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トキジクノカクノコノミ  作者: 野口 ゆき
1/3

トキジクノ

私は、下級貴族の娘である。


家格は、高くない。


お金も、ない。


貴族の世界では、家柄が何よりも重要である。

重要な官職に()く事が出来る家は、公家(くげ)(※注1)等の限られた特権階級の家だけである。

家格はある程度固定化されている為、下級貴族である私の家はの先も重要な官職に就く事は出来ない。

なので、お金持ちになる事もない。

私の家は一生、下級貴族のままだ。

ただ最近、私達下級貴族の中で、力で(もっ)()し上がろうとする者達が出て来た。

彼らは、『武士』と呼ばれる下級貴族出身の者達だ。



承平(じょうへい)天慶(てんぎょう)に起きた乱(※注2)。

奥州で起きた乱(※注3)。

保元(ほうげん)平治(へいじ)に起きた乱(※注4)。


(いず)れの乱も、『武士』が関与していた。

朝廷は、『武士』の存在を無視する事が出来なくなっていた。

戦で功績を残した『武士』は、朝廷に影響を与え始めていた。

私の家も力を付け始めた『武士』の一族ではあったけれど末端であった為、今までと何も変わらなかった。

変わったのは、公家達である。

『武士』の台頭(たいとう)により、公家の発言力は低下した。

また度重なる戦によって国は疲弊し、疫病や地震により多くの農民達が亡くなったり農地を放棄した為に納税は滞り、荘園(しょうえん)(※注5)を維持する事も難しくなっていた。

公家は、以前と同じような暮らしが出来なくなっていた。

今は、摂関家(せっかんけ)である藤原家でさえも困窮していると聞く。

調度品(ちょうどひん)質屋(しちや)に預けたり、和歌を教えてお金を得たり、荘園の経営に直接関与したりと、生きる為に必死である。

下級貴族の私の家も、此の先どうなるか分からない。

もう、貴族の世ではないのだろう・・・。

家柄ではなく、『実力』がものを言う時代に変わりつつあった。


『実力』も無い、貧乏で苦しい、そんな下級貴族の家に生まれた私は、ある日≪鬼≫の生贄(いけにえ)になる事になった。

再び疫病が流行(はや)り出し、どうも()れは【疫鬼(えきき)(※注6)】と言う名の≪鬼≫の仕業であると、さる高名な陰陽師(おんみょうじ)(※注7)が言ったそうだ。

毎年、【追儺(ついな)(※注8)】で鬼払(おにばら)いをしているはずなのに、わざわざ生贄を≪鬼≫に与える必要があるのだろうかと思った。

ただ私がそう思ったところで、何も変わりはしないのだけれど・・・。

其の陰陽師が裳着(もぎ)(※注9)を終えた私か姉か、どちらかを大江山(おおえやま)に住まう≪鬼≫の生贄にすれば、此の疫病は収まると言ったそうだ。

かつて大江山に居た酒呑童子(しゅてんどうじ)と言う≪鬼≫は、百年以上も前に源頼光(みなもとのらいこう)様らによって成敗された・・・。

今回の【疫鬼】と言う≪鬼≫は、酒呑童子の代わりに大江山に住み着いた≪鬼≫なのだろうか・・・?

ならば生贄ではなく、頼光様達のような方々を≪鬼≫の討伐に向かわせれば良い事なのに・・・。

ああ・・・。

そうか・・・。

此れは、単なる口実なのだ・・・。

朝廷は『討伐』ではなく、()()()『生贄』を選んだのだ。

私の姓は、『(たいら)』。

朝廷にとって邪魔な存在である『武士』の一つ平氏の一部だけでも排除したいと、朝廷は、公家達は考えているのかもしれない。

自分達の地位を奪った『武士』に対して怒りを晴らそうと、少しでも平氏の勢力を削ごうと、敢えて平氏に関係のある家の娘を選んだに違いない。

疫病対策の為の生贄ならば、平氏も文句は言うまいと思ったのだろう。

ただ、清盛(きよもり)様と結び付きの強い家を選べば、平家一門に目を付けられる。

たとえ平氏排除が目的でなかったとしても、高貴な身分の方を生贄に選べば、今度は他の貴族達の恨みを買ってしまう。

だから平氏でも末端で、尚且つ下級貴族でもある私の家を朝廷は選んだのだ。

生贄にしても何の差し障りの無い都合の良い娘、其れが私達だったのだ。


私達に白羽の矢が立った時、両親は断らなかった。

断れなかった。

断ろうとしなかった。

もし断れば(みやこ)を見殺しにした無慈悲な家、忘恩(ぼうおん)()と言われ、人々に冷たい目で見られ続ける事になるだろう。

そもそも、朝廷からの要求を断れるはずもなかった。

要求と言うよりも、此れは命令だったのだから。

私達に、断る権利は無かった。

いや。

()()()()()()()()()

此の朝廷からの要求は、両親にとって()()()だった。

要求を受け容れれば、貧乏から抜け出せる事が出来るかもしれないと両親は考えていた。

愛しい娘を≪鬼≫に差し出せば人々から同情を得る事が出来、また京を救った英雄とも呼ばれ、地位も名誉もお金も得られるのではないかと両親は期待していた。

朝廷からは、そんな話は一切無かったけれど・・・。

両親に、断る理由など無かった。

両親が要求を呑む事は、私達が生贄として選ばれた時から決まっていたのだ。


生贄は私達姉妹の内、どちらかであった。

そして両親は、迷わず私を選んだ。

私の一つ上の姉は、美しかった。

其れに比べて、私の容姿は十人並みだった。

生まれた時から、私と姉には『差』があった。

姉は美しい着物を着ていたが、私はいつも地味な着物を着せられた。


「其の方が、貴方には似合います」


と、母は見下したように私に言った。


父は私の姿を見る度に


「もう少し美しければ・・・」


と、溜息混じりに呟いた。


姉は、両親から(ないがし)ろにされる私を見て


「可哀そうに・・・」


とは言っていたが、決して助けようとはしなかった。

憐れんだ振りをしながら、地味な私の姿を見て優越感を得ているようにも見えた。


『自分の方がまし』


であると。


しかし其の姉も、両親にとっては『道具』でしかなかった。

そして両親は私の事を、『道具』とすら考えていなかった。


両親は私達を、『何かに使えるかどうか』常に模索していた。

両親は伸し上がる事しか、お金の事しか考えていなかった。


美しければ、上級貴族が家に通って来る可能性がある。

現に、姉の許には多くの文が届いていた。

其の中には、上級貴族の文が混ざっていると両親が嬉しそうに話していた。

もし其の上級貴族が姉の許に通う事になれば、生活が潤うに違いないと両親は考えていた。

美しい姉には、其れを実現させる可能性があった。

一方、私には其れを託す事は出来ないと両親は考えていた。

私の許には、文が一通も届いていなかった。

両親にとって私は、姉ほどの利用価値が無かったのだ。


今回の朝廷からの要求は、両親にとって私を『道具』として使える良い機会だった。

両親は、やっと私の利用価値を見出せたのだ。

両親は私を使う事が出来ると言う事に、喜んでいるようだった。


私は生贄になるようにと両親から言われた時、特に驚きもしなかった。

(むし)ろ、私が選ばれた事に納得した。

私が選ばれると、思っていた。

何を言っても、無駄だと分かっていた。

私は、誰にも何も言えなかった。

私には、頼る≪人間≫が一人もいなかった。


家もある。

家族もいる。

着る物もある。

食べる物もある。


其れでも私は、一人だった。


()()()()()・・・。



❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃



数日後


夏の暑さが少し和らぐ黄昏時(たそがれどき)


私は、大江山へ向けて出発する事になった。


生贄として家を出る時、母が言った。


「≪鬼≫は、美しい女性しか喰らわないと聞きました・・・。

私達は貴方が≪鬼≫に喰われる事は無いと思ったから、貴方を生贄として差し出すのですよ・・・。

≪鬼≫が貴方を喰らわなかったら、必ず戻って来るのですよ・・・」


と、悲しそうな顔を装いながら私に言った。

ならば何故、美しくない私をこんなにも着飾ったのだろう?

何故、私の顔を真っ白に塗り、唇に真っ赤な紅を差したのだろう?

私を美しく装ったのは、私を≪鬼≫に喰らわせる為ではないのだろうか?

≪鬼≫に私を喰らって貰いたいから、私を着飾ったのではないのだろうか?


母の此の言葉で、私は決心した。


『もし助かったとしても、二度と此の家には戻らない』


一人で生きて行く自信など、無かった。

一人で生きて行けるとは、思わなかった。

たとえ今回生き永らえたとしても、恐らく早々に死ぬだろうと思った。

でも、家には戻りたくなかった。

戻れば、厄介者が帰って来たと両親は思うだろう。

役立たずめと、私を(なじ)るだろう。

朝廷に顔向け出来ない、地位も名誉も失うと、私を責め続けるだろう。

そして暫く経ってから、両親は『道具』としての私の違う利用方法を考え始めるだろう。

今回の事で、両親は私の新しい利用価値に気付いたのだから。

両親は、私を使う機会を模索し続けるだろう。

私が家に戻れば、同じ事が繰り返されるだけなのだ。

だから私は、家に帰らない方が良いのだ。

帰りたくない。

そもそも、≪鬼≫が私を逃がしてくれる訳がない。

きっと表面の美しさに騙された≪鬼≫は、私を喰らうだろう。

どうせ喰われるのならば、苦しまないで喰われたいと思った。

喰う前に、殺して欲しいとさえ思った。


父と母と姉は、『気を付けて』と一言だけ言って家の奥へと入って行った。


抱き締めてもくれなかった。


私は従者一人が引く牛車(ぎっしゃ)に乗って、大江山へ向かった。


暫く牛車に揺られていると、疫病で苦しむ人々の(うめ)き声が外から聞こえて来た。

牛車は、町の中を通っているようだった。

牛車の御簾(みす)を扇で少し持ち上げると、外は真っ暗だった。

何も見えなかった。

一面の闇。

初めての経験だった。

しかし、不思議と恐怖を感じなかった。

此れから≪鬼≫に喰われる私にとって、其れは怖いものではなかった。


風と共に、悪臭が牛車の中に入って来た。


糞尿(ふんにょう)死人(しびと)の腐った臭い。

真っ暗で何も見えなかったけれど、町の至る所には疫病で苦しんでいる人々が沢山道に横たわっているのだろう。

私は最近、家を出る事が無かったから、こんなにも酷い有様になっているとは思わなかった。

何も知らなかった。


私は


『自分が生贄となって此の人達を救う事が出来るのならば、私の死にも少しは価値があるのかもしれない』


と思った。


生きて此処(ここ)に戻って来る事が出来ないのなら、最期に此の臭いを嗅いでおこう・・・。


此の≪人間≫の臭いを・・・。


もう二度と、≪人間≫として此の臭いを嗅ぐ事が出来ないのだから・・・。


私は、ゆっくりと息を吸った。


そして、静かに息を吐いた。


其れを、ただただ繰り返した。


牛車が進む毎に、町の臭いは薄れて行った。


そして、完全に≪人間≫の臭いは消えた。


代わりに、虫の鳴き声が聞こえて来た。


其の鳴き声と牛車の進む音以外、何も聞こえなかった。


「どれ位・・・時間が経ったのだろう・・・」


私は少しお腹が空いてきたので、竹の皮に包まれた乾飯(ほしいい)(※注10)を手に取った。


其れは、私が家を出る前に母が私に渡したものだった。


私は竹の皮を一枚ずつ(はが)し、其の中から乾飯を一粒ずつゆっくりと食べながら呟いた。


「此れが、私の最期の食事になるのか・・・」


乾飯は少し硬いので、お水やお湯に浸して柔らかくしてから食べる。


しかし私は、母からお水を渡されなかった。


忘れていたのだろう。


母上らしい・・・。


身一つで家を出た私も、お水を用意していなかった。


死ぬ為に行くのだから、生きる為の(すべ)が少しでもあると決心が揺らぐと思ったから。


乾飯も、本当は要らなかった。


でも、母上が少しでも私を心配して持たせてくれたのならば、持って行こうと思った。


そして、持って来て良かったと思った。


死ぬと言う決心をしていても、お腹は減るものだ。


私は、乾飯一粒一粒を()み締めながら呟いた。


「そう言えば、『万葉集(まんようしゅう)』に有間皇子(ありまのみこ)(※注11)が詠んだ辞世(じせい)の句があった・・・。

確か・・・。


『家にあれば ()に盛る(いい)を 草枕(くさまくら) 旅にしあれば (しい)の葉に盛る』

(家に居た時は器に(よそ)っていたご飯を、今は旅の途中なので椎の葉に盛る。

 こんなにも・・・変わってしまうとは・・・。

 この先私は・・・)


