カクノコノミ
一年半後
其の日は、空から真っ白な雪が降っていた。
私と橘は戸を少し開けて、ふわふわと空を舞う雪を二人で眺めていた。
橘が雪を見つめながら、私に聞いた。
「秋子は、家族に会いたいか?」
突然の問いかけに私は驚き、目を見開いたまま橘の方を振り向いた。
橘も私の方を向き、心配そうに私を見つめた。
私は、何と答えて良いのか分からなかった。
私は家族に『会いたい』のか『会いたくない』のか、正直良く分からなかった。
元気に暮らしているのか、気にはなっていた。
でも自分を棄てた家族に、『今直ぐ会いたい』とは思えなかった。
ただ、『会いたくない』とも思えなかった。
そして『其れ』を、言葉にはしたくなかった。
言葉にしたら、『其れ』が現実になってしまうと思った。
今の私に、此の問いかけの答えを見つける事は出来ないと思った。
だから私は、答える代わりに橘に質問をする事にした。
「橘の父上様と母上様は、何処に居らっしゃるの?」
すると橘は私から目を逸らし、雪を見つめながら答えた。
「さあ・・・。
生まれた時から、親は居なかった。
だから何処に居るのか、生きているのか死んでいるのかも分からない」
「生まれた時から、居なかった・・・。
橘は、会いたいと・・・思わないの・・・?
父上様と母上様に・・・」
「別に、会いたいとは思わない」
「でも・・・其の名は・・・?
【橘】と言う名は、橘の父上様と母上様が付けた名ではないの・・・?」
「違う」
「では、誰が貴方に【橘】と言う名を付けたの・・・?」
すると橘は悲しそうな表情をし、押し黙ってしまった。
ああ。
『あの時』と、同じだ。
【緋色の袿】について聞いた時と、同じ顔だ。
もしかしたら【緋色の袿】と【橘】と言う名は、何か繋がりがあるのかもしれない。
でも其れは、橘にとって『触れられたくない事』なのだ。
私は、橘にとって辛い過去を再び思い出させてしまったのかもしれない。
私はまた、橘を傷付けてしまったのかもしれない。
『ごめんなさい』
私がそう言おうと思った瞬間、橘が口を開いた。
「此の名は、百五十年前に付けて貰った名だ・・・」
私は、驚いた。
橘が、自分について私に話してくれるとは思っていなかったから。
話してくれるの?
私は、『其れ』を聞いても良いの?
私は少しずつ大きくなる心臓の音を抑えながら、橘に聞いた。
「【橘】と言う名は・・・≪人間≫・・・に・・・付けて貰ったの・・・?」
すると橘は、舞い落ちる雪を愛おしそうに見つめた。
そして、ゆっくりと話し始めた。
「ああ・・・。
そうだ・・・。
此の名は・・・【橘】と言う名は・・・≪人間≫に・・・付けて貰った名だ・・・」
「・・・」
「私が生まれて初めて目を開けた時、私の周りには≪鬼≫が居た。
私は其の≪鬼≫達に、【お前】と呼ばれ育てられた。
だから私は幼い頃、自分の名は【お前】なのだと思っていた」
「・・・」
「私は、他の≪鬼≫達と共に山奥で暮らしていた。
私にとって、『≪鬼≫がいる世界』が『普通』であった。
其の『世界』で私は毎日≪鬼≫から与えられたものを食べ、≪人間≫の姿に化ける方法を学んだ。
何故、≪人間≫の姿に化けるのかは教えられなかった。
だが≪人間≫の姿に化けている内に、私は≪人間≫に興味を持つようになっていった。
自分達≪鬼≫とは、姿形の異なる≪人間≫に・・・。
今、自分が居る『≪鬼≫の世界』とは異なる『≪人間≫の世界』に・・・」
「・・・」
「ある時、私は≪人間≫に会ってみたいと思い山を降りた。
山道を歩いている時、一人の≪人間≫に出会った。
しかし其の≪人間≫は私の姿を見ると、〖≪鬼≫だ!!!〗と叫びながら逃げて行った。
其の時私は、
『≪人間≫にとって≪鬼≫とは、『恐ろしい存在』なのだ』
と知った。
私は≪鬼≫の姿が≪人間≫と異なるから、≪人間≫は≪鬼≫を恐れているのだと思った。
だから≪鬼≫は、≪人間≫の姿に化けるのだと。
≪人間≫に恐れられない為に、≪鬼≫は≪人間≫の姿に化けるのだと。
私は、直ぐに≪人間≫の姿に化けた。
≪人間≫の姿に化けてから、擦れ違う≪人間≫は私を恐れなくなった。
私は、恐れられなかった。
私は嬉しくなり、≪人間≫の町を歩き回った。
≪鬼≫とは異なる様々な≪人間≫、多くの店や品物、食べ物、建物、着物。
活気ある声、笑顔、町の臭い、美しい色。
全て、私が今まで経験した事が無いものだった。
とても、楽しかった・・・」
「・・・」
「ある道を歩いていると、長い階段を見つけた。
階段の先には鳥居があり、其の奥から微かに子供達の声が聞こえて来た。
私は、階段を上がった。
其処は、神社だった。
神社の境内で、子供達が楽しそうに遊んでいた。
子供達が皆で一緒に遊びながら、町の人々と同じように笑っていた。
私は今まで、此の子供達のように誰かと共に嬉しそうに笑った事が無かった。
いや。
私は、笑うと言う事すらした事が無かった。
心から笑うと言う事が、分からなかった。
純粋に笑うと言う事を、知らなかった。
私は、楽しそうに笑う子供達を羨ましいと思った。
私は、自分と同じ年頃の子供達と遊びたいと思った。
私も一緒に、笑いたいと思った。
だが私は、子供達に何と声を掛けて良いのか分からなかった。
『私の言葉は、通じるのだろうか?』
『私の本当の姿に、気付かれないだろうか?』
『私が≪鬼≫であると知った時、子供達はあの時の≪人間≫のように私を恐れるのだろうか?』
私は、怖かった。
私は、ただただ立っている事しか出来なかった。
暫くすると、佇む私に気付いた子供達が私に近づいて来た。
そして笑いながら、声を掛けてくれた。
〖一緒に遊ぼう〗と。
私は、怯えながら答えた。
〖うん〗と・・・。
すると子供達は、私の言葉に対して笑って応えてくれた。
私の言葉は、通じた。
私の声は、通じた。
私の心は、通じた。
嬉しかった・・・」
「・・・」
「私は、子供達と遊んだ。
石投、独楽、竹馬・・・。
全て、初めてする遊びだった。
一緒に笑い遊ぶ事が、一緒に時間を過ごす事が、とても楽しい事なのだと初めて知った」
「・・・」
「一緒に遊んでいる時、私は子供達に自分の名を聞かれた。
私は、〖【お前】〗と答えた。
子供達は其れを聞いて、不思議そうな顔をした。
そして、〖【お前】は、名ではない〗と言った。
私は、困惑した。
自分の名だと思っていた名が、名では無いと言う事に。
私は、口を噤んだ。
すると、一人の子供がにっこりと笑いながら言った。
〖名を、みんなで考えよう〗と。
そして、一人の子供が神社に咲いていた橘の花を指差しながら言った。
〖【たちばな】は?〗と。
白い橘の花が、私に似ているからと。
嬉しかった。
其の時から私の名は、【たちばな】になった。
其れ以後、私は≪人間≫の姿に化けて何度も山を降りるようになった。
私は山を降りる度に、子供達と神社で遊んだ。
別れる時は、必ず再び会う約束をした。
私は、また会える日を楽しみに毎日を過ごした」
「・・・」
「暫くしてから、ある≪鬼≫が私に聞いて来た。
〖最近、頻繁に山を降りているようだが、何をしている〗と。
私は、答える事が出来なかった。
いや。
『答えてはいけない』と思った。
私は、〖何もない〗とだけ言った。
私は他の≪鬼≫達に自分が≪人間≫の子供達と遊んでいる事を、『知られてはならない』と思った。
此の時私は、『もう二度と、子供達と一緒に遊ぶ事は出来ない』と子供達に伝えなければならないと思った。
其の後、暫く大雨が降り続き、子供達と会う事が出来なくなってしまった。
子供達も、大雨の日は遊ぶ事は無いだろうと私は思った。
数日後、雨が止んだので私は再び山を降り、子供達に会いに神社へ向かった。
しかし神社に近づくにつれ、咽せるような血の匂いがして来た。
嫌な予感がした。
私は、急いで神社の階段を上った。
急いで駆け上がっているはずなのに、足が思うように動かなかった。
息が、苦しかった。
汗が、身体中から湧き出て来た。
早く行きたいのに、『行きたくない』と言う気持ちが私の心の奥底にあった。
不安だった。
怖かった。
此の先にある光景を、此の時、私は既に『知っていた』のだ」
「・・・」
「私が神社に着くと、目の前に真っ赤な海があった。
地面に溜まった雨水が、夕日によって赤く染まったのではない。
其れは、全て血であった。
血の海だった。
其の血の海の中には、四散した肉片や内臓が浮かんでいた。
そして血の海の真ん中で、一人の≪鬼≫が子供の頭を喰らっていた。
其の≪鬼≫は、先日私に〖山を降りて、何をしているのか〗と尋ねた≪鬼≫だった。
此の≪鬼≫は、私をずっと監視していたのだ。
そして私が出掛けると直ぐに先回りをして、私が此処に来る前に子供達を殺し喰らったのだ」
「・・・」
「私は、動けなかった。
何も、感じなかった。
何も、理解出来なかった。
何も、考えられなかった。
悲しみも、恐怖もなかった。
ただ、目の前の光景が目から離れなかった。
見たくないのに、目を逸らす事が出来なかった。
其の場を立ち去りたいのに、身体が動かなかった。
私は震えながら、其の≪鬼≫に聞いた。
〖何故・・・〗と。
≪鬼≫は、薄ら笑いを浮かべながら答えた。
〖【お前】も≪人間≫を喰らう為に、≪人間≫の姿に化けてこいつ等に近づいたのだろう?〗と。
私は直ぐに、〖違う〗と答えた。
≪鬼≫は必死に答える私を見ながら、嘲笑った。
そして≪鬼≫は、喰らっていた子供の目から眼球を取り出した。
空洞になった目の穴から、赤い涙が流れ出た。
≪鬼≫は、取り出した眼球を嘗め回しながら続けた。
〖≪鬼≫が≪人間≫の姿に化ける理由は≪人間≫に近づき、≪人間≫を喰らう為だ。
【お前】が其のつもりで≪人間≫に近づいたと言う事は、分かっていた。
毎日食べる時間の経った≪人間≫の肉に、【お前】は飽きていたのだろう?
