十五
「先輩! 水臭いじゃないですか。ガサ入れに参加したいなら参加したいと言ってくれればよかったのに!」
「あー、うるさい、うるさい」
徳松園の吹き抜け広場は大混乱だ。
トクアツがまともなヤクザに手錠をはめ、副市長たち面々は業務に必要な視察だったとクルクルパーなことを言い、そして、今回の手入れの第一目標だった采田登は全ての混乱の中心で死んだ肉団子になっている。
「じゃあ、これも歪みのバケモノの一種なんですか?」
「間違いない。斬ったら、覚えのある感覚に見舞われた」
「二十四時間寝られなくなるものですね」
「参っちゃうよなあぁ――、あ」
「どうかしましたか、先輩」
「罠にもろにかかった」
それから冬次郎はポケットから取り出したくしゃくしゃのお札を自分に貼りつけまくった。鬼青江と利き腕には念入りに貼った。先ほどの戦いで彼らには謀反の兆しがあったのだ。
どれだけポケットが大きいのか疑いたくなるほどの護符を自分に貼り、お札人間、人間梵字辞典と化した冬次郎は目を見開いたまま、細かく震え、ブブブとしか言わなくなった。
その有様を見た、柴犬は少し背伸びをして、冬次郎の、ぼんやりとした千里眼を見つめて、判じた。
「ああ、怪異が仕込まれている。先輩じゃなければ、とっくに発症していた。敵の目的はきみたちに加勢した先輩を歪みにさらすことだった。おそらく鬼青江の刀身と通じて、采田の怪異を送り込んだんだ。普段の先輩ならこんなことになる前に撤退するのに」
そう言いつつ、柴犬がサナを振り返る。
「わたしのせいです」
「いえ。僕のせいです。僕が単機で行くべきでした」
「そんなことより、先輩を助ける。責任を感じているなら、手伝ってくれ。――末傘警部ッ」
柴犬警視よりも年配の、ツバのくたびれた帽子の刑事がやってきた。
「なんですか、警視?」
「これから僕は先輩を救出するために離れる。ここを指揮しておくように」
「それはまずいんじゃ?」
「今回の手入れに巻き込まれた民間人を救出する。立派な職務だ」
「民間人って雪津のことですか? 上の連中は納得しないと思いますが」
「僕の知ったことではない。馘にしたければすればいい」
末傘警部はちらりと冬次郎を見て、言った。
「こうなると、――連れていくのはカンノジですか?」
「それ以外、どこにある? ここは任せた。ふたりはついてきたまえ」
冬次郎が安眠枕の次に大切なニュー・クロガネの三つ隣にパッカードが停まっていた。
「さあ、乗りたまえ」
市の西へと向かう。
有料道路への合流の仕方、そのアクセルペダルへの遠慮ない踏み方で、冬次郎と違い、普段から有料道路を使い倒しているのが分かる。
いま、冬次郎は助手席で、ブブブと呻るお札人間として、お行儀よく座っている。
「先輩。大丈夫ですよ。この僕がついています。必ず先輩を助け出してみせますからね」
サナは西へ行くにつれて、ぞくりと背に冷たいものを感じ、柴犬警視にたずねた。
「あの、カンノジ地区とは?」
「きいたことがないのは無理もない。あれはこの世にあるものじゃない。きみの言うところの、深域だが、僕は先輩の例にならって、歪みと呼ぶ。歪みにはある種の霊的なものが集まった上で、こちらの世界から安定してつながった場所がある。それがカンノジ地区だ。危険じゃないかなんて馬鹿なことは質問しないでくれ。僕は警察官である前に霊媒師だ。危険は承知だし、それに対応する力を持っている。あ、でも、先輩ほどではありませんよ。先輩のほうがずっと強いですからね。そうですからね」
サナは、ふむ、と考えた。
冬次郎に対しては柴犬、それ以外には孤高の狼。
サナがサキの耳元でささやく。
「なんだか、柴犬さん。サキに似てます」
「僕が? いったいどこがです?」
藍色のパッカードは有料高架道路を降りた。
そのとき、料金所の係員がキツネの面をつけていて、柴犬警視は料金の代わりに、キザなへその緒でも入れておくような赤大名縞の小箱を渡した。
パッカードは二列に並んだ丹塗りの行灯のあいだを走り、そのうち、トントンと小太鼓の音、シャラシャラと鈴の音がして、仮面をつけた古人が昼寝の夢のように、マボッとあらわれ始めた。