其れと『伊勢物語(いせものがたり)(※注12)』の東下(あずまくだ)りに、


乾飯(かれいい)のうへに涙おとしてほとびにけり』

(乾飯の上に涙が落ち、乾飯がふやけてしまった)


と言う句があった・・・」


乾飯には、悲しい出来事が(まと)わり付いている。


ただ、乾飯を食べている今の私には悲しいと言う感情さえ無かったので、涙も出なかった。


私には、涙で乾飯を戻す事が出来なかった。


仕方がないので、私は自分の唾液で乾飯を柔らかくしながらゆっくりと食べ続けた。


大江山は、遠い・・・。


時間は、沢山ある。


時間を掛けて乾飯を食べていると、お腹は自然と満たされていった。


もう此れ以上は、食べる必要はない。


私は、残りの乾飯を従者に渡した。


従者は、嬉しそうに受け取ってくれた。


従者も、疲れていたようだった。


ずっと座り続ける私も疲れたが、従者はもっと疲れている。


私自身、必要な時以外は外に出る訳にはいかない。


ただただ、牛車の中でじっとしていなければならなかった。


私は、我慢しなければならなかった。


従者は何度か休みを取りながら乾飯を食べ、少しずつ大江山へと進んで行った。


そして、やっとの事で大江山の(ふもと)に着いた。


従者は其処(そこ)に牛車を止め、乾飯のお礼を早口で言って走り去って行った。


彼は直ぐに立ち去ってしまったので、私は彼に此処まで運んでくれたお礼も言えなかった。


彼も、気の毒だ。


(あるじ)に命令されたとは言え、こんな所にまで来させられたのだから・・・。


私は


『彼が、無事に帰る事が出来ますように・・・』


と、心の中で願うしかなかった。


私は、牛車から()りた。

外は、真っ暗だった。

今は、未明(みめい)(午前2時~午前4時)だろうか・・・?

どちらへ行けば、良いのだろう・・・?


私は、辺りを見回した。


暗闇は、何も見せてはくれなかった。


町の暗闇とは、異なる暗さだった。


真黒だった。


其れでも私は、怖くなかった。


『死ぬ』と覚悟したら、何も怖くなかった。


私は、自分の役割を果たす事だけを考えた。


「取り敢えず、≪鬼≫の許へ行こう」


≪鬼≫が何処(どこ)にいるかは分からなかったけれど、頂上を目指せば会えるだろうと思った。

私は着慣れない(きら)びやかな着物を引き()りながら、木を頼りに山の中を歩いた。

普段、家の中でしか過ごさないから、少し歩いただけでも疲れた。

しかも何枚も重なった重い着物を着ながら山道を歩く事は、とても辛いものだった。

吐く息が、荒くなってきた。


「疲れた・・・。

寒い・・・」


夏とはいえ、夜の山は少し肌寒かった。

冷たい空気が、汗をかいた私の身体を冷やしていった。

手が、少しずつ冷たくなっていった。

私は息を吐いて(かじか)んだ手を温めようと、掌を上に向けた。

すると、掌が明るく照らされた。


私は、空を見上げた。


厚い雲に覆われていた月が、現われていた。


丸い黄金色の月が、空に浮かんでいた。


美しかった。


もう二度と、こんなにも美しい月を見る事が出来ないのかと思うと、少し寂しく感じた。


其の時、暗闇から『何か』が出て来た。

一瞬で、空気が変わった。

其の異様な雰囲気に、私は背筋が凍った。

ゴクリと言う唾を飲み込む音が、頭に響いた。

冷たい汗が、頬をゆっくりと伝った。

私は、震えていた。

私は其の『何か』が、≪鬼≫だと直感した。

『何か』は、暗闇の中から言った。


「誰だ?」


低い声だった。


私は自分の着物を握り締めながら、少し震える声で答えた。


「私は、平道長(たいらのみちなが)の娘です」


私の父の本当の名は、平忠知(たいらのただとも)

でも、本当の名を言う事は出来なかった。

貴族は、親兄弟や夫婦以外に本名を教える事は無い。

本名を知られると言う事は、『相手に命を握られる』と言う事。

決して、他人に本当の名を知られてはならない。

私は父の命を守る為に、偽名を名乗った。


『何か』は、こちらの様子を(うかが)っているようだった。

もしかしたら、私の嘘に感付いてしまったのだろうか?

私は少し不安になりながら、『何か』の居る暗闇を見続けた。

すると、暗闇から『何か』がゆっくりと姿を現した。

月明りが、『何か』を照らした。


『何か』は、やはり≪鬼≫だった。

私は其の≪鬼≫から、中性的な雰囲気を感じた。

≪鬼≫は淡い藍色の直垂(ひたたれ)(武士の平服)の上に、着古した朱殷(しゅあん)(暗い朱色)の(うちき)(高貴な女性が羽織る上着)を羽織っていた。

銀色に光る長い髪。

額には、二つの角。

尖った耳。

青白い顔。

金色に光る眼。

紅を差したように真っ赤な唇の奥には、鋭い二本の牙。

細く長い指先には、鋭い爪。

年齢は、≪人間≫の青年と同じ位に見えた。

ただ若く見えるけれど、≪鬼≫は何百年も生きると聞いた事がある。

実際の年齢は、分からない。


≪鬼≫の姿は、明らかに≪人間≫とは異なっていた。

しかし、皆が噂していた≪鬼≫の姿とも異なっていた。


鬼は虎の毛皮の(ふんどし)を腰に(まと)い、突起の有る金棒を持っている。

背の高さは、二十尺位(約6メートル)。

縮れた頭髪の中に、五本の角。

身体の色は、赤色や青色。

目は、十五個。

大きく裂けた口には、虎の牙。


目の前にいる≪鬼≫は、私の想像していた≪鬼≫と少し・・・。

いや。

かなり違っていた。

此の≪鬼≫は、少し≪人間≫に似ていた。

でも≪鬼≫は≪人間≫の姿に化ける事が出来ると聞いた事があるから、もしかしたら今の此の姿は≪人間≫に似せた姿なのかもしれない。

本当の姿では、ないのかもしれない・・・。

ただ、もし≪人間≫の姿に化けるのならば、もっと≪人間≫に近づけた方が良いのではと思った。

此の≪鬼≫は、≪人間≫の姿に化ける事が苦手なのかもしれない・・・。


そんな風に私が考えていると、≪鬼≫は首を(かし)げながら言った。


「私は、其方(そなた)の父の名を聞いたのではない。

其方の名を聞いたのだ。

其方の名は、何と言う?」


「え?」


私は、困惑した。

貴族の女性は、本当の名を(おおやけ)にしない。

『誰の妻』『誰の娘』と呼ばれる事が、普通である。

私がどのような名であろうと、≪鬼≫には関係が無い事なのに・・・。

私の名など、其れ程重要なものではないのに・・・。

私の名を知って、此の≪鬼≫は一体どうするつもりなのだろう・・・?

私を、これから喰らうと言うのに・・・。


私は、≪鬼≫に自分の名を知られる事が少し怖かった。

私は、私の本名を≪鬼≫に知られたくなかった。


私は、口を(つぐ)んだ。


≪鬼≫は、そんな私をじっと見続けた。


私の答えを、待っていた。


困った・・・。


私は、考えた。


『もう喰われるのだから、今更≪鬼≫に私の本名を知られても問題はない・・・か・・・』


私は少し怯えながら、自分の本名を≪鬼≫に告げる事にした。


「私の名は・・・平秋子(たいらのあきこ)・・・です・・・」


「あきこ・・・」


そう言うと、≪鬼≫は私をジロジロと見始めた。

そして、(いぶか)しそうな顔をしながら私に聞いた。


「何をしに来た?」


私は、≪鬼≫を睨みながら答えた。


「私は、生贄です」


「生贄・・・?」


「はい」


「誰の?」


「貴方の」


「そんなものは、頼んでいない。

帰れ」


「え?」


「『帰れ』と、言った」


そう言うと、≪鬼≫は身を(ひるがえ)して暗闇の中に入って行こうとした。

私は咄嗟(とっさ)に≪鬼≫が羽織る袿の(たもと)(つか)み、叫んだ。


「待って!

此の疫病は、貴方がもたらしているのでしょう!?

私を喰らわないと、貴方は疫病を収めてくれないのでしょう!?」


≪鬼≫は振り返り、眉間(みけん)(しわ)を寄せながら静かに言った。


「誰が、そんな事を言った?」


「さる高名な陰陽師です。

疫病を収める為には、≪鬼≫に生贄として娘を捧げなければならないと。

だから私は、貴方に喰われる為に此処に来たのです」


そう私が言うと、≪鬼≫は深い溜息をついた。

そして、憐れむように言った。


「此の疫病は、私のせいではない」


「え・・・?

貴方のせい・・・では・・・ない・・・?」


「ああ。

此の疫病は、他国からもたらされたものだ。

他国で流行っていた疫病が、人や物の往来によって此の国に入って来たのだ。

他国との往来が激しく密集している此の地では、疫病が蔓延(まんえん)(やす)い。

かと言って、往来を止める訳にもいかぬ。

貿易は、此の国には欠かせないものだからだ。

疫病が入って来る事を止める事が出来ないのならば、疫病の蔓延を国の中で抑え鎮めなければならない。

疫病を抑え鎮める為には、薬が必要だ。

しかし、今は其の薬が無い。

薬が出来るまで、疫病が此れ以上蔓延しないようにしなければならない。

一人一人が感染しないように、注意しなければならない。

皆、門戸を閉ざし、外出を出来るだけ控えてはいるようだが、なかなか収束しないのが現状だ。

其れが、耐え切れなかったのだろう。

≪人間≫の力では疫病を封じ込める事が出来ないと考えた≪人間≫は、今は『末法(まっぽう)()』(※注13)だからと言って仏教に頼り始めた。

仏教により、疫病を収束させようとした。

確かに、仏教により心は救われるだろう。

だが、仏教に疫病を収める力は無い。

仏教に頼り、(かく)とした疫病対策が講じられていないから疫病が一向に収まらない。

しかも此の疫病は怨霊や≪鬼≫のせいだと言って、加持祈祷(かじきとう)によって収めようとする。

此の疫病も地震も飢饉(ききん)も、怨霊や≪鬼≫のせいではない。

≪人間≫は自分達を苦しめるものは全て、怨霊や≪鬼≫のせいにしようとする。

誰かの、何かのせいにすれば、心は楽になるだろう。

だが誰を嫌おうとも、何を憎もうとも、現実は変わらない。

其方達≪人間≫は、現実から逃げているに過ぎない。

現実を見ようとしていない。

現実を変えようとしないから、何も変わらない。

自分達が変わろうとしなければ、何も変わりはしない」


「・・・」


「もう一度言う。

疫病は、≪鬼≫がもたらしたものでは無い。

だから、≪鬼≫に生贄を与えても疫病は無くならない。

(ゆえ)に、あきこが生贄として私の許へ来ても意味は無い。

帰れ」


私は≪鬼≫から真実を聞き、其の場に座り込んだ。

私は、何の為に此処に来たのだろう・・・。

私は、此の先どうすれば良いのだろう・・・。

生贄になりたい訳ではないけれど、生贄として遥々(はるばる)此処までやって来たのに何もせずに帰るなんて・・・。

此の疫病は≪鬼≫のせいではないと言われたからと言って、何もせずに帰っても良いのだろうか?

そもそも、≪鬼≫の言っている事は本当の事なのだろうか?

本当に、疫病は≪鬼≫のせいではないのだろうか?