私達の喰い残しの≪人間≫の肉に、【お前】は嫌気が差していたのだろう?
もっと新鮮な≪人間≫の肉を、【お前】は食べたかったのだろう?
【お前】も、もうそろそろ此の≪人間≫達を喰らおうと思っていたのだろう?
【お前】は、今まで≪人間≫を狩って喰った事が無かった。
私は、【お前】が心配だった。
【お前】が、≪人間≫狩りに失敗するのではないかと。
だから私は【お前】が仕損じないように、【お前】の為に前もって≪人間≫を殺して、細かく切り刻んでおいたのだ。
此れで、食べ易くなっただろう?
しかも殺したてだから、新鮮だ。
嬉しいだろう?
まだ温かい≪人間≫を、喰らう事が出来るのだから。
何を睨んでいる?
【お前】は、私に感謝すべきだ。
【お前】の事を思っている、優しい此の私に。
ああ。
今食べているのは、単なる毒見だ。
大切な【お前】が、腹を壊さぬようにと思って。
安心しろ。
此の≪人間≫は、問題無い。
此の≪人間≫の肉は、柔らかくて美味しい。
さあ。
【お前】が喰らいたいと思っていた、新鮮な≪人間≫の肉を【お前】も早く喰らうと良い〗と。
すると≪鬼≫は一口で眼球を食べ、口の周りに付いたドロドロとした真っ赤な血を美味しそうに嘗め回した。
ああ・・・。
『此れが、≪鬼≫』なのだ・・・。
目の前で≪人間≫を美味しそうに喰らっている此の汚らわしい生き物が、≪鬼≫なのだ・・・。
そして自分も、『此の≪鬼≫と同じ≪鬼≫』なのだ・・・。
そう思った・・・」
「・・・」
「私は生まれた時から、ずっと≪人間≫を食べて生きて来たのだ。
知らぬ間に、≪人間≫を食べていたのだ。
いや。
私は、本当は気付いていた。
私が今まで食べて来たものが、≪人間≫であると。
私がずっと食べて来た≪人間≫は、≪人間≫の形をしていなかった。
他の≪鬼≫が殺して食べ終えた≪人間≫の肉の残骸を、私は食べていた。
私が食べて来たあの肉塊は、紛れもなく≪人間≫だった」
「・・・」
「生きた≪人間≫に触れる度に、≪人間≫の臭いを嗅ぐ度に、私は自分が毎日食べている肉塊を思い出した。
子供達と遊んでいた時、時折感じた喉の渇きを、私は大量の水を飲む事によって満たしていた。
自分の奥底にある欲望を抑える為、私は気を紛らわそうとしていた。
私は、『気付いていた』。
気付いていたのに、私は『気付かない振り』をしていた。
私は今まで≪人間≫の肉を触った手で≪人間≫と手を繋ぎ、≪人間≫を喰ろうた口で≪人間≫と話をしていた。
気付いていた。
でも、信じたくなかった。
気付きたくなかった。
自分の身が、≪人間≫の肉で出来ていると。
自分が≪人間≫の死と引き換えに、生きて来たのだと。
信じたくなかった。
信じたくなかった。
でも、分かっていた。
気付いていた。
だから私は、『自分が≪人間≫と遊んでいる事を、他の≪鬼≫に知られてはならない』と思ったのだ。
『≪鬼≫が、≪人間≫を食べる』
そう思ったから、あの時、私は〖何もない〗と答えたのだ。
あの時、初めて≪人間≫に出会った時、≪人間≫が私を恐れたのは、≪鬼≫の姿が恐ろしかったからだけでは無いのだ。
≪鬼≫が≪人間≫を喰らうから、あの時≪人間≫は私を恐れたのだ。
≪人間≫にとって≪鬼≫とは、忌むべき存在であったのだ。
私は、目の前に居る≪鬼≫を見た。
血に塗れて、卑しい笑いをする≪鬼≫を。
『私は、此の≪鬼≫と同じなのだ』
『私は、≪人間≫を喰らう≪鬼≫なのだ』
『私も、汚れた≪鬼≫なのだ』
『目を背けてきた事』は、全て『現実』だったのだ」
「・・・」
「知っていた。
分かっていた。
気付いていた。
だが其れでも私は目の前の光景も、≪鬼≫である自分も、受け容れる事が出来なかった。
私は、私を見つめ笑い続ける≪鬼≫に背を向けた。
私は、走った。
私は、逃げた。
何も、見たくなかった。
≪人間≫も、≪鬼≫も、自分も、全て・・・。
私の後ろからは、≪鬼≫の高笑いがずっと響いていた」
「・・・」
「私は、卑怯だ。
私は、自分から逃げた。
現実から逃げた。
逃げても、何も変わりはしないのに・・・。
現実が変わる事は、決して無いのに・・・」
「・・・」
「私には自分が≪鬼≫であると言う『現実』と、自分が≪人間≫を食べて生きて来たと言う『事実』、そして自分が≪人間≫と関わったが為に≪人間≫を死に追いやってしまったと言う『憤り』と『後悔』、『苦しみ』と『悲しみ』が残った・・・。
私に関わった為に、子供達は死んだ・・・。
殺された・・・。
私のせいで子供達は殺されたのに、私は逃げた・・・。
私は、逃げ続けた・・・」
「・・・」
「≪鬼≫は数か月何も食べなくとも生きる事が出来るが、何も食べなければ死ぬ。
もう二度と、私は≪人間≫を食べたくなかった。
≪人間≫を食べてまで、生き永らえたいとは思わなかった。
もう此れ以上、生きていたくなかった。
自分を殺して楽に死ぬのではなく、苦しみ抜いて独りで死ぬ事が私には相応しいと思った。
私など、此のまま何も食べずに野垂れ死ねば良いと思った。
私は、ただただ彷徨い歩いた。
私は、死に場所を探し続けた。
そんなある日、私はある屋敷から甘い香りがして来る事に気付いた。
私は其の香りに誘われて、屋敷に入った。
すると屋敷の中に、緋色の袿を羽織った女性が座っていた。
彼女の名は、高子。
高子には、右半分の顔に大きな赤い痣があった。
高子は私に気付くと一瞬嬉しそうな顔をしたが、其の後直ぐに悲しそうな顔に変わった。
そして高子は私に近づき、〖外は寒いから、中に入りなさい〗と言って私に手を差し伸べた。
其の時の私は憔悴していた為、≪人間≫の姿に化ける事が出来なくなっていた。
高子は、私が≪鬼≫であると知っていた。
しかし、高子は私を恐れなかった。
≪鬼≫は≪人間≫にとって『恐ろしいもの』であるはずなのに、高子は私の姿を見ても全く恐れていなかった。
私は訝しみ、高子の顔をじっと見つめた。
すると高子は、悲しそうに微笑んだ。
私は、驚いた。
『何故、此の≪人間≫はこんなにも悲しそうに笑うのだろう』と思った。
私は、高子の事が知りたくなった。
私は高子の差し伸べる手に自分の手を重ね、誘われるまま部屋に入った。
部屋に入ると、高子は自分の着ていた緋色の袿を私に羽織らせてくれた。
良い香りがした。
とても温かかった・・・」
「・・・」
「微笑みながら高子は、近くにあった箱を取った。
そして蓋を開け、私に其の箱を差し出した。
其の箱の中には、梅の枝のような形をした唐菓子が入っていた。
私は、戸惑った。
私は、≪人間≫以外のものを食べた事が無かった。
『私は、此れを食べても良いのだろうか?』
『≪人間≫以外のものを、私は食べる事が出来るのだろうか?』
『死のうと思っている私が、此れを食べても良いのだろうか?』
私は、恐る恐る高子の顔を見た。
高子は、優しく微笑んでいた。
私はゆっくりと唐菓子を手に取り、一口食べてみた。
其の菓子は少し硬く、そしてほんのりと甘かった・・・。
とても・・・美味しかった・・・。
噛む毎に、何故か心が満たされていった・・・。
此の世には、こんなにも美味しいものが在るのだと私は此の時初めて知った。
私は今まで、自分の腹を満たす為だけに≪人間≫を食べて来た。
自分がただ生き永らえる為だけに、≪人間≫を食べて来た。
だが、もう良いのだ。
もう、≪人間≫を食べなくとも良いのだ。
腹を満たす為に、生き永らえる為に≪人間≫を食べなくとも、私は生きていけるのだ。
そう思った」
「・・・」
「私は、再び高子の顔を見た。
高子は、嬉しそうに微笑んでいた。
高子の笑顔を見て、私はもっと『生きたい』と思った。
何の為に『生きたい』と思ったのか、此の時の私には分からなかった。
だが、もっと『生きたい』。
『生きる』為に、食べなければならないと思った」
ずっと・・・不思議に思っていた・・・。
何故、橘は≪人間≫を食べないのか・・・。
何故、≪人間≫以外のものを食べるのか・・・。
橘は、≪人間≫を犠牲にしてまで生きたくなかった。
高子様に出会うまで、橘は≪人間≫以外のものを食べた事が無かった。
でも、高子様が教えてくれた。
≪人間≫を食べなくとも、≪鬼≫は生きて行く事が出来ると。
高子様が、橘に『生きる』きっかけをくれた。
本当の意味で、『生きる』と言う事を教えてくれた。
橘が『生きたい』と思ったのは、きっと高子様の為だ。
自分に『生きる』事を教えてくれた高子様の傍に居たいと思ったから、橘は『生きたい』と思ったのだ。
高子様と共に『生きる』為に、橘は『食べる』と心に決めたのだ。
高子様の為に・・・。
『何の為に『生きたい』と思ったのか、此の時の私には分からなかった』と、橘は言った。
でも橘は、本当は気付いていたのだと思う。
何故『生きたい』と思ったのか、橘は知っていたのだと思う。
橘は、高子様の傍に居たいと思ったのだ。
高子様と共に、『生きたい』と思ったのだ。
高子様の為に、『生きたい』と思ったのだ。
私は無意識のうちに、両拳を強く握り締めていた。
橘は、続けた。
「私は、泣きながら唐菓子を食べた。
高子は、私に聞いた。
〖美味しい?〗と。
私は、〖うん〗と答えた。
高子は、私の涙を拭いながら言った。
〖そう。良かった〗と」
『そうか。
良かった』
其の『言葉』は、いつも橘が私に言う『言葉』だ・・・。
此の『言葉』は、『高子様の言葉』だったのだ・・・。
「泣きながら唐菓子を食べる私に、高子は名を尋ねた。
私は、答える事が出来なかった。
私は、子供達から貰った【たちばな】と言う名を高子に告げる事が出来なかった。
私は子供達から名を与えられたのに、私は子供達に何も返せなかった。
私は、子供達から全てを奪ってしまった。
私には、子供達から与えられた名を名乗る資格など無いと思った。
私は答えられず、押し黙った。
すると高子は、黙り込んだ私に言った。
〖【橘】・・・〗と。
私は、驚いた。
また再び、同じ名が与えられるとは思わなかった。
私は、〖何故〗と聞いた。
高子は、答えた。
〖貴方が此処に来た時、橘の香りがしたから〗と」
「・・・」
「高子は、続けた。
〖橘には、『魔除け』の意味がある〗と。
〖枸橘の枝には棘があるので、『魔除け』として垣根に植えられる。
南殿(平安宮裏の紫宸殿)の庭には、『魔除け』の為に橘と桜が植えられている。
