2040年の彼女の憂鬱
1
大昔の小説家に星新一って人がいる。
私が唯一好きな作家。
私は本をあまり読む方じゃない。
だって、ただ文字を連ねただけの紙やホログラムに向き合わなくたって、誰かが読んでくれるもの。
「小説」は、今じゃ音と映像がついていてあたりまえだ。おじいちゃんとか年配の先生とか、たまに古臭い考えの人が口うるさく「紙の本を読め」なんて騒ぎ、嘆いているけれど、正直そんなのナンセンスだと思う。
紙の本がいい人はそれでいいと思うし、否定するつもりもない。
ただ、データじゃないとかさばるし、重いし、正直動画で見てしまった方が時間の短縮にもなる。
世の中に面白いものはたくさん溢れているのだ。
わざわざ紙をありがたがって文字を追わなくたって、気になるものはいくらでもある。
ああ、星新一の話に戻らないと……。
なぜ私が、彼……というか彼の小説を好きかって話。
私ね、彼の「ゆきとどいた生活」って話が一番好きなの。
おじさんが天井から降りてくる手にかいがいしく世話を焼かれて、いつもの通り「パイプ」を通って出勤するんだけど、実は死んでましたって話。
なぜその話かっていうとね、すごく大昔に書かれた小説なのに、まるで私たちの今の生活を予言しているようだと思ったから。
私が生まれた年に、新型コロナウイルス「COVID-19」ってやつが猛威を振るった。2019年に発生したらしいから、「COVID-19」っていうらしい。
当時はみんな大変で、世界的に混乱して、かなり長い間「外に出ない」ようにしていたそうだ。
ママのお腹の中から出てきたばかりの私は当然覚えていない。
パパもママも私が感染しないようにとかなり気を使ってくれたとかなんとか。
当時の状況は歴史の教科書と動画資料でちょろっと見て、知ってるくらいだ。
当時のことは知識以外何も知らないけれど、そのウイルスの流行と同時期に導入され始めた5Gによって、この社会の様相が大きく変わり、私の今の当たり前な生活があるらしい。
ウイルスの登場から20年。人々は直接会うことを忌避するようになった。
避ける……というよりは直に肉体で向き合わなくても良くなったということのほうが大きいのかもしれない。
私が生まれてからの20年で、いろんなものが整備された。
いかにして外に出ることなく生活を維持するか。
その方法が模索される中で、私がいる日本では東南海大地震が発生した。
小さな頃のことだから、やっぱりあまり記憶にないのだけれど、昔に起こった東日本大震災と同じくらい大変な被害だったらしくて、私も一時避難所で生活してたらしい。
さいわい、「COVID-19」のワクチンも登場していて、避難所での感染流行もそこまで深刻にならずに済んだけれど、2020年の災厄が記憶に新しい人々は、ウイルスと災害に対するさらに強固な策を望むようになった。
震災復興を期に、大規模な都市改修、開発が行われ、いかなる自然災害にも強い(らしいけど、どうなんだろう?)建築が雨後のたけのこのようにあらわれ、外気に触れずに建物間を移動するためのパイプアーケード型道路が張り巡らされる。
それでも、人々は肉体での外出を忌避するようになり、どうしても外出を要する仕事や物流は貧困層の仕事となった。
今では物質的な変化と同時にサイバースペースの整備が進み、人々はそれぞれ「アバター」でオンライン空間へと出かけていくのが普通になってる。
電子技術と医学の応用で、アバターでの活動は三次元世界と遜色のないものとなった。サイバースペースと肉体を繋ぐ端末を頭と手足の指先に接続するだけで、三次元と同じ生活が送れる。
自分の好きなルックスをカスタマイズし、五体満足な状態で家や個室にいながら世界中どこへでも行けるのだ。
最近はその技術を応用して、肉体が終わりを迎えてもサーバースペース上で生き続けることができるのではないか、なんて研究も行われていたり……。
仕事も学校もショッピングも。留学も旅行でさえも。今まで肉体的な移動が必要だった何もかもがサイバースペースで完結するようになった。
だから、2040年の彼氏彼女は、アバター同士でサイバーデートがふつうなのだ。
ということもあり、いざ結婚して同じ家に住むことになった際に、相手がアバターの見た目と大きくかけ離れていることがきっかけで破談となる「アバター離婚」が起こっている。
最も、今は結婚率も大幅に下がっていて、したとしても一緒に住むことなく、サイバースペースに新居を構えている、なんてことも珍しくない。
子供を産む人もいるが、ここ数年で生殖技術が発展し、母体が妊娠するという形の出産はほとんど行われなくなっていた。むしろ、女性が妊娠することは、人権擁護や母体の安全に対する観点から、あまり好まれなくなっている。たまにニュースで自然分娩の話を聞くけれど、それは多くの場合貧困層の問題として報道されていた。
最近の流行は、三次元ではなく、アバターでのみ子供をもうけるというものだ。そのうち、「アバターしかない人間」が社会の何割かを構成することになる。
私はそんな状況を、人ごとのように眺めているのだ。
「ハルト、今日はどこへいく?」
待ち合わせ時間丁度にサイバーハチ公前へ現れた彼氏に、私は話しかけた。
「そうだな……。そろそろアバターの靴を新調したいんだけど……」
私は、彼氏のアバターと手を繋ぐ。
彼も私の手を繋ぎ返し、指を絡める。
皮膚の感覚も、肉の感触も、温かさもある。
けれども私は、その感覚に物足りなさを感じていた。
2
私たちにとって「人と会う」ということは、一般的に「サイバースペースで他者と交流する」ことを意味する。
パパやママは、「昔は直接会うのが普通だったのに」なんて懐かしがっているけれど、私と同世代や下の世代になると、そんな感覚を抱くことなんてほとんどないと思う。
肉体での生活は、それぞれの居住空間で完結する。
食料も衣類も医薬品も……健康で文化的な最低限度の生活を送るための物資は、全国民へ定期的に支給される。個々人の健康状態は、毎日アバターを通してヘルスセンターへデータが送られ、治療が必要な場合は医療団が派遣されて自宅で医療を受けることができ、場合によってはヘルスセンターへ搬送される。