私は、戸惑いながら聞いた。


「本当に・・・疫病は・・・貴方のせいでは・・・ない・・・のですか・・・?」


「ああ」


「・・・ならば・・・私は・・・どうすれば・・・良いのでしょうか・・・?」


「帰れば良い」


「帰る・・・」


私は、其れ以上何も言えなかった。


私は下を向き、地面を見続けた。


沈黙が続いた。


≪鬼≫は腕を組み、不思議そうな顔をしながら私に聞いた。


「・・・?

おかしな娘だな・・・。

自分の家に、帰れば良いではないか?

生贄にならずに済んだのだぞ?

嬉しくないのか?」


「・・・」


「・・・帰りたく・・・ないのか・・・?」


「・・・」


「あきこは・・・私が・・・怖くはないのか・・・?」


『怖い』・・・?


私は、≪鬼≫の顔を見上げた。

≪鬼≫は、私を真っ直ぐ見つめていた。

目の前にいる此の≪鬼≫は、私達≪人間≫とは違う・・・。


『異形』


確かに、そうだ。


でも私は、此の『異形』の≪鬼≫を『恐ろしい』とは思わなかった。

寧ろ私に『帰れ』と言った此の≪鬼≫の方が、私の両親よりも優しいとさえ思った。


其れに私は、元々其れ程≪鬼≫を恐れてはいなかった。

確かに、≪鬼≫は≪人間≫の持っていない能力があると言われている。

≪鬼≫は、恐ろしい姿であると言われている。

≪鬼≫は、≪人間≫を喰らうと言われている。

全て、『()()()()()()』なのだ。

私は、『()()()()()()()()()()()()()と思っていた。

『皆が言う≪鬼≫は、≪人間≫が()()()()()()()()()()()()のではないか?』

『≪鬼≫と言う『恐ろしい存在』を作る事によって憎しみを≪鬼≫に向け、≪人間≫の恐怖と不安を和らげようとしているのではないか?』

『≪鬼≫が全て恐ろしいとは、限らない』

そう思っていた。

確かに得体のしれない≪鬼≫を、少しは恐れていた。

しかし此の≪鬼≫を間近で見て、実際に話をして、少しだけあった『恐れ』はなくなった。

私は此の≪鬼≫を、『()()()()()()()()()()

私の身近にいる≪人間≫の方が、自分達の為に私を≪鬼≫の生贄にしようとした両親の方が、私は『恐ろしい』と思った。


私は、≪鬼≫を見つめながら答えた。


「・・・怖く・・・ない・・・」


「私の姿を見て悲鳴を上げて腰を抜かす≪人間≫を沢山見て来たが、あきこは・・・あきこも・・・少し『違う』ようだな・・・」


「・・・」


「あきこは・・・何故、帰りたくないのだ・・・?」


「・・・帰っても・・・居場所が・・・無いから・・・」


「・・・」


私の答えを聞くと≪鬼≫は腕組を解き、私の目を見つめ続けた。


≪鬼≫は、何も言わなかった。


何も聞かなかった。


少し悲しそうな目で、私を見つめるだけだった。


沈黙が続いた。


≪鬼≫は、何かを考えているようだった。


そして突然私の前に座り込み、静かに言った。


「ならば、暫く私の家で暮らすか?」


私は、≪鬼≫の申し出に驚いた。

そして、恐る恐る聞いた。


「・・・私を・・・後で・・・食べる・・・為・・・?」


「違う」


≪鬼≫は、直ぐに否定した。

私は、不審に思いながら聞いた。


「でも・・・貴方は鋭い牙を持っている・・・。

其れは、≪人間≫を喰らう為なのでしょう・・・?」


「確かに、私には牙がある。

此の牙は、どんなに硬い物でも噛み砕く事が出来る。

≪人間≫も、喰らう事が出来る」


「・・・」


「だが、私は≪人間≫を喰らわない。

世の中には≪人間≫以外にも美味しいものが沢山あると言うのに、何故わざわざ≪人間≫を食べなければならないのだ?」


「≪鬼≫は、≪人間≫を食べないの?」


「いや。

殆どの≪鬼≫が、≪人間≫を喰らう」


「え!?」


「だが、全ての≪鬼≫が≪人間≫を喰らう訳ではない。

私以外にも、≪人間≫を喰らわない≪鬼≫はいる」


「・・・そう・・・なの・・・」


私は、安堵の溜息をついた。

≪鬼≫は、私の目をじっと見つめながら続けた。


「私は、≪人間≫を喰らう≪鬼≫を見て来た。

そして、≪()()()()()()()()≫も見て来た」


「≪人間≫を喰らう≪人間≫・・・」


「あきこは、≪人間≫を喰ろうた事があるか?」


私は其の質問に驚き、叫んだ。


「≪人間≫を食べた事なんて、一度も無い!

食べたいと思った事も無い!」


「そうか・・・。

私は飢饉の時など、必死に≪人間≫に喰らい付く≪人間≫を沢山見て来た。

≪人間≫の中にも、あきこのように≪人間≫を喰らわない≪人間≫と、≪人間≫を喰らう≪人間≫がいる。

≪鬼≫も、同じだ。

≪人間≫を喰らう≪鬼≫も、≪人間≫を喰らわない≪鬼≫もいる」


「・・・」


「≪鬼≫が≪人間≫を喰らうのは、ある意味本能だ。

生まれて来た時から、≪人間≫を食べる事が≪鬼≫にとって『普通』の事なのだ」


では此の≪鬼≫も、今私の目の前に居る此の≪鬼≫も、今まで≪人間≫を食べて来たと言う事なのだろうか?

今は、食べていない。

けれど、昔は≪人間≫を食べていたと言う事なのだろうか?

私は、此の≪鬼≫に其の事を確かめる勇気が無かった。

私は、答えを聞く事が怖かった。

此の≪鬼≫は、他の≪鬼≫とは違うと思いたかった。


≪鬼≫は、続けた。


「≪人間≫は普段≪人間≫を食べないのに、何故食べる物が無くなると≪人間≫を食べるのだ?

≪人間≫を食べる事は、≪人間≫にとって『普通』の事ではないのだろう?

≪鬼≫である私が喰らいたいとも思わない≪人間≫を、何故≪人間≫は喰らうのだ?

≪人間≫以外に、他に食べる物が本当に無いのだろうか?

本当に、目の前に横たわる≪人間≫しか食べる物は無いのだろうか?

どんな事をしても、何としても、≪人間≫を食べないでいられる方法を見つける事が出来ないのだろうか?

≪人間≫に代わる何か他の食べ物が、本当に無いのだろうか?」


≪鬼≫は、不思議そうな顔をしながら呟いた。


私は


『此の≪鬼≫は、変な≪鬼≫だな・・・』


と思った。


≪人間≫を喰らうと思っていた≪鬼≫が、≪人間≫が≪人間≫を喰らう事について疑問を抱いている。


私は、此の≪鬼≫に少し興味を持った。


「・・・あの・・・」


「ん?」


「貴方は、他の≪鬼≫と一緒に暮らさないの・・・?」


「暮らさない」


「何故?」


「一緒に居たくないからだ」


「一緒に居たくない・・・?」


「私は、≪人間≫を喰らう≪鬼≫と一緒に居たくなかった。

だから私は、≪人間≫を喰らう≪鬼≫から逃げた」


「逃げた・・・」


「たとえ同じ種族でも、無理をして居たくもない者と一緒に居る必要は無いだろう?」


「・・・うん」


≪鬼≫は、続けた。


「私は逃げて、此処に一人で住み始めた。

かつて酒呑童子が住んでいた此の大江山に住めば、≪人間≫は恐れて此処に近づく事は無いだろうと考えた。

ただ(たま)に、私が此処に住んで居ると見破る陰陽師が来る事がある。

今回、生贄としてあきこを大江山によこしたのも、そう言った少し力のある陰陽師なのかもしれない」


此の≪鬼≫は≪人間≫を食べたくないから、≪人間≫を食べる≪鬼≫と一緒に居たくなかったから、一人で此処に住んでいる・・・。


『無理をして、居たくもない者と一緒に居る必要は無い』


其の気持ちは、私にも良く分かる。

一緒に居たくない者と一緒に居る事は、苦痛だ。

ならば、一緒に居なければ良い。

私も、そう思う。

そう思うから、私は家に帰りたくないのだ。


私は、私を見つめる≪鬼≫を見続けた。


私と此の≪鬼≫は、少し似ていると思った。


すると≪鬼≫は、私に優しい眼差しを向けながら温かい声で聞いた。


「あきこ。

私と共に、来るか?」


「・・・私は・・・貴方と一緒に居ても・・・良い・・・の・・・?」


「良い」


「・・・私が・・・≪人間≫を・・・食べない・・・から・・・?」


私の言葉を聞いた≪鬼≫は目を見開き、そして少し笑いながら言った。


「ああ」


私は、もう一度確かめた。


「・・・本当に・・・一緒に居ても・・・良いの・・・?」


「ああ」


「・・・貴方が良いのなら・・・私は・・・貴方と一緒に・・・此処に・・・居たい・・・。

もう・・・帰る場所は・・・無い・・・」


「ならば、行こう」


「うん・・・」


≪鬼≫は私の両手を持って、私を立ち上がらせた。

私は、≪鬼≫にお礼を言おうと思った。

其の時初めて、私は≪鬼≫の名を知らない事に気付いた。


「あの・・・貴方の名を・・・聞いていなかった・・・」


「ああ。

私の名は、(たちばな)と言う」


「橘・・・。

其れは・・・名・・・?

姓・・・?」


「姓など無い。

橘は、橘だ。

ん?

暗くて良く見えなかったが、あきこは随分と派手な着物を着ていたのだな。

そんなに沢山着ていては、身動きが取り難いだろうに」


私は今の自分の姿を少し恥ずかしく思い、下を向きながら答えた。


「≪鬼≫は美しい女性を喰らうと聞いたから、少しでも美しく見せようと両親が美しくない私を着飾らせたの・・・」


「≪鬼≫が美しい女性を喰らうと、誰が言った?」


私は顔を上げ、橘の顔を見た。

橘は、怪訝(けげん)な顔をしていた。

私は、おずおずと答えた。


「・・・誰・・・?

そう・・・聞いている・・・けれど・・・」


橘は、深い溜息をつきながら呟いた。


「随分と、いい加減な噂が広まっているな・・・。

まあ・・・何も知らないから、恐怖心からそう言った噂が広まってしまったのだろう・・・。

迷惑な話だ・・・」


「・・・」


「・・・あきこは美しくないから、≪鬼≫である私にあきこを喰らわせる為に、両親は其のような着物をあきこに着せたと言うのか?

あきこは其の華美な着物を着なければならぬ程、美しくないと言うのか?」


橘は、私の姿を真っ直ぐ見つめながら言った。

私はじっと見つめられる事が耐えられず、再び足元に目を落として答えた。


「・・・見た・・・通り・・・だけれど・・・」


橘は、首を傾げながら言った。


「私には、分からない。

其れは、≪人間≫の価値観だろう?

≪人間≫が言う『美しさ』とは、≪人間≫が勝手に考えたものだろう?

私には、あきこが其の着物を着ていようがいまいが関係無い。

私はあきこの着物と話をしているのではなく、()()()()()()()()()()


『あきこと話をしている』


ああ・・・。


今まで、『私』と話をしてくれた≪人間≫がどれ程いただろうか?


『私』の言葉を聞いてくれた≪人間≫が、どれ程いただろうか?


『私』を見てくれた≪人間≫が、どれ程いただろうか?


橘は、『私』の容姿を見ているのではない。


橘は、『()()()()()()()()()


家では、誰も『私』を見てくれなかった。


『私』ではなく、『私の存在』しか見ていなかった。


初めて『私』を『私』として見てくれる橘に、私は心を動かされた。


すると橘は私の肩に手を置き、優しく言った。


「では、行くか」


そう言って橘は、私を抱き上げ飛んだ。


「え!?

何!?

飛んだ!?」


「そんな着物を着ていては、私の家に着くまで時間が掛かる」


「そう・・・だけど・・・。

其れにしても・・・≪鬼≫にはこんな能力まであるのね・・・」


「≪人間≫には、無いようだな。

何故だ?」


「何故・・・?」


私は橘の質問に、直ぐに答える事が出来なかった。


『何故』なんて、考えた事もなかった。


『何故』、私達≪人間≫には≪鬼≫と同じ能力が無いのだろう?