南殿の正面から見て右に植えられている橘を『右近の橘』、左に植えられている桜を『左近の桜』と言う。
橘は桜と共に、此の国を守ってくれている〗と。
私は【橘】に、『魔除け』の意味があると言う事を知らなかった。
そして≪鬼≫である私に高子が何故其のような名を付けようとしているのか、私には理解出来なかった。
だから私は、高子に聞いた。
〖≪鬼≫である私に、何故『魔除け』の名を付けるのか〗と。
すると高子は、くすくすと笑いながら答えた。
〖貴方は、『魔』ではないでしょう?〗と。
高子は私の本当の姿を、≪鬼≫の姿を見ても、私が≪鬼≫だと分かっていても、私を恐れなかった。
高子は『私』を、『私自身』を見てくれていた。
私を≪鬼≫としてではなく、『私』として見てくれていた。
高子が、私に再び【橘】と言う名を与えてくれた。
私はもう一度、【橘】になりたいと思った」
「・・・」
「高子は、微笑みながら続けた。
〖特に橘は一年を通して葉は緑色であり、黄色い実を付ける事から『実を結ぶ』に通じ、とても縁起の良いものでもある〗と。
もし私が、【橘】である私が高子の『魔除け』となり、高子に幸せをもたらす事が出来るのならば、私は命のある限り高子の傍に居ようと思った。
傍に居て、高子を守り続けようと思った」
「・・・」
「私は、震えながら高子に尋ねた。
〖此処に居ても良いか〗と。
高子は、直ぐに答えてくれた。
〖ええ〗と。
そして高子は、私の頬を優しく撫でてくれた」
「・・・」
「其の後私は、高子の屋敷で一緒に暮らす事になった。
屋敷には、高子と年老いた高子の乳母だけが住んでいた。
高子は昔、別の屋敷に住んでいたが、今は京から離れた此の屋敷に住んでいると言っていた。
以前住んでいた屋敷よりも此の屋敷は小さく、置いてある物も少ないけれど、高子は此の方が良いと言っていた。
必要以上のものは要らないと、言っていた。
私は高子から和歌や書を教えてもらい、乳母からは料理や洗濯、縫物を教わった。
全て、初めてする事であった。
今まで、そんな事を自分でする必要は無かった。
和歌を作る事も、書を書く事も、必要無かった。
自分の身の周りの事は、掌をかざせば何でも出来た。
全て、一瞬で出来た。
自分の身体を、わざわざ使う必要など無かった。
だが自分の身体を使い、時間を掛け、考え、苦労し、楽しみ、全てを終えた後、私は心が満たされる事に気付いた。
そして其の後に食べる物は、とても美味しかった。
自分の身体を動かす事など、≪人間≫にとっては『普通』の事なのかもしれない。
しかし私にとって其れは、『生きる喜び』を知る為の大切な経験であり、貴重な時間だったのだ」
「・・・」
「暫くして、高子は私に少しずつ自分の事を話してくれるようになった。
高子は、公家の娘だった。
何不自由なく暮らしていたが、高子には生まれた時から右の顔に赤い痣が有ったそうだ。
高子の両親は、そんな高子を大切に育てた。
様々な薬を試し、痣を消そうとした。
しかし、どんな事をしても痣は消えなかった。
高子の痣は、年々大きくなっていった。
高子は化粧を厚くして、痣を隠そうとした。
世間に自分の痣の事が噂にならぬよう、必死に痣を隠し続けた。
ある時から、高子の許に男が通うようになった。
そして三日目の夜、高子は化粧を落とし、男に自分の痣を見せた。
男に、隠し事をしたくなかった。
高子は、ありのままの自分を男に見せたかった。
高子は、ありのままの自分を男に見て貰いたかった。
高子は、ありのままの自分を男に知って貰いたかった。
高子は、男を信じていた。
本当の自分を、男は受け容れてくれると。
自分の偽りの姿ではなく、自分自身を、全てを愛してくれているのだと。
自分と同じ位、男も自分を愛していると思いたかった。
だから自分の痣を男に見せようと思ったと、高子は言っていた」
「・・・」
「男は高子の痣を見て、言ったそうだ。
〖恐ろしい〗と。
信じていた男に、愛していた男に、高子は『恐れられた』。
男は、餅も食べずに逃げて行った。
以後、男は二度と高子の許へ通う事は無かった。
そして、直ぐに噂が広まった。
高子の右の顔には、大きな赤い痣があると。
男が、其の噂を流したのだ。
自分が高子の許へ通わなくなったのは、痣の事を隠していた高子のせいであると。
自分には全く非は無いのだと、自分に、世間に知らしめる為に。
自分が、世間から同情される為に・・・。
一度広まった噂を止める事は出来ないと思った高子は、京から離れた此の屋敷に乳母と二人で住むと自分から両親に言ったそうだ。
両親は悲しんだが、高子の決心は変わらなかった。
此れ以上、京には居たくなかった。
悲観して、京から離れたい訳ではなかった。
噂が怖くて、逃げたい訳ではなかった。
自分の痣は、決して消す事は出来ない。
化粧で痣を隠しても、もう隠しきれない。
ならば、もう隠さずに生きて行こうと高子は決心したのだ。
けれど此のまま痣を隠さず京に居続ければ、両親に迷惑が掛かる。
其れに、やはり誰にも自分の痣を見られたくなかった。
自分の痣を見て、誰かに恐れられたくなかった。
もう二度と、同じ思いをしたくなかった。
怖かった。
高子は、そう言っていた。
高子はありのままの自分を見せると決心しても、其れを見る人々の心を全て受け止めきれる自信が無かった。
高子は、≪人間≫の目が怖いと言っていた。
言葉ではなく、自分を見る≪人間≫の目が恐ろしいと言っていた。
高子は・・・強く・・・そして・・・傷つき易かった・・・。
私はそんな高子を、守り続けようと思った。
しかし私は、高子を守り切る事が出来なかった・・・」
「・・・」
「私はある日、町へ出掛けた。
そして用を終え屋敷に戻る途中、屋敷から血の匂いが漂って来る事に気付いた。
私に、『あの時』の記憶が蘇って来た。
まさかと、思った。
信じたくなかった。
しかし、考える時間など無かった。
私は、急いで走った。
もう、失いたくないと思った。
私のせいで、此れ以上何も失いたくないと思った。
もう二度と、大切な人を失いたくないと思った」
「・・・」
「屋敷に入ると、血の池の中に乳母が着ていた着物の一部が浮かんでいた。
私は、真っ赤に染まった着物の一部を握り締めた。
『血は、まだ温かい。
高子は、まだ間に合うかもしれない』
私はそう自分に言い聞かせ、乳母の着物の一部を握り締めながら高子の居る部屋へ向かった。
部屋に入り、私は目を見開いた。
『あの時』と同じ光景が、私の目に映った。
あの≪鬼≫が、私から何もかもを奪ったあの≪鬼≫が、血溜りの中で高子の頭を喰らっていた。
高子の頬には、赤い涙が伝っていた。
≪鬼≫は、『あの時』と同じ薄ら笑いを浮かべながら言った。
〖此の≪人間≫の女、大きな痣があったから嘸かし不味かろうと思ったが、今まで食べて来た≪人間≫の中で一番美味であった〗と。
≪鬼≫は高子の頭を咀嚼しながら、汚らわしい目で私を見た。
『あの時』の≪鬼≫が、子供達を喰らったあの≪鬼≫が、再び私から私の大切な人達を奪いに来たのだ」
「・・・」
「≪鬼≫は、私を探して此処まで来たのだと言った。
そして高子の残りの頭を一気に喰い尽くし、其の腐った目で私を見つめながら続けた。
〖【お前】は≪人間≫に取り入るのが上手いようだから、【お前】の近くに居れば簡単に美味い≪人間≫を食べる事が出来る〗。
そう言って、≪鬼≫は下卑た笑いをした。
私は、其の顔を見て分かった。
其の笑いを聞いて、気付いた。
此の≪鬼≫は、ただただ腹を満たす為だけに・・・。
いや。
快楽の為だけに、≪人間≫を喰らっているのだと・・・」
「・・・」
「私は、≪人間≫から二度も名を・・・命を・・・与えられた。
其れなのに、私は二度も≪人間≫の命を奪った。
私は、【橘】は、『魔除け』などではなかった。
私自身が、『魔』を呼び寄せる『魔』そのものであったのだ。
私は、もう此れ以上、此の≪鬼≫に支配されたくなかった。
私は、許せなかった。
私から何もかもを奪った、此れからも奪い続けようとする≪鬼≫も・・・自分自身も・・・」
すると橘は私の方を向き、私の目をじっと見つめながら言った。
「其の後、私はどうしたと思う?」
「・・・」
「私は其の≪鬼≫を殺し、喰らった」
「!!!」
「此の≪鬼≫を殺さなければ、私に関わる≪人間≫はこれからも殺され続ける。
ずっと繰り返される。
もう二度と、奪われたくなかった。
もう二度と、失いたくなかった。
私が此の≪鬼≫を喰らわなければ、終わらないと思った。
終わらせなければならないと思った。
私の此の手で、終わらせなければならない。
もう二度と、逃げてはならない。
其の為には、私が此の≪鬼≫を喰らわなければならない。
『此の≪鬼≫を喰らえば、高子達の無念を晴らす事が出来る』
『此の≪鬼≫を喰らえば、私が此の≪鬼≫を支配する事が出来る』
『此の≪鬼≫を喰らえば、私は自分の罪を一生背負って生きて行ける』
『此の≪鬼≫を喰らえば、私は一生、高子達の事を忘れないでいられる』
『此の≪鬼≫を喰らえば、私は此の≪鬼≫の中に居る高子達と共に生きて行く事が出来る』
そう思った・・・」
吐き出すように、橘は言った。
そして苦しそうに、悲しそうに私を見つめ続けながら橘は聞いた。
「秋子・・・。
私が・・・怖いか・・・?」
私は、息を呑んだ。
目の前にいる橘は『私の知っている橘』であり、『私の知らない橘』でもあった。
でも、不思議と怖くはなかった。
今にも泣き出しそうな顔をしている橘を、私は『怖い』とは思えなかった。
私は、首を横に振った。
橘は、少しほっとした顔をして続けた。
「私は≪鬼≫を喰らった後、高子の血で染まった緋色の袿を羽織って、其の場を立ち去った」
【緋色の袿】・・・。
ああ・・・。
そうか・・・。
あの【緋色の袿】に付いていた朱殷の染みは、高子様の血だったのだ・・・。
其の血と共に、橘はずっと生き続けて来たのだ・・・。
【緋色の袿】と共に、高子様と共に、橘は生きて来たのだ・・・。
橘は私から視線を逸らし、自嘲的な笑みを浮かべながら言った。
「私は此の時、心に決めた。
『もう二度と、≪人間≫と共に生きてはならない』と・・・」
私は其の言葉を聞き、驚いた。
『もう二度と、≪人間≫と共に生きてはならない・・・』
では、何故・・・。
何故・・・。
「何故あの時、私に聞いたの・・・?