かつては常に居住空間へこもることによる運動不足が懸念されていたけれど、アバター技術の向上で改善された。
というのも、私たちがサイバースペースで活動すると、その運動情報に比例して肉体……主に筋肉や心肺機能が刺激されるようになっている。私たちは一見何もしていないように見えて、アバターでの活動が実際の運動量として換算されるのだ。
どういう仕組みでそんなことが可能なのか、さっぱりわからないのだけれど。
私たちにとって肉体は、忘れられつつある異物なのだ。
場合によっては三次元の肉体こそが不便で煩わしい、忌避すべきものである。
食事をとらなければ命を保てず、食べれば排泄も必要になる。病気や怪我によって命を落とすこともある。場合によっては生まれながらにして肉体が不自由ということもあるだろう。
アバターは、それらの三次元の煩わしさを取り払った。
三次元など捨てて、ずっとアバターのままサイバースペースにいたいなんていう人もいるくらいだ。
手を繋ぐことも、口づけを交わすことも、セックスも、何もかもをサーバースペースで完結させることができる。
だからみんな……、私も忘れがちなのだ。
三次元の肉体があるからこそ、私たちはアバターとして存在し、サイバースペースで様々な感覚を味わうことができるということを。
アバターの状態で得られる感覚は、実際に触れ合ったことによって生じたものではない。
プログラミングされたデータを基に信号が発せらられ、それが肉体の脳や神経を刺激したことによって生じる「予定調和」の感覚なのだ。
ある部分をどれくらいの強さで触るとこれくらいの感覚を感じるだろう、なんていう管理された「感覚」だ。
その感覚を感じるには、三次元の肉体が必要となる。
私は時折そのことに想いを馳せ、アバターとしての自分の感覚に物足りなさを覚えた。
私は彼氏……ハルトが好きだ。彼の顔も声も体も……性格も好きだ。アバターの彼にしか会ったことはないのだけれど。
私はなるべく三次元の自分と変わりない状態で人と付き合いたくて、アバターには顔も体も何もかも、現実と限りなく近いものを設定している。
アバターをどのようなものに設定するかは本当に人それぞれで、だから私は自分の彼氏が三次元でもほぼ同じ人物なのかどうかを知らない。
私は顔や体型や声なんかには拘らなくて、性格さえ合えばいいと思っているから、どうでもいいのだけれど……。
だけど、彼の温度を感じている時に、実際に会った彼と触れ合うことについてよく考えるのだ。
顔を突き合わせて肉体で触れ合った時に、彼はどんな顔をするのだろう。
本当の彼の香りはどうなのか。掌の肉の厚さや、肩を寄せた時の温度。
サイバースペースで会う時と全く同じなのか、それとも違うのか……。
彼と会って、アバター同士で体を重ねるたびに、彼と直に会いたい気持ちは徐々に大きく膨らんでいった。
3
「みんなさ、実際は恋人と直接会ってたりするのかな?」
「は?」
講義の合間の時間、私はホログラム越しに顔を突き合わせている友達に話しかける。
今日はなんだかめんどくさくて、アバター接続はしないでホログラムを眺めながら講義を受ける。実習のある授業じゃないから、こちらの方がいい。
ホログラムを通して見る友達のサクラの顔はアバターのものだ。
もちろんサクラが見ている私の顔もアバターだ。
「うちらさ、小学校の時から仲良いいじゃん?」
サクラのアバターの頭部には猫耳がついており、毛むくじゃらの左耳がぷるるると震える。
「うん」
「それくらい付き合いが長くてもお互いの本当の顔知らないんだよ?」
「そうだね……」
「恋人でも、直接会ってるのなんてごく少数だよ」
「うん……」
サクラの口調に不安を覚えて、私は返事を濁す。
「どうしたの? 彼氏に直接会いたいって言われた?」
「ううん。直に会いたいのは私の方」
「はあ?!」
サクラが信じられないと声を張り上げ、彼女のアバターの猫耳もピンと上へ尖る。
「ダメかな? 直接会って触れてみたいんだよね。親と手を繋いだりとかするじゃん?」
「まあ、小さい時はね……。でもそれって気持ち悪くない?」
「何が?」
「だって、直接会って触るんだよ?
肉体つきあわせて、恋人と個室で二人きりとか、何かに感染しそうで怖いし」
「ちゃんと消毒した室内で互いに消毒しとけば大丈夫じゃない?」
「そうかもしれないけどさ、想像してごらんよ。肉体同士のセックスって、汚いじゃん」
「汚い?」
「アバターだと結局は仮想現実な訳じゃん。でも肉体は実物。汁とか粘液とか体液とか唾液とか……においもやばそうだし、絶対汚いよ。
それにさ、自分の体で妊娠したらどうすんの? やばいじゃん、大事だよ」
「そうか……」
「そうだよ!」
サクラが力強く頷く。
「そもそも、どうやって会いに行くの? 結婚してふたりで住み始めるくらいのイベントがないと、外に出られなくない?」
「たしかに……」
そうなのだ。
現代社会で人が居住空間を出る時。それは物流の仕事でやむを得ない場合や、感染や病気で重篤な状態でありヘルスセンターへの搬送が必要な場合。そして、家族構成の変化や独立に伴う居住空間の移動が必要な時で、よっぽどの理由がない限り外へ出るのは躊躇される。
それは、法律が整備されているといった理由からではなく、「出る必要がない」うえに「出ることに対する躊躇」が働くからなのだ。ひと昔前までは、認知症患者が放浪したり、居住空間にとどまることに抵抗感のある人々がこぞって外へ出ていくなんてことがあった。けれども今じゃ、そんな話はまったく聞かない。
外へ出ていくことは悪いことではないはずなのに、心理的に許されない行為となったのだ。
その感覚は、人が下着や服で性器や肌を隠すことに似ている。
「どうやって外へ出るか……か」
私はどうやって外へ出て、どこでハルトに会えばいいのか。
そもそも、ハルトは私と肉体で会ってくれるのかな?
