花嫁か生贄か、はたまた貢ぎものか
魔王城……と言っても、至って普通の城である。とはいえ、当然ながら天使や女神の彫像やそれに近しい装飾といったものは一切存在せず、どちらかといえば一般的な城よりも質素であると言えるだろう。
——セイルは昔から派手派手しいものを好むタイプでは無かったものね。自分が真っ赤で派手派手しいからかしら?
犬男の後ろをついて歩きながら、メルチェは、くすりと小さく笑った。
「メルチェリエ様は本当に肝が据わっておいでですね」
犬男が先導しながら言い、メルチェは「皆に言われるわ」とさらりと返した。
魔国トイフェルの王城に仕える使用人達は、当然ながら魔族であり、多種多様な姿をしている。魔族とロルベーア王国の民が接する事を厳格に粛清している今、メルチェの様な若いロルベーア王国の女性はその異形を目にした途端、怯えてしまうのが通常の反応だろう。
だが、フリューゲルとして生きた時代は魔族の姿など常日頃から見かけていたので、特段珍しくもなんともなかった。そして、彼等がやたらと危害を加えてくる様な存在ではないということを、メルチェには良く解っていたのだ。
「そうそう、魔王様の乱入でご挨拶がすっかりと遅くなってしまいましたが、僕の名はアガティオンと申します。魔王様付きの召使とでも言いましょうか。先日はどうもお世話になりました」
無邪気な笑みを浮かべて言うアガティオンに、メルチェは小首を傾げた。
「先日って……?」
と、言いかけて、アガティオンの立派な黒い尻尾を目にし、「ああ!」と手を打った。
「貴方、あの黒い狼なのね!?」
「はい。左様にございます」
アガティオンが犬の様に尖った黒い耳をピンと立てた。
「ごめんなさい、矢を射ってしまったものだから気になっていたの。傷は大丈夫なのかしら?」
「おかげ様で。上手く急所を外してくださったのでしょう? 尤も、僕は使い魔ですから、主である魔王様から魔力を頂ければ直ぐに復活します。お心遣い頂かなくてもなんら問題はございません」
アガティオンが黒い尻尾をふっさふっさと揺らしながら言い、メルチェは困った様に微笑んだ。
「それでも、痛かったでしょう? 本当にごめんなさい」
メルチェの労わる様なその瞳を見て、アガティオンは黒い尻尾を更に早く振った。感情を隠すのが難しい体質の様だ。
「立派な尻尾ね」と、メルチェが小さく笑い、アガティオンは漆黒の瞳を何度か瞬きさせた後、つっと照れた様に視線を逸らした。
更に尻尾を振る速度が上昇する。風が起きてメルチェの髪が揺れる程にだ。
「実はですね、魔王様がお怒りにならなかったのが、僕には不思議でして……。先日のアレは、つまりロルベーア王国侵略の理由付けとする為の作戦と言いますか。僕はわざと捕らえられていたわけなのです」
アガティオンの言葉を聞き、メルチェはハッとした。
セイルはロルベーア王国を侵略する為に、囮としてわざとアガティオンを密猟者に捕らえさせたのだ。馬車の横転も作戦のうちの一つであった事だろう。あの事件が公となれば、条約を反故されたと大手を振って侵略する事ができる訳だが、突然乱入してきたメルチェにより、折角上手くいっていた作戦が全て無と化してしまったというわけだ。
それだというのにセイルが怒るどころか、そのままメルチェを帰し、面倒事を嫌う性格のはずが、わざわざ書簡をロルベーア王国へと送りつけるという礼儀まで守った上で、メルチェを生贄として捧げさせた事が、アガティオンには不思議で仕方が無いのだ。
「メルチェリエ様は、魔王様の弱味を何か握っておいでなのでしょうか?」
「まさか! 先日が初対面だったのですもの!」
——今世では……。
「今までああいった魔王様を拝見したのは初めてでして、このアガティオン、使い魔として複雑な心境にございます」
アガティオンの言葉を聞いて、メルチェは苦笑いを浮かべた。もしかしたら自分の顔がフリューゲルと瓜二つである為、セイルは復讐心を抱いているのかもしれないと考えて、余計な事は言わない方が良いだろうと口を噤んだ。
もしもフリューゲルの生まれ変わりであると知ったならば、どんな報復を受ける事か知れない。それはセイルだけではなく、魔族全体がフリューゲルに恨みを抱いているのは確かだからだ。
彼等は、王を失った永い時を、一体どんな思いで過ごしてきた事だろう……。
アガティオンが重厚な扉を開き、メルチェを室内へと招き入れた。随分と古めかしい家具が並んでいたが、どれも高級品の様で、この簡素な城には珍しく装飾が施されている。
「急なご案内なもので掃除が行き届いておらず申し訳ございません。直ちに手配致します故、暫しお待ちくださいませ」