『私と共に、来るか?』と・・・?
何故・・・≪人間≫である私と・・・もう一度・・・一緒に・・・暮らそうと・・・思ったの・・・?」
すると橘は再び私の目を見つめ、寂しそうに答えた。
「・・・同じ目を・・・していると・・・思った・・・」
「同じ目・・・?」
「私が初めて高子に会った時と同じ目を、私と同じ目を、秋子もしていると思った・・・。
全てを諦めた・・・何も求めない・・・そんな目をしていると・・・思った・・・。
此の≪人間≫は、『死にたい』と思っているのかもしれないと・・・思った・・・。
あの時、初めて秋子に会った時、高子が羽織っていた緋色の袿を私が羽織っていたせいなのかもしれない・・・。
あの時の高子の気持ちが、私には分かった・・・。
あの時の私の気持ちが、思い出された・・・。
私は
『此の≪人間≫を『救いたい』』
そう思った・・・」
「・・・」
「秋子を救いたいと思った時、私の中で『高子は生き続けて居る』のだと思った・・・。
高子は、『私と共に居る』のだと思った・・・」
「・・・」
「嬉しかった・・・。
高子と共に生きて居る事が・・・。
私の中に、高子が居る事が・・・」
「・・・」
「・・・私にとって高子は・・・母であり・・・姉であり・・・」
其処で橘は言葉を止め、私から視線を外した。
私には、橘が其の先何を言おうとしたのかが分かった。
でも、聞きたくなかった。
もう此れ以上、橘に高子様の事を口にしてもらいたくなかった。
私は、高子様に嫉妬していた。
橘は伏し目がちに、言葉を続けた。
「私は高子達を守る事が出来なかった【橘】と言う名を、今も棄てる事が出来ない。
其の名を棄てれば、全てが無くなってしまうと思った。
私の罪も、後悔も、思い出も、全て私と共に生きて行かなければならない・・・」
「・・・」
「苦しみも悲しみも、忘れてはならない・・・。
全てを、無かった事にしてはいけない・・・。
逃げてはならない・・・。
私は・・・もう二度と・・・逃げてはならないのだ・・・」
悲しく、橘は呟いた。
橘には御札もお米も桃も、何も効かない。
大切な人が傷付く事が、大切な人との別れが、大切な人の死が、何よりも橘を傷付けるのだ。
≪人間≫も≪鬼≫も、同じなのだ。
私達は、何も変わらない。
同じように傷つき、同じように苦しみ、同じように悲しむのだ。
橘は舞い降りる真っ白な雪に視線を戻し、続けた。
「【橘】には、『追憶』と言う意味もある・・・。
私が初めて高子に会った時、高子は一瞬嬉しそうな顔をした・・・。
あの時、高子は男が、自分をかつて愛してくれた男が、自分が愛した男が自分を迎えに来てくれたのだと思ったのかもしれない・・・」
「・・・」
「高子は、ずっと男の事を思い続けていた・・・。
ずっと、愛していた・・・。
ずっと、待ち続けていた・・・。
裏切った男ではなく、『自分を愛してくれていた時の男』を・・・」
橘は、悔しそうに呟いた。
橘は【橘】と言う名と共に、其の名に込められた意味や思い、命をも与えられた。
名は、とても大切だ。
だから橘は私に初めて会った時、私に名を聞いた。
名は、其の名を持つ者を表すもの。
私が橘に名を告げて以来、橘は私を【秋子】と呼ぶ。
そして私も、彼を【橘】と呼ぶ。
彼は私を【秋子】として見留め、私も彼を【橘】として見留めている。
女も男も、≪人間≫も≪鬼≫も、私達には関係が無い。
私と彼は、【秋子】と【橘】なのだ。
でも今、橘は【橘】と言う名に囚われている。
【橘】と言う名は橘を救うと同時に、橘を苦しめ続けている。
高子様達を死に追いやった【橘】に・・・。
そして、高子様の思い人を思い出させる【橘】に・・・。
私は、橘を救いたいと思った。
死して尚、橘の心を捕え続ける高子様から、【橘】から橘を解放したいと思った。
もう此れ以上、【橘】と言う名に橘を苦しめさせたくなかった。
私は橘を、此の先もずっと【橘】と呼びたかった。
でも其の名を呼び続ければ、同時に橘を傷付けてしまう。
橘を傷付けない為にも、私は橘に【橘】の他の意味を伝えなければならないと思った。
もし他の意味が無いのならば、【橘】と言う名に新しい意味を作りたいと思った。
新しい思いを、新しい命を、【橘】に与えたかった。
「橘・・・」
「?」
「知っている?
『月雪花は、一度には眺められない』と言われているの。
月の出る夜に、雪は降らない。
雪が降ると、花は雪に隠れて見えない。
花の咲く日中に、月は出ない」
「・・・」
「でもね、私は『違う』と思う」
「・・・」
「月光は、雪のように白い花橘を照らす。
月の出る夜も、橘の花は咲く」
「・・・」
「雪が降った日に、私は雪持橘文様の着物を着る。
雪が降っても、橘の花は咲く」
「・・・」
「月橘は、花弁から爽やかな香りを放つ。
太陽の下でも、橘の花は咲く」
「・・・」
「善い事が、全て揃う時もある」
「・・・」
「だから【橘】と言う名は、とても良い名なの・・・。
【橘】と言う名は、とても素晴らしい名なの・・・。
其の名を、橘は≪人間≫から付けて貰ったの・・・。
【橘】と言う名は、橘のもの・・・。
橘に相応しい、美しい名なの・・・」
私の言葉を聞き終えると、橘は今にも泣き出しそうな顔で微笑んだ。
そして立ち上がり、少し外に出て掌を上に向けた。
其の掌に、柔らかい雪が落ちた。
橘は私の方を振り向き、優しく微笑みながら掌の上の雪を見せてくれた。
雪は、溶けていなかった。
真っ白く、柔らかなままだった。
橘は、其の雪を見つめながら言った。
「あの頃、私には力が無かった。
だが今の私ならば、秋子を守る事が出来る。
大切なものを守る事が出来る」
そう言って、橘は冷たくなった私の右手を取った。
そして私の右掌を上に向け、其の上に雪が乗った自分の掌を重ね、私の手を優しく握り締めた。
橘の手は、私の掌に乗った雪は、とても温かかった。
其の温かさが、教えてくれた。
『橘が、きっと私を守ってくれる・・・。
たとえ・・・何があろうとも・・・』
それは、とても嬉しい・・・。
本当に、嬉しい・・・。
でも・・・苦しい・・・。
私は、私を守る為に橘が傷つくのは絶対に嫌だ・・・。
私は橘に、自分を犠牲にしてまで守ってもらいたくない・・・。
私は、自らを省みず私を守ろうとする橘を守りたい・・・。
橘が私を守りたいと思うのと同じ様に、私も橘を守りたい・・・。
私は自分の手を握る橘の手の上に、もう片方の自分の手を重ねた。
私は、橘を見上げた。
橘は、悲しく微笑んでいた。
ああ・・・。
此の顔・・・。
私は、何度も此の顔を見て来た・・・。
悲しそうに微笑む橘を見ていると、胸が苦しかった・・・。
私は、橘の此の微笑みをもう見たくなかった・・・。
こんな顔を、橘にさせたくなかった・・・。
もう苦しまないでもらいたい・・・。
もう悲しまないでもらいたい・・・。
私は、橘の嬉しそうな顔が見たい・・・。
私は、橘の楽しそうに微笑む顔が見たい・・・。
私は雪と共に、自分の手の中にある橘の手を優しく包んだ。
そして橘の目を見つめながら、力強く言った。
「私も必ず、橘を守る」
私の言葉を聞き、橘は少し目を見開いた。
そして私の手を握り締め、優しく微笑みながら言った。
「うん・・・」
❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆❆
私が橘と暮らし始めて、三年以上が経った。
木々が紅葉し少し肌寒くなる此の季節、私達は毎年、朝早く起きて日の出を見た後に一緒に散歩する事を日課としていた。
日が昇る頃に空を見ると、黄金色に光り輝く太陽が雲海を照らし、青色の雲を紫色に染め、白色の空を橙色や薄色に彩っていた。
朝日を眺めた後に山の中を散歩すると、白色の白嫁菜や紫色の竜胆、黄色の深山秋麒麟草等の秋の花々が咲いているのを目にする事が出来た。
薄縹色の薄や赤色の楓、白色の山毛欅や黄色の水楢、紅色の七竈等の樹々が色を変えて生えていた。
山の中はとても美しく、澄んでいて、其の中を歩いていると、自然が私達を包み守ってくれていると実感する。
ある日、戸を少し開けて秋の空気を感じながら板の間で着物の綻びを繕っていると、橘が私の隣に座った。
そして、何も言わずに私の姿をじっと見つめ始めた。
私は自分の縫い方に何か問題があるのかと思って、ただただ黙々と丁寧に着物を縫い続けた。
縫い方に問題が有るのならば言ってくれれば良いのに、橘は何も言わない。
私の邪魔をしないようにと言う心遣いかもしれないけれど、却って気になる。
緊張する。
とうとう私は我慢が出来なくなり、上目で橘を見ながら聞いた。
「な・・・何・・・?」
すると橘は、私が着ている着物の袖を持ちながら答えた。
「新しい着物が、欲しくないか?」
予想外の答えに、私は固まった。
そして、私は少し狼狽えながら聞いた。
「な・・・何・・・?