私は教授のホログラムをぼんやり眺めながら、恋人との逢瀬について考えを巡らせていた。
4
私は、窓ガラスに投影していたエメラルドグリーンの湖の壁紙をオフし、窓の外を眺める。
外には、管のように張り巡らされたパイプアーケードで繋がる高層住宅が立ち並んでいる。
地上は、人の足が入らなくなったこともあり、様々な植物が繁茂していた。建物の維持に影響がありそうな場合でもない限り、植物が手入れされることはない。
人々は、居住空間の外に対する興味を限りなく失ってしまった。
窓の外に広がる空がどんなに美しくても、突然分厚い雲に覆われ恐ろしいゲリラ豪雨がやってきても、人々は実在しない仮想現実の方へ思いを寄せる。
なぜなら、この居住空間が絶対的な安住の場として機能しているからだ。
あるとすれば、自然災害によって膨大に張り巡らされたネット環境やその根幹となる電力供給が断たれてしまうことに対する不安くらいだろうか。
みんな、今与えられている居住空間が強固に作られた絶対的安全装置だと信じて疑わず、頼りきっている。
そこに不安や懸念を表明している人もいるけれど、声を上げたところで一時問題視されて、「どうにかしていかないといけないね」とみんなで仲良く顔を見合わせて終わりなのだ。
現にこの社会環境は今のところ集中豪雨や大きな地震に対しても強固な安全性を示しており、それが証拠だと言わんばかりに私たちは従属している。
出来上がってまだまもない環境であるにもかかわらず、これは安全なユートピアの実現化のように感じているのかもしれない。
私?
私はただ、与えられているから受け取っているだけだ。
便利だし、自分に不都合があるわけでもない。享受して不利益があるわけでもないものに、あえて抵抗する必要なんてないだろう。
「外に出ていきたい人って、どれくらいいるんだろう?」
例えば、私が生まれた頃のように外へ出ていくとして、私は何を着て行こう。
地上は植物が生い茂り、きっと虫もたくさんいるに違いない。
ブーツのようなしっかりした靴と、体操着のような長袖長ズボンで出ていった方がいいだろう。
野良の犬や猫の話はあまり聞かないが、いたらどうすればいいのだろうか。
開くことのない窓を開いて、外気に腕を晒す想像をする。
外気はどうなのだろうか?
人類に邪魔をされなくなったウイルスや細菌がウジャウジャいて、私の肌に付着する。
そこからじゅわじゅわと泡立って、濃緑の苔のようなカビが発生し、茶色く変色しながら私の肌を伝って広がっていく。肌は一瞬熱を帯び、色が変わると冷えて硬く固まっていき、いつしかそれは私の心臓へと……
「あ……っ」
こめかみの辺りを恐怖がよぎり、私は見つめていた腕を大きく振って目をそらす。
外へ出たとして、そんなことは起こりようがない。
出る必要がある場合は、外出用のボディスーツを着用し、マスクも被った上でパイプアーケードの中をいく。
そこでもなく、本当に外気に触れる必要のある人は、防護服を着用しているが、それは本当に予防的な意味合いが強いのだ。
外にある目に見えない何かを、居住空間へ持ち込まないための工夫だ。
実際は、出ていっても何かに感染する人はするのかもしれないが、何も起こらない確率の方が高い。
こんな社会になったけれど、私たちマジョリティが知らないだけで、地上で2020年以前の暮らしを送っている人々もいないとは限らないのだ。
ただ、あれから20年経って、この社会構造で生き始めた人々は自分たちの免疫力に懐疑心を抱いている。
外気とその中にいるかもしれない細菌やウイルスを忌避した結果、今の生活を手に入れた私たちは技術に甘やかされた生活を送り、免疫力は格段に落ちているだろう。そんな中で「さあ、明日から元の生活に戻りましょう」と、普段着で外気に晒されるのは非常にリスクが高い。
COVID-19の登場で、外へ出ていくことは短期間のうちに禁忌として人々の心の中へ植え付けられてしまった。
私たちは仮想現実の中へ入り、他社のアバターと会うことを「外へ出る」ことだと思っている。
「外へ出てハルトのところへ行くには、どうすればいいのか……」
窓の外を眺めていると、パイプアーケードの中を動く自動車が見える。
それらは多くの場合自動運転によるもので、各世帯へ物資を運ぶのが主な仕事だ。
「あれって、乗れたりしないのかな?」
私はふと思い立ち、物資輸送の車に乗れないか方法を検索しようと考えるが、すぐに思いとどまる。
特に思想統制などはないのだが、この社会状況だ。検索履歴の監視が可能なこの状況で、たとえ「少し検索してみよう」なんていう好奇心からだったとしても物資輸送の車に乗るなんて考えがどんな不利益を生むかわからない。
検索キーワードを少し考える必要がある。
「外に出るのって、めんどくさいんだな……」
だけど、退屈するよりは楽しい。
私は小一時間考え、「外に出ざるを得ない仕事」でどこかアルバイトを募集していないか探してみることにした。
5
昼下がり、リビングのソファーで午後のお茶を飲んでいるママの隣に座る。
私はママが淹れてくれたお茶を飲みながら、カップを持つ彼女の手元を見る。
「ママ、手を触ってもいい?」
「え? いいわよ」
彼女の手をとって、掌や指を揉む。
母の手は白く細くて、でも、掌に柔らかく薄く肉がついている。
「ふふ……マッサージしてくれてるの?」
「マッサージ?」
「ええ。昔はよくヒナのおばあちゃんの肩を揉んだりしていたのよ」
今は直接会うことも滅多になくなったからねと、母は手を揉まれながらお茶をすする。
アバターに接続することで、肉体の不調……結構不良や自律神経の乱れ、肩凝りでさえも整えられるようになったから、「マッサージ」という言葉自体最近ではあまり聞かなくなっていた。
ママの手を揉むことは、アバターで誰かに触れることと特に変わりはない。
肌を触っている。揉んでいる。でもそれは、今ここに確かにある肉体だ。
「この手は、本物のママのものなんだよね」
「ヒナ?」
