一
衝和23年7月13日 火曜日 午後一時半
たとえば、ある男が十階の窓から飛び降りるとする。
で、冬次郎はこれまで百回、窓から落ちて死んだ男たちを見ている。
冬次郎は言う。莫迦な真似やめて平和主義にいこうぜ。
でも、その莫迦はきく耳持たずで飛び降りて死ぬ。
獄楽市に住むというのはそういうことだ。ろくな目に遭わないのははっきりしてるのに、それでも飛び降りる。
ただ、十階の窓と獄楽の違いは、十階の窓はひょっとしたら奇跡が起きて、飛び降りても無傷でいられるかもしれないが、獄楽は無傷でいたところで結局地獄に落ちたのと変わらない。
殺人。汚職。垂れ流し。糞壺。麻薬。天ぷらの入っていない天むす。ひとの愛車に二銭銅貨でキズをつけるやつ。なんでもござれだ。
冬次郎の霊媒師事務所から半径一キロ以内に、足を踏み込んだら神隠し決定な禁足地が五か所ある。
血の色に塗ったタダナラヌ注連縄に血の色に塗ったタダナラヌ紙垂がかかっていて、〈関係者以外立チ入リヲ禁ズ〉という看板(蹴飛ばすとホーローびきの洗面器みたいな音がする)も立っている。
関係者以外と書いてあるが、関係者だって入りたくない。
鳥居には神が祀ってあって、その神がどこから来たのか考えない人間が多すぎるのだ。
政府の間引き政策か? いや、今年は好景気。人手は足りない。
冬次郎の仕事も好景気に多少はいい思いをしている。
彼の仕事は霊媒師だ。
なくしたナンチャラカラットの指輪や脱走した猫を見つけ、同級生のマサヒコくんの好きな人とか北海畜牛社の明日の終価とかを卜って、そして、バケモノを退治する。
一番受けたくないのがバケモノ退治だ。
一日二十時間寝ていたい冬次郎にとって、バケモノ退治は彼の睡眠時間を吸い取る最も邪悪な存在だ。バケモノのことは(自分以外の)専門家に任せればいい。警察とか賞金稼ぎとか機械化特殊中隊とかは何のためにいるのか考えてみればいいのだ。
ポケットからマッチ箱とくしゃくしゃに潰れたバットの箱を机に放り、あくびして一服つけた。いや、一服つけてあくびしたのか。
ゆらめきのぼる紫煙を目で追う。
今日はとても眠たかった。
こういう日に働くのはよくない。世界の善の総量が下がる。
世界の平和のために、自分は眠らなければいけない。
だが、さっき電話があった。ケーサツから。
バケモノが、怪異が出たと。
冬次郎が最も嫌がる仕事を押しつけてきたバカモノがいる。
バケモノとバカモノのあいだに差はない。
どちらも面倒で眠たい。差があるとすれば、バカモノは天下御免のケーサツ手帳を持っている。
だいたいバケモノはカネにならない。
猫を探すほうがずっとカネになるし、たくさん眠れる。
彼が電信柱に貼った紙には『雪津霊媒師事務所 猫探し、失せ物、売卜、その他 料金:応相談』とある。その他とあいまいにしているのに自分にバケモノ退治を依頼してくるやつがいる。
「しゃーない。行くか」
メッキの禿げた金具で太刀〈鬼青江〉を腰から吊るし、必要かどうかも分からない護符を何枚かポケットにクシャリと突っ込む。ヒビだらけのガラスドアを開け、廊下に出た。
おっといけない。煙草とマッチを忘れるところだった。あぶないあぶない。
雪津霊媒師事務所はゴンベエ・ビルディングの一階、奥にある。表から入り、ジス・イズ・ア・ペーンしか教えない英語塾とやたらトカゲを処方したがる漢方医、モツがそれなりにうまい居酒屋の前を通り抜けた先に紙テープの気まぐれで看板が立っている。〈雪津霊媒師痔夢暑〉。
これは愛猫を探し出したお礼に人間国宝の書道家三浦安心が揮毫してくれたものだ。現在、三浦氏は文字を認識できない次元性の病気に罹患し、筆を折ったのだが、氏はまさにこの看板を書いている途中でその病気を発症したのだ。
愛車は修理工場に預けてある。というより、カネを用意するまで人質に取られている。
一日二十時間寝たい彼がしぶしぶバケモノ退治に行くのは一〇〇式ニュー・クロガネのためだ。
一日二十時間寝ていたい。そして、残り四時間は酒と煙草をしこたま積み込んで、車を転がしていたい。
愛車のために睡眠時間を削るんだ。どうだ? かっこいいだろう?