突然・・・?
今・・・有るもので・・・十分・・・だけれど・・・」
すると橘は私の着物の袖をしっかりと握り締めながら、私の目をじっと見つめてはっきりとした言葉で言った。
「いや。
今日は、町へ行こう。
町で、秋子の欲しい反物を買おう。
其の他にも、秋子の欲しいものがあれば言え。
疫病は、収束したと聞く。
秋子が町へ行っても、大丈夫だろう。
秋子の姿は、三年前とは変わった。
町へ行って誰かに会っても、秋子だと気付かれる事は無いだろう。
秋子は私と共に此処に住み始めてから、一度も町へ行っていない。
秋子も、外へ出掛けたいだろう?
町へ行きたいだろう?
行きたいはずだ」
矢継ぎ早に言われ、私は当惑しながら答えた。
「え・・・あ・・・うん・・・」
私の答えを聞くと直ぐに橘は私からお裁縫道具と繕っていた着物を奪い取り、私の両手を取って私を立たせながら言った。
「では、行こう」
「え・・・!?
今から・・・!?」
「ああ」
どうしたのだろう・・・?
突然・・・。
こんなにも強引な橘は、初めてだ・・・。
何か・・・有ったのかな・・・?
私が不思議に思って立ち尽くしている間に、橘は今朝採ったばかりの大量の野菜を≪人間≫の子供が二人入るような大きな籠に入れて背負った。
其の野菜の量に、私は驚いた。
橘は時々、小さい籠に入れた野菜を持って町へ出掛け、代わりにお鍋やお釜を持って帰って来る事はあった。
今回のように、こんなにも沢山の野菜を持って行く事は今まで一度も無かった。
もしかしたら、とてつもなく高い反物を買うつもりなのではないかと心配になり、私は念の為に橘に聞いた。
「そんなに沢山、野菜を持って行くの・・・?
私・・・高い反物なんて・・・要らない・・・」
すると橘は私の方を振り向き、微笑みながら答えた。
「此れは、念の為だ。
秋子は、何も気にしなくて良い」
「・・・分かった・・・。
・・・でも、そんなに持っていたら重いでしょう?
私も、半分持つ」
「重くない。
さあ。
行こう」
そう言って、橘は私の手を取り外に出た。
そして、私を抱き上げ飛んだ。
私は、思わず叫んだ。
「歩いて行くのではないの!?」
「此の方が、早い」
私は、怪訝に思った。
≪鬼≫の能力を使わないようにしている橘が、何故、今、≪鬼≫の能力を使うのか?
やはり、何か有ったのかもしれない。
私は不安になり橘の心を読もうと思って、橘の顔をじっと見つめてみた。
其れに気付いた橘が、私を見つめ返しながら聞いた。
「何だ?」
橘は、無表情だった。
私には、橘の考えている事が分からなかった。
橘も、教えるつもりはないのだろう。
ならば、聞かない事にしようと思った。
たとえ何かが有ったとしても、橘が自ら話すまで待とうと思った。
私は、首を横に振りながら答えた。
「ううん・・・。
何でも無い・・・」
「そうか」
そう言って、橘は空を飛び続けた。
空を飛ぶのは、橘と初めて会った時以来だった。
少し冷たい風が心地良く、澄んだ空気はとても美味しかった。
空は近く、地上は遠かった。
眼下に広がる山は紅色、黄色、緑色で埋め尽くされていた。
其の色取り取りの山の中から、様々な生き物の姿が見えた。
雨燕や鷹、鵯等の鳥は翼を大きく広げて空を飛び、猪や鹿、熊等の動物は山の中をゆっくりと歩いていた。
地上からでは見る事が出来ない景色を、空の上から沢山見る事が出来た。
私達は、此の中に住んでいるのだ。
私達は此処で、彼らと共に守られながら生きて居るのだ。
私達皆が、支えられながら生きて居るのだ。
暫くすると秋色が少なくなり、≪人間≫の姿が少しずつ見えて来た。
町を行き交う≪人間≫を見るのは、三年振りだった。
≪人間≫は、三年前とあまり変わっていないようだった。
私達は人気の無い所に降り立ち、橘は直ぐに≪人間≫の姿に化けた。
そして、私達は町中に入った。
町中に入ると直ぐに、死臭が鼻を掠めた。
其の臭いは、私が牛車に乗って家から大江山へ向かっていた時と同じ臭いだった。
もう二度と、生きて嗅ぐ事は無いと思っていた臭い・・・。
≪人間≫の臭い・・・。
道には死んだ≪人間≫や、今なお苦しんでいる≪人間≫が何人も横たわってた。
野犬が、死んだ≪人間≫の手足を咥えて歩いていた。
強い悪臭が所々漂い、放置された遺体には蛆が湧いていた。
疫病は、収束したはずなのに・・・。
何故こんなにも、死体が町中に横たわっているのだろうか?
町中が此のような状態で、内裏の方は大丈夫なのだろうか?
父上や母上や姉上は、ご無事なのだろうか・・・?
『父上や母上や姉上は、ご無事なのだろうか』
脳裏を過った其の言葉に、私は驚いた。
自分を棄てた家族の事を、未だに心配している自分自身に戸惑った。
忘れていたはずなのに・・・。
忘れようとしていたはずなのに・・・。
『忘れようとしていた』
私は・・・。
私は・・・家族の事を『忘れようとしていた』・・・?
私の鼓動は、次第に早くなっていった。
そんな私に、橘は心配そうに声を掛けた。
「秋子・・・?」
「あ・・・。
ごめんなさい・・・。
何でも・・・無い・・・」
私は、笑って誤魔化した。
『家族に会いたい』などと、思ってはいけない。
橘に、迷惑を掛けてはいけない。
橘に、心配させてはいけない。
橘は、私の笑顔をじっと見つめた。
私は橘に気取られないよう、笑い続けた。
すると橘は少し溜息をつき、私の肩に手を置きながら私に言い聞かすように言った。
「秋子は、此処に居ろ。
絶対に、此処から動いてはならない」
そう言うと橘は私から離れ、放置されている遺体に近づいて行った。
橘は其の遺体の前に立つと其の場に屈み込み、目を瞑って遺体に手を合わせた。
そして近くに座る痩せ細った≪人間≫に、持って来た野菜を手渡した。
橘は亡くなっている≪人間≫、苦しむ≪人間≫を見る度に其れを繰り返した。
≪人間≫は遺体も、苦しんでいる≪人間≫も無視すると言うのに、≪鬼≫である橘は≪人間≫を弔い、救おうとしている。
ならば、≪人間≫である私も何かしなければならないと思った。
私も何か手伝いが出来ればと思って、橘の許へ行こうとした。
すると橘は、私の方を振り向き言った。
「来てはならない。
疫病は収束したが、終息した訳ではない。
秋子は、其処から動いてはならない」
橘は、少し強い口調で私に言った。
私は其の厳しい声に少し動揺し、小さな声で答えた。
「うん・・・。
分かった・・・」
私は、遠くから橘を見守る事にした。
暫くして私の許へ戻って来た橘は、呟いた。
「以前より、死んでいる≪人間≫が増えた。
疫病ではなく、皆、飢餓で死んでいる」
「飢餓?