「あ……。最近ママの手に触ってなかったから」
ママがカップを置いて、私の髪を撫でる。
「そうね。私の手よ。ヒナはママのお腹にいてそこから出てきたのよ」
「うん」
小さな頃、ママに「髪を触ってもいい?」と聞かれたことがある。
私はそれがとても不思議で、ママに髪を触られながら、「どうしてそんなこと聞くの?」と尋ねた。
だって、ママが私に触れることは当然のことで、聞かれるまでもないことだったから。
ハルトに直接会えたら、私はどう言って彼に触れたらいいのだろう。
「手を握ってもいい?」
「肌に触れてもいい?」
「唇を重ねてもいい?」
もしも「嫌だ」と拒絶されたら、私はどんな顔で彼を見つめたらいいのだろうか。
若干の恐怖心を抱きつつ、私はママに本題を切り出した。
「ママ、バイトを始めようと思うんだけど……」
これを伝えたくて、ママをお茶に誘ったのだ。
「へえ? 何やるの?」
「点検整備の仕事。一年に一回パイプアーケードの目視点検があるでしょう? そのアシスタントの仕事なんだけど……」
今は物質的な仕事はほぼ100%機械化されている。私たちに支給される食べ物も、服も、何もかも、生産から収穫、出荷まですべてをAIが搭載されたロボットが行っている。人間はそれを居住空間からリモートで監視、制御しているのだ。出勤も、アバターでサイバースペースに設置された職場に通うことを言う。
今の社会では、かつてのように必ずしも就労していなくても生きていくことができる。最低限度の生活は保証されていて、みんな本当にやりたい仕事、興味がある仕事をして過ごしている。
ものを作り出すのが好きな人、研究をするのが好きな人、ロボットを制御するのが好きな人……みんな、なんだかんだ何もせずにはいられないから、自分の興味関心や得意なことを生かして余剰のお金を稼いだり充実感を得ているのだ。
着たい服がある人、服を作ることが好きな人は、自分で作って売ったりだとか。アバター用のカスタマイズデータを作って小銭を稼いでいる人もいる。
生きることが保証されているから、本当に好きなことをやって、活きいきと暮らしているのだ。
ただ、とある事情からそれらの「恩恵」から漏れてしまっている人がいて、全人口の数%くらいの人々が貧困層らしい。彼らは社会的に「ないもの」として扱われているのだけれど、実際には生きているから、物流等のどうしても人間の手が必要な仕事や外気に触れる必要がある「危険」な仕事に従事している。
私が選んだアルバイトもそういった部類に入るものなのだけれど、なるべく危険がなさそうなものを選んだ。とにかく、外へ出てパイプアーケードを移動していてもおかしくないような仕事であればよかったのだ。
私の言葉を聞いて、ママは一瞬眉を顰めたけれど、すぐに笑った。
「いいと思うけれど……どうしてわざわざそれにしたの? ネット上にいくらでも仕事はあるじゃない?」
「うん。だけど……なんだろ。実際に外を見てみたいと思って。パイプアーケードを歩くってあまりないことじゃない?」
「そうよね。私はいいと思うわ。念のためパパにも聞いてみましょう。応援するわ」
「ありがとう」
ママは、「あなたは、外へあまり行ったことがないものね」としみじみと呟く。
パパとママは、私の人生がほぼ居住空間で完結してしまっていて、それが死ぬまで続きそうだということを嘆いていた。
サイバースペースでやれることと、パパやママたちがやれていたことに差なんてないと思う。けれども、昔を知っている人たちにとっては、私たち「アフターコロナ世代」が可哀想に映っているようなのだ。
念のために自分に言い聞かせるが、私は、自分が可哀想だから外に出るのではない。単に好きな男と実際に触れ合ってみたくて、それがアバターとしての経験と違いがあるのか確かめたくて……そんな好奇心みたいなものからそれを求めているのだ。
私は、退屈しているに違いない。きっとそうだ。
パパとママの許しを得て、アルバイトを始められる算段がたった私は、肝心の目的へとコンタクトを取る。
ハルトといつものようにサイバースペースで落ち合い、大手カフェチェーン店の窓際の席でスイーツドリンクの香りと甘みの感覚を味わいながら、私は彼にこう尋ねた。
「ハルトはどの居住区に住んでるの?」
「え?」
なぜそのようなことを尋ねるのかと、目で訴えられる。
「私は、目黒区の第四ブロック。パパがエンジニアやってるから、昔からそこに住んでるの」
「俺は……言わなきゃダメ?」
彼の答えに、私は内心困惑していた。
彼と出会ったのは高校3年生の頃だから、そろそろ付き合い始めて一年以上は経っている。だから、住所くらい教えてくれると思っていたのだけれど……。
「……あ……聞いちゃダメだった? もしかしてすごく遠いところに住んでる? 四国……とか?」
「ははっ。さすがに四国は行ったこともないな……。もっと近いところに住んでるけど……。それを知ってヒナはどうするの?」
「どうするって……彼氏だし、そろそろ実物の贈り物とかしてもいいかなって……」と濁しそうになって、私は甘みの残る唾を飲み込む。
「そのね、直接会ってみたいって思ったんだよ。神奈川とか、茨城でも、私、会いにいくよ」
「…………」
私の言葉を聞いて、ハルトは二、三度瞬きする。
私が本気なのだと彼を見つめ返すと、彼は優しく微笑んだ。
「俺はヒナのことが好きだよ。だから、時々結婚も考えたりする。だけど、今はさ、こうやってオンライン上で結婚生活を送ることだってできるじゃん。直接会う必要ってあるのかな?」
彼の言葉に、私の胸が締め付けられる。
彼の言葉を予想していないわけではなかった。
だって、私が会いたくても、彼は会いたくないのかもしれない。
彼は私の彼氏だけれど、私の気持ちと彼の気持ちが必ずしも同じだとは限らない。
私はそれを、頭の中では理解していたけれど、心では受け止めきれなかったようだ。
「……だめ、じゃないよ。ダメじゃないけど……直接会えないのは……たとえば、結婚しても一緒に住めないのは寂しいかもしれない」