『何故』、≪人間≫と≪鬼≫は違うのだろう?


≪人間≫は、自分達には無い能力を持つ≪鬼≫を恐れている。

しかし其れは、≪鬼≫にとってもそうなのかもしれない。

≪鬼≫にとって、≪人間≫は得体が知れない。

お互いにとって、お互いが『異形の者』なのだ。

私は≪人間≫だから、≪人間≫としてしか≪鬼≫を捉えていなかった。

≪人間≫にとって此の能力は『普通』の事ではないけれど、≪鬼≫にとって此の能力は『普通』の事なのだ。

今まで私は、≪人間≫の立場からでしか≪鬼≫を見た事がなかった。

≪鬼≫から見た≪人間≫がどう映っているかなんて、考えた事も無かった。

立場が違えば、見方も考え方も思いも違う。


『何故、≪人間≫には≪鬼≫と同じ能力が無いのか?』


今の私では、橘の此の質問に答える事は出来ないと思った。


でも何か答えなければならないと思い、私は考え(あぐ)ねた。


そして私は、ふと橘を見た。


煌々と光る月明りに照らされる橘の姿を見て、私は橘の質問に答えるのではなく逆に質問をして答えをはぐらかそうと思った。


「橘の其の姿は・・・本物・・・?」


「どう言う事だ?」


「私の想像していた≪鬼≫と・・・少し・・・違うから・・・」


「此の姿は、私の本当の姿だ」


「そう・・・なの・・・」


今の姿は、≪人間≫の姿に化けたものではなかったのだ。

橘は、ちゃんと≪人間≫に化ける事が出来るのかもしれない・・・。

私は、橘は化けるのが下手だと思ってしまった事を反省した。

あの時、口に出さなくて良かった・・・。


「あきこは、一体どんな≪鬼≫の姿を想像していたのだ?

私を、大きな体をした縮れ髪の恐ろしい顔をした≪鬼≫とでも思ったのか?」


橘は、少し不機嫌そうな顔をしながら言った。

私は、目を逸らしながら答えた。


「・・・うん」


「確かに、あきこの想像していた通りの≪鬼≫はいる。

だが、全てではない。

私のように、≪人間≫に少し似た≪鬼≫もいる。

≪鬼≫も、様々だ」


「・・・虎の褌は・・・穿()かないの・・・?」


「そんな悪趣味なものを、穿く訳がない。

そもそも、虎の褌を穿いた≪鬼≫になど会った事も無い」


「虎の褌は・・・穿かないのか・・・。

では、何故・・・橘は・・・直垂の上に其の袿を羽織っているの・・・?」


「・・・何故・・・?

・・・寒かったからだ・・・」


「寒かったから・・・?

其れだけ・・・?

でも・・・其れは・・・女物・・・」


「別に、何を着ようと自由だろう?

此の着物を着る事によって、誰かに危害を加えている訳ではない。

男物だろうと、女物だろうと関係は無い。

私は、自分の着たい物を着る」


『自分の着たい物を着る』


そんな事、私には許されなかった。


いや。


着たいとも、着ようとも思わなかった。


私は、与えられた地味な着物を着る事に慣れていた。


自由に何かを選ぶ事を、忘れていた。


いや。


生まれた時から、其のような感情を持つ事を許されなかった。


私は、橘を羨ましいと思った。


自由に、自分の思う通りに生きる事が出来る橘が・・・。


橘は、押し黙った私の目をじっと見つめながら言った。


「私の此の≪鬼≫の姿を見て、あきこは『怖くはない』と言った。

では、どう思った?」


「どう・・・思った・・・?」


私は、橘を仰ぎ見た。


橘は、少し心配そうな表情をしていた。


私を見つめる橘に対し、私は自分の本当の気持ちを伝えなければならないと思った。


私は一言一言を、ゆっくりと呟いた。


「橘は・・・私が想像していた≪鬼≫と・・・少し・・・違っていた・・・。

其の姿も、・・・内面も・・・全てにおいて・・・違っていた・・・。

そして・・・違っていて・・・良かったと思った・・・。

橘は・・・恐ろしい≪鬼≫ではないと・・・思った・・・。

橘は・・・私の知っている≪鬼≫ではないと・・・思った・・・。

橘は・・・とても・・・優しいと思った・・・。

私は・・・≪鬼≫が・・・橘で・・・良かったと思った・・・」


私は言い終え、少し照れながら横目で橘を見てみた。

橘は、少し驚いた顔をしていた。

そして、嬉しそうな表情をしながら言った。


「此処に来た≪人間≫を人里に帰す為に、私は今まで≪鬼≫の姿で≪人間≫の前に現れるようにして来た。

今回やって来た≪人間≫も、私の≪鬼≫の姿を見れば直ぐに逃げ帰ると思った。

だが、あきこは逃げなかった。

あきこは、私を恐れなかった。

私は、あきこが私を恐れなくて良かったと思った・・・。

私も、≪人間≫があきこで良かったと思った・・・」


そう言って、橘は照れ臭そうに笑った。


橘の其の表情を見て、私も嬉しくなった。


橘が喜んでくれて、良かったと思った。


すると突然、橘が下を向きながら言った。


「ああ。

着いた。

此処が、私の家だ」


そう言うと橘は下降して地面に足を着き、私をゆっくりと降ろした。


橘が言う家を、私は見た。

其の家は、とてもこぢんまりとした家・・・。

いや。

小屋だった。

私の家よりも、ずっとずっと小さくて古い・・・。


堪らず、私は橘に聞いた。


「大きなお屋敷に住んでいるのかと思った・・・」


「私しか住んでいないのだから、そんな大きな屋敷はいらない。

広いと、掃除が大変だ」


「掃除が・・・大変・・・」


「其れに、木が密集しているから大きな屋敷など建てられはしない」


「では、木を伐採(ばっさい)すれば・・・」


「そんな事をすれば、木が可哀そうだろう」


「木が・・・可哀そう・・・」


≪人間≫は簡単に木を伐採してしまうのに、橘は其れを『可哀そう』と言うのか・・・。

本当に、変わった≪鬼≫だ・・・。


橘は、続けた。


「此の家は、元々空き家だった。

ずっと使われていないようだったから、使わせてもらっている」


「使わせてもらっている・・・。

でも≪人間≫が以前此の家を使っていたと言うのなら、橘が此処に居ない時に≪人間≫が此処まで来る可能性が有るのではないの?」


「大丈夫だ。

≪人間≫が近づかないように、此の周辺には結界が張ってある」


「結界・・・」


「此の家は狭いかもしれないが、地方の家に比べればずっと立派だ。

地方に住む≪人間≫の家は、更に酷い。

掘った穴の上に屋根を置いただけの小屋などが普通だ。

雨露を(しの)げさえすれば良いと言うだけの小屋に住んでいる≪人間≫が、国中には大勢いる。

彼らは自分達で育てた米を税として朝廷に徴収されてしまう為、(ひえ)(あわ)などの雑穀を粥状にして食べなければならない。

其のように苦しんでいる≪人間≫に比べれば、此の家は、私の生活は遥かに恵まれている」


此の小さな家が、恵まれている・・・。


私は、貴族以外の人々が苦しい生活をしている事をある程度は知っていた。

しかし私は京から出た事が無かったので、京に住む町の人々の生活を知ってはいても、地方に住む人々の生活など全く知らなかった。

京に住む町の人々よりも地方に住む人々の方がもっと苦しい生活をしているなど、想像した事もなかった。

京の中だけでなく、京と地方の生活にも差があるのだと、私は此の時初めて知った。


私の家は貧乏で、恵まれていないと悲観していた。

しかし其れは、大貴族の家と比べてだ。

私達が比べていたのは貧しい庶民の生活とではなく、恵まれた大貴族の生活とだったのだ。

上ばかりを見て、自分達より辛い生活をしている人々の事を、更に苦しい思いをしている人々の事を見ていなかったのだ。

何も見えていなかった。

何も見ようとしなかった。

初めから、比べる対象が違ったのだ。

私の家は、決して貧乏などでは無かった。

私の家はずっとずっと恵まれていたのに、其れに気付こうとも知ろうともしなかった。

でも、橘は気付いていた。

知っていた。

そして、自分が山奥にある此の小さな家に住んでいる事が恵まれていると思っている。

私にとっては単なる『古い小屋』でも、橘にとって此の小さな家は『素晴らしい家』なのだ。

≪鬼≫である橘の方が≪人間≫である私達よりも≪人間≫の事を知り、考えている。


私は、橘を見上げた。

橘は腕を組み、少し考え事をしていた。

そして、呟いた。


「だが、二人で住むには少し狭いか・・・」


そう言うと、橘は家の右側の少し空いている場所に向かって右手をかざした。

橘の(てのひら)が、一瞬光った。

私は眩しくて、目を(つむ)った。

そして目を開けると、空いていた場所にもう一つ家が出来ていた。

其の家は、橘が住んでいる隣の家よりも少し綺麗で大きかった。


「あきこは、あの家を使うと良い」


「あ・・・有難う・・・」


橘は、所々≪鬼≫としての能力を発揮するようだ。


『≪鬼≫の能力は、結構便利だな・・・』


と思った。


「入ろう」


そう言うと、橘は私の手を取った。

すると橘は驚いた顔をして私の方を振り向き、握った私の手をじっと見つめた。

私は当惑し、尋ねた。


「どうしたの・・・?」


橘は私の手を少しだけ強く握り、身を翻しながら答えた。


「何でもない」


そして、少し足早に古い方の家に向かって歩き出した。

板戸を開け、私達は薄暗い家の中に入った。

入って左側の板の間の真ん中には、囲炉裏(いろり)が切られていた。


「此処に座ると良い」


橘は私を囲炉裏の前に座らせると、囲炉裏の中にある薪に向かって手をかざした。

一瞬、橘の掌が光った。

すると、薪が激しく燃え出した。

少しずつ、部屋が暖かくなって来た。

橘は手をかざすだけで、火を起こす事も出来るのだ・・・。

『凄いな・・・』と思った。

火の光により、周りが薄ぼんやりと見え始めた。

見え始めたけれど、私が見える範囲にはあまり物が置いていないようだった。

貧乏である私の家よりも、物が少なかった。

其処には必要なもの以外、何も無いようだった。

橘一人で暮らしているとはいえ、此れはあまりにも少な過ぎると思った。

私は思わず、橘に聞いた。


「随分と・・・殺風景な部屋に見えるけれど・・・」


「ん?

そうか?

私は、此れで十分だが・・・」


「本当に必要なもの以外、何も無い・・・」


「必要以上のものは、要らない。

求めれば、『欲』に心が喰われる」


『欲に心が喰われる』


私は元々其れ程何かを求めて生きて来たわけではないから、自分が『欲』に心が喰われるとは思っていない。

でも自分の両親を見ていると、『欲に心が喰われる』と言う事が何となく理解出来る。

『欲』に捉われると周りが見えなくなり、何が正しいのかが分からなくなる。

自分の都合の良いように、『悪い事』を『正しい事』としてしまう。

自分を、制御出来なくなる。

『欲』を抑える事は、とても難しい事だ。

心を喰われない為に『欲』を抑えると言う事は、『心が強い』者でないと出来ない事だと思った。

『欲』を抑える事の出来る橘を、私は『強い』と思った。

だから私は、橘に自分の正直な気持ちを伝えようと思った。


「橘は、『強い心』を思っている・・・。

橘は、本当の意味で『強い』と思う・・・」


すると、橘は少し悲しげに答えた。


「逆だ・・・。

私は、弱い・・・。

『欲』にかられ、自分を保てなくなる事が怖いのだ・・・。

私は、『欲』に心を喰われる事を恐れているに過ぎない・・・。

心を喰われない為に、『欲』を遠ざけているだけだ・・・。

本当に強い者とは『欲』を遠ざけるのではなく、『欲』に打ち勝つ『強い心』を持っている者だ・・・」


そう言うと、橘は少し寂しそうに目を伏せた。

そんな橘を見ていて、気が付いた。

橘が羽織っている朱殷の袿の所々に、緋色(ひいろ)()みが付いている事に。

いや。

違う。

逆だ。

()()()()()()()だ。

此れは元々、()()()()()()()のだ。

()()()()()()()()()()()()()()のだ。


『もしかして、此れは≪人間≫の・・・』


そう思ったけれど、『違う』と自分に言い聞かせた。

私の目の前にいる橘は、≪人間≫を喰らう≪鬼≫では決してないと信じていたから。

信じたかった。

私は、何も言わなかった。

何も、言えなかった。


暫くすると橘は目を開け、私の顔をじっと見つめた。

私は其の視線に耐え切れず、堪らず言った。


「な・・・何・・・?」


「其の化粧(けそう)、洗い流した方が良い」


「え?」


「白きもので、顔が真っ白ではないか?

