十八
先ほどの学校の教室のようだが、誰もいない。
夜。提灯が四辺に連なっていて、部屋は橙の光に満ちている。
教室は窓格子でふたつに分かれ、そのうち半分は和風雑貨店のようなものになっていた。
羽子板やお面、でんでん太鼓。様々な商品が並べてあるが、商品ではない。
どの名札も『非売品』の達筆なこと。
店はものを売っての店だから、これは店と言っていいのか。演算してもいいが、無駄な過熱を招くだけの気がした。
それより意識断裂のような、この状態を説明する要素を抽出、演算、処理しなければいけない。
【キツネのお面】と【巾着袋】、それに抽出すべきは――
「おー、来たな」
「あなたは――」
冬次郎だった。紺に冬の字の白抜き前掛けに丁稚縞の綿着物姿で店のなかの高い位置にある勘定台から上背のある体を曲げて、ひょっこり顔を出している。
「生きていたんですか?」
「勝手に死なすな。ちょっと自分で自分を封印しただけだ」
「あの状況で意識があるとは考えにくいのですが」
「もちろん、ないよ。現実で、どんなことになってるのか、オイラさっぱり分かんねえや! ただ、このサキ専用幻覚が作り上げられるとき、何かがおれのプリティなおケツをちょこっとかじった。ヒェッ、ってなって、ケツをどかしたら、またかじられた。そうやって逃げ回っていたら、最終的にここに来た。人間が機械の幻覚のなかに追いやられる手法がケツをかじる嫌がらせだなんて、誰が想像できるよ。まったく長生きはするもんだよな」
「あなたがここにいる理由はわかりました。いえ、お尻をかじるなど、まだ不明要素はありますが。それで、僕はなぜここに? 見たところ、ここは僕の仮想空間とあなたの仮想空間のひずみのような場所のようですが」
「眞宮って女の子を死なせるとここに来る。本来なら、それで一発アウトでお前は永久に歪みのなか。現実世界じゃお前が賞金二万円級のバケモノになってるかもしれないが、それも分からない。そこでオイラがひと頑張りしたわけですよ」
「礼を言えと?」
「いえす」
「ありがとうございます」
「いいってことよ。まあ、男が惚れる女のためにひと肌脱いで、ふたりを見守るいぶし銀の年長者がちょいと手助けする。浪花節だよ、人生は」
「惚れる? それはどういう意味ですか?」
「どういう意味も何も……まさか、お前、いま、何も覚えていないん?」
「何って、何のことですか?」
「質問に質問で返すなって、カーちゃんに習わなかったか」
「習っていません。僕には人間でいうところの母に該当する存在はいません。それに僕が質問で返したのは、あなたの質問が要領を得ないからです。覚えていないものの何を覚えていないかが分かるわけがありません」
「まあ、そーだな。ただ、これはおれが教えるんじゃだめだな。自分で思い出せ」
「はあ。とにかく、僕はあの眞宮という少女を死なせずにテロリストを制圧するしか、この仮想空間を脱出する方法はないんですね」
「飲み込みがはやくて助かる」
「ところで、僕は眞宮という女子が死んだ場面を見ていません」
「おれが見せないようにしてる」
「なぜですか?」
「おれなりの気遣い。とはいっても、この歪みは完全にやつの歪みだ。どこまで気遣いできるかは微妙だ。まあ、気遣いってのは、そもそも無限じゃない。あんまり過ぎると、テメーいい加減にしろって――」
「事情は分かりました。僕を元の仮想空間に戻してください」
「その前にプレゼントがある。店のなかのものを何でもひとつだけ持っていっていいぞ」
「この非売品ですか?」
「うい、むしゅー」
店内を見てみる。山中鹿之助の凧がひょっとこのお面を睨み落とし、ひょっとこはにおい袋に口を尖らせ、におい袋は薄荷のにおいを立ち上らせて、山中鹿之助にくしゃみをさせようとしている。
それら全てが非売品である。
他には筆と硯、丸く縮めた火縄銃の根付、安い松の箱にひとつずつ仕切りに収めたオランダ青玉、横にした壺からは銅の小魚が豪快にこぼれている。
拾ってみると、鱗まで細かく刻みがあり、目には磨いた小石がハメてある。細工は丁寧だが、手のひらに完全に隠れてしまうくらい小さい。
「おっ、お客さん。そいつが気に入ったのかい? それは赤銅コハダだ。それを放り投げると、音がして、敵がそっちに引き寄せられる。このコハダを見てくれよ。なかなかの出来だろう? これを見た人間は思わず拾わずにはいられない。そうやってできた隙をどうするかはお前次第。じゃあ、また、学校に戻ってもらおうか」
気づけば、サキはアロサウルスの下顎を背負って、廊下に立っていた。
昼。空は青い。
サキはアロサウルスをゆっくり降ろして、ロッカーの陰に隠れた。
