悪性遺伝子病
「おい、君、やめないか。迷惑だ」
突きさすような視線と、棘を含んだ声音。誰かを攻撃し気持ちよくなりたいもの特有の声。良哉はゆっくりと振り返る。
声の主――七三分けに銀縁眼鏡の、くたびれたサラリーマン。緩んだスーツや跳ねた毛髪、かさついた肌――の随所が、日常生活に疲れていることを訴えている。
五秒遅れて男の言っている意味を理解する。注意の理由――良哉の吸っている煙草。商店街の角。ベンチ。禁煙では無い――が、大勢が集まる場で吸うのは好ましくない。周りの人間も憤りを隠そうともしない。殺人犯を目の前にした裁判官のような表情で、良哉の方を見据えてくる。裁判官の目――自分が目の前の罪人に対する審判をするのだという、傲慢極まりない態度の表れ。既視感に眩暈を覚える。
間違ってはいない――良哉はひとりごちる。おれは人殺しだ。妹を殺した。だが、奴らはそれを知らない――知るわけがない。生意気なサラリーマン――くそくらえ。
「ふざけんじゃねえぞ、ああ⁉ おっさん、何か文句あんのかよ⁉」
良哉は凄んだ。男が脱兎のごとく駆け出す。周りの奴らは見てみぬふりをする。良哉は舌打ちを残す。くだらない奴――そう思う。ビビるくらいなら、最初から注意などしなければいいのだ。自分を風紀委員か何かと勘違いしている傲慢な人間。世の中はそんな奴らで溢れている。
いつの間にか、人込みはまばらになっていた――大多数が散っていた。安全圏から石を投げることしかできない臆病者。他人に便乗するしかできない卑怯者。世の中はそんな奴の寄せ集めでできている。ドミノ倒しだ。個々の意思が薄弱なため、一人が倒れるとすべて倒れる。それぞれで支え合って倒壊を食い止めるという思考は、今の現代社会から消え失せた。嘘の書き込みに惑わされ瞬く間にそれが真実として出回る社会――ドミノ倒しと言わずに何と言おうか?
注意してくれる人はあなたのために注意してくれているんだ――したり顔で大人どもは言う。でたらめだ。気に入らない人間を叱ることで、自分が優越感に浸りたいだけの話。自分の価値観しか認めない――ガキも大人もみんなそうだ。
人ごみを無視して歩く――商店街を外れる。人がほとんどいなくなっている。騒ぎも聞こえなくなる。一連の流れを見ていたのか、スマートフォンをいじっている中年女性が、良哉に冷たい視線を向けてくる。良哉が目線を合わせると顔を引きつらせ横を向く。
「おまえらにおれのなにがわかるっていうんだ?」
小声で呟く。誰にともなく。呟きは歪みを帯びている。歪み――良哉の人生そのもの。親父が歪めた。良哉自身が歪めた。
少年院から娑婆に出て三日――あてもなくぶらついているだけの毎日。友達はいない。頼れる大人もいない。親戚連中は面会にはこなかった――縁を切られた。妹殺害の罪で少年院行き――五年、食らい込んだ。少年院――クソみたいなところだった。やる気のない抗議。きついだけの無駄な肉体労働。極めつけはろくでなしが更生するわけないと見下しきった教官の態度。心を入れ換える奴なんているわけがない。ほとんどの奴らが、入る前より性根を腐らせて出ていった。希望のない世の中――少年院の奴らに耐えられるわけがない。再犯し再び戻るやつらもいるだろう。
そんな奴らをおれは少年院で他人事のように眺めていた。
耐えられないことがあったらいつでも相談しなさい――大人どもは言う。したり顔で。クソ食らえだった。確かに、大人は相談を聞くだろう――見下した態度付きで。悲劇の少年に手を差し伸べる自分に酔う――あくまでも上から目線を崩さない。悲劇の少年に手を差し伸べる自分に酔う。うんざりする。彼らを気持ちよくさせてやる義理はない。うんざりする。彼らを気持ちよくさせてやる義理はない。
――君より不幸な人はいくらでもいる。紛争地域の子供達なんかがそうだ。
――世の中で生きていくのは大変かもしれないが、それは仕方がないことなんだ。不幸を言い訳にしてはいけない。厄災は自分自身の行いによって引き起こされている。
ある大人は第三者を用いて不満を翻意させようとする。自分自身が向き合おうとはしない。自分は何も困っていないから、気に入らない相手に我慢を強いらせたいだけ。またある大人は的外れなアドバイスをし、綺麗事を言いながらも結局は責める方向に持っていく。誰も彼も、鮫と同じだ。血の匂い――弱みを見つければ好奇を張りつけ近寄ってくる。親切顔で接してきながら、心を土足で踏み荒らす。人を傷つけ自分自身は安全圏に置いておく。結局は己が気持ちよくなりたいだけだ。クズが当然のように横行する世の中――弱者が閉塞するのも当たり前だ。
責任は弱者にのみ求められる。
石を蹴った――軽く。かつん――甲高い音がして石が飛ぶ。幼い頃も、通学路で道端の意思を蹴っていた。小学生の頃もこうして遊んでいたものだ。たまたま蹴った石が走っている車のタイヤに命中した。良哉すげーと言われ、上機嫌になっていたおれ。僅かにある、小学校時代の思い出。今は年少帰り。目を細めた――涙は出なかった。良哉は石ころを凝視する。世の中の輪からはぶれたおれ――
石を蹴り続けた――楽しくはなかった。今はそれしかすることがないから、しているだけ。石を蹴る――かつん。かつん――音が響く。立て続けに蹴る。石ころはされるがままだ。目には見えない――しかし確実に擦り減っていく。おれと同じだ――良哉は思う。誰かに助けを求めることもない。何かに縋ることもない。なのに、確実に蝕まれていく。心が壊れていく。
世の中の誰もがそれを気に留めない――気づかない。肥大化したエゴ同士が衝突する社会――誰かを気遣う余裕などない。良哉自身、そんな気力は失ってしまった。
どうでもいいじゃないか――石ころが言う。お前もそうなのか?――呟く。どうせおれたちはこの世界からすればどうでもいい存在なのさ。
政治家の汚職、タレントの自殺、芸人の結婚、五輪は開催できるか否か――世の中が映し出すニュース。全てが耳を素通りする。全ては虚構だ。おれにとっては何の関係もない――良哉は呟いた。
奴らにとってもおれの人生は関係ない。それだけのこと。
馬鹿げた空想を断ち切る。己がその程度の存在だということもわかっているし、周りに特別扱いされたいわけでもない。良哉は歩きだした。当てはない。十八歳の良哉――高校には行けなかった。少年院で過ごしたからだ。中学校すら卒業していない、少年院から出所したばかりのおれ。どうしたらいいのかわからない。
