朝 ⑦
竹田さんは自動車の販売店に勤めていた。
お店の駐車スペースに着き、少々安堵する。
ところが、次の瞬間には頭を抱え込んだ。
いつも早めの出勤を心がけ、今まで遅刻とは無縁の人生を送ってきたつもりだったが、今日は……
指の間からのぞくようにして、たまたま正面に見えるようにして外に立っている、大きなデジタル時計を確認した。
あっと声がもれる。
もう昼過ぎの感覚であったのに、意外にも普段の出勤時間と同じ時刻だった。
今までのことはやはり夢だったのだろうか、疲れがたまっているのかもしれない。
はぁ、と大きくため息をついた。
「よし、行こう!」
自身を励ますと、跳ねるようにして車を降りた。
気合が入り過ぎ、手に力が入ったようだ。ドアはダンっと大きな音を立てて閉まるので、びっくりしてしまうのだった。
いつもの職場、いつもの風景で特に変わった様子はない。
もう何人か出勤していて、おはようと挨拶を交わす。
すると、挨拶をちゃんと返してくれるのだが、何故か皆、眉をしかめているようだった。
なんだろう、何かしたかな……
竹田さんは急に不安になってきた。その時、竹田さんよりも長く勤めているチヨミさんが肩をたたいてきた。
「竹田くん、言いにくいんだけどさ……すっごく変な臭いするよ。すっごく生臭い。たぶんスーツとか服からしてるだろうから。ほらこれ、シュッシュしてあげるから」
チヨミさんはほらほら、と竹田さんのジャケットを脱がすと、手に持つ除菌と消臭のスプレーを吹きかける。
その様子を見ていたもう一人の若い女性社員もスプレーを持ってくると、チヨミさんと共に、竹田さんの全身とついでに座ったイスにまでシュッシュ、シュッシュと繰り返した。
「あの、僕、そんなに臭いですか? まいったな……」
「そうよ、いったい何したの? 生魚や生肉をちょっとさばいたってこんな臭いはしないと思うけど」
チヨミさんがねぇ、と隣にいる若い女性社員に促す。彼女もそうですよね、と頷いている。
「自分では全く気が付かなかったもので……なんですかね? ははは……」
苦笑いでごまかそうとする竹田さんの動悸は激しくなっていく。
もうスプレーと冷や汗でびっしょりというところで、チヨミさんが手にするドライヤーである程度乾かされた。
「あ、ありがとうございました」
「竹田くん、今日はなんとかこれで乗り切って、早くクリーニングに出しなさいよ」
チヨミさんは満足げだ。
その横を、サカノ君が通りかかった。
竹田さんの体に力が入り、こわばる。
「おはようございます」
サカノ君はニコニコしながら爽やかに言い、そのまま通り過ぎて行く。
「ねぇ、サカノ君も竹田くんみたいな臭い、しなかった? しかも竹田くんよりひどく……」
チヨミさんは鼻をおさえている。女性社員も同じく鼻を覆い、眉間にしわを寄せた。
チヨミさんともう一人はスプレーとドライヤーを持ち、そのままサカノ君の後を追っていく。
竹田さんはその様子をぼんやりと眺めた。
朝の出来事はやはり、夢ではなかったのかもしれない。サカノ君は女を食べていたのか。
だが、チヨミさんらにスプレーをシュッシュされ、ドライヤーで乾かされるサカノ君には特に、変わった様子は見られなかった。