったので「ごめんなさい!」と謝った。
暫くの間、二人はそのまま沈黙していた。勿論、脳内は大騒ぎである。
メルチェはぎゅっと拳を握り締めながら、ばっくんばっくんと鼓動する心臓を鎮めようと必死になっていた。
——私が生贄だってことは、理解したわ。でも、セイルとベッドを共にするだなんて理解できないわよ!?
そりゃあ、確かに彼の事は好きだけれど、フリューゲルの時は振られているし、今世では昨日出会ったばかりだというのにそんな……。
フリューゲルに封じられる事を選んだセイルは、人間と相容れる事を拒んだ。つまり自分は振られたのだとメルチェは理解していた。
二人は互いの気持ちを確かめる前に、人間対魔族の戦乱に巻き込まれ、それぞれ『振られた』と思い込んでいるという訳である。
セイルは、ふぅと息を吐くと、メルチェをすまなそうに見つめた。
「驚かせてすまなかった。恐らく何かの手違いだろう。私はこの部屋から出て行くから案ずるな」
「出て行くって、どうやって? 扉は魔法で閉じられているのに」
セイルは困った様に笑い、長い指で窓を指した。確かに彼の翼を持ってすれば、容易に抜け出せる事だろう。
「……そのドレス、良く似合っているな」
真紅の瞳を細め、メルチェを見つめながらセイルが言った。純白の羽根を編みこんで作られたドレスが、月明かりを浴びてキラキラと輝きを放っている。
「ごめんなさい。これは貴方がとても大事にしていたものなのでしょう?」
メルチェの言葉に、セイルは寂しげに頷き微笑んだ。長い睫毛が揺れ、その美しい顔立ちに思わずドキリと心臓が鼓動する。
「良いのだ。私にとっての宝など、最早無価値でしかない」
メルチェが身に纏っているドレスは、フリューゲルの為にセイルが用意していたものだった。戦乱が起こる前、彼女にプロポーズをしようとあつらえたのだ。
当然ながら千年以上もの永い時が経った為劣化しているはずだが、天使の羽根を一枚一枚拾い集めて作られたそのドレスは、どれほどに時が経とうとも傷む事が無い。正に聖女に贈るべくして作られたドレスなのだ。
——瞳の色こそ違えど、フリューゲルの生き写しの様なこの娘が着るならば、ドレスも喜んでいることだろう。
寂しげにため息をつき、立ち上がろうとしたセイルの手をメルチェが咄嗟に掴んだ。
「恋人の為に作ったドレスなの?」
「……恋人ではないが愛していた。この身の全てを捧げられる程にな」
セイルの答えに、メルチェはズキリと心が痛んだ。