石ころ程度の存在――だが、そんなおれでも、倦んだ記憶を呪いながら生きている。榊原良哉――道行くものに、おれの名前を知っているものはいない。おれも道行く者の名を知らない。人生でたくさんの人間を目にするのに、ほとんどの人間は互いを知らずに消し合っていく。石ころのように。そんなことを考えてどうする――おれらしくもない。良哉は自嘲する。もっとも、自分には接する人間すらもいない。密接にかかわっていたのは親父、妹だけ。友達はできたこともない――作ろうと思ったこともない。互いが互いを石ころ程度としか思わない人間社会――あたりまえのことだ。が、割り切ることができない。心のしこりを取りたくてたまらない自分が、ここにいる。
全ては良哉と家族のせいで壊れてしまった。
「ちくしょう」
呟いて足を上げた。蹴ろうと思った石ころはどこかに消えていた。
おれがこんな風になってしまったのは親父と母のせいだ――良哉は嘯いた。もともと横柄な男ではあった。それでも、母がいなくなる前までは仕事と子育てをしていた。母は由紀子が二歳の時いなくなった。ある日親父とものすごい口論をして飛び出した――そのときのことは子供心に深く脳裏に刻まれていた。母は親父を愛していなかった。親父に対しての態度を見ているとそうとしか思えなかった。それはおれと由紀子に対しても同じだった。母は己を飾り立てることにしか興味がなさそうだった。いつも高そうなネックレスをや指輪を買っていた。おもちゃなど、一度も与えられた経験がなかった。
――お母さん、見てよ。テストで満点取ったよ。
――そんなことより、見てよこのルージュ。似合ってるでしょ?
描いた絵が美術館に期間限定で掲示してもらえることになった。良哉は必死に母にアピールした――無駄だった。母は自分のことばかり。由紀子が生まれるまで一人だったおれは、寂しさを押し隠した。学校でいくら褒められても、母は無関心。満たされなかった。そのうち頑張るのも、母に自慢するのもやめた。
授業参観、運動会――どこにでも見られる、家族間のやり取り。良哉が経験することはなかった。父母どちらも一度も来ることはなかったからだ。飲んだくれの親父に、そこまで気が回るはずもなかった。息子など存在していないかのように酒をあおり、酔っ払った挙句、くだを巻く。息子など存在していないかのように、装飾品を買いあさる。こんな大人にはなりたくない――そう思った。父を憎んだ、母を恨んだ――どうしようもなかった。
由紀子が生まれてからもそれは変わらなかった。
良哉のたった一つの自慢は妹の由紀子だった。兄心と懐かしさからくるものなのかもしれないが、かわいい妹だったことを覚えている。特別顔立ちが整っているわけではなかったが、いたるところが丸かった。可愛くて、愛おしかった。由紀子は、良哉の行くところにいつもついてきた。シャツの裾を引っ張って、てくてくと並んで歩いた。兄に懐く幼いさまは心地よかった。幼子特有のぷにぷにとした指を良哉は良く触っていた。撫でてやると顔をくしゃくしゃにして笑った。
母がいなくなってから、親父は良哉と由紀子に対して冷たくなった。特に、由紀子に対しては露骨だった。妹を口汚く罵ることが増えた。
まだ幼稚園にも行っていない由紀子の遊び相手はいつも良哉だった。
ある日親父が不機嫌さを隠そうともせず家に帰ってきた。仕事で失敗したらしかった。良哉と遊んでいる由紀子を、いきなり怒鳴りつけた。
――自分だけ楽しやがって!
なぜ妹が怒鳴られるかはわからなかった。仕事が理由とは思えず、良哉は親父を詰問した。酒に酔った親父は悔し気にしゃべりだした。母の家出先――相手がわかったらしかった。おれの予想は当たっていた。相手の顔はわからない――芸能事務所の社長という職業だけは伝えられた。それ以外のことは喋ろうとしなかった。母に会おうとしたが、手ひどく追い返されて何も出来なかった――親父は口惜しげにビールの缶を握りつぶしながらまくし立てた。
その日を境に、親父は由紀子を怒鳴るようになった。
良哉にとっての母の記憶は苦痛を伴うものしか浮かばなかった。愛情を受けた記憶などなかった。小学校で書かされる、家族にお礼を伝える作文。何も書くことがなかった。思ってもいない内容の作文を書き、先生に提出した。母には渡さず、捨てた。
親父は相手の職業を知っているにも関わらず、あれ以降母を取り戻そうとした気配がなかった。性格はともかく、母は美人の部類だった。親父には自分がみすぼらしく、釣り合わないことが分かっていた。傲慢で暴力的だが、自分のことを親父は理解していた。だから、弱い良哉と由紀子に当たり散らした。特に母の面影を残している妹に対する当たりはきつかった。妹が泣く度怒鳴った。由紀子は丸い顔を強張らせ、良哉の後ろに張り付いていた。親父は料理ができたが、妹だけには粗悪なものしか渡さなかった。親父に内緒でおれは由紀子に自分のご飯を半分あげていた。半分しか食べられないというのに、由紀子はうれしそうだった。おれといるとき、由紀子は笑みを絶やさなかった。愛おしい気持ちに良哉も包まれていた。貧乏で乱暴な親父がいる家庭――それでも、由紀子がいたから幸せだった。由紀子といる時間は特別なものだった。
ある日、それが親父にばれた。由紀子の口に食べかすが付いていたからだった。
――クソガキ、何いっちょ前にもの食ってるんだ⁉
由紀子が泣いた。父の顔が歪んだ――張り手が飛んだ。由紀子が転がった。白くて柔らかい由紀子の頬はすぐに腫れた。幼子の未熟な体に親父の張り手は拷問に等しかった。躾の域をはるかに超えていた――しかも、理由が理由といえるものではなかった。親父の手は太く、節くれだっていた。憎悪の込められた打擲はたやすく由紀子を傷付けた。肉体的な意味合いだけではないはずだった。食べかすがついている幼子――柔肌に触れる温かい両親の掌。本来なら、優しく包んでくれるはずだった。無償の愛を受ける権利が由紀子にはあるはずだった。間違っても、咎められるようないわれはないはずだった。
――何で由紀子にそんなことすんだよ⁉ 父さんと母さんのせいだろう⁉ 由紀子が何したって言うんだよ!
