親子水入らず
「ねえ、ヘルツェライト」
遠慮がちに言ったライネに、アシュマは「俺はアシュマだ」と言い、持っていた本からライネへと視線を向けた。銀色の長い睫毛に縁どられたエメラルドグリーンの瞳が、あどけなく可愛らしい。
このままの速度で成長すれば、三カ月後にはあどけなさが消え失せて、前世のヘルツェライト同様の、美しい青年の姿となることだろうと想像し、ライネは思わず視線を逸らした。
「……アシュマ、恋愛だけが人生の楽しみじゃないよね?」
前世では誰一人として叶う事のなかった恋の行方が、今世でも繰り返すのではと不安になって言った言葉だったが、それを聞きアシュマは小さく舌打ちをした。
「当然だろう? そうじゃなきゃ、俺の今世は産まれた途端に終了じゃないか」
ライネの脳裏に、前世で自分が死んだ時の様子が生々しく映り込んだ。
微動だにしなくなったヘルツェライトの身体を、必死に守り抜こうと、圧し掛かる瓦礫を支え続け、潰えた……。
「ライネ」
アシュマに初めてまともに名を呼ばれ、ライネはハッとして瞳を向けた。彼は片眉を下げ、「大丈夫かい?」と、小さくため息を漏らした。
「ごめん、ぼうっとしてた。何?」
「ロルベーアの国境は、森を迂回して通過した方が良いよ」
突然の言葉に、ライネはすぐに切り返すことが出来ず、間を空けた。
ふわりと冷たい風が、ライネの栗色の巻き毛を揺らす。
「どうして?」
「かつての同僚の忠告さ。聞いておいて損は無い。ほら、さっさと帰りなよ。俺だって暇じゃないんだからね。店だって長く空けておくわけにも行かないんだろう? 帰った帰った」
ぶっきらぼうに追い出そうとするアシュマの態度に、ライネは栗色の巻き毛を人差し指でくるくると巻き付けさせながら、「ふーん、じゃあそうするよ」と寂しげに言うと、胸の谷間に押し込んであるペンダントトップを引っ張り出した。
七色の輝きを放つ石で作られたそれを見て、アシュマは眉を寄せた。
「移送石か。珍しいものを持っているね」
「これがあれば一瞬でお家に帰れるから、めちゃ便利!」
得意気に笑うライネを見つめ、アシュマはホッとした様な笑みを向けた。
アシュマのその顔を見た途端、ライネはぎゅっと心臓が痛くなった。
口には出さないものの、アシュマはライネが無事故郷に帰れる事に安堵しているのだと分かったからだ。いつも毒舌を吐くくせに、本心では皆に気を配る優しい男なのだ。
だが、前世でも今世でも、彼はライネを見てなんかいないのだから、決してこの気持ちを気取られてはいけない、と自分の心に言い聞かせて、アシュマに背を向けた。
「……じゃあ、またね。メルチェリエのドレスが出来上がったら、納品に来るからさ」
「ああ。キミの夢が叶う瞬間を楽しみにしているよ」
毒舌ではない素直な言葉を言ったアシュマに背を向けたまま、ライネは唇を噛みしめた。
「……うん、待ってて。とびきり素敵なドレスに仕上げるから」
ライネはそう言うと、移送石を握り締めた。パッと光が発せられ、彼女の身体が包み込まれたかと思うと、一瞬のうちに姿が消えていた。
ライネを見送り、アシュマは溜息を吐いた。
トイフェルとロルベーアの国境付近で不穏な動きがあると耳にしたのだ。彼は子供である特性を生かし、魔族達の会話を存分に盗み聞きし、情報収集を行っているのだ。
——ライネには早々にトイフェルから出て行って貰わないとまずい。あの怪力女が暴れた日には、より一層面倒な事になりかねないからね。
さて、セイルの奴には政務に没頭して貰うとして、問題はメルチェか。正義感が強すぎて、直ぐ自分を犠牲にしてまで解決しようとするから厄介だよ。なんとか彼女には気づかれない様に国境付近の調査をしてこないとね。
城内を歩き回っていると、すれ違う使用人達が恭し気に頭を下げる。生後一か月であるとはいえ、六歳児程度の身長があり、セイルとはまた違った美貌の持ち主であるアシュマは、既に城内の者達の心を虜にしていた。
つまり、魔族達は皆面食いなのである。
ふと、執務室にお茶の用意をして向かう途中のアガティオンの姿を見つけ、アシュマは声を張り上げて呼び止めた。
「やあ、父上」
ガシャン!! と音を立て、アガティオンは持っていた茶器をトレイごと床へと落とし、「僕は王子の父上ではございません!」と、悲鳴の様に言った。
アシュマはこれみよがしに黒い立派な尻尾をばっさばっさと振って見せ、アガティオンも呼応するかのように尻尾をファサリと揺らした。
尻尾だけは親子に見えなくもない。
「……それで、僕に何かご用でしょうか?」
割ってしまった茶器を拾い集めながらアガティオンが言い、アシュマも手伝おうと手を伸ばした。
「いけません! お怪我をなさったらどうするのです!? これは僕のミスなのですから、王子は手を出さないでください。ほら、破片が散らばっていますのでお離れください」
アガティオンにキャンキャンと喚かれて、アシュマは手伝うのを止めて申し訳なさそうにその場から少し離れた。
「驚かせて悪かったよ。けど、俺はセイルを父親だなんて認める気はない。アガティオンこそ、自分が俺の父親だって言ってくれたらいいじゃないか。その方が色々と都合が良いだろう?」
