ぎこちない二人
「ごめんね、今日は用事があってお風呂のお手伝いができないの! 一人で大丈夫?」
ハウレスが申し訳なさそうに言い、メルチェは「大丈夫よ」と言って悠々と浴場へと向かった。
廊下を歩くメルチェに、魔族達は皆どこか余所余所しい。
出産を終えて一週間程経った訳だが、セイルは疎かアガティオンもメルチェの元を訪れなかった。元気に生まれたはずの我が子にも会わせて貰えず、ハウレスからは別室で世話係が面倒を見ているから心配するなの一点張りで、メルチェは不満が溜まっていた。
——出産後直ぐに眠っちゃったから、赤ちゃんの顔を少しだけしか見ていないのに。どうして会わせてくれないのかしら。魔族のしきたりか何かなの?
メルチェは浴場へと向かわずに、執務室へと向かった。ここのところハウレスがつきっきりでいたため、一切の自由が赦されなかったのだ。セイルとアガティオンの様子も気になるし、一目でも元気な姿を見たかった。あわよくば、我が子が一体どこにいるのかも聞き出せるかもしれない。
「メルチェリエか? 一人で何をしている? ハウレスはどうした?」
廊下を歩いていると背後から声を掛けられて、その低く聞き惚れる声は間違いなくセイルであると、メルチェは突然の事に緊張し、慌てて振り返った。
「せ、セイル! えっと、お久しぶり!」
ドギマギとした様子のメルチェに、セイルはふわりと優しく微笑みを向けた。真紅の瞳が輝き、艶やかな真紅の髪が肩から零れ落ちてサラサラと揺れる。
——相変わらず心臓に悪い位の色男だわ……。
メルチェはいつも重症である。
「そうだな、久しいな。体調は大丈夫なのか?」
——心配してくれるなら部屋に来てくれたらいいのに。
少し不満に思ったが、それよりもセイルの顔を見れた事が嬉しくて「全然元気よ!」と、満面の笑みで答えた。
「そうか。あまり無理をせぬようにな。部屋まで送ろう」
そっと手を差し出したセイルに、メルチェは慌てて首を振った。
「平気よ! 貴方は忙しいのだもの。邪魔をする訳にはいかないわ」
「お前とこうして会えた事を幸運だと思っているというのに、邪魔にするはずがないだろう」
メルチェの頭の上からプシュー! と湯気が上がった。何気ない言葉ですら破壊力がある程にセイルの美貌は底知れない。
瞬きをする度に揺れる長い真紅の睫毛。僅かに笑みを浮かべる形の良い唇。品の良い所作。思わず見惚れてしまうその美しさであるわけだが、生憎本人には全くその自覚が無い。
「ぼうっとして大丈夫か?」
「平気! それにその……お風呂に行く途中なの!」
——しまった! 浴場はこっちじゃないのにっ!!
メルチェが気まずそうに俯くと、セイルは長い指で優しくメルチェの耳に触れた。そしてハッとしたように手を下げて、「すまぬ」と謝った。頬を染め、気まずそうに……しかし、潤んだ真紅の瞳を向けるその表情が妖艶な色気を醸し出す。
——どうして手を引っ込めるの? もっと触れてくれたらいいのに!
メルチェはやはり、相当な重症である。
「その、髪が目にかかっていたので気になったのだ。不用意に触れてすまなかった」
そしてため息を吐いた後、彼は悔し気に一歩退いた。
「子の名前を、ずっと考えていたのだ。勿論、どうするかはメルチェリエの判断に任せるが」
セイルの言葉に、メルチェは瞳を輝かせた。
「嬉しいわ! どんな名前?」
期待をして瞳を輝かせるメルチェを愛しそうに真紅の瞳で見つめた後、セイルは「アシュマ・デヴァだ」と答えた。
「あの子の純白の翼が美しいのでな、天上の名を含ませたのだが」
「アシュマ・デヴァ。素敵な名前ね! 有難う、セイル!」
嬉しくて涙を浮かべたメルチェに、セイルは僅かに瞳を伏せて、キッパリと言い放った。
「いや、決めるのはアガティオンと相談してからが良いだろう」
そこでどうしてアガティオンの名が出たのだろうかと、メルチェは不思議に思った。だが、セイルが優しく微笑んだので、その美しい顔立ちにすっかりと見惚れてしまい、言葉が出なくなってしまった。
重症どころか重体である。
「大丈夫か? 何やら顔が赤いようだが」
「へ、平気よ! ところで、アガティオンは何処に居るのかしら? 最近ちっとも顔を見せてくれないの」
メルチェの言葉にセイルは傷ついた様に唇を僅かに噛んだ。
「……そうか。寂しい思いをさせてすまなかった。私の方から顔を出す様に伝えておこう。久方ぶりに話せて嬉しかった。有難う、メルチェリエ」
物腰は優しいものの、どこか余所余所しさが感じられる。「……セイル?」と、メルチェが声を掛けたと同時に「ではな」と返して、セイルはくるりと踵を返し立ち去ってしまった。
立ち去って行く後ろ姿が見えなくなるまで目で追って、メルチェはポツンと取り残された気分になった。
広い廊下が一層広く感じる。
——一体どうして私を避けるの?