良哉は食って掛かった。親父はビール瓶を振り上げた。頭上にガツン、という衝撃。頭の中が白くなった。視界が霞んだ。前につんのめっていた。身体中が痺れて動けないところを、滅多打ちにされた。ぼやける視界――足を掴んだ。ビール瓶の破片が突き刺さった。良哉の身体は貧弱だった。親父に敵うはずがなかった。
――ムカつくんだよっ。泣いたら特にな! 自分はおれらを捨てたくせに、被害者みたいな顔して暮らしてる。こいつはあの女の血を引いてる。きっと同じことをするに決まってんだろうが‼
親父は完全に由紀子と母を同一視していた――常軌を逸していた。
――ざけんなよ⁉ 勝手すぎんだろ。由紀子がかわいそうじゃねえか⁉
良哉は血を垂らしながら親父に食って掛かった。暴力のせいで体が怠かった。全身が焼けるような痛みを訴えていた。いつもならすぐ暴力をふるう親父のことは避けていた――が、無意識に立ち上がっていた。それだけ親父の発言は許しがたいものだった。
――うるせえ! ガキは黙ってろよ‼
親父の足――浮き上がる。一瞬、息が止まった――かすれ声を良哉は上げた。あっけなく倒れた。親父が仁王立ちし、良哉の首を踏みつける。濁った悲鳴。また、かすれ声を出した――声にならなかった。手足が空を切る――なおも親父は良哉を踏みにじる。蹴りが止まる――顔を上げる。親父の憤怒に塗りたくられた顔。見えたのは一瞬だった。顎を思いきり蹴り上げられた。激痛。何も考えられなかった。転げまわった。床に滴る深紅の液体――鮮血。鼻に触れた――違和感があった。触っているはずなのに感触が感じられない。血で滑る指。
――やめて、やめてよ。
由紀子が泣きながら親父に縋りつく。やめろ、親父に殴られるぞ――声にならなかった。身体を自分の意思で動かせなかった。親父が腕を振りかぶる――由紀子の腹を叩く。由紀子は蹲って震えていた。泣くこともできない痛み――目を閉じた。由紀子が嬲られるのは見たくなかった。助けられなかった――なお身体が動かなかった。親父に殴られたせいだった。親父に殴られるのを恐れていたせいだった。さらに殴られたら死んでしまう――そう思った。
お父さん――由紀子は親父をそう呼んだことがなかった。自分に愛が向けられていないのが分かっていたからだ。物事の分別がつかない年齢でもわかる親父の冷たさ。胸が痛んだ。かわいそうだった。本当なら父と母に囲まれて微笑んでいるのがあるべき姿だった。母――良哉と由紀子を見捨てて逃げた。父――良哉と由紀子に暴力を振るう。最低だった。親としての義務なんて何一つなしていなかった。運命を呪った。二人への憎悪が募った。
それから親父の由紀子への暴力は連日に渡った。
――死んじまえ、クソガキ‼
――やめろよ!
親父の暴力は容赦なかった。良哉は親父に背中から掴みかかった。妹が目の前で傷だらけになっていくのは耐えられなかった。息が詰まった。首をつかまれていた。増す握力。足をばたつかせた。息を吸おうとした――必死で。腕を離された。良哉は床に転がった。荒い息を吐いた。電球が霞んだ――親父の足が良哉の腹に突き刺さった。息を吸おうとしていた身体の動作――蹴りによって圧迫された。うまく息が吸えなかった。
――やめて、おにいちゃん、助けて。
由紀子は助けを求めていた――唯一頼れる兄に。良哉――痙攣することしかできなかった。親父――由紀子を踏みつけにしていた。濁音交じりの悲鳴。耳をふさいだ。これ以上由紀子の悲鳴を聞いていればどうにかなりそうだった。親父の暴力――圧倒的だった。恐れていた。どうすることもできず、ただ震えているだけだった。
気が付けば顔を晴らした由紀子が倒れていた。親父は出かけたらしかった。足の腫れは青くなっていた。こんな小さい体を――良哉はそっと抱え上げた。口に血が付いていた――唇が切れていた。由紀子の丸いおでこを撫でているしかできなかった。
――おにいちゃん、だいじょうぶ?
