私は貴方の何ですか
「メルチェ!!」
ハウレスが叫びながら駆けて来ると、メルチェに抱き着かんばかりの勢いを寸前でピタリと止め、「どうだった!? 赤ちゃん出来た!?」と、期待を込めてくりくりとした大きな瞳を向けた。恐らくメルチェの身体を気遣って抱き着くのを自粛したのだろう。
アガティオンがうんざりしたようにため息をつきながら「ハウレス、いつもながら無礼ですよ。メルチェリエ様は魔王様の大切な……」と、言葉を止めた。
その場に居る三人の頭の中に、『大切な……なんだろう?』という考えが浮かんだのだ。
結婚した訳ではないから『妃』でない事は確かだ。『恋人』というにも、出会いの様子から恋愛関係にある様にも見えないだろう。『愛人』と言うにしても妙だ。そして当然ながら『友人』では無いだろう。
三人が脳内で思考を巡らせていると「アガティオン!」と、遠くからセイルが声を掛けた。
真紅の艶やかな長い髪がサラサラと零れ、きりりとした眉に切れ長の真紅の瞳。すっと通った鼻筋に形の良い唇。相変わらず息を呑む程の色男である。
耳に光るピアスが良く似合っている。あの美しい人と揃いの物を身に付けていると思うだけでも、感慨深いものがあると、三人は見慣れているはずだというのに、暫しセイルのその姿に見惚れていた。
「どうした、何か問題でもあったのか?」
不安げに表情を曇らせたセイルに、アガティオンは慌てて首を左右に振って「とんでもございません!」と答えた。
「魔王様、ご報告致します……」
言葉を続けるアガティオンを前に、メルチェの中にひんやりとした不安の影が一気に襲い掛かり、青ざめた。セイルが妊娠を知ってもしも不快そうな顔をしたらと思うだけで、地獄へと突き落とされる様な恐怖に駆られたのだ。
もしも目を逸らし、冷たくあしらわれたら……?
愛する人ではないからと、「良かったな」とまるで他人事の様な態度を取られても傷つくだろう。
戸惑う顔をして、「自分はそんなものを求めていなかった」と言われてしまったら、一体どうすれば良いというのだろうか。
——アガティオン、待って。まだ言わないで!! 心の準備が……!!
「メルチェリエ様がご懐妊されました!」
アガティオンの言葉に、メルチェは俯いたままぎゅっと拳を握り締めた。セイルがどんな顔をしているのか恐ろしくて見る事が出来ない。
——どうすればいいのかしら。いつもの私らしく「出来ちゃったわ!」なんて元気に茶化すのが良いのかしら……。
唇が震える。声を出そうにも顔を上げる事すらできない。
「……そうか」
セイルの低い声が聞こえた。落ち着いているようで、いつもよりも少し高い声色に聞こえる。
——言わなきゃ。大丈夫だからって。貴方には迷惑なんかかけない。例え一人でも育て上げてみせるって、言わなきゃ!
メルチェは俯いたまま絞り出す様に声を放った。
「わ、私。大丈……」
「ありがとう、メルチェリエ」
それは穏やかな声だった。顔を上げたメルチェの瞳に、セイルのふわりとした優しい笑顔が飛び込んで来た。
「お前は、私を父親にしてくれるのだな。このような喜ばしい贈り物を貰うのは初めてだ。本当に有難う、メルチェリエ」
メルチェの瞳からポロリと涙が零れ落ちた。
「セイル……私も、有難う……私を、母親にしてくれて」
震えるメルチェの肩をセイルが大きな手で優しく包み込んだ。
「それはうれし涙と取って良いのだろうか?」
「ええ。勿論よ。幸せ過ぎて瞳から溢れてしまったわ!」
ハウレスが慌てた様に「あたし、メルチェの肩掛けを取って来るね! 冷やしちゃだめだから!」と言ってパタパタと駆けて行き、アガティオンはその様子を見送りながらコホンと咳払いをした。
「ところで魔王様。祝言は一体いつ挙げるおつもりですか?」
「……む?」
セイルが困った様に唇をへの字に曲げると、長い指で頬を掻いた。
「その……それはまだ何も……」
「肝心なところを押えないでどうするおつもりなのですか? 皆メルチェリエ様をどうお呼びすべきか困っているのですから」
「それは一体どういう意味だ? メルチェリエはメルチェリエであろう?」
「貴方という人は……! 良いですか、魔王様。貴方は魔族の王なのです。その御子の立場を決める為にも、しっかりと祝言を挙げるべきとは思いませんか!?」
「何を言う。我が子は我が子だろう?」
「だからですねぇ……!」
二人の会話を聞きながら、メルチェは声を上げて笑った。
それはフリューゲルとして生きた時も、そしてメルチェリエとして生きているこの今でも初めて心の底から笑ったのだった。
——セイルに、この想いを伝えよう。私は貴方を愛していると。彼の心にはまだ愛した人がいるかもしれない。
それでも伝えなければ。いつか私を愛してくれる事を願って。
しかし、その日からセイルがメルチェの寝室を訪れる事は無かった。
メルチェは寝室でたった一人セイルの訪れを待ち続け、夜がこれほどに暗いのだという事を改めて知った。
「蝋燭の灯は、必ずいつかは消えるものなのよね。どうして忘れていたのかしら……」
静けさだけがメルチェを包み込み、途方もない寂しさで押しつぶされてしまいそうだった。