「住めるよ。オンライン上で家建てて、そこに常駐すればいいじゃん」
「だけどそれだと、ハルトに直に触れられないよ……」
「ヒナ……」
ハルトが、私の頭に手を置いて、ぽんぽんと二回優しく叩く。
その感覚は、ママに髪を触れられているそれと同じようでいて、やはりどこか物足りないのだ。
彼は私の髪を一束とって、指にくるくる巻きつける。
「直接会ったとしてさ……アバターじゃない俺を見た時、ヒナは俺のこと嫌いになるかもしれないよ」
「なっ、ならないよ!!」
「どうしてそう思う?」
「だって私、ハルトのこと顔で選んだわけじゃないもん!!」
髪で遊んでいたハルトの手が止まる。
おそるおそる彼を窺うと、彼はちょっぴり泣きそうな顔をして微笑んでいた。
もしかして、実際のハルトはアバターとはまったく違う容姿なのだろうか。私は顔なんて気にしないし、太っていたって平気なのだけれど。
「ありがとうな、ヒナ」
ハルトは歯を見せて笑って、私の頭をぐしゃぐしゃに掻き乱した。
6
「傷やひび割れ、ネジ等の欠け、そのほか気になることがありましたら、マップに印の上、メモをとって、できれば映像記録をとっておいてください」
パイプアーケードへの扉を前にしたエントランスで、バイト先の上長の指示を聞く。私の他にもバイトの子が数人いた。みんな防護服を着て、パートナーとなる修繕ロボットが一人一台、側についている。
これから毎週決まった曜日と時間に集まって、点検場所を確認してからそれぞれの担当箇所に別れる。
そして、修繕ロボットと並んで歩きながらアーケード内をくまなく点検する。点検用のヘッドセットをつけ、それを使ってマップの確認やメモ、映像記録を行なう。
時折物資輸送の車が走っていくので気をつけながら、足元から天井まで360度見回す。
今のところ報告が必要な箇所はなかった。
「なあ、この先でまだやってないところある?」
声をかけられて振り返ると、同じバイトの男の子が立っていた。
「あ……うん。もう終わったんですか? 早いですね」
「まあ、慣れてるから」
「ふうん……」
「それ、動きづらくない?」
指をさされた足元を見ると、防護服の裾が余って幾重にもシワになっている。
「うん……ま、大丈夫です」
「はは、最後からまわるよ。じゃあね」
彼はポケットに手を入れてスタスタと歩き、その後ろを修繕ロボットが蛇行しながら追いかけていく。
「あの!」
と大声で呼び止めると、彼は日焼けした顔で振り返った。
「何?」
「あなた、この仕事に詳しいんですか?」
「まあ、もうかれこれ5年続けてるからね」
私は彼に詰め寄る。
「それじゃあ、川口市の第一ブロックって、わかりますか?」
「わかるけど……」
「どうやったらいけます?!」
「ええ?! それは……埼玉の点検に行く日に、そこの担当になれば点検できるけど……」
「いつですか?」
「へ?」
「埼玉の日はいつ?!」
「ちょっと落ち着いて……」
「あ、ごめんなさい……」
突然の救世主の登場に、我を忘れてしまった。
ハルトに頼み込んで、住所だけ教えてもらったのだ。
早速私は、彼に手作りのミサンガを送った。
そうでも言わないと教えてくれないから……。
埼玉、川口市第一ブロック。
ハルトの家に向かうのは、埼玉の点検日。
その日に、川口市第一ブロックの担当になれれば……。
私はバイトの先輩に教えを乞いながら、来るべきエックスデーを、頭の中で指折り数えた。
7
「ていうかさ、その彼氏やばいんじゃない?」
久しぶりにウェブ上の大学構内で会ったサクラにハルトの話をすると、サクラは途端に眉を顰めた。
「どうして? サクラも直接会うのはおかしいとか言ってなかったっけ?」
「いやそうだけど、それとこれとは別だよ。何があろうがヒナと会うつもりないじゃん。いくらサイバースペースで結婚生活送ってても、みんな一回くらいは会ってるし、会わないではいられないでしょ?」
「……うん」
「なのに、そいつ絶対会う気ないじゃん? 騙されてるとか?」
「騙されている?」
「そう。実は40、50のおっさんですとか、顔がアバターと全く違うとか」
「顔が違うのかなって思ったけど、私はそれはどうでもいい」
「それ本気で言ってる? まあいいや。あとは……実は男じゃなくて女とか」
「女?」
「そうそう。肉体的には女性で、アバターは自分の性自認にのっとって男性だから、実際に会うと……みたいな」
「ああ……」
ハルトが女の子だったら、どう思うだろう。
「付き合うかどうかは別として、会ってみたいかも」
「は?」
「だって、会いたいくらい好きなわけだし、すごく気が合う親友になれるかもしれないじゃん」
「ふうん。それで、私は捨てられるのか……」
サクラが拗ねた顔を作る。
「捨てないよ! サクラは大事な親友! ハルトが女の子だったら、三人で遊べるね」
「はいはい、あんたそういう子だったね」
サクラは帰ると一言声を上げ、立ち上がった。
「会いに行くのはいいけどさ、何かあっても後悔しちゃダメだよ」
「後悔……するかな?」
「だって、ヒナはさ、今自分の想像でしか動いてないわけじゃん。期待してたこととまったく違った時に、もし今の状況が壊れても、ヒナは後悔しないの?」
「……」
サクラの言葉が、私に怯えを運んでくる。
「ちょっと怖くなった……」
「でしょ。よく考えな」
よく考える。ってどうしたらいいのだろう。
私はハルトに直接会いたい気持ちを抑えられない。
けれども、ハルトは会うのをためらった。
その理由はわからない。
「会うの辞めたほうがいいのかな?」
帰宅した私は、改めてハルトにメッセージを送る。
『ハルト、この間会いたいなんていって、ごめんね』
私は私の会いたい気持ちしかみていなくて、ハルトの気持ちをちゃんと考えられていなかったのだ。
数分放置していると、視界の端にメッセージ受信のアイコンが立つ。
『ヒナ、ミサンガ届いたよ。ありがとう。器用だね』