そう考えて、突如浮かんだ考えにメルチェは背筋を凍り付かせた。
——ひょっとして、子供を産んだから? だから私はもう用無しで、生まれた子だけ居ればそれでいいって事なの……? そういえば、セイルは女性を連れて帰って来たと使用人達が言っていたわ。ひょっとして、その女性と一緒に赤ちゃんを育てるつもりなのかしら?
私はもう、彼にとって不要な存在なの……?
メルチェはどうしようもなく悲しくなり、唇を噛みしめた。ポタポタと涙が零れ落ち、慌てて手の甲で擦った。
——こんなところで泣いたりなんかして、もしも誰かに見られたら迷惑をかけてしまうわ!
ぎゅっと拳を握り締め、メルチェは気丈にも微笑んだ。それほどにセイルに嫌われたくないという思いが強く、少しでも長く彼の側に居たいという気持ちがそうさせたのだ。
「ねぇ、ちょっと。そこのあんた」
突然掛けられた声に振り向くと、栗色の巻き毛の女性が豊満な胸の前で腕を組み、深くスリットの入ったスカートの裾からスラリとした脚を惜しげもなく出して、メルチェを睨みつける様にして立っていた。
恐らく彼女こそが、セイルが連れ込んだという女性なのだろう。
しかし、メルチェの顔を見た途端、彼女は瞳をまん丸にし、キラキラと輝かせた。
「……え? ちょっと待って。その顔は、まさか、フリューゲル!?」
その女性は素っ頓狂な声を上げると、感激した様にメルチェの両手を掴んだ。メルチェは訝しく思って彼女の顔を見つめた後、「え!?」と、声を上げた。
ふわふわと揺れる栗色の巻き毛になつかしさを感じ、瞳を見開いた。
「もしかして、ライネなの!?」
かつてフリューゲルとして生きた時代、仲間として側に仕えていた怪力の戦士ライネに、顔が瓜二つだったのである。
「そう! そうだよ、私だ。ライネだよ!! 今世は違う名前なんだけど、そんなのどうだっていいや! 会いたかった、フリューゲルっ!!」
ライネは大喜びでメルチェに抱き着き、その豊満な胸がむにょりとメルチェの胸に当たった。が、あまりの腕力にメルチェは「ぐえっ!」と叫び、ライネは慌てて手を離した。
「ごめんねフリューゲル。加減を間違えちゃった。私、相変わらず怪力なんだ」
「ちょっと待って頂戴。ひょっとして、セイルの恋人というのはライネの事なの?」
ライネは驚いて「は!?」と声を上げると、慌てて首を左右に振った。
「いやいやいや、それは無いよ! 魔王様はうちの店のお客として来たんだもの!」
「……お客?」
メルチェは不安に思いながらライネを見つめた。女性の身体の曲線美を惜しげもなく見せつける衣服を纏ったその様子に、嫌な予感がしてならない。
ライネの店とは、一体どのような店なのだろうか。
「ねぇ。ちょっとここではなんだからさ。どこか別の部屋で話さない? 積もり積もった話をゆっくりしたいし」
廊下を歩いて来る使用人の姿を認め、ライネが声を潜めた。
「そうね。場所を変えましょうか」
メルチェはライネを連れて自室へと向かった。