でも飢饉の時には、朝廷は生活困窮者の為に塩や布、銭などを支給するはず・・・。
税を軽減したり、穀倉院の備蓄米を開放して物の値段が上がるのを抑えようとするはず・・・。
どうして飢餓で人が亡くなるの・・・?」
すると橘は無言で私の手を取り、歩き出した。
そして、あるお店の中に入った。
「いらっしゃいませ」
其の店の女店主は、満面の笑みで私達を迎えてくれた。
橘は、女店主に言った。
「反物を見せてくれ」
女店主は、笑顔のまま答えた。
「承知いたしました。
少々お待ちください」
そう言って、女店主は店の奥へと入って行った。
暫くすると、沢山の反物を両腕に抱えながら戻って来た。
其れらを床に置き、私達に見せてくれた。
全て、とても美しい反物だった。
金糸や銀糸を使った煌びやかな反物もあれば、色鮮やかな刺繡が施された反物、無地の素朴な反物、様々な種類の反物が目の前に並べられた。
其の美しさに目を見開く私の顔を覗き込みながら、橘は嬉しそうに私に聞いた。
「秋子は、どれが欲しい?」
私は橘の方を振り向き、呟いた。
「私が・・・欲しい・・・もの・・・?」
「ああ。
秋子が望むものを選ぶと良い」
「私が・・・望む・・・もの・・・」
どの反物も、美しかった。
でも、美しさだけで選びたくはなかった。
私が『欲しいもの』は、私が『望むもの』は、『美しいもの』ではない。
『私が欲しいもの』『私が望むもの』と聞かれた時、最初に思い浮かんだものは一つだった。
私が其の色を探していると、広げられた多くの反物の中に深紫色の反物がある事に気付いた。
私は其れを手に取り、女店主に尋ねた。
「深紫色は、禁色(高位の者のみが使う事を許された色)のはずでは・・・?」
女店主は、少し苦笑いしながら答えた。
「ああ・・・。
実は最近、其れが少しずつ許されるようになりまして・・・。
武士の中にも、鎧に取り入れる人が増えているのですよ・・・。
まあ・・・。
少々値が張りますので、深紫色の反物を買われるのは平様などの極一部の方々だけですけれどね・・・」
禁色が、武士にまで使われるようになって来ている・・・。
其れ程まで、武士の力は強まっているのか・・・。
ならば、貴族は益々困窮しているのでは・・・。
私は、再び父上達の事を思い出した。
父上達も、苦しい思いをなされているのではないだろうか・・・と・・・。
「秋子?」
私は突然名を呼ばれ、驚いた。
そして、橘の方を振り向いた。
橘は私の肩に手を置き、心配そうに私を見つめていた。
私は、ぎこちない笑顔で答えた。
「ごめんなさい・・・。
何でも無い・・・」
私の少し震えた声に、橘は眉を寄せた。
そして少し目を瞑った後、ゆっくりと目を開き、私の目を見つめながら聞いた。
「秋子は、此の反物が欲しいのか?」
私は自分の手の中にある深紫色の反物に目を落とし、首を横に振った。
「ううん。
違う」
そう言って、私は深紫色の反物を元の場所に戻した。
そして、其の右隣りにある反物を手に取りながら言った。
「私は、『此れ』が欲しい」
其の反物を橘に見せながら、私は答えた。
橘は少し驚いた顔をし、私に聞いた。
「秋子は・・・『其れ』が・・・欲しいのか・・・?」
「うん。
私は、『此れ』が欲しい」
私の答えに、橘は少し泣きそうな顔をしながら言った。
「・・・分かった。
店主。
此れをくれ」
そう言って橘は反物を私から受け取り、女店主に渡した。
そして橘は背負っていた籠を降ろし、女店主の前に差し出しながら続けた。
「此の野菜全てと、其の反物を交換したい」
「こんなにも大量な野菜・・・。
あ・・・有難うございます・・・。
では、其の野菜の量に見合う長さに此の反物を切ってまいりますので、少々お待ちください」
そう言うと、女店主は再び店の奥へと入って行った。
私は、橘の袖を引きながら言った。
「橘・・・」
「ん・・・?」
「野菜・・・沢山使ってしまったね・・・」
「心配ない。
また、作れば良い事だ」
「私・・・もっともっと野菜作り手伝うね・・・」
「・・・ああ」
橘は、にっこりと笑った。
暫くすると女店主は奥から戻って来て、私に反物を渡した。
私は受け取った反物を、強く握り締めた。
反物を大切に抱えながら、私は橘の方を向き言った。
「有難う」
橘は、嬉しそうに微笑んでくれた。
お店を出る時、橘が女店主に聞いた。
「遺体が、以前より増えているな・・・」
女店主は、溜息をつきながら答えた。
「はい・・・。
疫病が収束したとはいえ、多くの人が疫病によって死にました・・・。
耕す人がいなくなった農地は荒れ、凶作も続いて作物が採れなくなってしまいました・・・。
御上は米や塩を配ってはくれましたが、それでも足りなくて・・・。
食べる物が無い者は、次々と死んでいきました・・・。
私の店のお客様は高貴な身分の方もいらっしゃるので、私も何とかやっていけるのですが・・・」
「・・・」
「ただ、これは疫病などの天災のせいだけではないのです・・・」
私は、女店主の言葉に驚いた。
そして、女店主に聞いた。
「天災のせいだけではない?」
其れに対し、女店主は憤りながら答えた。
「戦のせいです・・・」
「戦・・・?」
「はい。
前の戦で武士は兵士として多くの働き手を連れて行き、ついでに少ない食べ物までも持って行ってしまいました。
それにより残された人々は飢え死に、そして未だに苦しみ続けているのです。
今の状況は『天災』と言うより、むしろ『人災』です」
「・・・」
「御上は武士には逆らえないから、見て見ぬふりをする・・・。
そればかりか、【改元(※注17)】して今まで『有った事』を『無かった事』にしようとする。
ああ。
勿論、喜ばしい時に【改元】する事は良い事だと思いますよ。
でも、何か不吉な事があるたびに【改元】するのはどうかと思いますよ。
御上は地震や疫病があると、直ぐに【改元】しますからね。
最近も、【改元】したはずです・・・。
本当に、一体今は何年か分からない・・・。
【改元】しても、何も変わりはしないのに・・・。
変わろうと努力しなければ、何も変わりはしないのに・・・。
表面だけ変えても、根本を正さなければ意味が無いのに・・・。
ああ・・・。
すみません・・・。
お客様に愚痴をこぼしてしまうなど・・・。
今言った事は、どうかご内密に・・・」
女店主は、慌ててそう言った。
確かに、こんな事を言っては朝廷にも武士にも目を付けられてしまう。
そんな女店主に対し、橘は少し気の毒そうに答えた。
「ああ・・・。
分かった・・・」
そして私と橘は、お店を後にした。
橘は、ゆっくり歩きながら呟いた。
「再び、戦が始まるかもしれない・・・」
「え・・・?」
「今、平氏は武力と政治力を以て、朝廷を牛耳り始めている。
しかし、其の平氏のやり方に不満を持つ者が増えて来ている。
朝廷・・・貴族・・・庶民・・・そして、源氏・・・」
「源氏・・・?
でも源氏は、平氏によって滅ぼされたのでは?」
「生き残りがいる。
そして平氏に不平不満や恨みを持つ者達が、自分達の力を増大させようと目論む者達が、源氏に力を貸そうとするだろう。
そうすれば、再び戦が始まる」
「・・・」
「何故、≪人間≫は力を持とうとする?
何故、自分達のものにしようとする?
何故、自分達の領土を広げようとする?
力を持つと言う事は、自分のものにすると言う事は、領土を広げると言う事は、其処に住まう人々の命をも担うと言う事だ。
人々を守る責任があると言う事だ。
其れを理解している≪人間≫が、どれ程いる?」
「・・・」
「私利私欲の為に戦をしようと考えている限り、戦が終わる事は無い」
戦が・・・始まる・・・。
人が、死ぬ・・・。
父上達は・・・。
父上達は・・・。
私は、震えながら反物を握り締めた。
橘は震える私の肩を抱き、私の目をじっと見つめながら言った。
「秋子・・・」
「・・・?」
「秋子の家に行こう」
「・・・どうして・・・?」
「ずっと、心配だったのだろう・・・?
家族の事が・・・?」
『心配』
私は、家族の事を『心配』していた・・・?
私は、逡巡した。
私は、自分の心が分からなかった。
すると橘は黙ったままの私を細い路地に連れ込み、≪鬼≫の姿に戻った。
そして、私を抱きかかえて飛んだ。
私は、橘にしがみ付きながら聞いた。
「私の家の場所を、知っているの?」
橘は、真っ直ぐ前を見ながら答えた。
「秋子の父の名は、平忠知だろう?
大体の場所は、分かる」
私は、橘の答えを聞いて驚いた。
私はあの時、初めて橘に会った時、橘に父の本当の名を告げなかった。
でも、橘は知っていた。
橘は私が嘘をついている事を知りながら、ずっと知らない振りをしていたのだ。
私の事を思って、橘は知らない振りをし続けてくれていたのだ。
私は、唇を嚙んだ。
そして私は、小さな声で橘に聞いた。
「・・・知って・・・いたの・・・?
私の父の・・・本当の名を・・・?」
「ああ。
秋子は私から父親を守りたかったから、嘘の名を私に教えたのだろう?」
私はあの時、父を守る為とはいえ、橘に嘘をついてしまった事を悔いた。
私は、橘を強く抱き締めながら言った。
「・・・ごめんなさい・・・」
橘は、私に優しい眼差しを向けながら答えた。
「謝る事は無い。
私は、秋子は自分の家族を大切にしていると思っただけだ」
私が、『家族を大切にしている』・・・?
