月の宴を《肆》
(きれい、だ……)
リネアそのものを体現したかのような、鋭く澄んだ笛の音。高く低くそれが響き渡ると、次は柔らかな弦の音が優しく追いかけるように重なりだす。
音を『綺麗』だと思ったのは、アルフォンスには生まれて初めての体験だった。
やがて笛の音がその場を譲るように消えていくと、弦の音に合わせ、ローザンがゆっくりと動き始めた。
庭には篝火、月夜の闇に煌々たる明りがいくつも灯る。磨きあげられた美しい木目の床。
その中心で舞う人物に、この場の誰もが目を奪われていた。
普段から美しさに関して妥協しないローザンは、もちろん見た目も美しい。しかし、目が離せない理由はそれだけではない。舞に対しての想いが美しい舞を作り出し、より魅力を際立たせているのだ。
やがて再び緩やかに笛の音が加わると、ローザンは舞の調子を変え始めた。
今までは何か線をなぞるかのような静かで単調な動きだったのだが、一転、見るも艶やかに肢体をくねらせるルマ独特の動きを取り入れて舞い出したのだ。
――こんなに楽しい時を過ごせるなんて、夢のようだ。
(ブラッドさんたちも喜んでくれてるかな)
アルフォンスがチラリとブラッドたちを盗み見ると、何とも言えない柔らかな表情をしていた。その『親の表情』を見た途端、アルフォンスは安心したと同時に、胸が押し潰されそうになった。
(――ごめんなさい)
セルグを、連れて行きます。僕には、彼が必要です。
僕がセルグの命を預かることを許して下さい。
「……アルフォンスさん?」
突然のニーナの声に、アルフォンスは驚きながら振り向いた。
「どうされたんですか? ローザンさんたちの舞、あんなに素晴らしいのに……。まさか、どこか具合でも?」
艶やかな舞は、全てを魅了する。自分以外、全員の視線が舞台に注がれているはずだった。
「ありがとう、ニーナ。大丈夫だよ。少しお酒の匂いに酔っちゃっただけだから」
「そうですか? 何かあればいつでも言って下さいね」
「うん」
胸が暖かな想いで満たされていく。愛しい人が自分を気にかけてくれた、ただそれだけで。
(僕に出来るのは、逃げないことだけなのに)
再び舞台に視線を戻し、周囲に気づかれないよう、ため息を漏らした。
命を預かるだなんて、随分と大それたことを考えたものだ。むしろ自分は守ってもらう側ではなかろうか。
どちらにしろ、自分のできることをやるだけだ。それはセルグも同じこと。責任のなすり付け合いも、余計な卑下も、何もない。
なぜそれを忘れてしまったんだろう。
(――あ)
舞台のクレアが、高らかに歌い始めた。
優しい、けれど力強い歌。あれは古代アスケイル発祥で、ジーパなどの周国でも馴染み深い歌だ。あの細い身体のどこにそんな力があるのだろうと思うほど、その歌声は強く響き渡っていく。
だが、その歌声さえもローザンの引き立て役でしかない。クレアの歌声を下敷きに、ローザンはより華やかに、艶やかに舞い踊る。
ローザンは確かに、界王の血族である二人を、その実力と魅力で従えていた。
やがて歌と演奏が最高潮の盛り上がりをみせたとき、ローザンはいつも三つ編みにして纏めていた髪を、一息にほどいた。