其れに、真っ赤な唇に真っ赤な頬紅(ほおべに)・・・。

額の上の方にある太い眉と真黒な歯・・・。

全てが、不自然だ」


「でも・・・此れが『普通』なのだけれど・・・。

確かに・・・今の姿は・・・いつもより派手ではあるけれど・・・」


「『普通』とは、貴族の世界での事だろう?

此処は、貴族の世界ではない。

此処では、貴族の世界は『普通』ではない」


「・・・」


「裏に川があるから、洗い流して来ると良い。

ああ。

此の紙を使って、一度拭き取ると良い。

そうすれば川も汚れないし、化粧も取り易いだろう」


「・・・うん・・・。

有難う・・・」


肌の色の白さは、美しさの象徴。

白くなければ、暗い部屋の中では顔が見えない。

真っ白であれば、蝋燭(ろうそく)の明かりで顔が美しく見える。

そして、真っ白であれば心の動きを他人に悟られる事もない。


真っ赤な唇や頬は、華やかさを表す。

表面上は、華美を装える。


自分の眉を剃り、額の上の方に太い眉を眉墨(まゆずみ)で描く理由は、感情を表に出さない為。

眉には感情の動きが如実(にょじつ)に表れるので、貴族はわざと眉を剃って偽物の眉を描く。


歯黒(はぐろ)は歯を強くする為だけではなく、口の小ささを強調する為に塗る。

奥ゆかしさや優雅さを見せる為に、貴族は黒く塗った歯を極力見せないようにする。

だから私は、今まで大声で笑った事が無かった。


何れも自分を装い、自分を隠し、自分の感情を殺す為の道具であった・・・。


自分を殺す事が、『普通』だと思っていた。


此処では、其れは『普通』では無いのだ。


此処では、自分を殺さなくても良いのだ。


此処では『()()()()()()()()、『()()()()()


私は、橘が教えてくれた裏の川へ向かった。

そして橘から渡された紙で、ある程度化粧を落とした。

私は水面(みなも)を覗き込んで、自分の顔を見てみた。

暗くて良く見えなかったけれど、其処には白い化粧が少し残った私の顔が映っていた。

其の顔は、無表情だった。

化粧がまだ残っているから、水面に私の感情が映らないのだ。

ならば、早く落としてしまおう。

私の顔に残る、此の化粧の全てを・・・。


私は、水の中に両手を入れた。


「冷たい・・・」


私は其の冷たい水をたっぷりと両手で(すく)い、其の水を顔に当てた。


とても冷たくて、気持ちが良かった。


私は、川の水で自分の顔に塗ったあらゆるものを洗い流した。

其れらは私にこびり付いていて、なかなか取れなかった。

私は何度も何度も冷たい水を掬い、顔を洗った。

顔が少し赤くなる位、強い力で(こす)って、やっとの事で全てを落としきる事が出来た。


次第に、夜が明けて来た。


太陽に照らされ水面に映った自分の顔を、私は久しぶりに見た。

私は自分の顔があまり好きではなかったから、今まで自分の顔を出来るだけ見ないようにして来た。


『ああ・・・。

私は・・・こんな顔をしていたのだ・・・』


久しぶりに見た私の顔は、とてもすっきりとした顔をしていた。


私は、橘の待つ家に戻った。


私の顔を見た橘は、少し微笑みながら言った。


「其の方が、自然で美しい」


私の顔は、少し紅くなった。


もし私の顔が真っ白であったなら、きっと其の紅色は表に出なかっただろう。


もう、感情を殺さなくて良いのだ・・・。


()()、『()()()()()()のだ。



此の日から≪人間≫である私と、≪鬼≫である橘との新たな生活が始まった。



❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃❃



翌朝


卯一刻(うのいっこく)(午前5時)





「コケコッコー!!!」





私は、庭にいる時告(ときつ)(どり)(鶏)のけたたましい鳴き声によって起こされた。


庭で時告げ鳥を飼っているとは知らず、心底驚き飛び起きた。


貴族の朝は、元々早い。

貴族は辰一刻(たつのいっこく)(午前7時)に出仕するまで色々とやる事があった為、早起きをしなければならなかった。

先ず、起床と共に自分の属星(ぞくしょう)(※注14)を小さな声で七回唱える。

其の後、呪詛(じゅそ)がかけられていないか自分の顔を鏡で確認したり、暦で其の日の吉凶を占ったりした後、顔を洗う。

次に楊枝(ようじ)で歯を磨き、西に向かって手を洗い、守護仏(しゅごぶつ)(※注15)の名を唱えてお祈りする。

そして日記を書き、朝食として御粥を食べ、髪を()き、着替えて卯三刻(うのさんこく)(午前6時)に牛車に乗って御所へ向かう。

此れらを出仕までに全て終わらせなければならなかった為、貴族は寅一刻(とらのいっこく)(午前3時)頃には起きていた。

また三日に一回は爪を切り、手の爪は(うし)の日(十二支の丑にあたる日)に、足の爪は(とら)の日に切る事になっていた。

五日に一回、縁起の良い日には沐浴(もくよく)もした。

占いに支配された毎日で、貴族は朝から大忙しだった。

私はもう少し起きる時間は遅かったけれど、早起きには慣れていた。

ただ今朝は、寝る時間が遅かったのと、疲れていた為にいつもよりぐっすり寝ていて早起きする事が出来なかった。

時告鳥が鳴かなかったら、ずっと眠り続けていただろう。


私は、辺りを見回した。


此処は、今までの自分の部屋ではない。


いつもは畳の上に横になり、自分の着物を掛けて寝ていた。

今は板の間に(むしろ)を敷いて、いつもとは違う少し質素な着物を掛けていた。


御簾(みす)も、几帳(きちょう)も、屏風(びょうぶ)も、脇息(きょうそく)(ひじ)置き)も、文台(ぶんだい)も、硯箱(すずりばこ)も、火取香炉(ひとりこうろ)も、鏡も、扇も、見慣れたものは何一つ無かった。


目の前にあったのは藍白(あいじろ)(極めて白い藍色)の小袖(こそで)と帯の代わりの白い腰紐(こしひも)、そして綺麗に畳まれた麻の手拭いだった。

私が眠っている間に、橘が置いて行ってくれたのだろう。


其れを見て、昨日の事が夢ではなかったのだと確信した。


今までは、起きれば侍女が私に着物を着せてくれた。


今はもう、誰もやってはくれない。


自分の事は、自分でやらなければならない。


私は立ち上がり、置いてあった小袖に腕を通し、(えり)()き合わせ、白い腰紐で腰を固く結んだ。


慣れない事だったので、何度やっても紐が縦結びになった。


諦めた。


小袖は、とても軽かった。


私は、其の場で飛び跳ねてみた。


高く飛ぶ事が出来る。


次に私は、部屋の中を走ってみた。


速く走る事が出来る。


いつもは何枚も重ね着をして、重くて窮屈で身動きが取れなかった。


今は此の小袖を着て、どんな事でも出来る。


自分の好きなように、動く事が出来る。


走る事も出来る。


何処にでも行ける。


自由に動ける事は、自分の好きな所へ行ける事は、とても楽しい事だと思った。


こんなに爽やかな朝を迎えたのは、生まれて初めてだった。


私は、大きく伸びをした。


伸びをした後、私は呟いた。


「裏の川で顔を洗ってから、橘の居る家へ行こう」


私は手拭いを持って、化粧を洗い流した裏の川へ向かう事にした。


家の板戸を開けると、日差しが目に入って来た。


とても眩しかった。


私は自分の顔の前に手をかざして、太陽の光を遮った。


今までは、太陽の光が当たらない奥の部屋にただ座って居るだけだった。


まさか太陽の下を歩く日が来るなんて、思ってもみなかった。


太陽がこんなにも眩しいとは、太陽がこんなにも近いものだとは、太陽がこんなにも暖かいものだとは思わなかった。


今まで近くに在ったのに、気付いていなかったものがこんなにも沢山あったなんて。


私には気付いていない事や知らない事が、まだまだ沢山あるのだと思った。


私は、嬉しくなった。


知らなかった事を自分で体験して知る事が出来ると言う喜びを、初めて知った。


私は、太陽の光を浴びながら歩いた。


風の香り。


鳥の(さえず)り。


色々な色の花や葉。


今まで、知らなかったものばかりだ。


とても気持ちが良かった。


裏の川に着くと、きらきらと水面が鏡のように光っていた。


私の汚れを落としてくれた川は、全てを浄化してくれるくらい透明で清らかだった。


私は川に近付き、水面に映る自分の顔を覗いて見た。


水面に映る私は、笑っていた。


いつもの白い、表情の無い顔ではなかった。


川は、本当の『私』を映してくれていた。


私は、川の水を両手で掬った。


明け方、顔を洗った時よりも水は少し温かかった。


川が、太陽の光を浴びたからなのかもしれない。


其の水で、自分の顔を洗った。


もう一度、水面を覗いて見た。


水面に映る私の顔は、先ほど見た時とあまり変わらなかった。


私の汚れは、あの時、全て落としきったのだ。


私にはもう、汚れは付いていない。


私は手拭いで顔を拭き、橘の居る家へと向かった。


私は、家の板戸を軽く(たた)きながら言った。


「橘・・・。

起きている・・・?」


家の中から、返事は無かった。


もう一度、敲いてみた。


「橘・・・?」


やはり、返事は無かった。


「何処かへ・・・行っているのかな・・・?」


私は橘を探しに行こうと思い、後ろを振り向いた。

すると、直ぐ後ろに沢山の野菜が入った籠を持つ橘が立っていた。


「あ!!」


私は驚いて、今まで発した事が無い位の大声を出してしまった。

橘も私の声に驚いて、大きく目を見開いた。

そして、少し心配そうに言った。


「大丈夫か?」


「だ・・・大丈夫・・・」


私は、大声を出した自分を少し恥ずかしく感じながら答えた。

そして息を吐いて自分を落ち着かせた後、橘に尋ねた。


「直ぐ後ろに居たから、少し驚いただけ・・・。

お早う・・・。

橘・・・。

えと・・・。

其れは・・・?」


橘は籠を持ち上げ、私に野菜を見せながら答えた。


「お早う。

秋子。

此れは、畑で採れた野菜だ。

朝飯に使おうと思って、採って来た」


そう答える橘を見ると、裾も袖も手も顔も少し土で汚れていた。


私は、橘が座り込んで野菜を収穫する姿を想像した。


何だか、少し嬉しくなった。


私は、微笑みながら聞いた。


「畑があるの?

自分で野菜を作っているの?」


「ああ。

季節毎に、採れる野菜が違う。

春は、大根(おおね)(わらび)(せり)(なずな)(ふき)が採れる。

夏は、胡瓜(きゅうり)冬瓜(とうがん)茄子(なす)生姜(しょうが)藤豆(ふじまめ)が採れる。

秋は、秋葱(あきぎ)分葱(わけぎ)(かぶ)里芋(さといも)が採れる。

冬は、乎知(おち)(菜の花)に水菜(みずな)支太支須(きたきす)牛蒡(ごぼう))が採れる」


「そんなに沢山育てているの?