そんな訳は無い。
私を見捨てるような家族を、私が大切にしている訳が無い・・・。
私が家族を守りたいなんて、思っている訳が・・・。
いや。
違う。
私は今日一日ずっと、家族の事が頭から離れなかった。
『家族は、苦しんでいるのではないだろうか?』
『家族は、無事であろうか?』
私は今日一日ずっと、家族の事を考えていた。
いや。
今日だけでは無い。
私は毎日毎日、家族の事を案じていた。
私は家族の事を忘れた事など、一度も無かった。
私は、橘の顔を見た。
橘は、真っ直ぐ前を見ていた。
私は此の時、初めて気付いた。
橘は反物を買う為だけに、私を町に連れて来たのではない。
私に、町の様子を見せたかったのだ。
町の様子を見せ、家族を忘れようと自分に言い聞かせている私から、私自身が生み出した抑圧から、私を解放しようとしていたのだ。
以前、橘は私に聞いた。
『家族に会いたいか?』と。
あの時の私は、自分を棄てた家族に『今直ぐ会いたい』とは思えなかった。
けれど、『会いたくない』とも言えなかった。
口にしたら、『其れ』が現実になってしまうと思ったから。
家族にもう二度と会えなくなるのは、怖かった。
嫌だった。
苦しかった。
寂しかった。
悲しかった。
私はずっと、家族に会いたかったのだ・・・。
そして、そんな私の気持ちを橘は知っていたのだ。
橘は、初めから私を家族の許へ連れて行くつもりだったのだ。
家族の事を心配している私を安心させようと、私に家族の様子を見せようと思って私を町に連れて来たのだ。
すると橘は私の方を見て、私の目をじっと見つめながら言った。
「私は、途中までしか道を知らない。
だから、其の先は秋子が教えてくれ」
私は、橘の目を見つめ返す事が出来なかった。
私は、橘から目を逸らした。
此のまま橘の目を見続けていたら、きっと泣いてしまうと思った。
橘に、涙を見せる訳にはいかなかった。
橘に、心配を掛けさせたくなかった。
私は、小さな声で呟いた。
「・・・分かった・・・」
私は、橘に自分の家へと続く道を伝えた。
私の気持ちは、複雑だった。
早く、家族の無事な姿を見たかった。
でも其の気持ちと共に、あの時家族から受けた仕打ちも脳裏に蘇って来た。
『会いたい』
けれど
『会いたくない』
そして
『怖い』
家族は、少しでも私の事を思ってくれているのだろうか?
生きているのか死んでいるのか分からない娘の事を、家族は思い出してくれているのだろうか?
私は家に近づくつれ、橘の着物を強く握り締めた。
橘はそんな私の背中を、優しく摩ってくれた。
暫くすると、見慣れた景色が目に入って来た。
「此処か」
そう言うと、橘は私がかつて住んでいた屋敷の屋根の上に降り立った。
屋根から見る屋敷は、至る所が朽ちていた。
以前よりも、屋敷は傷んでいた。
父上達は、苦しい生活をされているのかもしれない・・・。
私は、心配になった。
すると屋敷の中から、母上の叫び声が聞こえて来た。
「貴方!!
陰陽師が勧めたからと言って、毎日毎日祈祷などしてどうするおつもりです!!
祈祷など、無駄です!!
陰陽師の言う事など、当てにはなりません!!
三年前に、証明されたではありませんか!?
陰陽師に言われた通り秋子を生贄として≪鬼≫に差し出しても、直ぐには疫病は収まらなかったではありませんか!?
しかも陰陽師は自分達の非を認めるどころか、娘可愛さのあまり私達が秋子を逃がしたと言う噂までも流したではありませんか!?
其れを信じた朝廷は私達を蔑ろにし始め、生活は益々困窮してしまったではありませんか!?
陰陽師など、信用してはなりません!!
祈祷など、何の意味もありません!!
現実を見て下さい!!
祈祷などやっている暇が有るのならば、何処かへ行ってお金でも借りて来て下さい!!
全く、こんな事なら秋子を生贄になどしなければ良かった・・・!!
他に、使い道があったかもしれないのに・・・!!
秋子は、結局何の役にも立たない子だった・・・。
いえ・・・。
我が家に不幸を呼び寄せただけに過ぎなかった!!」
そう言って、母上は部屋を出て行った。
父上は母上が出て行った後も、祈祷を続けた。
母上の言葉は、父上には聞こえていないようだった。
私は、橘の着物を握り締めた。
私は、少し掠れた声で言った。
「姉上の事が・・・心配・・・」
すると橘は、少し震える手で私の肩を強く抱いてくれた。
そして、無言で私を姉上の部屋が見える所まで連れて行ってくれた。
姉上は、部屋の中で貝合わせをしていた。
姉上は、三年前と何も変わっていなかった。
美しい着物を着て、ただただ生きていた。
今、姉上に通う男はいないように見えた。
私の家を、他の貴族達は敬遠しているのかもしれない。
だからと言って、姉上は悲観しているようには見えなかった。
姉上は、何も気にしていないようだった。
ただただ美しい、人形のようであった。
何も、変わっていなかった・・・。
ああ・・・。
父上も母上も姉上も、何も変わっていなかった・・・。
私が家に居た時と、同じだった・・・。
家族にとって私は、居ても居なくてもどちらでも良い存在だったのだ・・・。
私の事など、考えていなかった・・・。
私の心配など、していなかった・・・。
何も、変わっていなかった・・・。
変わろうとしていなかった・・・。
そして、これからも変わる事は無いのだろう・・・。
私は、橘の着物を強く握り締めながら言った。
「橘・・・」
「・・・」
「帰りたい・・・」
「・・・ああ・・・。
帰ろう・・・」
家に帰る途中、私達は何も話さなかった。
橘は、苦しそうな表情をしていた。
橘は、私に今の家族の姿を見せた事を後悔しているようだった。
橘のせいでは無いのに・・・。
私のせいで、橘を悲しませてしまった・・・。
私は、辛そうな橘の顔を見たくなかった。
私は、橘に何か言わなければならないと思った。
橘のせいではないと、自分は大丈夫だからと、言わなければならないと思った。
私が口を開こうとした其の時、私は町中で二人の子供が放置された遺体を運んでいる姿を見つけた。
私は気になり、橘に言った。
「橘。
少しだけ、下に降りる事は出来る?」
「ああ」
橘は人目のつかない所を見つけ、下に降りた。
そして≪人間≫の姿に化けて、私と共に表に出た。
私は、遺体を運んでいた子供達を探した。
「此の辺りだったと思うけれど・・・。
あ!」
私は、遺体を運ぶ二人の子供を見つけた。
二人は、小さな男の子と女の子だった。
町の死体を空き地や河原に運ぶのは、検非違使(違法を検察する天皇の使い)の役割だ。
しかし、実際に運ぶのは非人(被差別民の事)と呼ばれる≪人間≫だった。
二人は、非人には見えなかった。
私達は二人に近づき、優しく声を掛けた。
「どうして、遺体を運んでいるの?
何処へ運ぶの?
貴方達は、兄妹?」
二人は答える事を、少し躊躇っていた。
そして男の子が、か細い声で答えた。
「おとなが・・・はこばないから・・・いもうとといっしょに・・・かわらへ・・・はこぼうと・・・」
「何故、大人が運ばないの・・・?」
「はこぶおとなが・・・いない・・・。
だから・・・したいが・・・そのままに・・・されている・・・。
そのままだと・・・しんだひとたちが・・・かわいそう・・・」
そう言うとお辞儀をして、二人は遺体をゆっくりと運んで行った。
一生懸命遺体を運ぶ二人を見つめながら、橘は静かに言った。
「飢饉でも、疫病でも、戦でも、≪人間≫は簡単に死ぬ。
だから命が、軽んじられる。
死が身近にある為、≪人間≫は≪人間≫の命を蔑ろにする」
「・・・」
「欲や保身に塗れた≪人間≫。
力を持った≪人間≫。
理性を失った≪人間≫。
≪人間≫同士が、憎み合う。
血の繋がった親兄弟でも、自分の為に平気で殺す。
殺し合う」
「・・・」
「≪人間≫は、≪人間≫を喰らう私達を≪鬼≫と言う。
では、≪人間≫とは何だ?
≪鬼≫とは、何だ?」
「・・・」
「私は疫病が蔓延した時、疫病に罹った≪人間≫を傷付けている≪人間≫を沢山見て来た。
飢餓の時、物を独占し、強奪する≪人間≫を沢山見て来た。
≪人間≫は自分の為に、そして自分にとって大切な≪人間≫、守りたい≪人間≫の為に他人を犠牲にしようとする。
たとえ其れにより他の≪人間≫が苦しもうとも、自分を、大切な≪人間≫を守りたいと思っている≪人間≫にとって、其の行為は【正義】なのだ。
其の心は、純粋だ。
其の心を責める事は、出来ない。
だが・・・!!」
「・・・」
「私は以前、疫病で苦しむ≪人間≫と其の≪人間≫を守る≪人間≫を殴っている≪人間≫を目にした事があった。
私には、理解出来なかった。
何故、同じ≪人間≫が苦しんでいる≪人間≫を、其れを救おうとする≪人間≫を傷付けるのか。
何故、同じ≪人間≫が傷付いている≪人間≫を、其れを支えようとする≪人間≫を苦しめるのか。
私は、其の≪人間≫の行為が我慢出来なかった。
私は、其の≪人間≫を許せなかった。
私は、殴っている≪人間≫を止めた。
其の≪人間≫は、言った。
〖疫病に罹った≪人間≫は、疫病を他人にうつす。
自分だけでなく、他人も殺す。
疫病に罹った≪人間≫は、【悪】だ。
其れを助けようとする≪人間≫も、【悪】だ〗
と・・・。
確かに、疫病は他人にうつる。
もし自分の大切な≪人間≫に疫病がうつされたらと、恐れる気持ちも分かる。
此の≪人間≫も、誰かを守る為に此の様な愚かな事をしているのだと思った。
私は、何も言えなかった。
しかし私が其の≪人間≫を再び見た時、其の≪人間≫は笑っていた。
此の≪人間≫は他人の為と言いながら、笑いながら疫病に罹っている≪人間≫を殴り続けていた。
此の≪人間≫の言っている事は、嘘だったのだ。
此の≪人間≫は、他人の為に疫病に罹っている≪人間≫を殴っていたのではない。
自分の欲望と快楽の為に、自分の為に、他人を傷つけていたのだ」
「・・・」
「他人の為と言っておきながら、自分の為だけに他人を傷つけるのであれば、其れは【正義】ではなく【偽善】に過ぎない。
自分の為に、他人を犠牲にしているに過ぎない」
私は此の時、橘は『あの時の≪鬼≫』を思い出しているのだと思った。
橘の為ではなく、自分の為に≪人間≫を殺し喰らったあの≪鬼≫の事を・・・。
『あの時の≪鬼≫』と疫病に罹っている≪人間≫を殴る≪人間≫が、橘には重なって見えているのかもしれない。
橘は、苦しそうに続けた。
「≪人間≫は傷つき易いから、自分の心の痛みを他人にも負わせて良いと言うのか?