薄紅色の髪が夜空に舞う。その様子はまるで、夜空に大輪の薔薇が咲いたかのよう。
「イル・ターシャ……」
「え?」
ふと呟いたリューンの言葉に、アルフォンスは左を振り向いた。他の人はローザンの見事な演出に心奪われ、気付かなかったようだ。
「リューン?」
呼びかけても返事はない。
リューンは酒盃を手にしたまま、魂が抜けたかのように一心に舞台を見つめていた。
(……誰を見ているんだろう)
クレアかローザンか、はたまたリネアか。
謎の呟きの意味が分かれば答えは出たのかもしれないが、今のアルフォンスにはその答えを知る術はない。
ただ一つ言えることは、リューンの視線に込められた想いは、セルグのそれとは似て非なるもの。うまく言い表せないが、それは恋慕というよりは思慕――。
やがて歌声が消え、笛の音が消え、ローザンの舞は終演を迎えた。
それを合図にしたかのように、一斉に賞賛の嵐が巻き起こる。
「――す、すげぇえええ!!」
「お見事!!」
アルフォンスたちも、三人に惜しみない拍手や称賛を送る。
勿論クレアやリネアにも称賛は向けられたが、ローザンには適わない。この舞台の主役は、間違いなくローザンだった。
チラリと視線を動かせば、ブラッドやパティも、めいいっぱいの笑みを浮かべていた。
「いやぁ、本当にいいものを見せてもらった。ローザン殿、あなたの舞は素晴らしいの一言に尽きる」
「ありがとうございます!」
「本当に素晴らしいわ、演奏のお二人も! 旅の楽士なら、すぐにでも専属契約をお願いするのに」
「まあ、それは素敵ですわね」
「じゃあ、また来た時は舞わせてもらえますか?」
「ええ、勿論よ!」
パティとローザンの約束に、あちこちから喝采が飛ぶ。ローザンたちへの称賛は社交辞令などではなく、本心からだという証だ。
やがて賑やかな宴も終わりを迎え、夜に本来の静けさが戻ってきたのだった。
しばらくして、それぞれの部屋に戻ったアルフォンスたちに、一報がもたらされた。よかったら我が家自慢の風呂に浸かってくれ、と。
「お風呂かぁ。獣界に行ってからどうなるか分からないし、入ってこようかな」
「そうですねぇ。お酒もいただきましたけれど、酔うほどではありませんしー」
と、アルフォンスたちは乗り気だったのだが、セルグだけが渋るような姿勢を見せた。伝言を持ってきたミトに、詰め寄るようにして問いただす。
「……おい、風呂ってまさか……」
「勿論、レナード家ご自慢の風呂のほうで」
「あのクソ親父め、『楽しみ』ってこれか……!」
「??」
風呂の何が問題なのか、セルグは確かに殺気の籠った声で唸った。
「セルグ、お風呂の何が問題なの?」
「また何かジーパ独特の決まりがあるんですかー?」
「そのことでしたら気になさらなくとも……」
この三人の言葉に、ミトは如何にも含みがあると言わんばかりに視線を反らし、一方でセルグはどうしたものかと、視線を地に落とした。
「あ、それと女性の皆様は、お入りになるとのことでした」
「はあ」
(そりゃ女性は入るだろうなぁ。だけど、それをどうして僕らに?)