というメッセージと、腕にさっそく巻かれたミサンガの写真。
そして、
『謝らないで。俺もごめん。よければ今度会ってみようか』
私は目を疑った。
「え? 会ってくれるの?」
『本当に会うつもりなら、できれば早いほうがいい』
と彼が言ったから、私は埼玉でのバイトの日を告げた。
会える。
彼も会ってくれる。
心配なんてしなくてよかったのだ。
彼も私に会いたいと言ってくれたのだから。
8
「彼氏と会えることになったんだ。よかったな」
バイト先で出会ったアラタさんは、気さくでいい人だった。
川口の第一ブロックのことを詳しく教えてくれた彼と、私はたまに話をするようになった。
「はい。無理に会おうって言ったのよくなかったかなって思ったんですけど、向こうから会おうって」
「突然いくつもりだったみたいだから、心配してたんだよね」
「あはは。どうもです」
アラタさんの日焼けした目元が笑っている。
5年くらいこのバイトに参加しているらしいけれど、それ以外のことは何も知らなかった。
「アラタさんは、いつも何をやってるんですか?」
「いつも? バイトだけど」
「学生?」
「ううん。違う。大学行きたくて金貯めてるんだ」
「ああ、なるほど」
そうすると、私と歳も近いのかもしれない。
「アラタさんはどこに住んでるんですか? 意外と川口とか?」
バイトの集合場所への移動は、専用のバスでの送迎だ。
毎回決まった時間に自動運転のバスが自宅の玄関まで迎えにきてくれる。そこが個別ロッカーのような役割もかねていて、移動中に防護服に着替えるのだ。
だから、埼玉や神奈川からバイトに来ている人も結構いた。
「俺? 俺は……。あんたさ、外に対して偏見とかある?」
「偏見?」
「外に出ていくなんてありえないとか……外から来た人間がいる空間になんていられない……とか」
私は少し考えたが、特に何も思わなかった。むしろそんな人がいたら、いろいろと聞いてしまうかもしれない。どうやって外の世界で生きているのかだとか。
「別に。防護服着てるし……。ちょっと興味あるかも」
「そうなんだ……」
アラタさんは防護服の上から落ち着きなく腕を擦ると、少し周りを見回して私を見た。
「ここだけの話にしてほしいんだけどさ、俺、外から来たんだ」
「へ?」
話の流れからもしかして……なんて思ったけれど、そうだと聞くとやはり驚く。
「外にもまだ、人が住んでるんですね」
「やっぱそう思う?」
アラタさんが笑う。
「ごめんなさい。外に住んでる人がいるって、知識としては聞いたことがあるけれど、実際にあったことはないから」
「そうだよな。だけど、みんなコロナ騒動以前までと同じように外で暮らしてるよ」
「不便じゃないんですか?」
「うーん。不便さは感じないけれど、劣等感はあるかな……」
COVID-19の流行以降、この20年間の社会構造の変化は急速で目まぐるしいものだった。いろいろな事情からその変化にのらなかった人たちがいて、アラタさんの家族も外で生きていくことを決めたらしい。
「家も、旧時代……っていったらいいかな……の住宅街が残ってて、みんなそこで暮らしてるよ。ネットも繋がるし、こっちの社会の情報も入ってきてる」
「へえ。病気は? 変なウイルスが蔓延してるとか……」
「してないしてない。ていうかさ、むしろこっちの人は、自分たちの免疫が落ちてるんじゃないかって心配してるんだよね?」
「そうです」
「大丈夫だよ。俺たちみたいな外に住んでる人間が定期的に治験を受けていて、その時に外の人間とこっちの人間の抗体比較をやってるんだ。今のところ大きな変化はないらしいよ」
「ふうん。じゃあ、私たちが変に怖がってるだけで、外は今までと変わらないんだ」
「うん」
「じゃあ……アラタさんは、外の大学に行くんですか?」
「え?」
「だって、さっき大学へ行くためにお金貯めてるって……」
「ああ……」
アラタさんの笑いが混じった声がくぐもる。
「大学はないから、こっちへきたくてさ。俺、外の世界からこっちへ来ることが夢なんだ。大学に行くのもだけど、こっちで暮らすにはまとまった金が必要になるから……」
「どうして? こっちはみんな、お金なくても生きていけるのに?」
私は、アラタさんの言葉に矛盾を感じた。けれども、彼は決して嘘を言っているような感じではない。
私たちの社会は、皆等しく健康で文化的な最低限度の生活が保証されている。生きていくだけなら、お金の心配はなく生活していけるはずなのに……。
「そうか……あんたは知らないんだな……」
「何が?」
「いや、こっちの話だ。とにかくさ、外の人間がこっちで暮らそうと思うと金がいるんだ。俺はこっちで生きてみたくてさ」
「うん……」
「そろそろ仕事戻らないと。俺が話したこと、内緒な」
アラタさんは笑って、パートナーロボットともに歩いて行ってしまった。
「外からくるのに、お金がかかるのか……」
私は、外へ行くのも外から来るのも、動きが滞っているのは人の心の問題なのだと思っていた。
建物の外へ行く人は、外気に触れることによる感染に敏感になっていて、外から来る人は、ほぼ「管理社会」となったこちら側に抵抗感があるのだと。
だけど……。
「お金って……何にいくらくらい必要なのだろう?」
アラタさんの背中を見送りながら、自分の当たり前の生活が夢になっている人がいるのだと、少し寂しく感じていた。
9
待ちに待った埼玉点検の日が来た。
私はアラタさんの助言通り、上長にお願いして埼玉、川口市第一ブロックの担当になった。
作業時間も考えると、私がハルトに会えるのは30分くらい。
今日、本当に会えたら、次は改めてどこかでゆっくり会えるといいな。
アラタさんは第二ブロックの担当になったから、終わったら第一ブロックも手伝ってくれることになっている。
それぞれの担当箇所に別れる前に、私はアラタさんを捕まえた。
「アラタさん、今日のバイト代、全部あげるね」
「は? なんで?」
「いろいろお世話になったし、今日は特に、会う時間作るために手伝ってもらうから……」