≪人間≫は弱いから、自分を守る為に同じ≪人間≫を傷付けても良いと言うのか?
≪人間≫は自分が安心感を得る為ならば、傲慢であっても良いと言うのか?
≪人間≫は苦しみから逃れる為ならば、自我を失っても良いと言うのか?
≪人間≫は≪人間≫を傷付けても、殺しても良いと言うのか?
其れは、≪人間≫だから仕方の無い事なのか?
血で血を洗う争いを、同じ≪人間≫を傷付ける事を、≪人間≫は正しい事と言うのか?」
「・・・」
「私は長く生きて来たから、醜い≪人間≫を沢山見て来た。
私は、何度も同じ光景を見て来た。
≪人間≫は、ずっと変わっていない。
歴史は、繰り返されている。
≪人間≫は、何百年も変わっていない。
≪人間≫は≪人間≫を傷付け、殺し続けている」
「・・・」
「≪人間≫が今までやって来た事は、≪人間≫が言う≪鬼≫の所業と同じではないのか?」
「・・・」
「≪鬼≫と≪人間≫、どちらが卑しい?
どちらが、醜い?
どちらが、浅ましい?」
「・・・」
「≪人間≫は私達を≪鬼≫と言うが、≪鬼≫である私達と≪人間≫、どちらが本当の≪鬼≫なのだ?」
すると橘は子供達が歩いて行った方を見つめながら、眩しそうな目をして呟いた。
「だが・・・」
「・・・」
「だが・・・醜く浅ましい≪人間≫だけではなく、先程の兄妹のような≪人間≫も・・・私は沢山見て来た・・・」
「・・・」
「どんなに苦しくとも、誰かを助けようとする≪人間≫が、どの時代にも、どの国にも必ず居た」
「・・・」
「人を思いやる心は、時代も、国も、種族も、年齢も、性別も関係無い。
人を思いやる心は、其の者が持って生まれて来たものだ・・・。
其れは永遠に変わらず、共通するものだ・・・」
「・・・」
「極限状態の時にこそ、≪人間≫の本性が現れる・・・。
自分の為に生きる≪人間≫・・・。
そして、誰かの為に生きる≪人間≫・・・」
「・・・」
「心に余裕が無ければ、誰かに優しくなど出来ない・・・。
心に余裕が無い時でも他者に優しく出来る≪人間≫こそ、本当に優しい≪人間≫なのであろう・・・。
どんなに辛くとも、苦しくとも、人間性や自我を保ち続ける事の出来る≪人間≫こそが、本当の≪人間≫なのであろう・・・」
「・・・」
「本当の≪人間≫を見た時、私は確信した・・・。
『此の世界を救う事が出来る・・・』
『此の世界は救われる・・・』
と・・・」
「・・・」
「・・・時々・・・【橘】は・・・彼らの事なのではないかと思う時がある・・・。
彼らこそが、【橘】と言う名に相応しいのではないかと・・・。
私が【橘】ではなく、彼らが本当の【橘】なのではないかと・・・」
橘は、悲しい顔で呟いた。
そして橘は私の方を向き、私の目を強く見つめながら言った。
「秋子。
私には、≪人間≫を救う力がある。
私は、≪人間≫を救う事が出来る。
だが、私は何もしない」
「・・・」
「≪人間≫を救う事が出来るのは、≪人間≫だけだ。
≪人間≫が、成すべき事だ。
≪人間≫が、成さなければならない事だ」
「・・・」
「正に今、≪人間≫は試されているのだ」
「・・・」
「≪人間≫はどれ程の犠牲を払って、此の世界が成り立っているのかを知らなければならない。
此の犠牲の重さに気付かない限り、≪人間≫は≪人間≫も世界も守る事は出来ない」
「・・・」
「≪人間≫を生かしも殺しもするのは、≪人間≫次第だ。
此の世界をどうするかは、≪人間≫次第だ。
此の世界が平和であるか、争いばかりであるかは、≪人間≫次第だ」
『≪鬼≫のような≪人間≫が滅ぼそうとする此の世界を、≪人間≫は自分達の手で救わなければならない』
『≪人間≫の世界は、≪人間≫が守らなければならない』
そう言っている橘の悲しそうな表情を見ていると、私は考えずにはいられなかった。
本当は、橘は
『多くの≪人間≫を、自分の手で救いたい』
と、思っているのではないかと・・・。
其れと同時に、橘は恐れているのだ。
『自分が≪人間≫と関わる事により、≪人間≫の死を早めてしまうのではないか』
と・・・。
『救いたい』
けれど
『救う事が出来ない』
でも・・・
少なくとも・・・
私は・・・
私は橘の目を見つめながら、笑顔で言った。
「橘・・・」
「・・・」
「今日は・・・連れて来てくれて・・・有難う・・・」
「・・・秋子・・・」
「来て・・・良かった・・・。
父上達が生きている姿を見る事が出来て、安心した・・・」
「・・・辛くは・・・なかったか・・・?」
「『辛くなかった』と言えば嘘になるけれど、来る事が出来て、此の目で色々と見る事が出来て、確かめる事が出来て・・・『良かった』・・・と思っている・・・」
「・・・」
「そんな顔をしないで。
私は、大丈夫だから」
「・・・」
「橘・・・」
「・・・」
「有難う・・・」
「・・・うん」
私達は、微笑み合った。
そして私は、子供達が歩いて行った方を見つめながら言った。
「橘・・・」
「・・・」
「私、≪人間≫は此の世界を救う事が出来ると思う」
「・・・」
「橘が見て来た≪人間≫が、そして私が見た≪人間≫が、此の世界には沢山いる」
「・・・」
「≪人間≫はきっと、自分達の世界を守る事が出来る。
≪人間≫は、橘のように、橘として、此の世界を永遠に支え続ける。
だから・・・」
私は橘の方を振り向き、満面の笑みで言った。
「だから橘は、もうそんな顔をしなくて良い」
すると橘は、泣きそうな顔で笑った。
私は橘の此の顔が、好きだ。
橘の泣きそうな笑顔は、嬉しい笑顔以上の笑顔だから。
橘は私に手を差し出し、少し心配そうに言った。
「秋子・・・」
「ん・・・?」
「私と共に・・・来るか・・・?」
『私と共に、来るか』
其の言葉は、私が初めて橘に会った時に言われた言葉だった。
橘との生活は、とても楽しい。
毎日、特別な事がある訳ではない。
一緒に掃除をしたり、一緒に畑を耕したり、一緒に果物を採ったり、一緒に洗濯をしたり、一緒に魚を釣ったり、一緒に料理をしたり、一緒にご飯を食べたり・・・。
そんな他愛の無い日常だけれど、私の心は満たされていた。
実家にいた時は、息苦しくて辛かった。
今よりも、少しだけ豪華なものを食べてはいた。
今よりも、少しだけ広い屋敷に住んではいた。
今よりも、少しだけ綺麗な着物を着てはいた。
私は、生きてはいた。
けれど、活きてはいなかった。
自分で色々な事をする、出来ると言う事は、こんなにも楽しい事なのだと、橘と暮らして初めて知った。
私に『生きる喜び』と『活きる楽しさ』を、橘は教えてくれた。
私は此の先もずっとずっと、橘と一緒に居たいと思った。
橘と『生きて』『活きて』『行きて』、『往きたい』と思った。
あの時私は、答えに窮した。
行くべきか、行かざるべきか・・・。
でも、今なら迷わず言える。
私は橘の差し出す手に自分の手を重ね、しっかりと橘の目を見据えて答えた。
「うん。
行く。
私は、此の先もずっと貴方と共に生きる。
貴方と・・・生きる時間は違うけれど・・・。
貴方と・・・同じ長さの時を過ごす事は出来ないけれど・・・。
私は・・・貴方と共に生きて行きたい・・・。
私は、貴方と共に生きたい・・・。
橘・・・」
すると橘は、少し悲しそうに笑いながら言った。
「≪人間≫の命は、短い・・・。
しかし短いからこそ、其の限られた時間の中で一生懸命に生きる・・・。
其れが、美しい・・・。
そして私は、其れが羨ましい・・・」
そう言って、橘は目を細め私を見つめた。
橘は、【橘】だ・・・。
【橘】は、【非時香果(※注18)】とも言う。
常世の国に生る黄金の実・・・。
『時じくの香の木の実』・・・。
其の実は一年中芳しい香りを放ち、其の実を食べると不老不死になると言われている。
丸く黄色い鬼橘(柚子)は、月のように美しく永遠に生り続ける。
【橘】と同じように、橘は此の先ずっと生き続ける。
【橘】と言う名と共に、苦しみと悲しみを抱きながら生き続ける。
私が死んだ後も、橘は生き続ける。
生き続けなければならない。
だからせめて私が死んだ後、優しい橘が、今まで苦しんで生きて来た橘が、此の先も幸せに生きて行く事が出来るように、私は自分の命が尽きるまで橘と共に生きよう・・・。
同じ時を生きよう・・・。
私が死んでも橘が寂しくないように、橘を此の世に繋ぎ止めるだけの思い出を沢山残そう・・・。
橘の為に、私は橘が幸せに生きて行く事が出来るものを、此の世に沢山残そう・・・。
私が、橘の思い出となろう・・・。
私は、自分の腕の中にある反物を握り締めた。
家に帰ったら、此の反物で袿を縫おう。
私は其の袿を着て、其の袿に橘と自分の思い出を残そう・・・。
何れ私が死に、橘が私が着ていた袿を着ている時、橘が私達の楽しい思い出を思い出せるようにしよう・・・。
橘色の袿に、私の思いを託そう・・・。
私は橘色の反物を抱き締めながら、橘に微笑んだ。
橘も、微笑み返してくれた。
ああ・・・。
此の微笑みを見て、子供達は橘に【たちばな】と言う名を付けたのだ。
橘の花のように、可憐で真っ白で清らかな橘に・・・。
秋風が吹いた。
風と共に、橘の優しい香りが私を包んだ。
私は、少し冷たい橘の手を優しく握り締めた。
そして、彼の名を呼んだ。
「橘・・・」