とアルフォンスが思った横で、セルグが異様な素早さで反応を見せた。
「おいっ、ミト!」
「あ、ついさっきのことですんで。いま風呂場に着かれたくらいでは?」
「???」
いくら何でも風呂を覗くなどという暴挙にでるわけはないだろう。
旅をともにしてきただけあって、今まで機会は沢山あったが、セルグはそんな素振りすら見せていない。なのに、今さら何に反応するのだろうか。
「わ、悪いけど俺は風呂入るから。じゃ!」
――と言い残してセルグは部屋を――出られるわけがなかった。
説明を求めるアルフォンスたちに、力ずくで引き留められたのである。
「ちょっと待ったちょっと待ったぁ!」
「セルグ、そのー、何となく狙いは分かるのですが、出来ればきちんと説明を……」
「特に問題がなければ、私も湯に浸からせて頂きたいのですが」
風呂――いや、リネアが関係しているのだけは誰の目にも明らかだったが、その繋がり方が分からなかった。
三人がかりで引き留められたセルグは、観念したというよりは早く行きたい一心らしい。勢いよく説明を始めた。
「あのな、うちは天然の温泉を風呂に使ってんだよ」
「ああ、昨日の宿と同じなんだね。宿の看板に書いてあったよ。でも、それがどうしたの?」
アルフォンスは昨夜の宿を思い出しながら言った。
宿の大きな内湯の入り口には、健康に良い様々な成分を含んでいるという売り文句が掲げられていたのだ。その成分なのだろう、湯は少し白く濁っていた。
「ジーパじゃ普通、天然温泉は露天で入るもんなんだ。内湯だけだった昨日の宿のが珍しい」
「露天ということは、屋外に湯船があるのですかー」
「ですが屋外にある以外、別段変わった点は無いのでは?」
湯に浸かること事体が珍しい地域もあれば、複数で風呂に入る文化がない地域もある。旅路では川や湖での行水だって少なくなかったし、大きな湯船を共用で使う宿も多々あった。
ただ、それらは全て内湯なので、ラルフの疑問は最もだった。
「いいか、外にあるんだぞ。勿論、男女は別れてる。だけど大抵は真ん中を壁で仕切ってあるだけなんだよ」
「……?」
「だ、か、ら! なんら気遣いしないでも壁の向こうでリネアが風呂っ――!」
みなまで言えぬうちに、セルグはミトに口を塞がれた。ミトはやれやれ、といった表情だ。
「ええ。屋外では壁……というより、簡単な仕切り一枚を隔てて、女湯と男湯が隣接しているのです」
「え、ええと、その、それは……」
「頭がセルグ坊っちゃんをからかうために……。その、皆様には申し訳なく思ってます」
「あの」
やっと話が見えて顔を真っ赤にしたアルフォンスと、ジタバタもがいているセルグ、照れて苦笑いしているリューンらをよそに、いつも通りの顔つきでラルフが問いを発した。
「はい、何でしょう?」
「セルグ殿のお話は、入浴される女性の様子が壁越しに簡単に分かる、といったことでよろしいのでしょうか?」
「……へ? えっ、あ、はい。まあ、明け透けに言ってしまえば……」
――それの何が問題なのか分からない。
ラルフの顔にはでかでかと、そう書かれていた。
「「……」」
しばらく、男たちの間に沈黙の時が流れた。ラルフにどう突っ込むべきか考えたが、どんな答えが返ってくるのかが怖くて、誰も口を開けなかったのである。
「セルグ殿」
「お、おう!?」
頼むこれ以上男の大事というか恥ずかしいところを暴露させてくれるな!
そうセルグは――いや、四人全員が寸分違わずに願った。
「風呂に行かれないのですか?」
「……へ?」
「ですから、風――」
「あ、ああ行く行く! じゃあミト、またな!」
そう言うや否や、セルグはラルフを半ば引きずるようにして部屋を飛び出した。アルフォンスとリューンも慌ててセルグを追いかける。
「セルグ!」
「あ、ああ、悪ぃな。つい……」
「いや、まあ、いいけどね……」
アスクガーデンからまだ二日。ラルフのことはまだよく分からないが、はっきりしたことが二つ。
まず、風呂好きであること。きっと清潔さに気を遣う性格なのだろう。とはいえ、あんなに執着をみせるとは意外だったが。
また、女性への興味関心とでも言うべき感情が欠如していること。……なので、その辺りの羞恥もない。