「王子が認めようと認めまいと、魔王様の血を受け継いでいらっしゃるのは変えようのない事実にございます。何度も申し上げた通り、僕はメルチェリエ様とはそういった関係ではございません」
——お前だって、本当はメルチェが好きなくせに。
アシュマはそう思いながら、片づけをしているアガティオンを見つめた。
彼女は良くも悪くも心を惹き付ける。聖女の能力なのか、魔族にはそれが狂おしい程に甘い芳香に感じられるのだ。
「散歩に行きたいんだけれど、付き合ってくれないか? 俺一人だとメルチェに叱られるからね」
「その辺りを散歩なさりたいのであれば、特にお叱りを受けるとは思えませんが。一体どちらまで向かわれるおつもりなのです?」
「トイフェルとロルベーアの国境」
アシュマの答えにアガティオンは苦笑いを浮かべ「それは確かにお叱りを受けるでしょうね」とため息を吐いた。
「俺の身体じゃ馬具にも足が届かないし、こんな小さな翼じゃ大して遠くまで行けやしない。大人の助けが要るんだよ」
「でしたら、魔王様にご相談なさっては如何でしょうか。どちらにせよ僕の一存では決めかねますから」
「嫌だね。あいつに相談するくらいなら一人で行くさ!」
アシュマはそう言った後、プイと顔を背けて「政務に忙しいだろうしね」と、言葉を付け足した。
嫌っていながらも結局は思いやりから来る態度なのである。
「何処へ一人で行くつもりなのだ?」
執務室の扉が開かれて、セイルが顔を出した。アシュマはバツが悪そうな顔をし、アガティオンは慌てて割れた茶器を片づけた。
「申し訳ございません、もう一度お茶の準備をして参ります」
「いや、茶は良い。それよりアシュマはどこへ行くつもりなのだ?」
「何でもないよ! ちょっとその辺に……」
慌てて誤魔化そうとしたアシュマに、アガティオンが「トイフェルとロルベーアの国境を視察されたいのだそうです」と正直に答えた。
「魔王様、『親子水入らず』で散歩されてきては如何でしょうか」
アガティオンの提案にアシュマはサァっと顔色を青くし、セイルは嬉しそうに微笑んだ。
「そうだな、『父親として』我が子との時間は大切にすべきだ」
嫌に『父親として』の部分を強調して言うと、後ずさるアシュマにセイルは手を差し伸べた。
「では行くとしようか、アシュマよ」
「いや、あんたは忙しいだろうしいいよ」
「私の翼であれば直ぐに到着する。政務にも影響は無い」
「でも、王様が城を空けたら駄目じゃないか」
「気分転換の散歩など、さほど珍しいことではない」
セイルは意地でもアシュマと仲良くしたいのである。顔に『息子と散歩に行きたい!』と書いてあるかのようにセイルは真紅の瞳を輝かせて、どちらが子供か解らない程に期待に満ちた様子だ。
「俺はあんたなんかと出かけたくない」
きっぱりと言い放ったアシュマの言葉が、セイルの胸にグサリと突き刺さった。会心の一撃である。
「お前は何故私を嫌うのだ!?」
半泣きで喚くセイルから目を逸らし、アシュマは鼻を鳴らした。
「さあね? 生理的に受け付けないってだけさ」
取り付く島もない回答である。
「髪も目も翼もド派手で、気味が悪いし」
ショックに打ちひしがれ、泣きそうになってフルフルと身体を震わせているセイルに、アガティオンが慌てて助け船を出した。
「王子はまだ生後一か月ですから、魔王様の事をあまりご理解されていないご様子です。もっとお二人での時間を増やし、お互いの理解を深めてみては如何でしょう? 魔王様の素晴らしさをお知りになれば、必ずや……」
アシュマは小さな人差し指をセイルに突きつけると、「こんな奴の事なんか知りたくもないね!」と言い放ち、アガティオンは「無邪気なのは結構ですが、意地ばかり張っていては己を滅ぼしますよ」と窘めた。
「とにかく、僕は王子と共に国境付近に行く事はできません。王子に、魔王様のお申し出を断る特別な理由がある様にも思えませんし、厚意を素直に受け止める事の出来ない様な方に育って欲しくはありません。ご自分の希望を叶えたいのならば、もっと謙虚にあるべきです!」
そう言われてしまえば返す言葉が無い。アシュマとしてはどうしても国境の視察に行きたいのだから、ここは折れるしかない。アガティオンはなかなかに上手である。
「分かった。あんたと一緒でいいよ」
生意気な言いぐさである。
セイルは嬉しそうに瞳を細め、軽々とアシュマの身体を抱き上げて片腕の上に座らせると、背にバサリと三対の真紅の翼を生やした。
「ではアガティオン、少々留守にする」
「承知致しました。行ってらっしゃいませ魔王様、王子様」
セイルはアシュマを連れたまま執務室の中へと入ると、ふと思い出したかの様に指先を動かした。机の上のペンが宙に浮き、何やらサラサラと文字を書き綴る。
「メルチェリエへの書置きだ」
律儀な魔王である。
窓を開け、テラスへと出るとふわりと軽く床を蹴った。
「しっかりと捕まっているのだぞ?」
——嫌な予感がする……。
と、青ざめたアシュマの予想は的中し、三対の翼をこれでもかという程に力強くはためかせ、風圧で顔が変形する程の速さでセイルは飛び立った。
「どうだアシュマよ。私の翼は速いだろう?」
得意気に言うセイルに抱かれながら、アシュマは白目を剥いていた。