まあ、その前に滞納している家賃を払わないといけないのだが。
満員のボンネットバスをいくつか乗り継いで、中央バス・ロータリーへ。
こんがらがった市営バス路線が一点に集中した広場には八階建ての百貨店とニーダー・ザクセンの城みたいな国鉄駅と用途不明の煙突の群れがある。活動漫画バルーンが結核三昧の肺を町田式自動エアー・ポンプに変えて新人類になろうと垂れ流している。最近流行の眼をえらく大きく描く以前の活動漫画だ。
広場から伸びる道を取り、横町から横町へと曲がるたびに道幅が狭くなり、ついにとうとう行き着いた。
鳥居の形をした門に〈街店商らゆまた〉の看板がかかっていて、出入口に警官が木挽き台で非常線を張っている。
「うーっす」
「おっ、冬チャンか」
見知った中年の巡査が太い眉を上げて、驚いた様子で言った。
「ということはまた事故ったか?」
「はは、まあ、そんなとこッス。で、バケモノは?」
「トクアツどもはキケン、キケンと言ってるが、トーチャンならすぐに片づくさ」
巡査が顎でしゃくった先には左腕を機械化した特別鎮圧班が待機していた。
粉末石炭で動く中途半端な型式ではあるが、細工のまずい機関部を薄く叩き伸ばした強化アルミニュームで覆ってあり、最低限の見栄えはする。それに、左の腕相撲では生身の人間で勝てるものはいないし、結構な額の機械化手当も出る。
さらに暴徒鎮圧用電気銃と針金細工の手錠を十個ほど内臓しているので、逮捕者が多く出る暴動に重宝だが、こうした怪異の類にはあまり向いたものではない。
歪みのなかの何かが機械に作用することがあり、自分で自分の頭を握りつぶすこともあるからだ。
冬次郎は見たことがあるわけではないが、そういう噂が根強い。
「そういや、トクアツのなかで、さらに特別な連中は何かの加工か儀式か知らないが、やれるようになったってききましたよ。特別なトクアツってことは、そいつらはトクトクアツってことで、さらに特別だとトクトクトク――」
「そうは言っても、トクアツが動くだけでもあれこれ書類を出さないといけない。トーチャンに任せりゃ、間違いないし、出さなきゃいけない報告書もぐんと減る」
「いや、松さん。おれも三十二。引退考える歳っスよ」
「そんなこと言って、本当は寝てたいだけだろ」
「正直、バケモノ退治は嫌なんですけどね」
「しょうがねえだろ? バケモノを倒せる霊媒師はそうそういないんだ。じゃあ、なかに警視がいるから」
「柴犬、警視になったんですか?」
「驚きだろ」
「あいつ、いまいくつでしたっけ?」
「二十四か五」
「エッリートさまは違いますね」
「そうよ、そのエッリートなわけよ」
「じゃ、ちょっと行ってきて、エッリートの顔を拝んで、ついでにバケモノを潰してきます」
「おう、まあ、頼むわ」
松さんが木挽き台をどかし、冬次郎は苦笑いして、観念する。
たまゆら商店街は少なくともゴンベエ・ビルディングの店よりは流行っているようだった。
万引き常習犯の約束の地。
バケモノ発生で住民が避難したせいで、無人の商店が無防備に商品をさらしている。
〈緑茶販売・スギオカ〉から玄米の焦げたいい匂いがし、〈大澤乾物店〉の看板の下にある〈電話参七七七番〉の金文字はおそらく電話が珍しかった時代のホコリをかぶった自慢の輝き。文具店の表は最近、新モデルを発売した日本能率協会謹製の能率手帳の青い表紙で埋まっている。開いたままの見本を見ると、予定表は分刻みになっていた。次の新モデルは秒刻み。便利の悲劇である。
魅惑のガラスの酒屋にちょっと寄り道。
即位の礼に招かれた外国大使たちみたいに洋酒が並んでいる。
一方でいなせな日本酒たちが袖まくりをして、相対し、その中間に白いラベルのウヰスキーがポツンと置いてある。
手に取ってみる。
「なになに……醒めよ人! 舶来盲信の時代は去れり。酔わずや人、吾に國産。至高の美酒サントリーウヰスキーはあり! ういうい、どこの倉庫から引っ張り出した? まあ、いいや。たまには国粋主義者になってやろう」
サントリーの白札を手に現場に向かう途中で警官に敬礼され木挽き台をどかすこと三度。そのたびに血生臭いものが濃く香る。
「ああ、先輩。やっと来てくれたんですね」
柴犬警視は冬次郎を見つけるなり、早速やってきて、嬉しそうにしていた。名前はもちろんちゃんとしたのがあるが、冬次郎は覚えていない。
「よっしゃ。はやく寝たいから、ちゃっちゃと終わらすぞ」
「ありがたいです」
これで警視だというのだから、驚きだ。