小さな声で由紀子が言った。薄く開かれた目には涙が浮かんでいた。
良哉は泣いた。由紀子を抱いて泣き崩れることしかできなかった。
「どうでもいいだろう、クソが」
小さく舌打ちをする。
「嫌な子。最近の若い子ってあんなのが普通になってるわね」
声の主――薄緑の服を着た中年女がこちらに軽蔑の視線を向けてくる。普通の生活、一般市民。良哉――薄汚れた前科者。見下されている――頭に血が上る。体の中で何かがうねる。流れ出す。
最近の若い子ってあんなのばかり――何よりその言葉が突き刺さる。神経を抉られているかのように頭が痛む。
おれは普通じゃ無い。最近のガキですらない。家では殴られ、学校では馬鹿にされ――いつでも惨めな思いをして、苦しくて。当たり前の人生すら失った。由紀子から奪った。普通すら得られなかった。耐えられない。中年女の容易い言葉に耐えられない。浴びせられた言葉を噛み砕く――眩暈がする。立ちくらみが襲う――堪え、奥歯を噛みしめる。無意識に身体が動いていた。
「うるせえよ、あ?」
中年女に詰め寄る。中年女の顔が引きつる。
「何が言いてえんだ? すぐ切れるガキって侮ってんのか⁉ ろくなガキじゃねえって馬鹿にしてんのか⁉ 出来損ないだからって舐めんなよ」
本当の言葉は出てこない――形にならない。怒りだけが噴出する。
「何言ってんのよ、何も言ってないわよ。被害妄想はやめてよ」
中年女――腰が引けている。侮蔑のいろは消えない。自分が窮地に陥ってもどこまでも他人事。良哉に理解を示さない。良哉を断罪しようとする。当たり前のこと――それすら腹立たしい。
「おれは聞いたぞ。最近のガキはクソだって。おれを見て言っただろ。聞いたぞ‼」
「だから、それは――そんな怒ることないじゃない」
中年女の顔が更に歪む――今にも泣き出しそうな顔に変化する。暴力を振るわれた由紀子の顔が重なる。最近の若い子――無責任な他人が行う、勝手な同一化。おまえになにがわかる、何でたやすくそんなことが言える⁉
「てめえ、殺すぞ‼」
ポケットに手を入れる――冷たいものが触れる。コンビニで買った折りたたみナイフ。振り上げ――ようとしてやめる。中年女の恐怖にひきつった顔。そこには苦しみが広がっていた。不意に冷静になる――殺すような人間じゃない。また年少に戻るのはごめんだ。
舌打ちを残してその場を去った。苛立ちは消えなかった。不意に後ろめたくなり、辺りを見渡した。めちゃくちゃなリズムの口笛を吹いた。もしかしたら、通報されているかもしれなかった。どうでもよかった。ポケットに手を入れ、肩を強ばらせながら何となく歩道を歩き続けていると、ダイレックスがあった。
ダイレックス――最近じゃいくつでもある。良哉が年少に行った時より明らかに増えていた。何も買うつもりはなかったが、入った。冷房が良哉のシャツに張り付いた汗を冷やし、心地よかった。人波をすり抜け、無意識のうちに奥の売り場に向かっていた。棚に所狭しと並べられたダンボール箱。売れてあとわずかになったポテトチップスの袋。まずそうだと決めつけ、今でも食べたことがないままの黒い飴。ダイレックスは一番おやつが安いからな、何でも好きなもの買ってやるよ。百円以内ならな――戯言を思い出した。由紀子と良哉はよくダイレックスに行っていた。ダイレックスではスーパーで百円するものが七十円ということもざらにあった。由紀子がお腹を空かせたならば親父の目を盗んで近所まで歩いたものだ。由紀子の腕を引いて道路を歩くおれ。小さく丸みのある手。ぷにぷにとした指先。いつまでも握っていられるものだと思っていた。妹のぬくもりに満ちた身体――全てはおれが断ち切ってしまった。ぬくもりは二度と今世に返ることはない。
「ママー。これ欲しいー」
女の子がグミ菓子を握り、買い物かごを持った母のもとに駆けていた。
「全部はダメ。どれか一つにしなさい」
どれか一つにしなさい――良哉の記憶とダブる。どこにでもある日常。おれも由紀子と一緒に百円以内で収まるお菓子のラインナップを考えた。由紀子は百円きっかりで買える、子供用のフーセンガムの詰め合わせを好んでいた。おれのおやつセットと分け合いっこして食べた。思い出と現実とのギャップにいたたまれなくなり、良哉は菓子売り場を後にした。レジ前で何となく立ち尽くす。レジの奥には商品をレジ袋に詰める用のテーブル。隣には、百円入れるとゲームができる台が置いてある。商品はフーセンガム。当たったら二個貰える――大げさなフォントで描かれたキャッチコピー。誰が買っているのかわからない時代遅れの駄菓子。ドア横にはガチャガチャがぎっしりと並んでいた。昔、おれはドラッグストアでトーマスのガチャガチャを引いたことがあった。ランプが内蔵されている、光る灯台が欲しかったのだ。なけなしの三百円を入れ、レバーを回した。景品が出てこなかった。何回回しても出なかったので、店員を呼んだ。故障だと説明を受けた。店員はガチャガチャの入っているアクリルケースを開け、どれか選ばせてくれた。おれは灯台を選んだ。ラッキーだった。おにいちゃん、よかったね――由紀子と二人で笑った。家で組み立てた。部屋を真っ暗にして光らせた。今思えばちゃちいものだったかもしれないが、あの時のおれには宝物だった。今もあるのだろうか、なくしてしまっただろうか、それとも家宅捜索時に押収されてしまったのか。楽しかったおれの記憶――全部、由紀子とセットだった。
「は? 二つで六百円やと⁉ 聞いてないわそんなん! 値札にはそんなん書いてないし」
「書いていなくても、常識かと思いますが……」
「見えると思うとんのか⁉」
「じゃあ、御遠慮になるということで……」
「うっさいわ。どこにもそんなん買いとらんわ‼」
初老の男がレジでがなり散らしていた。店員は顔を引きつらせている。まだ若く、学生に見える。アルバイトだろうか、今にも泣きそうな顔を余計に歪めて、必死に平常心を保とうとしていることが伝わった。老人も後ろ暗そうにところどころ周りを気にし、顔を歪めていたが、店員を怒鳴ることをやめなかった。何かがおれの腹の中で音を立てた。ざわざわと暴れだした。多少の躊躇――無視した。もめ事を起こしても構いはしない。
「やめなよ、おっさん。ガキじゃないんだから」