種や苗は、何処から持って来たの?」


「私は長く生きているので、日本中を何度も巡った。

降り立った所で食べて美味しかった野菜の種や苗を≪人間≫から貰い、持ち帰って育てて来た。

ただ、初めて食べた時と此処で育てて食べた時の野菜の味は少し違う。

育て方もあるのだろうが、気候が異なっている事も原因の一つなのだろう。

江南橘(こうなんのたちばな)為江北(こうほくのからたち)(となる)』と言われているからな」


「どう言う意味?」


「江南の土地のものである橘を江北に植えると、枳になる。

橘の実は食べる事が出来るが、枸橘(からたち)の実は苦くて食べられず、枝には鋭い(とげ)が生えている。

つまり、住む場所や環境によって性質が変化すると言う事だ」


「美味しい橘が植える場所によって苦い枸橘に変わると言う事は、『良いもの』も環境によっては『悪いもの』に変わってしまうと言う事?」


「枸橘の実は苦くて其のままでは食べる事が出来ないが、実を乾燥させれば生薬(しょうやく)として使う事が出来る。

枝に生えている鋭い棘は、生垣として用いれば外敵の侵入を防ぐ事が出来る。

枸橘の実が苦いから、枸橘の枝に鋭い棘があるからと言って、『悪いもの』とは限らない。

『悪いもの』が、本当は『良いもの』である事もある」


「・・・」


「住む場所や環境が変わって、『良いもの』が悪くなる事もあるだろう。

しかし、『良いもの』が更に良くなる事もある。

其れは植物だけではなく、≪人間≫も同様に・・・」


そう言って、橘は私の目をじっと見つめた。


住む場所や環境によって≪人間≫が変わるのならば、私も変わる事が出来るのかもしれない。


『秋子も、変わる事が出来る』


そう、橘は言っているのかもしれない。


私は、橘の優しさに答えるように微笑んだ。


橘も、微笑み返してくれた。


「家に入ろう」


「うん」


橘は、家に入りながら私に言った。


「今日は胡瓜と冬瓜、其れと生姜を採って来た。

胡瓜は漬物にして、明日の朝食べよう。

今日の朝は、昨日漬けた胡瓜を食べよう。

丁度良い味になっているだろうから。

冬瓜と生姜は、冷汁(ひやしる)にしようと思う。

ああ。

そうだ。

秋子は、嫌いな食べ物はあるか?

全て、食べる事は出来るか?」


橘は私の顔を覗き込みながら、少し心配そうに私に聞いた。

そんな風に気を遣う橘がとても≪人間≫らしくて、私は楽しそうに答えた。


「大丈夫。

嫌いな食べ物はない。

あ・・・」


「何だ?

嫌いなものがあったのか?」


「ううん・・・。

気になる事を、聞いても良い?」


「何だ?」


「其の笠・・・」


私は、橘が頭に被っている笠を指さしながら聞いた。


橘は目を上に向け、自分が被っている笠を見た。


私は、続けた。


「どうして、笠に二つの穴を開けて角を出しているの?」


橘は、笠を手で少し持ち上げながら答えた。


「ああ・・・。

角が邪魔をして、笠をうまく被れないからだ。

(あらかじ)め角が通る部分に穴を開けておけば、笠をしっかりと被る事が出来る。

お陰で笠がずり落ちる事もなくなったし、風が吹いた時に角が引っ掛かって笠が飛ばされなくなった」


()(かな)っている・・・。


私は


『橘は、面白い≪鬼≫だな・・・』


と、思った。


「ただ・・・」


橘は、続けた。


「ただ雨の日は、穴から雨が入って来て少々濡れる・・・」


そう言って、橘は少し困った表情をした。


其の表情が愛らしくて、私は思わずくすくす笑ってしまった。


橘はそんな私を見て、少し顔を赤らめながら言った。


「後で、一緒に畑を見に行くか?」


「行っても良いの?」


「ああ。

勿論だ」


「行く!」


「では、朝飯を食べてから行こう。

ついでに、川へ洗濯に行こう」


「うん」


私達は家に入り、橘は野菜の入った籠を土間(どま)に置いた。

橘は裾と袖に付いた土を軽く手で振り払い、桶に入っていた水に手拭いを浸して絞ってから顔と手を拭いた。


私は橘に近づき、言った。


「私も、何か手伝う」


橘は、手を拭きながら答えた。


「秋子は、昨晩ずっと牛車に揺られていて疲れているだろう?

其れに、あまり眠っていないはずだ。

今日は、ゆっくりしていると良い。

明日から、手伝ってもらう」


「・・・うん・・・。

分かった・・・」


私は、残念そうに答えた。

勿論、私を気遣う橘の優しさは嬉しかった。

何も出来ない事も分かっていた。

でも、何かしたかった。

少しでも、恩を返したかった。


そんな私を、橘はじっと見つめた。

そして手拭いを桶に掛け、近くにあった二つの木の器と大きな木匙(きさじ)を一本持って、それらを私に差し出しながら言った。


「囲炉裏の上に掛かっている(なべ)の中に、先程作った粥が入っている。

粥を此の木の器に入れて、少し冷ましておいてくれるか?」


私は橘から木の器と木匙を受け取りながら、元気よく答えた。


「うん!」


橘は『熱いから、気を付けるように』と言って、土間に置いた籠から胡瓜と冬瓜と生姜を必要な分だけ取り出し、(ざる)と桶を持って外にある井戸へ洗いに行った。

私は板の間に上がって、囲炉裏の近くに座った。

囲炉裏の真ん中には、大きなお堝があった。

私は、お堝の上に被せてあった蓋を取った。

すると白い湯気と共に、お米の良い香りがして来た。

其れは、白いお米のお粥だった。

私は、驚いた。

貧乏だけれど取り敢えず貴族である私の家でも、あまり食べた事が無い温かい白いお米を此処で食べる事が出来るなんて、思いもよらなった。

特別な日に強飯(こわいい)(こしき)(蒸し器)に入れて蒸しあげたご飯)や姫飯(ひめいい)(お釜やお鍋で炊いた柔らかいご飯)を食べる事はあっても、白いお米なんて滅多に食べられるものではなかった。

朝に白いお米を食べる事が出来るとは、思わなかった。

粟や(きび)のお粥かと思った。

丁度ちょうどその時、井戸から橘が戻って来た。

橘は洗った野菜の乗った笊を抱えながら、水の入った桶を土間に置いた。

私の視線に気付いた橘が私の方を振り向いたので、私は橘に聞いてみた。


「白いお米のお粥なんて、久しぶりに見た」


「ああ。

今日は、秋子の歓迎の為に白い米にした。

いつもは、粟や黍だ。

今日は、特別だ」


「此のお米は、どうしたの?

お米も、育てているの?」


「いや。

米を育てる事は、なかなか難しくて。

だが、不自由した事は無い」


「どうして?」


「時々、私の結界の中に少し力のある陰陽師が入って来て米を投げ入れて行く。

お陰で、米は育てなくとも自然に手に入る。

ああ。

他にも(ぼら)(いわし)(ひいらぎ)の葉や大豆や桃までも投げ入れて行くな・・・」


「そうか・・・。

鯔と鰯と柊の葉は≪鬼≫の嫌いなものであり、お米や大豆や桃には悪霊を退散させる力があると聞いた事がある・・・」


「私も聞いた事は有るが、効いた事は無い。

鯔や鰯は少し臭く足が早いから、直ぐに焼いて食べるか塩漬けにして保存しておく。

だから新鮮な魚を食べたい時のみ、川で魚を釣るようになった。

柊の葉は確かに鋭いから手や目に刺さると痛いが、其れは秋子達≪人間≫も一緒だろう?」


「うん・・・」


「柊の葉は、(かまど)にくべて燃料にする。

米も大豆も、勿体ないから拾って食べる。

少し残しておけば、鳥が食べる。

桃は流石に潰れてしまって食べられなかったから、土に埋めたら大きな木になった。

毎年、甘い桃を食べる事が出来る。

庭に()っているから、後で食べよう。

ああ。

そうだ。

数日前、丁度鰯を投げ入れられたので、塩漬けにしておいた。

今日の夜、食べよう」


そう言って橘は野菜が入った笊を、板の間に置いてある(まないた)の横に置いた。   

そして竈の方へ行って近くにあったお鍋を竈の上に置き、其のお鍋の中に桶の中の井戸水を注ぎ入れた。

次に、揉鑚(もみぎり)(※注16)で火を起こし始めた。

私は橘の其の行動を、少し疑問に思った。

あの時は掌をかざしただけで火を起こす事が出来たのに、どうして今は其れをしないのだろう?

私は不思議に思ったけれど、其の事について聞く事はやめた。

今は、橘の邪魔をしてはいけないと思った。

私は、私のやるべき事をしなければならない。


私は、木の器にお粥を装い始めた。

装いながら、私は思った。


鯔も鰯も柊の葉も、お米も大豆も桃も、橘には効かないのだ。

しかも、其れを拾って此れから食べようとしている。

私達が信じてきた事は、橘には通用しないのだ。

私達が今まで信じてきた事とは、一体何だったのだろう?


私は、橘を見た。

橘は火を起こし終わり、竈に其の火を入れていた。

そして振り返り、板の間に上がった。

橘は笊から冬瓜を一つ取り、俎の上に置いた。

そして俎の上に置いてあった包丁で冬瓜の両端を切り落としてから冬瓜を立て、縦半分に切った。

切った面を下にして、更に縦半分に切った。

四等分された冬瓜のワタと種を包丁で綺麗に取り除き、皮を厚めに()いてから角切りし始めた。

私は、冬瓜を切る橘の手元を見続けた。

橘は、とても手際よく冬瓜を切っていた。

冬瓜を切る『ザク』『ザク』と言う音が、とても心地良かった。

次に橘は笊から生姜を取り出し、生姜の皮を薄く剝き始めた。

皮を剥いた生姜は、細く線のように切った。

全て均一に、そして綺麗に切っていた。

橘は、角切りした冬瓜と細く切った生姜を笊に戻した。

生姜の皮は俎の端に寄せ、残った冬瓜の皮は細く長く切り始めた。

冬瓜の皮を切り終えると、其れを生姜の皮とは反対側に寄せた。

次に胡瓜を笊から取り出し、俎に乗せた。

そして胡瓜の端を落として、斜め切りした。

胡瓜を切り終えると、端に寄せて置いた冬瓜の皮と胡瓜を側に置いてあった須恵器(すえき)(土器)の中にお塩と共に入れてかき混ぜた。

橘は、冬瓜の皮と胡瓜のお漬物を作っていたのだ。

其の後、橘は手拭いで軽く手を拭き、須恵器を板の間の隅に置き、其の上に布を被せた。

其の隣に別の須恵器が有り、代わりに其れを俎の前まで持って来た。

橘は近くに置いてあったお箸で須恵器の中から漬けた胡瓜を一つ摘んで出し、私の口元に持って来た。

私は自然と口を開き、胡瓜を食べた。

胡瓜のお漬物は塩辛過ぎず、丁度良い味だった。

橘は、少し心配そうな顔をしながら私に聞いた。


「美味しいか?」


「美味しい!」


「そうか。

良かった」


橘は、嬉しそうに微笑んだ。


橘は、お漬物を近くにあった平らな木皿に乗せた。


そうこうする内に、お湯が沸いてきた。

橘は笊に入った冬瓜と生姜を持って、竈の方へ向かった。

そして、お湯の中に冬瓜と生姜とお塩を投入した。

橘は竈の前に立ち、お湯の中の冬瓜と生姜をじっと見ていた。

私は、竈の前に立つ橘の背中を見つめた。

橘の動きには、無駄が無かった。

毎日やっているのか、手慣れているようだった。


暫くすると冬瓜と生姜が茹で上がったようで、橘は隣にある空のお鍋の上に笊を置いた。

次に分厚い布を両手に持って、まだ熱いお鍋の端を持ち、笊に野菜ごとお湯を流し入れた。

お湯を全て空のお鍋に移した後、笊に残った冬瓜と生姜を大きな木の器に入れた。

其の中にお塩少々と井戸のお水を入れて木匙で混ぜ、橘は其れを持って板の間に上がった。

そして囲炉裏の前に座り、橘は少し冷めたお粥が入った木の器を一つ持ち上げた。

橘は冬瓜と生姜のお汁を木匙で掬い、器の中に注ぎ入れた。

真っ白だった器の中に、緑色と黄金色が加わった。

橘は二つの器にお汁を入れ終わると、私に器を一つ手渡した。

私は其の器を受け取ると、器の中を覗き込んだ。

白色と緑色と黄金色の冷汁は、とても涼しそうで美味しそうだった。

橘は少し微笑みながら、囲炉裏の傍にあったお箸と木匙を私に渡しながら言った。


「食べよう」


「うん」


私は早速、冷や汁を木匙で掬って食べた。

とても冷たくて、冬瓜も程良い硬さだった。

お塩の加減も丁度良く、生姜は冷汁を更に爽やかな味にしてくれていた。


「美味しいか?」


「美味しい!」


「そうか。

良かった」


橘の顔は、少し赤くなっていた。

本当に、嬉しそうだった。


「其の小袖は、どうだ?」


「うん。

とても着心地が良い。

軽くて、涼しい」


「そうか。

良かった」


橘は、微笑みながら答えた。


「此の小袖も、橘が掌をかざして作ったの?」


「いや。

其れは元々、私が着ていた着物だ。

袖と裾を短く縫い直した」


「え?