防護服越しに見える日焼けをした目元が笑った。
「いいよ。そういうことしなくて。手伝ってるのはいつものことだろ」
「だけど……」
アラタさんは自分のためにこのバイトでお金を貯めているのだ。私のために時間を割いてもらうのは申し訳ない。
「気にすんなって」
といってアラタさんは行こうとしたが、ふいに立ち止まって、再び私を見た。
「……あ、じゃあさ、一つだけお願い聞いてくれない?」
「お願い?」
「そう。俺がさ、いつかこっちにこられて、ウェブ上とかどこかで会えたら、知り合いとしてでいいから無視しないでくれよ」
アラタさんのお願いは、とてもささやかなものに思えて、私は一瞬返す言葉を失ってしまった。
「あ……ごめん。嫌だよな。ていうか、俺に会ってもわかんないか」
彼は笑って手を振ると、再び歩き出す。
その背中へ、私は大声を張り上げた。
「無視しません!! 無視しないから、だからあとで連絡先教えてください!!」
彼は私の声に応えるように手を振りながら遠くなっていく。
もう会えない気がして不安になる。
けれども、大丈夫。まだバイトで会う機会もある。
彼は大丈夫だ。
私は……ハルトに会いにいくんだ。
私たちの住居は、ほぼ画一化されていて、どこへ行っても同じ場所のように見える。
自分が今いる場所がどこなのかは、建物に投影された住所や、ウェアラブルコンピューターであるヘッドセット越しにARから情報を得る。
私は点検の仕事をこなしながら、はやる気持ちを抑えて着々とハルトの家へ近づいていく。
ハルトに会いたいと思った時、まさかこんなにとんとん拍子で彼に会えるなんて思っていなかった。
外に出ることは禁止されていないとわかっていながらも、心理的に抵抗感がないといえば嘘がある。
私の中にも、20年かけて、感染への恐怖心とそれにともなう外に対する抵抗感は少なからず育っていた。その小さな恐怖心を抑えてこうしてバイトに出てみれば、なんともない。
「人に直に会うことは、こんなにも簡単なことだったのか……」
私は立ち止まり、パイプアーケードのガラス越しに外を見る。
画一化された高層建築物と、そこを行き交うパイプアーケード。
その下には、アラタさんたちが住んでいる、昔の生活が残っている。
アバターを通してサイバースペースへ入れば、一瞬にして世界中のどこへでも行ける。けれども、やはりそれはほんの一面にしかすぎないのだ。
私の知らないことが、この世界にはまだたくさんある。
遠くまで行けたとしても、私は私の身近なことこそ何も知らないのかもしれない。
『休憩シマスカ?』
パートナーの修繕ロボットに問いかけられた。
「ごめん。続けます」
ハルトの住むところまで、まだ5キロは歩かなければならない。
10
バイトを進めながら歩き、気がついた時にはハルトが住む集合住居のエントランスにいた。
ここまで来るのに長く時間がかかった気がするけれど、ついてしまうとあっという間に感じられた。
「これから……1時間休憩をとります」
パートナーの修繕ロボットに伝えると、ロボットはあっさり承諾を出して勤務記録モードを解き、パイプアーケードに設置されている充電スペースへ移動を始める。
私はそれを見届けて、ハルトの住む集合住宅のセキュリティパネルから、あらかじめ聞いていた彼の部屋番号を選択する。
呼び出すと、パネルに女性のアバターが現れた。
『はい』
「あ……あの……私……」
『ああ、大丈夫です。生体認証情報で確認が取れたから。念のため、アバターの特徴を教えてください』
私がセキュリティパネルに触れた時点で生体認証が発動し、私の情報は自動的に訪問者側へと送られるようになっている。
「今日は、耳にハルトがくれたアメジストのピアスを。左手首に緑のミサンガをつけています」
アバターはにっこり笑ってうなずいた。
『ヒナさんね』
「はい……」
『今開けます。入って』
扉が開き、エントランスへ入る。
一階の、入って右手側二つ目が、ハルトの居住空間だ。
部屋の前まで行くと自動扉が開き、ママと歳の近そうな女の人に迎えられる。
「こんにちは。ハルトの母です」
「こんにちは。ヒナです」
「ふふ……」
ハルトのママは私を上から下まで眺めて笑う。
「すごい格好ね」
「あはは。パイプアーケード点検のバイト中で……」
「そう……。悪いけどそれ、ここで脱げるかしら?」
「はい。衣服の上に着てるから……」
私はその場で、袖も裾も余った大きな防護服を脱いだ。
ハルトのママがそれを預かってくれて、部屋の中へ招いてくれる。
私は言われるままスリッパを履いて、自分の家とほぼ内装も変わらない人様のお家へ足を踏み入れた。
他人の家に入るという経験がほとんどないので、よくないとはわかっていても、キョロキョロと見回してしまう。
「珍しい?」
後からついてきていたハルトのママに笑われる。
「あ……ごめんなさい。人のお家に来る機会があまりなくて」
「今の子はそうよね……。でも、うちにはもっと珍しいものがあるわ」
そう言って彼女が指差した先を見ると、ドアの前に透明なドーム型の空間がつけられた部屋が現れる。
「これはヒナさんの家にはないでしょう?」
「はい……」
ハルトのママが透明なドーム型の空間の扉を開け、入るように促した。
「ここがハルトの部屋よ。入る前にここで滅菌してから入るの」
「わかりました」
私はハルトのお母さんと一緒に透明なドームの中へ入り、きめ細かなミストと風圧で滅菌作業を受ける。
中は、いつか嗅いだことのある病院の匂いがした。
滅菌が終わると、ハルトのママはその先に続く扉をノックする。
「ハルト、彼女が来たわよ」
一言声をかけ、返事を待たずに扉を開けた。
「ハルト……」
と名を呼んで、私は黙り込む。
扉が開いた瞬間、私の体は懐かしい病院の匂いに包まれ、目の前には、真っ白な機械の空間が広がっている。
大きなベッドと、その周りにしつらえられたたくさんの機械。
定期的な電子音と規則的な機械音が小さく聴こえてくる。