レジ前に立って、良哉は言った。老人はしぶしぶ財布から金を出して会計を済ませた。袋に歪に商品を詰めると足早に駆け出した。意外――てっきり反抗してくると思っていた。良哉も隙があれば老人に手を出すことも想定に入れていた。急な展開に面食らったのだろう。老人だけじゃ無く、周りの客、果てには一番助けを求めていたはずの店員ですら、顔に驚愕のいろを貼り付けていた。老人が怒鳴り散らしていたとき、客の誰も店員を助けようとはしなかった。店員も誰かに助けて貰えるとは端から考えておらず、ただ自分の感情だけを押し殺そうとしているように見えた。そんな空気で、いかにもやさぐれた、投げやりで無気力な態度を取っていた良哉が店員を助けるとは、誰も考えもしなかっただろう。
「ありがとうございます」
店員が泣き笑いの表情で言う。安堵して表情筋の力が抜けたのか、目尻には涙が浮かんでいた。勇気あるな――良哉の後ろに並んでいた中年男性が感心していた。皆、良哉を安堵の目で見ていた。悪い気分はしない。数時間前の良哉――商店街で煙草を吹かし、八つ当たりで中年女性に怒鳴り散らした。ここにいるものは誰も知らない。商店街では暴君、この空間ではヒーロー。おれの気分のさじ加減によってここまで周りからの扱いが変わる。どちらもおれなのに。妹を殺した兄。そんな男でも、上っ面だけ見れば勇気あると賞賛される。乾いた笑いが僅かに漏れる。当たり前のことなのに、おかしくなる。
だが、良哉にはわかっていた。目の前にいる老人を目障りに思い鎌首をもたげた暴力性の正体――正義感では無く、自分の中にある、鬱屈した感情を振り払いたかっただけ。誰が見てもわがままな老人――苛立ちをぶつけるのには手っ取り早い。あのときの良哉にとってはちょうど良かった。不快感の裏に張り付く、他人を叩きのめせるという後ろ暗い歓喜が、あの時確かに良哉の中に存在していた。エアガンをもらったから撃ってみたい――似ているが、違う。もっと純粋で、後ろめたいもの。感情は曖昧だった。感覚としてはわかっているが、それを形にすることができない。一つだけ良哉の中で確かな思い――おれはヒーローなんかではない。
老人の顔を思い出す。凶暴な人相ではなく、自分の居場所をなくしてしまったような不安げなものだった――誰かに止めて欲しがっていた。そうも見えた。ただの思い過ごしかもしれなかった。
良哉はダイレックスを後にした。もともとほしいものはなかった。賞賛されたのに、後味が悪かった。釈然としない思いが今もとぐろを巻いている――
これ以上、何も見たくなかった。考えたくなかった。些細なことで爆発してしまいそうだった。
「意味分かんねえよ」
呟き――心の底の黒い塊を、生み出すだけの無意味な動作でしかなかった。
「わたし家を出るから」
「は? ふざけんなよ。子供はどうすんだ⁉」
「いらないし。それに、貴方と比べものになんないいい人見つけたから」
「いい加減にしろ‼ 子供二人、どうすんだ!」
「芸能界入ってスターになるのが夢だったの! あんたなんかと暮らしてたら叶わないじゃない」
「おまえ! 今更何言ってるんだ!」
「そもそもあんたが仕事と年収鯖読んでたんじゃない! 見栄張って! この程度の甲斐性なしだと知ってたら、結婚なんてしなかった」
父が母に掴み掛かり、母は甲高い叫び声を上げる。由紀子の丸い顔に不安が浮かんでいた。良哉は由紀子を二人から隠すように抱きしめた。由紀子の手を引いて外へ出た。自分の部屋なんて物はなかった――あったとしても、父母の怒鳴り声は家のどこにいてもおれと由紀子の耳に入る。由紀子に併せて、ゆっくり歩いた。空き地で二人、星を見た。空き地には何もなかった――元々は草が茂っており、遊び場になっていたが、いつの間にかコンクリートが敷かれた駐車場に変わっていた。空き地に面した民家――明かりが漏れていた。溌剌とした、由紀子と同年代の子供の声が聞こえた。
「どうして、うちのおうちだけおとうさんとおかあさん、喧嘩ばかりしてるの」
由紀子が良哉を見つめた。
おれは答えられなかった。おれにも理由は分からなかった。分かるのは由紀子が不幸であるということだけだった。
「夜遅くに出てきたから、寒いだろ」
良哉は由紀子を抱きしめた。それだけしか出来なかった――これ以上口を開けば、父と母への恨みの言葉が溢れそうだったからだ。父と母はクソだった。それでも、由紀子に二人を憎ませたくはなかった。そうなることが、由紀子にとって一番不幸なような気がしたからだ。
深夜一時になって、良哉たちは家に帰った。父はリビングで、母はベッドで寝ていた。
翌日起きると、母はいなくなっていた。
「あいつ、金目の物全部持っていきやがった!」
父の怒鳴り声――空しく響いた。
今でも良哉の頭に浮かぶ、母親が出て行った日の光景――狂いそうなほどの殺意を覚えた。母――おれと幼い由紀子を見捨てた。子供より芸能界を優先した。いても子育てなんかろくにしなかった。親父――母がいなくなってからおれたちを庇うどころか、暴力を振るった。おれ――由紀子を殺した。親父から守れなかった。おれも親父も母も、全員クソだった。
公園のベンチで良哉は唾を吐いた。血を吐いたように鉄の味がした。そのうち空に朱色が滲み出した。寒くなった。良哉が抱きしめると、照れたような笑顔を浮かべてはしゃいでいた由紀子は、もういない。
寒いだけの時間を、おれは一人ベンチで過ごす。夜はすぐにやって来る。
母がいなくなって、親父は毎日酒を飲むようになった。家で飲んだくれている日が増えた。良哉たちに対しても横柄になった。特に、由紀子には冷たかった。親父が仕事で失敗して由紀子に八つ当たりした日以降、親父の暴力は顕著になっていった。
――由紀子には食べ物やんな。
親父は由紀子の分のご飯を用意しなくなった。以前は粗悪なものを作っていたが、それすらもなくなった。良哉はふざけんなと怒鳴った。叩かれ、殴り潰された。それでも、自分のご飯を半分、こっそり由紀子に与え続けていた。
――何やってんだ、良哉! 由紀子にはやるなっていっただろうが! 前も言ったのに、まだやってたのか⁉
ある日、隠れてご飯をあげているのがばれた。
――当たり前だろ! でないと死ぬじゃんか!