此の小袖は、橘が自分の手で縫ってくれた物なの?

私が眠った後に、縫い直してくれたの?」


「ああ」


「そんな事まで出来るの・・・。

でも、其れなら、橘もあまり眠っていないのではない・・・?」


「≪鬼≫は、数日眠らなくとも大丈夫だ」


そう言って、橘は冷汁を食べ続けた。


橘は、私の為に此の小袖を縫い直してくれた・・・。


『私の為に』


其れが、何よりも嬉しかった。


私は、少し涙声になりながら言った。


「有難う・・・」


私の言葉に、橘は微笑んだ。


此の小袖を縫い直す事が出来るのなら、橘が昨晩着ていた女物の緋色の袿も橘が縫った物なのだろうか?

橘はあの時、『自分の着たい物を着る』と言っていた。

橘は、緋色が好きなのだろうか?

あんなにも染みが付いているのに、あの袿を着続けているのだから・・・。

もし橘が緋色を好きなのなら、今度は私が橘の為に緋色の着物を縫ってあげたいと思った。

着物など縫った事は無かったけれど、橘に教えてもらいながら縫おうと思った。

私は、橘の為に何かをしたかった。

私は、橘の事が知りたかった。

私は、橘の事を色々と聞きたかった。


「橘・・・」


「何だ?」


「昨晩、橘が着ていた緋色の袿も・・・橘が縫った物なの・・・?」


すると、一瞬にして橘は悲しい顔に変わった。

そして、小さな声で答えた。


「あれは・・・形見(かたみ)だ・・・」


橘の顔を見て、私は『聞いてはいけない事』を聞いてしまったのだと思った。

橘にとってあの【緋色の袿】は、『()()()()()()()()()』だったのだ。

私は橘の事を何でも知りたいと思った自分の浅はかさを後悔し、(いきどお)った。

誰にでも、『触れられたくない事』がある。

私は自分の好奇心だけで、橘の心に土足で踏み込んだのだ。

私は、もう二度とあの袿について橘に聞く事はしないと誓った。


橘は、少し寂しそうに私に言った。


「もう少ししたら、畑へ行こう・・・」


「・・・うん」


「其処に、笠がある。

日差しが強いから、秋子は其れを被ると良い」


私は、橘が指さす笠を取りながら聞いた。


「此れも、橘が編んだの?」


「ああ。

冬の間に編んだ」


「もしかして、此の木の器や木匙も橘が作ったの?」


「ああ」


「橘は、何でも出来るのね・・・」


「長く生きていれば、何でも出来るようになる。

其れに、何も無いものから何かを作る事は楽しい」


そう言って、橘は微笑んだ。


其の後は、他愛ない話をした。

そして、私達は朝ご飯を食べ終えた。

私は橘を傷付けてしまったと言う後悔から、食べ終わった器やお箸を無理やり橘から奪い取って洗い始めた。

橘は少し戸惑っていたけれど、私は構わず洗い続けた。

諦めた橘は、川で洗う着物を桶に入れ始めた。

そして私が食器を洗い終わると橘は洗濯物が入った桶を持ち、私達は笠を被って畑へ向かった。

橘の言った通り日差しが強かったので、私達は木陰の中を歩いた。

其の途中、私の笠に何か細い糸のようなものが引っ掛かって目の前に垂れ下がって来た。

何かと思い上を見上げると、黄色と黒色の縞模様の足が何本もある大きな虫が目の前に居た。


「あ!!」


「何だ!?」


私の叫び声に、橘は驚いて私に近寄った。


「気持ち悪い虫が!!」


橘は、私が指さす方向を見た。


「ん?

ああ・・・。

女郎蜘蛛(じょろうぐも)だな」


そう言いながら、橘は私の笠に付いた糸を取り払ってくれた。


「ジョロウグモ?

此の虫は、ジョロウグモと言うの?」


「ああ。

此れは、女郎蜘蛛と言う名の蜘蛛だ。

蜘蛛は、益虫(えきちゅう)だ」


「益虫?」


「ああ。

蜘蛛は、畑にいる害虫を食べてくれる。

蜘蛛は、畑仕事を助けてくれる良い虫だ」


「へえ・・・」


私はジョロウグモを触ってみようと思い、ジョロウグモに手を近づけようとした。

すると橘は私の手を素早く握り、言った。


「触らない方が良い。

蜘蛛は、時々噛む」


「え!?」


私は驚いて、手を引っ込め後退(あとずさ)った。

すると今度は細長い身体を揺らしながら何十本もの足を使って歩く虫が、私の足の甲の上を歩いて行った。


「わ!!」


叫びながら驚いて倒れそうになった私を、橘が支えた。


「どうした?」


私は、自分の足の上を歩いて行った虫を指さしながら言った。


「あれ!!」


橘は、私の指さす方向を見た。


「ああ。

百足(むかで)だな」


「ムカデ?」


「ああ。

百足も、益虫だ」


「害虫を食べてくれる?」


「そうだ。

其れと百足を油に漬けて作る『百足油(むかであぶら)』は、火傷や切り傷に効く。

だが、百足も蜘蛛と同様に噛む。

蜘蛛よりも百足の方が毒性が強いので、噛まれないように注意しろ」


「分かった・・・。

気を付ける・・・。

其れにしても、外には色々な虫がいるのね・・・。

見た事も聞いた事もない虫が、沢山いる・・・。

ジョロウグモもムカデも見た目が怖かったから、悪い事をする虫に見えた・・・」


「女郎蜘蛛も百足も自分に危害を加えようとする者に対しては攻撃するが、何もされなければ何もしない。

其れは、≪人間≫もそうだろう?

≪人間≫も、自分に害をもたらす者に対して抵抗するだろう?」


「うん・・・」


「女郎蜘蛛も百足も、何も悪さなどしない。

見た目が少し恐ろしく見えるから、()み嫌われているだけだ」


そう言う橘は、少し悲しそうだった。


『見た目が、少し恐ろしく見える』


もしかして其れは、『橘自身の事』を言っているのではないのかと思った。


≪人間≫と≪鬼≫の見た目は、違う。

≪人間≫にとって≪人間≫の姿が『普通』であるから、≪人間≫は自分達と異なる≪鬼≫を『恐ろしい』『異形』と思う。

≪鬼≫の鋭い牙も鋭い爪も、全て恐ろしく見える。

でも其れは、()()()()()

橘の鋭い牙のある口からは優しい言葉が発せられ、橘の鋭い爪のある手は私を温かく支えてくれる。

何が、恐ろしいのだろう?

≪人間≫には、鋭い牙も鋭い爪も無い。

でも私は、今までどれ程≪人間≫に傷付けられて来ただろう。

表には見えない鋭い牙と鋭い爪に、どれ程傷付けられて来たのだろう。

橘は、私を傷付けない。

表に『見えるもの』と『見えないもの』が、同じとは限らない。

表に『見えるもの』が『恐ろしく見える』からと言って、其れが『本当に恐ろしいもの』とは限らない。

『本当に恐ろしいもの』は、『()()()()()()()()』なのだ。


「行こう」


そう言って、橘は再び歩き出した。


橘の鋭い牙と爪は、≪人間≫を傷付ける為のものでは無い。

きっと橘は、自分自身が持つ鋭い牙と爪にずっと傷付けられて来たに違いない。

鋭い牙と爪は、橘自身を傷付け続けていたのだ。


私は、少し前を歩く橘の優しく温かい手を握った。

橘は、驚いた顔をして私を見た。

私は、橘の目を見ながら笑った。

橘も笑い、握り返してくれた。


少し歩くと、畑に着いた。


広い畑には、沢山の野菜が生っていた。

一面、緑色だった。


今朝、橘が採って来た胡瓜に冬瓜、生姜の他に、茄子や藤豆、ささげに茴香(ういきょう)も生っていた。


「野菜は、こう言う風に生っていたのね・・・」


「畑を見るのは、初めてか?」


「うん。

野菜を、触っても良い?」


「ああ」


私は畑に近づき、(かが)んだ。

私は、初めて見る畑に興奮した。

書物で読んだものが目の前にあり、其れを実際に触る事が出来る日が来るなんて考えた事もなかった。

想像していたものと同じものもあり、違うものもあり、やはり実際に見なければ分からない事は沢山あるのだと思った。


私は黄色い小さな花を咲かせる野菜を指さしながら、橘に聞いた。


「此れは、茴香でしょ?」


「知っているのか?」


「以前読んだ書物に、書いてあったの。

本物を見るのは、初めて。

葉は其のままでも食べられるし、汁物に入れたりもするのでしょう?

果実は天日干しして煎じて飲めば、胃やお腹の痛みに効くと書いてあった」


「ああ。

果実は、もう少し経ったら生るだろう。

其の時に、一緒に採りに来よう。

葉は、夕方また採りに来て夕飯の汁物に入れよう」


「うん」


「秋子」


「ん?」


「嬉しいか?」


「嬉しい!!」


「そうか。

良かった」


橘も、嬉しそうだった。


次に、私達は川へ洗濯に向かった。


橘は、顔を洗った川の少し下流へ私を連れて行った。


「どうして、下流に来たの?」


「上流では食べ物や顔を洗い、下流では着物を洗う。

上流で汚れた着物を洗えば、下流の水が汚れる。

汚れた水で、食べ物や顔を洗いたくはないだろう?」


「ああ・・・。

そうか・・・。

何処でも何でも洗えると言う訳では、無いのね・・・」


「ああ」


そう言うと、橘は桶から着物を取り出した。

其の着物は、私が昨日着ていた煌びやかな着物だった。

橘は着物を持ちながら草履(ぞうり)を脱ぎ、川の中に入って行った。

橘は比較的穏やかな流れの所に着物を置き、其の着物の上に乗って足で踏み始めた。

洗濯は手で洗うより、足で踏んで洗った方が汚れが良く落ちると聞いた事があった。

私も、やってみたいと思った。


「私も、やっても良い?」


「ああ」


私も草履を脱ぎ、川の中に入った。

川の水は上流より少し冷たくて、気持ちが良かった。


橘は着物の上から降り、流されないように着物を手で抑え、もう一方の手で私の手を取り、私を支えながら言った。


「あまり強く踏むと生地が傷んでしまうから、優しく踏むと良い」


「うん」


私は着物の上に乗って、ゆっくりと優しく着物を踏み洗い始めた。

橘は其れを暫く見た後、他の着物を踏んで洗い始めた。


汚れが、少しずつ其の先の下流へと流れて行った。


私は時間を掛けて、着物の汚れを綺麗に洗い流した。


私は洗い終わった自分の着物を広げ、着物に太陽の光を当ててみた。

少し傷んでしまったところはあったけれど、初めて此の着物が綺麗だと思えた。

もう二度と此の着物を着る事は無いけれど、汚れを落とした此の着物をいつまでも大切に保管しておきたいと思った。

此の着物を着た世界も、私を育てた世界の一つである事を忘れない為に・・・。


全ての洗濯物を洗い終え、橘は私に言った。


「秋子。

少し疲れただろう?

もう戻ろう」


「うん」


「庭の桃を採って帰って、家で食べよう」


「うん」


橘は、少し重くなった洗濯物を桶に入れて持った。

私が持つと言ったけれど、断られた。

そして、私達は家へと向かった。


家の近くまで行くと突然橘が屈み込み、一枚の短冊形(たんざくがた)の紙を拾い上げた。

私は橘に近づき、其の紙を覗き見た。

其の紙には、何か呪文が書かれていた。


「其れ・・・御札・・・?」


「ああ。

もしかしたら鰯を投げ入れて行った陰陽師が、家の戸に貼って行き、其れが風に飛ばされて此処に落ちたのかもしれない。


「御札も、貼られるの?」


「ああ。

なかなか良い紙を使っているから、裏紙を使って再利用している。

お陰で、紙に不自由した事は無い」


「効かない・・・の・・・?」


「何に効くのか、さっぱり分からない」


そう言って、橘は懐に其の御札を入れて歩き出した。


やはり、橘には何も効かないのだ。

一体、橘には何が効くのだろう?