アガティオンはそう言うと、手を打ち鳴らした。使用人達が複数名現れて、凄まじい勢いで掃除を開始した。腕が六本ある使用人はそれはそれは効率的に床掃除をし、羽を持つ使用人はふわりと宙に舞いシャンデリアを綺麗に磨き上げていく。
なんとも見事な手際の良さだ。
「メルチェリエ様は、こちらにお召し変え願います」
あっという間に掃除を終えると、アガティオンはメルチェへとドレスを差し出した。純白の羽根が編み込まれたそれはそれは美しいドレスで、揺れる度にシルクの生地が煌めいた。
第二王女という立場であるにも関わらず、ロルベーアであまり良い扱いを受けていなかったメルチェには、初めて目にする美麗なドレスだった。
「生贄の私に、こんな素敵なドレスを着せるだなんて勿体ないわ」
メルチェの言ったその言葉にアガティオンは、ふっと笑うと「きっと良くお似合いでしょう」と言って、黒い尻尾を揺らした。
「メルチェリエ様がお考えの『生贄』と、魔王様がお考えの『生贄』とでは恐らく全く異なっているものと思われます」
「どういう事かしら?」
「魔王様は何も、ロルベーアを攻め落としたいというわけではございません。できれば和平を望んでおられます。その第一歩として、メルチェリエ様をお求めになられたのでしょう。つまりは単純に、人間にとってこの魔国トイフェルに住むということ自体が、『生贄』であるという事なのです」
アガティオンの言葉に、掃除を終えた使用人のうちの何名かがピクリと反応を示した。人間を快く思っていない魔族達の中に身を投じるわけだから、確かに『生贄』と言えなくもない。
メルチェは首を左右に振った。
「私は魔族に対して偏見が無いわ。姿形は人間だっていくらでも惑わす事ができるもの。優しい笑顔で欺く人間を、これまで何人も見て来たわ」
——私がかつて、セイルを封印した仇とも言える存在だと、貴方が知らないのと同じ事よ。
アガティオンは微笑むと、「やはり達観していらっしゃいますね」と満足げに頷いた。
「僕もまた、メルチェリエ様の来訪が、トイフェルとロルベーアとの良い架け橋となればと思っている者の一人です。ロルベーア以外の国とは貿易が行われてはいるものの、このトイフェルの王城に住まう魔族達は、人間の姿をこうして目にする事も無く生活して久しいものですから」
「要は慣れろということかしら?」
メルチェの言葉にアガティオンは満足気に頷いた。
「そういうことです。始めは奇異の目に晒されて不快な思いをされるでしょうが、皆悪気は無いのでご辛抱ください」
掃除を終えた使用人達がメルチェを物珍し気に見つめながら出て行き、アガティオンが指をパチリと鳴らした。
影が素早く動いたかと思ったと同時に艶やかな黒髪の女性が現れて、ほっそりとした長い尻尾をゆらりと揺らした。頭部には丸みを帯びたふさふさの耳が生えており、アガティオンが犬ならば、こちらはさしずめ猫であるといった様子である。
彼女は長いコートにミニスカート。美しい脚線美をふんだんに見せつける様に高いヒールを履いている。
アガティオンがメルチェに差し出したドレスを指さし、指示を出した。
「ハウレス、メルチェリエ様のお召し変えを手伝ってください。魔王様の専用浴室を使用して結構です」
ハウレスと呼ばれた女性は、メルチェをチラリと横目で見て顔を背けた。あからさまに拒絶を示しているのである。ゆらりゆらりと黒く長い尻尾が不機嫌そうに左右に揺れている。
「ハウレス。頼みましたからね?」
「人間のお世話だなんて、真っ平ご免だね」
「……ハウレス」
「それに、そのドレスは魔王様が封印される前から、ずっと大事にされていた物じゃない。勝手にその女に着せて叱られるなんて絶対に嫌っ!」
メルチェはハウレスのその言葉を聞き、驚いてドレスを見つめた。
——セイルが封印される前から大事にしているドレスですって? 彼には恋人が居たのかしら。
「叱られたりなどしませんよ。寧ろお喜びになるかと」
「どうしてそう言い切れる訳?」
「あの方の最も近くで仕えて参りましたから理解しています」
「そりゃあ、あんたは魔王様の事を熟知してるだろうけれど、でも今回のは失敗だと思うよ」
「責任は僕が取りますから」
二人のやりとりを聞き、メルチェは申し訳無くなって「あの……」と、声を上げた。
「どうしても着替えをしなければ駄目かしら? 彼女の言う通り、そのドレスは本当に素敵だわ。私に着る権利など無いと思うの」
「いいえ!」
アガティオンは即答した後に、メルチェに深々と頭を下げた。
「メルチェリエ様。どうかこのドレスをお召しになり、魔王様のご寝所でお待ちください」
「……え!?」
メルチェとハウレスが同時に声を発したが、アガティオンは深々と下げた頭を上げる事をしなかった。