――うるせえ、ぶっ殺すぞ‼
太い腕で、首を掴まれた。瞬間、息が止まる。良哉は喉を押さえて渇いた呻き声を上げた。再び、息が止まる。掴まれて痛んだ喉に、手刀をぶち込まれた。由紀子が良哉に駆け寄ってくる。小さな掌が触れる。そうだ、由紀子にはおれしかいないんだ――良哉は己を奮い立たせた。
――おれから離れていった、忌々しいガキ!
親父――完全に母と妹を、同一化して本気で切れている。狂っている――母が出て行ってからずっと。
それでも、良哉は腕立て伏せの格好で立ち上がった。殴られた。全身の骨が軋んでいるような痛み――良哉はもだえ、噎せた。
――おれに逆らうなら、学校も行かせねえ。叩き出してやる。食事ができてるだけでも、感謝しろ。
学校――生きたくはなかった。行かなければ、将来何が出来るのかも分からなかった。
――おい、こいつなんでこんなキモいの?
――母親に芸能人になりたいから捨てられたらしいぜ。つまり、おまえの存在芸能ブランド以下ってことじゃね。
――馬鹿すぎだろ。絶対無理だって。
――一番馬鹿なのは芸能界より優先順位の低いこいつだろ。
――親父もアル中とかカスすぎやんけ。
――カスの子供! めっちゃ笑えるんやけど。
学校では揶揄われるばかりだった。親のクソさはすぐに広まっていた。親父はご飯をろくに与えてくれず、良哉の体格は貧相なものだった。それも、周りの嘲笑に拍車をかけた。良哉の家にはテレビもゲームもなかった。親父が全部売ったからだ。同級生の話題に混じることも出来なかった。学校は会話が通じない牢獄のようなものだった。
――榊原。ストレス溜まってるから殴らせろ。
休み時間、体格のいいクラスメイトが話しかけてきた。クラスメイトが良哉に話しかけてくるのは、学級の仕事か、虐めのどちらかだった。
――嫌だよ。
――クソ親の子供なんだからそれぐらい我慢しろよ‼
――てめえはぼこられて当然なんだよ!
蹴られた。叩かれた。殴られた。教室の隅で蹲る良哉を男子グループは笑った。
――不潔なんだよ、おまえ。目つきもキモいし。
クラスメイトが帰った。暗い教室で、一人ぼっちのおれ――良哉は座り込んだ。笑われて、傷ついて、誰にも言えなくて、痛くて、辛くて。
全てが理不尽に思えた。全てを消したかった。
――何でだよ‼
放課後の学校で良哉は叫んで暴れまくった。奴らの持ち物を全部壊した。翌日生徒指導室に呼ばれた。二人の教師に事情を聴かれた。
――なんでこんなことしたんだ。
――佐川くんたちに馬鹿にされてむかついたから。
――いい加減にしろ! 佐川達がそんなことするわけないだろ。おまえとは違うんだよ!
――まあ、頭ごなしに注意するのは良くないですよ。でも、榊原君? 多少の茶化しは、男子中学生にはつきものだよ。馬鹿にされたっていうのは、ちょっと気にし過ぎじゃないかな。
教師は良哉の言い分を無視し、ただ詰った。もう一人は物腰柔らかだったが、言いたいことは結局同じだった。良哉はそれ以降口を固くつぐんだ。この感情をどうして良いか分からなかった。佐川達は成績優秀だった。おれはろくでもなかった。それが世の中だった。
おれの味方なんていなかった。学校の誰にも、おれは由紀子のことを相談しなかった。それでも――おれは由紀子を守らなければならなかった。
死にたかった。由紀子を嫌いきっている親父には相談できるはずもなかった。由紀子を庇い、反抗した――何度も殴られた。次第に、耐えていたはずの暴力が怖くなった。親父に殴られることを考えただけで、吐き気に襲われ、指先の震えが止まらなくなった。
――由紀子にはやんなよ。
親父はチャーハンをかきこみ、言った。良哉も食べた。
由紀子が良哉を見つめる。良哉は自分のご飯を全部食べきった。
この日、おれは初めて、由紀子にご飯をあげなかった。
近所の人間はみすぼらしい格好の良哉たちと関りになろうとしなかった。良哉たちが悲鳴を上げても知らないふりを決め込んでいた。
誰にも頼れなかった。周りの家族連れを羨む日々が続いた。名も知らぬ人間に殺意を抱くようになった。
ある日、親父は良哉に言った。
――相変わらず気持ち悪い顔だな。おい、良哉、傷めつけてやれ。
――は?
――由紀子を殴れよ。
――な、何でだよ……?
良哉は恐る恐る尋ねた。親父の暴力を怖れる良哉は、前までのように親父に反抗することができなくなっていた。
――うぜえから。
――できるわけないじゃんか!
頬を張られた。間を置かず、腹に蹴り。背中を踏まれた。胃が圧迫される。良哉は絶叫した。
――うるせえよ。おれがいくら殴っても聞かねえから、由紀子に好かれてるお前が殴ればおとなしくなんだろ。
拒否した。足が飛んだ。親父の踵がおれを打った。反射的に、頭を手で覆う。頭に蹴り。頭蓋骨の上のあたりが揺れ、視界ががたついた。
――おれの言うこと聞かないと殴るって散々教え込んできたのに、馬鹿なガキだ。
親父が唇を捻じ曲げ笑う。良哉はうつ伏せで立ち上がれなかった。喉が熱く、痛い。頭の中を何かが連続で突き上げている感覚――眩暈がし、視界がぐらついた。
――やるよな?