彼の思った通り、目出し帽のテロリストたちが教室に乱入する。今回は三人だ。
赤銅コハダを放り投げると、細くも響くチリンという音がして、テロリストたちが三人出てきた。
「なんだ、これ」
「おい、おれにも見せろ」
「おれが先だぞ!」
先ほどの失敗を計算に入れ、拾った小魚を争うように見ているテロリストたちへ影のように走る。
簡単に終わった。中央に立つテロリストの首をまわし蹴りで折ると、テロリストは機関短銃を乱射しながら回転して倒れ、それで他のふたりも胸を一文字に弾痕を残して息絶えた。
これでこの空間から出られると思ったが、その気配がない。
教室に戻ると、さっきの銃声で避難訓練のように皆が机の下に潜り込んでいた。
「大丈夫です。障害は排除しました」
クラスメートと現文教師はまるでサキのことを初めて見た危険な隕石みたいにしげしげと見る。
ただ、ひとり、例の眞宮さんだけは優しく微笑んでいた。
それを見ると、よく分からないなにかが、サキの演算装置を過熱状態に持ち込もうとしている。
(いったい、なんだ。これは――あ)
西棟の屋上で光った。
狙撃銃のスコープの反射。
銃声と着弾のわずかなあいだに、サキはまたもや冬次郎の店に戻っていた。
「おかえり。コハダ、役に立った?」
「ええ。ですが、狙撃手がいたとはきいていません」
「もっといろいろいる。簡単なことじゃないんだ。まあ、死んで覚えていくしかない。死ぬのは眞宮さんだけど」
ズキッ。
「ウ……」
「なんだ?」
「いえ。何でもありません。胸部でギヤ調整があっただけです。ところで、今回、何がもらえるのですか? はやく任務を完遂して主要任務に戻りたいんです」
「じゃあ、このキツネのお面はどうだ? これをつけてると、十二秒だけ姿が透明になって、敵に見つからなくなる」
「なぜ、十二秒なんですか? 出力に制限でも?」
「干支だよ」
「干支にキツネはいませんよ」
「え? でも、親父もおふくろも、おれはキツネ年だって言ってたぞ。ねー、うし、とら、うー、たつ、みー、うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、い。――あれ? キツネはどこだ? え? マジ?」
「もう僕は行きます」
「これで何回目だ?」
「114567回目です」
「おれはここでの記憶は飛ぶけど、お前の時間はそのままらしいぜ? 現実では一秒も進んでないけど、ここでの三〇二九九時間はそのまま体感で加算される。しんどくね?」
「もともと僕は機械です。整備すれば、人よりもはるかに長い期間、活動できます」
「そいつぁ、辛いな」
「辛い?」
「なんでもない。さて、ここはいよいよ取って置きを出すしかないが、その前にひとつききたいんだが、そもそも何で祠を潰すんだ?」
「任務だからです」
「任務って誰の?」
「それは」
分からなかった。誰の任務? 誰のために?
そもそも特別な誰かの任務でなければいけない理由が、機体の僕にあるのか?
パンッ!
冬次郎が手を叩く。
「まあ、それはおいおい考えればいいとして」
「あなたからきいてきたんでしょう」
「そうだっけ。それより、次の売り物だけど――」
「もう期待はしていませんよ」
「いや。おれもお前がこんなに手こずるとは思ってなかったからさ。次はマジでいけるものをあげよう。それもふたつだ。ひとつはこの『謎の転校生』」
と、言いながら、冬次郎が首根っこをつかんで持ち上げたのは柴犬警視だった。
「ひとりぼっちの孤独な戦いに仲間ができるぞ。やったね、サキちゃん!」
「待ってください。先輩っ」
吊り下げられたまま、柴犬警視がジタバタする。
「ん? どうした?」
「僕は機体のお守りなんてごめんです。いくら、先輩のお願いでも――」
すると、冬次郎は柴犬の顔をしっかり両手で挟んで、柴犬警視の眼を見つめ、夏海原の声優おっかけをしている人たちのあいだで〈イケボ〉と呼ばれる声で、こう言った。
「頼む、斯波。お前だけが頼りだ」
柴犬警視こと斯波戌亥警視は両手で顔を挟まれて、むぎゅっ、な顔のまま、
「わかりました、先輩! 命にかえて、お守りいたします!」
騎兵隊の突撃ラッパがきこえそうなくらい、見事な敬礼で返した。
「それで」と、サキ。「もうひとつは携帯武装ですか?」
「いや。これだ」
そう言って、冬次郎はこれまで前掛けに隠れて見えていなかった落とし差しの鬼青江を褒美でも与えるように渡した。
「僕はナイフは扱えますが、太刀は使えません」
「別に振るばかりが能じゃない。槍みたいに投げるのもありだぞ。じゃあ、時間だ。しっかりやれよ」