柴犬も昔は扱いやすいやつだった。最初から警部補で入ってきて、冬次郎の相棒になったのだが、エリートの誇り高く、ツンケンしていて、冷酷で、こんなふうにまとわりつくなんてことはしなかった。自分は冬次郎みたいな所轄とは違うのだ、と、彼をクズ扱いして、いつも距離を空けていた。冬次郎としては非常にありがたく、やりやすかったのだが、そんな柴犬が柴犬化したのは三度目に命を助けたときだったか、四度目だったか。
「柴犬。これ、経費でいける?」
「え? ダメですよ。それ、お酒じゃないですか」
「バケモノ退治に使うんだ」
「本当ですか?」
「見てりゃ分かる」
「お神酒みたいなものですか? でも、ウヰスキーって……わかりました。じゃあ、本当に使ったら、経費に計上します。それと、僕の名前は柴犬じゃなくて――」
「よし、現場に行こうや。とっとと片づけて、カーチャンとしこたまよろしくやろうや」
現場。
それは霊媒師事務所だった。
猫探し、失せ物、売卜、といった具合の商売なので、こうした商店街にも霊媒師が商売していることが多々ある。
ただ、ときどき免許も資格もなく、それどころか能力もない自称霊媒師が怪しげな壺を売る目的で商売することがある。
そういう莫迦が下げた評判を元に戻すべく、冬次郎は猫探しをするのだが、どうにも自称霊媒師が多すぎて、霊媒師全体の評判は右肩下がりだ。
インチキ霊媒師の店の表には怪異事件を解決したいくつかの賞状や額に入れられた新聞記事が飾られている。全部、ニセモノ。その八割が冬次郎が解決したものだからだ。
「泣ける。おれのファンってわけだ。死んだの何人?」
「三人です。霊媒師と客ふたり。どうやら、何かの怪異につながったものを持ち込んで、無力化しようとしたようです」
「霊媒師はニセモノだろ? なーんで、そんなことしたかなあ」
「偽を続けるうちに自分は本当にその力があるって勘違いしたんでしょう」
「阿呆だな」
店のガラスドアを開ける。
本物の店のガラスドアよりも偽物の店のガラスドアのほうがずっときれいで分厚い。
「この業界、腐ってるなァ」
「何か言いました?」
「お前、ついてくる気?」
「先輩のお酒が本当に経費に計上できるか確認したいですから」
柴犬は上着と中折れ帽を外に置いてきて、鍔をつけずに鮫皮に糸を巻いた拵えの短刀を二本、背の後ろに差している。
「多少の援護はできます」
「ほんと? 援護と言わず、主力になって、おれはグースカしたいんだけど」
「それは駄目です。いけません」
「ちょっと言ってみただけやん」
次元の歪み。
それを肌で感じる。冷たい手と温かい手で一秒違いで繰り返し撫でられるようなアヤシイ感覚。
柴犬が嗚咽をもらす。
「なあ、柴犬。これ、きついんじゃないの? 外で待っててもいいぞ」
「いえ」
インチキ霊媒師の店はつまらない。みな、内装が同じだからだ。インディアンの人形、アフリカの敷物、支那の人魚の干物。数珠でつくった幕があり、その奥にはビリケンさまによく似た像が飾ってあった。溶けた赤い蝋の上を火がチラチラ揺れる。
奥の所長室のドアを開けると、自称霊媒師と客ふたりの死体が直立不動の姿勢のまま、真っ直ぐ逆さまに浮いていた。その顔や手足がときどき渦に巻き込まれたみたいに歪む。
この世界と別の次元が非常に近い位置にある。トイレ用ペーパー一枚の差だ。
そして、その元凶が――冷蔵庫だった。
氷を入れて冷やすのではなく、電気と冷媒を使う割と高いものだ。
アメリカ製。ゼネラル・エレクトリック社。圧縮機と制御装置がキャビネットの上に露出している。氷蔵式冷蔵庫の十倍はする値段だから、怪異がよりついたくらいでは捨てたくなかったのだろう。
冬次郎は冷蔵庫の扉から二メートル離れた位置に立ち、柴犬は短刀を一本逆手持ちにし、扉の取っ手に手をかけた。
「先輩」
「オーケー、ベイビー」
冷凍庫から出てきたのは、煤っぽい、ラッキョウ型に異常に脹らんだ頭。上段に構えたサントリー白札を思いきり振り下ろし、命中させる。
耳障りな震える高音を出しながら、縦に裂けたまぶたから覗かせた目へ、瓶底の突きをぶち込み、またぶち込み、四度目で目が破れて、青く光るドロッとしたものが流れ落ち、冬次郎の足元に星空みたいな水たまりができる。
バケモノの膨らんだ頭を蹴りも使ってぶち込み、ベコベコにへこませながら、瓶で冷凍庫にぐいぐい押し込み、扉を閉める。
鬼青江を抜けば一閃だが、それではウヰスキーが経費で落ちない。
扉には二度と開かないよう、ポケットから取り出したクシャクシャの護符を封印形にして貼りつけ、
「じゃ、そういうわけで」
と、護符と同じくらいくしゃくしゃな煙草をくわえ、唖然とした柴犬警視の肩をポンと叩く。
「報酬と経費。よろしく」