親父は言った。良哉は頷いた。
座り込んでいる由紀子の目の前に立つ。左手で拳を握りしめ、震えを止める――深呼吸する。軽く由紀子の頬を殴った。由紀子は顔をしかめた。泣き出しそうなのを堪えているように見えた。
息が詰まった。また、腹に蹴り。白っぽい液を床に吐き出した。良哉は腹を押さえて濁音を発した。涙と吐いた胃液が混ざった。
――手加減すんな。
――してない。
踵を背中に落とされた。また、濁音を発した。親父の暴力には容赦がなかった。痙攣する右手をみて、おれは覚悟を決めるしかなかった。
由紀子の頬を張った。頬を抑える間もなく、由紀子が倒れた。白い柔肌が赤く腫れ上がる。由紀子は物も言わず、ただ、目を見開いて良哉を見つめていた。その視線が痛々しく、何よりつらかった。
――まだ終わってねえぞ。やらねえんなら――。
親父が拳を振り上げる。良哉は身構える――とたんに、全身を痙攣が包み込む。痛い、怖い、苦しい――今までの感触が腕を這い上がってくる。おれは完全に親父に屈していた。自分がいかに暴力から逃れるかを考えていた。
もう一発、殴った。由紀子の小さな体が、倒れる。
張られた頬は青くなっていた。
由紀子からすれば、おれから殴られたという事実が一番苦しいはずだった。
度々親父は由紀子に対しての暴力を良哉に命じた。由紀子を打つあの感覚――おれはもう味わいたくない。拒否した。殴られた。拒否した。より激しく殴られる。屈する。由紀子を殴る。
また別の日。
親父の命令。拒否する。殴られる。従う。由紀子を殴る。
また別の日。
親父の命令。由紀子を殴る。
暴力の味を覚えさせられた。それが一カ月続くと、良哉の身体はいかに暴力を回避するかを本能で考えるようになっていた。恐怖に彩られていた。妹がなぶられる、なぶる――よりも自分を守る方に傾いた時、おれは本格的に壊れだした。
このままだとおれは由紀子を殺してしまう――緊張と痛みに震える腕で良哉は由紀子を抱きかかえ、児童相談所へ駆け込んだ。児童相談所は由紀子を預かった。夕方になると親父が駆け込んできた。児童相談所の職員は良哉と由紀子の身体の傷や痣のことを問い詰めた。
――おれの子供だぞ! 部外者が他人の家庭に口を出すな!
親父は凄んだ。職員達は勢いを失い、何も言わなくなった。その日のうちに、おれと由紀子は自宅に戻された。
親父の怒りは酷かった。良哉はベルトで殴られた。金具の出っ張りが鋭利に傷をつける。背中には無数の裂傷が走った。腕を曲げるたびに傷がじくじくと痛んだ。
由紀子はおれの後に殴られた。親父の拳が由紀子を打ちのめした。由紀子の全身に痣ができた。由紀子はもはや泣くこともしなかった。渾身の一撃――振りかぶって勢いをつけた親父の拳が由紀子の顎に当たった。由紀子が大量の血を吐いた。
――まずい、血を洗え。
親父は由紀子を裸にして冷水を浴びせかけた。冷たい風呂場で、由紀子は一人放置された。その日のうちに由紀子は目に見えて衰弱していった。唇を青紫色にして、縮こまり震えていた。
焦燥感――良哉の身体は傷だらけで動かなかった。おれは由紀子を全身で包むこともしなかった。
翌日。
由紀子は縮こまり、冷たくなっていた。死んでいた。ただでさえ小さかった身体がさらに縮んでいるように思えた。
おれと親父は由紀子の死体を前にただ呆然としていた。
三日後、おれたちは捕まった。実刑判決。良哉五年。親父十七年。
その後、良哉は少年院に入れられた。親父の暴力は当然、ない。平穏な日々――あるのはただ、由紀子を殺したおれが生きている事実。最後に見たテレビ――おれと話したこともなかった奴らが、好き放題事件について語っていた。コメンテーターはおれと親父を非難した。恵まれたものがそうでない者に石を投げる世界――死ぬほど嫌気がした。
由紀子は幼稚園にも行かせてもらえなかった。当たり前の幸せが与えられず、兄にも裏切られ、風呂場で冷たくなって死んだ。
おれのせいだった。由紀子を救うことは絶対にできたはずだった。おれには由紀子を守ってやる責任があった。
由紀子はおれを恨んでいるだろうか。唯一信じていた兄にも見放され、恨む気力もなく絶望して死んでいったのだろうか。少年院はクソみたいなところで、皆、性根を腐らせていた。おれ以上のクソはいなかった。おれは自分の誓いを反故にしたのだ。
死にたくてたまらない。それ以上にどこにいるかも分からない父母を殺したくてたまらない。他のことは何も手に付かなかった――苛立ちだけが募った。
確かに少年院はクソだった。嫌気がさした。だが、妹を殺したことに比べれば、どうってことなかった。
ほとんどの奴らは性根を腐らせて出て行ったが、おれには腐る性根すらなかった。全部ごちゃ混ぜにされ壊された後の抜け殻だった。
おれは十八歳。由紀子は生きていれば八歳。
風呂に放置されて、全身の痣を浮腫ませた由紀子の死体。見るに堪えなかった。おれがそうした。親父がそうした。
親父を殺すべきだったのだ。妹を守るべきだったのだ。こうなるぐらいなら。親父はクズだった。殺しても構いはしなかった。
親父を殺せない、妹を救えない。出会ったサラリーマン、主婦、老人――彼らに、その苛立ちをぶつけているだけ。だから、後味が悪かった――留飲を下げることもできなかった。
「水が飲みてえな」
意味のないことを呟き、良哉は公園の小さな蛇口をすすった。水圧が強く、すぐ喉は潤った。家の近くの公園でやった、由紀子との水遊びを思い出した。そのときは公園の蛇口が老朽化しており、少しの水しか出なかった――この公園の蛇口を知るまで、水圧など気にしたこともなかった。
最寄りのヤマダ電機に入る。朝からエアコンが効いており、良哉を心地よい冷気が包んだ。
うんざりした。
店内にいくつもある大型のテレビ――良哉の家では見たことがないものだった。良哉の頭にあるテレビはもっと画面が小さく、分厚かった。閉じ込められ、社会から取り残されていたことを実感した。
テレビに視線を流す。殺人事件のニュース、バラエティー番組のドッキリ企画。どんな事柄も、テレビは平等に映し出す――すぐ移り変わる。ほかにすることもなく、おれは立ち尽くしたまま画面を見つめる。
女優の映画出演インタビュー。小綺麗な女が笑顔でインタビューに応じている――
良哉は目を見開いた。テレビを凝視した。腹が潰れたように痛む。まさか、まさか――動悸が激しくなる。女優の顔――見覚えが、ある。随分洗練されたが、幼いころ見てきた顔は忘れない。顔のつくりは変わらない。何より――恨みは消えない。
テレビ画面の女優――おれの母親だった。
画面を凝視する。自宅――豪邸といってもいい広さ。男性と二人、インタビュアーの質問に応えている。
目の前が回り出す。知らなかった。投獄されていたから、母が再婚していたことを。知らなかった。おれたちを見捨てた女が、一人だけのうのうと幸せを摑んでいることも……。
ヤマダ電機のパソコンのコーナーに向かう。インターネットが通じているノートパソコンで母の名前と経歴を検索する。
――DV夫と乱暴者の息子の暴力に耐え、見事掴んだ女優の栄光‼
眩暈がする。目の前が回り続ける。脳みそを揺さぶられるような吐き気が止まらない。
知らなかった。親父もおれも知らなかった。記事を見るに、おれと親父は完全な悪者だった。
おれに全部の責任があるってのか……?