少し歩き、私達は庭に生えている大きな桃の木の前に立った。

木には、沢山の桃の実が生っていた。

近づくと、甘くて良い香りがした。

私が背を伸ばして桃を一つ()ぎ取ろうとすると、橘が言った。


「其の桃は、腐っている」


「え?」


そう言われ、私は其の桃を色々な角度から見てみた。


「見た目は、何の問題も無いようだけれど・・・?」


「中が、少し黒い」


「中?

見えるの?」


「ああ」


表は何とも無いけれど、橘には桃の中が見えるのだ。

外が問題無いからと言って、中が大丈夫とは限らないのだ。


其の後、私は橘の言う『食べ頃』の大きな桃を二つ選んで捥ぎ取った。

私は桃を、橘は洗濯物が入った桶を持って家の中へ入って行った。

橘は、懐に入れた御札を板の間に置きながら言った。


「洗濯物を干して来るから、秋子は少し休んでいろ」


そう言うと、洗濯物が入った桶を持って橘は外へ向かった。

私は急いで桃を板の間に置き、橘を追い掛けて外に出た。


橘は間隔の空いた二本の木の枝に掛けた竿に、着物を掛けようとしていた。

私は其の着物を握り、橘に言った。


「私が、干す」


私がそう言うと、橘はにっこり笑って着物を渡してくれた。


「では、秋子が着物を干している間に私は桃を切ろう」


そう言って橘は竿を少し下の方の枝に掛け直し、家へ入って行った。


手の届く所に着物を干す事が出来るようになった私は、橘から受け取った着物を其の竿に掛けた。

皺にならないように、着物を良く伸ばした。

着物を洗うなんて、着物を干すなんて、今まで経験した事が無かった。

いや。

全てが、初めてだった。

とても楽しかった。


お屋敷に住んで居た時は、いつも朝ご飯を食べた後、囲碁をしたり貝合わせをしたり、和歌を詠んだりしていた。

毎日が、其の繰り返しだった。

とても、退屈だった。

でも、今は違う。

身体を動かす事はまだ慣れていないから少し疲れるけれど、嫌ではなかった。

今は、『自分』で『自分』のやりたい事が出来る。

何にも縛られず、自由に出来る。

其れを、受け容れてもらえる。

人によっては、もしかしたら今まで私が送って来た貴族の生活の方が恵まれていると思うのかもしれない。

でも私は、『()()()()()()()

私は、『()()()()()()()()()()()()()

全てを自由に出来る訳では無いけれど、『自分』の意思で何かを決める事が出来るのならば、出来る限り『自分』で選びたい。


()()、『()()()()()()


そう思った。


私は着物を全て干し終わり、空になった桶を持って家に戻った。

丁度、橘が桃を切り終え、木皿に乗せている所だった。

橘は私に気付くと私の方を振り向き、優しく微笑みながら言った。


「有難う。

秋子」


「うん」


私は、照れ臭そうに笑って応えた。

そして私は板の間に上がり、桶を板の間の端に置いた。

橘も板の間に上がり、桃が乗った木皿を私の前に置いた。

桃は、とても綺麗に切られていた。


「食べても良い?」


「ああ」


私は桃を手に取り、一口食べてみた。

桃はとても瑞々しくて、一瞬にして桃の甘い香りが口の中に広がった。

橘は、嬉しそうに食べる私を見つめながら聞いた。


「美味しいか?」


「うん!!」


「そうか。

良かった」


「桃以外にも、山の中に果物は有るの?」


「春には、枇杷(びわ)野苺(のいちご)が採れる。

夏には(なし)(あんず)(うめ)が採れる。

秋には山葡萄(やまぶどう)柘榴(ざくろ)木通(あけび)(なつめ)が採れる。

冬には、(かき)利牟古(りむご)林檎(りんご))が採れる。

季節になったら、一緒に採りに行こう」


「うん。

其れにしても、此処に居れば何もかもが手に入るのね・・・」


「そうでもない。

足りないものもある」


「足りないものは、どうするの?」


「足りないものは、町へ行って調達する」


「調達?

銅貨は?」


「銅貨は、無い。

だから野菜や果物、自分で作った物を反物(たんもの)や鍋などに交換してもらう為に町へ出掛ける」


「町へ?

町へ出掛ける時は、≪人間≫の姿に化けるの?」


私がそう言うと、橘は右手を大きく開いて掌を自分の顔にかざした。

一瞬、掌が光った。

すると、あっと言う間に橘は≪人間≫の姿に変身した。

髪の毛は黒くなり、目は鳶色。

牙も角も無くなり、爪も耳も丸くなった。

橘は、≪人間≫になった。


こう言った能力を目の前で見ると、橘はやはり≪鬼≫なのだと思う。

橘は≪人間≫とは見た目も異なるし、≪人間≫には無い能力も持っている。

けれど、其れ以外はやはり≪人間≫と変わらないと思った。

もしかしたら私がそう思うだけで、本当は違うのかもしれない。

でも少しの時間だけれど、一緒にいた私には、傍で橘を見て来た私には、やはり彼が≪人間≫の言う恐ろしい≪鬼≫には見えなかった。


≪人間≫の姿に化けた橘は、再び自分の顔に掌をかざした。

そして掌が光ると同時に、元の橘に戻った。

其れを見た私は、何故か安心した。

≪鬼≫の姿の橘の方が、≪人間≫の姿の橘よりも私は好きだと思った。


「町に行く時は、いつも≪人間≫の姿になって行く。

私の≪人間≫の姿は、可笑しかったか?」


私は少し恥ずかしそうに聞く橘が、とても可愛らしいと思った。

私は、微笑みながら答えた。


「ううん。

≪人間≫に見えた。

でも・・・」


「でも・・・?」


橘は、心配そうに聞き返した。

私は、にっこり笑いながら答えた。


「私は、≪鬼≫の姿の橘の方が好きだと思った」


其れを聞いた橘は少し目を見開き、優しく、そして悲しそうに微笑んだ。


私は其の表情を不思議に思いながらも、続けた。


「野菜や果物を反物やお鍋と交換すると言う事は、つまり物と物を交換すると言う事?

私、てっきり庭の石を銅貨に変えて買い物をするのかと思った・・・」


「私の事を、何だと思っている・・・。

私が、何でも物を別の物に変えられるとでも思っているのか?」


「うん」


「・・・」


「・・・出来ないの・・・?」


「・・・出来る。

だが、しない。

其のような事をすれば、≪人間≫を騙す事になる。

石は、石だ。

銅貨として渡された石が突然元の石に戻ったら、石を貰った≪人間≫は驚き困るだろう?」


≪人間≫は自分の為に≪人間≫を騙そうとするのに、橘は≪人間≫を騙そうとしない。

騙したいとも、思っていない。

≪鬼≫である橘の方が、余程≪人間≫の事を思っている。

私は、≪人間≫の事が分からなくなってきた。

そして、≪鬼≫の事も分からなくなってきた。

≪人間≫とは、≪鬼≫とは、一体『()()()()()()




夕方、私達は茄子と茴香を採りに再び畑へ行き、橘が其れらを使って夕飯を作ってくれた。

私は木皿と木匙を用意し、出来上がった料理を運ぶお手伝いをした。


陰陽師が投げ入れて行った塩漬けの鰯を食べながら、私は今日一日ずっと疑問に思っていた事を橘に聞いた。


「橘・・・」


「何だ?」


「橘は≪鬼≫の能力を使って、空を飛ぶ事が出来る。

一瞬にして、家を作る事も出来る。

簡単に、火を起こす事も出来る。

石を、銅貨に変える事も出来る。

そんな能力があるのに、どうして野菜を苦労して作ったり、魚を自分で釣ったりするの?

どうして、自分で笠を編んだり木の器を作ったりするの?」


「?」


「≪鬼≫の能力を使えば、簡単に野菜を作る事も出来るし、魚も釣る事が出来る。

笠も木の器も、直ぐに作る事が出来る。

着物を、わざわざ裏の川で洗わなくても良い。

着物も身体も、汚れなくて済む。

苦労しなくて良い」


「・・・確かに、≪鬼≫の能力で全ての事が一瞬で出来る。

だが、其れでは意味が無いのだ」


「意味が無い?」


「自分で野菜を植え、水を与え、大きくなった野菜を収穫して食べるから、野菜を美味しく感じる事が出来る。

うまく野菜が育たなければ、何故育たなかったのか、次はどうすれば良いのかを考える。

魚も、釣れる時もあれば逃げられる時もある。

魚に逃げられれば、魚を釣る為にはどうすれば良いのかを考える。

釣れた魚は焼こうか、煮ようか考える。

笠も違う編み方をしようか、木の器には文様を入れようか、色々と考える。

着物の汚れがなかなか落ちない時は、どうすれば落ちるのかを考え、試す。

試行錯誤しながら考え、失敗して悔しいと感じたり、成功して嬉しいと感じたりする。

其れら全てが、私には楽しい事なのだ」


「≪鬼≫の能力を使えば簡単に出来る事を、敢えて自分の身体を使って苦労してやっていると言う事?

橘は、其の方が楽しいと言う事?」


「ああ。

≪鬼≫の能力を以てすれば、全て容易に事を成す事が出来る。

しかし、私は其れをしない。

したくない。

≪鬼≫の能力を使ってばかりでは、身体だけではなく、心までもが衰えてしまう。

自分の身体を動かさなければ、苦労したり喜んだりする事が、出来なくなってしまう。

自分の身体を使う喜びを、『生きている』と言う事を感じる事が出来なくなってしまう。

感情が、失われてしまう。

忘れてしまう。

便利になれば、必ず『失うもの』がある。

『失われるもの』がある。

私は、『()()()()()()()()()()()()()』だけだ」


「・・・」


「ただ、いざと言う時は≪鬼≫の能力を使う。

出来るだけ、使わないようにしてはいるが・・・」


いざと言う時・・・。


ああ・・・。


そうか・・・。


だから・・・。


橘は、料理をする時に≪鬼≫の能力を使って火を起こさなかった。

でも私が初めて橘の家に来た時、橘は≪鬼≫の能力を使って直ぐに火を起こした。

あの時、揉鑚ではなく≪鬼≫の能力を使ったのは、私の冷えた身体を早く温める為だったのだ。


ああ・・・。


橘は、優しい・・・。


其の優しさは、橘に元々備わっているものなのだ。


橘は、無理をして私に優しくしようとしているのではない。


此の優しさは、橘の『自然な優しさ』なのだ。


『自然な優しさ』だから、私も自然と笑う事が出来る。


自分も其れに応えたい、自分も優しくしたいと思える。


橘の優しさが、私を受け容れてくれる。


私は橘の優しさが嬉しくて、其の気持ちを橘に伝えたくて自分の心を言葉にした。


「橘は、優しい・・・」


すると、橘は驚いた顔をして私を見た。

橘は、真っ赤な顔をしていた。

私は照れている橘を、愛しいと思った。


たった一日橘と一緒に居ただけなのに、私は自然に自分の心を表に出す事が出来るようになっていた。


私は今日一日で、今まで生きて来た以上の微笑みをした。


私は、此れからは橘の為に笑いたいと思った。


時々悲しい顔をする橘を、優しく温かい橘を支えたいと思った。


橘に、『生きている』と言う事をずっと感じていてもらいたいと思った。


私は、橘を見つめながら言った。


「橘が≪鬼≫の能力を出来るだけ使わないように、此れからは私が橘と一緒に居て、私が橘を助け支える」


そう言って、私は微笑んだ。


橘も、嬉しそうに微笑んだ。



私は今まで、貴族の世界に縛られていた。


≪人間≫が作った世界に、縛られていた。


でも、今は違う。


私は、自由だ。


私は、自由に生きる事が出来る。


私は、自由に生きて選ぶ事が出来る。


私は、橘の為に生きる事が出来る。


此の先ずっと、私は橘と共に生きて行く事が出来る。

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