風を梳る松の葉のにおいがする。
七月が遠のいた肌触りのよい涼しさ。
いくつも川を越え、数百間はありそうな築地塀があらわれた。
どうやら小さな寺内町を囲んでいるらしい。
その赤い唐門を車ごとくぐり、道際には赤い傘を差した奇妙な屋台が続く。
笊からあふれんばかりの飛車の駒。仏蘭西料理のメニューが描かれた扇子が罠にかかった山鳩たちのように木組みにかかっている。黒漆の皿の上では細かい化石は金平糖のように着飾っていた。
売り手は静かな仮面の細い女性であり、何かきいてもこたえてはくれないだろう。
「もともと、彼女たちに用はない」
「ブブブ」
パッカードは大きな屋敷の東側に開けた門で一時停止した。
牛車が何両も止まっていて、水干の下に鎧胴をつけた侍衆たちが弓を携え、主人を待っている。牛は外され、どこかで草を食んでいた。
柴犬警視はパッカードを摂政や関白が使う雨眉車の隣に停めた。
そのまま、ブブブと唸っている冬次郎を連れて、門をくぐり、侍廊から入れ!と道を塞ごうとする下人を引っぱたいてどかし、中門から闘鶏の真っ最中な南庭をずかずか歩き、寝殿の主の前でようやくその侵略的な歩みを止めた。
「ほう。検非違使風情が大胆な」
繧繝縁の畳の上で流木で拵えた肘置きに姿勢を崩す少女が扇子をいじりながら、柴犬警視を見て、それからサナとサキへと流す。
「それも傀儡と小娘をまぬくとは」
「先輩の危機だ。力を貸せ」
「まったく。――まあ、よい。闘鶏にも飽きたところだ」
パン、と手を打つと、七色の帷が畳まれ、楽士は引き上げ、鶏たちは青い竹の籠に放り込まれて運び去られた。
「それで、その冬次郎だが」
「ブブブ」
「もとから物分かりはよいやつだったが、さらによくなったらしいな」
「ふざけないでくれ」
「検非違使」
「せめて陰陽師と呼べ」
「陰陽師と呼ぶには、考えが初心過ぎる。怪異にさらされて、自分を護符塗れにした冬次郎を、このわしが助けてやると信じているのだからな」
「条件はなんだ?」
「検非違使風情がわしに何かくれてやれるとは思わんがのう?」
「そうか。時間を無駄にした」
帰ろうとし、背を向ける柴犬。少女は人差し指を少し動かすと、庭の砂が蠢いて、柴犬は意思に反して、また少女と向かい合った。
少女はふんわりと大きすぎる紫の直衣のなかで体を震わせて笑った。
「検非違使。お前はせっかちでいけない。わしはいつだって、お前たち人間に慈悲深くあった」
「冗談を」
「実はひとつ、気にかけなければならぬことがある。わしが解決しなければいけないが、わしはこの通り、ここを動きたくない。大臣のために検非違使が働く。これぞ、徳政。そうではないか?」
「望みは?」
「そう急くな。のう、検非違使。先ほどの闘鶏に足りぬものを感じなんだか?」
「はやく条件を言え」
「いいから、こたえることだ」
「……楽に鼓がなかった」
少女はクックックと笑った。
「人間にはもったいない勘の良さよ。そう、我が家宝、〈舞砂〉が盗まれた。それもこれも人間がモノのあるべき姿をゆがめようとしたせいよ」
「歪みのことだな?」
「そっちのものたちは深域と呼んでいるな、まあ、それも近い。お前たち人間がわけの分からぬ祠をつくり、理を歪めた。その影響がここにも出たのだ。我が屋敷で最も下らぬ男がその理の歪みで大した物の怪に姿を変えた。そして、宿直を斬って、〈舞砂〉を盗み、しかも、〈舞砂〉を人間どもの世界へと持ち逃げした。一度打てば砂まで踊る。その音色の雅なこと他にない。〈舞砂〉が穢れる前に取り戻せば、冬次郎を助けてやろう。冬次郎はここに置いておくか?」
「冗談じゃない。先輩、僕は置いていったりしませんからね」
「のう、検非違使。案外、冬次郎はこのままでいることを望んでいるのかもしれんぞ」
「馬鹿な」
「この奇妙なつぶやきの隙間に入る息の使い方。これは寝息ぞ」
「だまれ」
「まったく。こちらは好意で言ったのだがな。まあ、よい。それならば、あの風雅のない牛無し車を走らせて、人間の世界に戻るがいい。鼓を忘れるではないぞ」