また、頭の中がぐらついたように痛みだす。親父との生活、由紀子の死にざま、おれに注意をまったく向けてくれなかった母親――とめどなく記憶があふれ出す。
「冗談じゃねえ」――声が漏れる。
「このたびは、映画出演、おめでとうございます」
インタビュアーが喋っている。
「昔はいろいろ、苦労したそうで」
インタビュアーはしゃべり続ける。
「はい。災難に襲われましたが、いつかは報われると信じて」
母の声だ――肌という肌に怖気が走る。怖気は怒りの震えに変わっていく。
「冗談じゃねえ――」
良哉はひび割れ声を絞り出す――画面の中の女には聞こえない。
「素晴らしい人にも出会えたので、辛かった生活も無駄ではなかったのかなと」
画面の中の女は笑顔で流暢に喋る。おれたちのことは全部解決した過去の問題だとでもいうような滑らかな声で。
限界だった。目の前の光景をおれは許容できなかった。
「冗談じゃねえよ、クソ‼ ふざけんな!」
叫んだ――画面の中の女には聞こえない。
「いろいろありましたけど、幸せになれて良かったです。ねえ」
血の気が引いた。母の笑み――作った笑みじゃない。心の底からの幸せ。わかる。おれたちと暮らしていたときは一度も見せなかった表情。だから、わかる。
母の横――子供がいる。おれの知らない子供。おれの知らない家庭。由紀子の知らない家庭。由紀子にあげるはずだった温もり。
「その子はだれだ」
良哉は叫んでいた。肉から糸を引いて垂れ落ちる血のような、呪詛に塗れたおれの声。
「その子はだれだ」
叫ぶ。母は笑顔で子供を撫でている。
「その子はだれだ」
叫びは止まらない。
「その子はだれだ」
叫びは止まらない――現実は変わらない。
「かわいいお子さんですね」
「ええ、この前も――」
「その子は誰だと聞いてるんだ‼」
母は新しい家庭を持っていた。新しい子供を持っていた。良哉と由紀子は全部リセットされていた。
あどけない表情の子供――まだ、一歳か二歳。丸みのある顔と瞳――由紀子の面影。
爆発した。
「なんで由紀子を可愛がってやれなかった⁉ 新しい子供を作るくらいなら。一緒じゃねえか。由紀子も可愛がってやればよかっただろ‼」
良哉は首を振る。耐えがたいおぞましい現実から目をそらすことを試みる。母の幸せの映像は続く。ヤマダ電機のテレビは消すことができない。
「いい加減にしろ‼」
由紀子が幸せになるべきだった。おれたちは由紀子の命を奪った。おれと親父――捕まった。母――何のとがめも、罰もない。母は確かに何もしていない。それでも、由紀子の不幸の原因のひとつは間違いなく母だった。
「おれのせいで死んだんだ。お前のせいで死んだんだ。みんなみんなくそくらえ‼」
消し飛ばしたかった。目の前の光景は何よりも耐え難いものだった。
「何でだ。何でだ、何でだ⁉」
地面を殴った。叩いた。ひたすらに喚いた。拳に血が滲んだ――どうでも良かった。この衝動を抑えることが出来ない。みんな死んじまえ――人を踏みつけて幸せを享受している奴ら、全て。幸せな奴ら、全て。
どす黒い気持ちが溢れ出続ける。何も起きない。どうにもならない。
「何してるんだ、おまえ⁉」
ヤマダ電機の店員らしき制服の男が駆け寄ってくる。目尻を裂いた鬼の形相――親父の面。教員の面。世間の面。
またおれは連れていかれるのか――良哉は自問自答した。抗うのだ。とことんまで抗ってやれ。どんなことになろうとも、あの時ほどひどいようなことはない。
ポケットに手を差し入れた――ナイフ。今度は躊躇しなかった。男に飛び掛かり、口の中にナイフを突き刺した。生暖かい真紅の液体が良哉にかかった。男は喉を引っかき、痙攣した――死んだ。背後で無数の悲鳴が沸き上がった。
「おまえらにおれの何がわかるっていうんだ?」
良哉はもう一度呟いた。ふいにテレビが消えた。黒い画面に映るおれの顔。
良哉を虐げるときの親父と同じ顔がそこにあった。