ベッドの中に、彼は埋まるように横たわっていた。
鼻と口には人工呼吸器が繋がっていて、とても話ができるような状況ではない。
『ヒナ、本当に来てくれたんだね』
聴き慣れたハルトの声が響く。
「ハルト……」
ハルトのアバターが、壁に投影されていた。
ハルトはアバター越しに私を見ている。
『ごめん。びっくりしたよね』
「うん。正直驚いた」
『だよね。騙そうとかそういうつもりじゃなかったんだ。いつ言おうか、ずっと悩んでた……』
ハルトが寂しそうに言う。
「騙されたとかは思ってないよ。ただ、私がこういうことを予想もしてなかっただけ。いつも会ってるハルトは、他の誰とも変わらないから」
機械に自由を奪われず、好きに走って、好きに笑って、私と一緒にいろいろなところへ行っていつまでもくだらない話を続けていられる人。
『それは、全部アバターのおかげだから……』
アバターのハルトが目を伏せる。
『俺、筋ジストロフィーなんだ。デュシェンヌ型ってやつで、小さい頃からだんだんと動けなくなっていって、今では人工呼吸器がないと生きられない……』
私の目の前にいるベッドの上のハルトは、目を閉じてこんこんと眠っていた。
『いつ死んでもおかしくないんだ。だから、ヒナに会いたいって言われて……何かが起こる前に一度会っておこうと思った』
私は、アバターのハルトを見る。
「ハルト……直接触ってもいい?」
『俺に? いいよ』
ベッドに横たわるハルトに近づく。
人工呼吸器の音が聴こえて、それがハルトが生きているという証だと気づいて、私は息を飲んだ。
枕に沈む顔を指で触れる。
指先からハルトの本物の肌の感触が伝わってきて、触れた部分がびりびり痺れたように感じる。
私はそのまま掌で、何度もハルトの頬を撫でた。
人の肌を触る感触を知っている。それは、家でパパやママの頬に触れるのと変わりなかった。
だけど、アバターのハルトに触れるのとは違う。
私は、ハルトの肉体にやっと触れられたのだ。
『ヒナ……俺のほっぺた、そんなに気になる?』
いつものデートの時みたいに、ハルトはからかうように言った。
「だって……ハルトにやっと触れたよ」
ぽたっと音を立てて、白いシーツに水玉ができた。
私の頬を、熱い涙が二、三粒流れていく。
『ヒナ……ごめんね』
「謝らないで。ハルトに会えて嬉しいんだよ……」
私は、アバターとして会っている時と何も変わらない状態で生身の彼に会えると思っていた。
それが当然だと思い込んでいた。
私はなんて浅はかなんだろう。
「ごめんねハルト。何も知らないで、気軽に会おうなんて言っちゃった……」
『大丈夫だよ、ヒナ。ずっと言えてないことが苦しかった。言ったら、もうヒナは会ってくれないんじゃないかと思って……』
「ハルト……」
『アバターのおかげで、俺は病気のことも忘れて自由に動ける。ヒナにも会えた。会って笑いあったり、話したり、いろいろなところへ行ったね。それで十分だ。……ヒナとずっと一緒にいたかったけれど』
「いようよ! ずっと一緒にいようよ!!」
別れたくない。
ずっとハルトの彼女でいたい。そう訴える。
アバターのハルトが笑った。
『ありがとう、ヒナ』
私はハルトの右手を握る。手首には私が贈ったミサンガが巻かれている。「ほら、手だって握れた。私、ずっとハルトといるよ。仮想現実でも現実でも関係ない。ハルトと一緒にいられる」
アバターのハルトに見せ付けるように、ハルトの腕を持ち上げる。
筋力がすっかり落ちて細くなった腕は、力が抜けて重い。
私の瞳から、新しい涙が溢れていく。
『ヒナ……。愛しているよ』
アバターの声がそう囁いて、私の胸のあたりがじわじわと痺れた。
『だから……俺のお願いを聞いて』
***
埼玉、川口市第一ブロックの残りの点検を終えて、私は第一ブロック入り口のパイプアーケードに立っていた。
涙はもう止まっていたけれど、鼻や目のあたりがぼんやり熱くて、頭はぼうっとしている。
アーケードのガラスの向こう側には、茜色の空と沈んでいくオレンジのような夕日が見えた。
「おい!」
声をかけられて振り向くと、アラタさんが遠くから歩いてきている。
「隣のブロックのあんたの分、終わらせといたから」
「……ありがとうございました」
鼻声でお礼を言うと、アラタさんが首を傾げる。
「彼氏に会えたのか?」
「うん」
「なんで元気ないんだよ?」
「うん……」
「……そろそろ戻らないとな」
「うん」
私は、集合場所へ向けて歩き出す。
背後から修繕ロボットが追いかけてくるモーター音とアラタさんのため息が聞こえた。
「なんだよ。あんたの彼氏、もしかしてクソ野郎だったのか? 会って後悔したとか?」
「してない! 後悔なんかしてないもん!」
歩きながら答える。
ハルトに会えてよかった。
彼に直接会うことは、私の中に今まで培われてきた『常識』に対して背徳的で、そして幸福なことだった。
私の瞳から、また涙の滴が生まれる。
「じゃああれか? 会ってみたらアバターと違いすぎてガッカリしたんだろ?」
アラタさんの声に、どうにも歩けなくなって立ち止まる。
「すっごくいい人だった。私にはもったいないくらい素敵な彼氏!!」
あてつけみたいにそう叫んで、涙が止まらなくなる。
ハルトは私の大切な人だ。
私にはもったいないくらいにとても素敵な彼氏だった。
彼を思うほどに、胸が締め付けられて苦しくなる。
目を開けると夕焼けが見えて、さらに淋しくなった。
この気持ちをどう手放せばいいのか分からなくて、ただ立ちすくんでいると、
--バシッ
という乾いた音と共に背中へ衝撃がくる。
「?!」
驚く私の横をすり抜けて、アラタさんが前を歩いていった。
「だったら、笑え!!」
と大声を上げて、彼は手を振る。
笑えばいいのか……。
笑っていればいいのか……。
涙で濡れた顔に笑みを浮かべてみる。
それから、私を包む防護服の余った袖と余った裾を見て、その滑稽さを鼻で笑う。
私は、また歩き始めた。
end