序
衝和23年6月3日 木曜日 午後五時半
切れた古い堤から流れ込んだ水が小さな池を作っていた。
その池には沈み残された小さな島があり、静かな水が葦の茎を洗っている。
「そうか。やはり、あれはただの祠じゃなかったわけだ」
作家が言った。年齢は四十代。古い考え方をするらしく、初夏に三つ揃えの背広、六十年前の流行香る八の字の大髭。帽子を団扇代わりにして顔を扇いでいる。
作家が案内しているのは、少年と少女だ。
少女は髪を肩くらいで切って、ゲートル巻きの革靴にブルーマー女史ズボン、最近、見られる活発女子風のファッションだが、活発女子に見られる楽観性は顔に見られない。ひどく浮かない顔をしていた。
少年のほうは古代の戦士を思い起こさせる凛とした表情で、大きなトランクのようなものを下げている。トランクの取っ手の位置が中央からずれていて、不自然な位置についた蝶番、ゼンマイと直結しているらしい丸いプレート、そして、異常な重量だが、それを少年は片手で持っている。手袋と細い袖に隠れた左腕には明らかに人外の措置が施されているはずだった。
作家が楽しそうに続けた。
「七年前、僕はね、ここに死にに来たんだ。作家として、僕は終わっている。時代遅れだ。才能が枯渇した。そう思って、入水に来たところで、あの祠を見つけた。あの祠を見ていると、そして、触れていると、インスピレヱシヨンがあらわれるんだ。はっきりした形、原稿用紙でね」
そう嬉しそうに話す作家を、少女は悲しそうに見つめていた。致命的な欠陥がある航空機が空へ飛んでいってしまったような。
作家が自分でつくった、小さな木道が池の水面を上から割っていた。
「気をつけたまえ。少し腐っている」
ギシギシと骨の軋みのような音を鳴らしながら、池の上を渡っていく。
池には一匹のメダカも金魚藻もなく、異常なまでに澄み切った水の底に生首のような石がごろごろと転がっている。
島は本当に小さな島だった。一周しても一分かからない。
「ほら。これがそうだ」
小さな松の下の、真新しいケヤキ材でつくられた小さな祠。屋根には薄く叩き伸ばした銅を葺いていた。
「この扉、開けてみないかね?」
扉というのはニ十センチ四方の金属でできたものだ。だが、これは銅ではない。その光沢は見る位置を変えていないのにぐらぐらと歪んでいた。
「あなたは、この祠が本当は何なのか、ご存知なんじゃないですか?」
少女が言った。
作家は顔をクシャっと歪めて、うなずいた。
「まだ、間に合います。引き返せるんです」
作家は笑い始めた。
「これ以上、それに自分を与えないでください」
作家はゲラゲラ笑い始めた。
「お願いします」
「ゲラゲラ。ゲラゲラ。ゲラゲラ」
時間が歪んだ。作家の現在の姿が、一秒前の姿、二秒前の姿、三秒前の姿と融合していた。
「博士。下がってください」
少年は紫色に肥大化した作家の拳と少女のあいだに我が身を入れた。
トランクで拳を受け、少年が吹っ飛びかける。少年の踵が枯れて積もった葦に釘を打ったように刺さった。
「粛清機能、発動。障害を制圧します」
大型トランクが、カチカチカチとゼンマイの音を鳴らし、数瞬後に巨大な小銃に姿を変える。
発射された直く、まばゆい火焔が、溶け合った四秒の頭たちを貫き、その後ろの、祠の、歪んだ光沢を焼き尽くした。
煤と化した祠に溶けてかぶさる金属を見て、少年が確認をする。
「粛清完了。対象は破壊されました……博士?」
少女はかつて作家だったもののそばに立っていた。
四つの時間をまたいだ歪な存在は頭の上半分を失い、その他は肉体だけでなく、着ているものまでが歪んで溶け合っている。
「助けることが、できませんでした……ごめんなさい」
「ゲラゲラゲラ!」
作家が立ち上がり、跳ねあがる。
振り下ろされる拳が少女の頭蓋を砕こうとし、少女は咄嗟に目を閉じた。
まぶたを開けると、少年の横顔が目の前にあった。
少女とのあいだに入って、銃で拳を受けとめ、
「ご無事ですか、博士?」
「……はい」
少年はホッとし、すぐ表情を戦士の凛としたものに切り替え、敵性障害物に目を向ける。
かつて作家だった砂の山。砂時計に使うような細かい砂は風に撫でられ、舞い上がり、虚空に消えた。