「ま、まあ、せっかくですし、早速お風呂に浸からせて頂きましょうかー」
「……そうだな。よし、男の脱衣場はこっちだ。そっち女湯だから間違えんなよ」
そう言ってセルグが指差した先には、母屋と飛び石で繋がれた建物があった。二つある入り口にはそれぞれ赤と青の暖簾が掲げられ、セルグが男湯と示したのは青の入り口だ。
中に入ると、脱いだ衣服を置く棚が十ほどと椅子や机があったが、どれも簡素な造りで、母屋の豪華さが嘘のようだ。
衣服を脱ぎ始めた時、ふとセルグがアルフォンスに声をかけてきた。
「あれ? その首飾り、石なんかあったっけか?」
それはアルフォンスが父の形見――母の手掛かりとして身につけている、あの首飾りだった。
「あ、ああ……。これね。うん、前は無かったよ。村で神官様に頂いたんだ。――御守りにね」
アルフォンスはそう説明したが、本当は界王石だ。界王の血族のみが持つことを許された至高の石。界王力を行使するときは力を格段に高めるが、普段は抑制する働きがある。
エルネストは旅立ちの日、これをアルフォンスに託したのだった。
『目覚めたからには、必ず持っていなさい』
『これは、界王石ですか? どうしてここに……』
『……テオが濃に託した、もう一つの品じゃよ。その首飾りの穴に、ちょうど収まるはずじゃ』
そういわれてアルフォンスが石を手に取った途端、石は目も開けられぬくらい、眩く輝き始めた。だがそれもほんの僅かな間で、石はすぐに澄んだ輝きを取り戻したのだった。
『い、今のは!?』
『在るべき処へ戻った、ということじゃろう。いいか、アルフォンス。それは肌身離さず持っているのじゃぞ』
そうしてアルフォンスは、界王石という新たな力を携えた。
今まで心の奥底で感じていた違和感――民ではない、血族ゆえの特異な感覚も、この石のおかげで抑えられた。その存在は出来るだけ秘すように、とエルネストから厳命されていた。
「さー、風呂に入ろうぜ」
「うん」
アルフォンスがセルグを追いかけて外に出ると、そこには見たこともない風景が広がっていた。
(きれいだ……)
水面に月が映り、湯気に仄かに揺らめいて。風にはざわめく木々の音。
(これなら『レナード家ご自慢』だよね)
「いやはや、これは素晴らしいですねぇ」
「……。隣に、女性たちの気配がありませんね。入浴を取り止められたのでしょうか?」
チラリと視線を竹で組まれた壁に移し、ラルフが言った。
「かもな。ま、ざんね……いや、その、ゆっくりと入れるし。是非ともうちの風呂を堪能してくれ」
「うん」
セルグの失言には敢えて突っ込まず、アルフォンスたちはいそいそと湯に浸かり始めた。
もうもうと湯気の立つ水面は透明ではなく、昨夜よりもまだ濃い、雪雲のような色合いをしている。
「ふは~、気持ちいぃー……」
「冷える夜空の下で湯に浸かるというのも、なかなか乙なものですねぇ」
「だろ? 見晴らしのいい昼間も気持ちいいけど、俺は夜に入るのが好きだな」
「湯船が広いのもいいよね。ラルフはどう?」
「はい、とても心地よいです。こうして、――!」
言葉の途中でラルフが壁に視線を向けた。その理由は、直後に全員が一瞬で理解した。
「へー、こういうお風呂も素敵じゃない!」
「わあっ、早速入ってみましょう!」
壁の向こうが一気に華やかな空気に包まれる。どうやら準備に手間取っていただけらしく、女性陣も入浴に来たのだ。
「リネア、それでは髪がお湯に浸かってしまうわ。もう少し上で結わないと」
「そうですか?」
「ええ。ほら、結い紐を貸してご覧なさい」
きゃいきゃいと明るい声が壁の向こうに響き渡る。それは女同士の気兼ねない会話であり、何か男は聞いてはいけない気がする。が、思わず静まりかえった男湯では無理な話であり、自然と女湯の華やかな空気に耳をそばだててしまう結果となった。
女湯でもさっそく温かな湯に浸かったらしく、ざぶ、ざぶ、という湯の揺れる音まで男湯まではっきり届いてきた。
「……。リネアって、ホント肌が白いわよねー。お風呂だと尚更。その……見た目はアスケイル系なのに、ドーニャ系のニーナ並よね」
「そうですよね。髪が黒いだけに一層綺麗です」
「……そうか?」
「ふふ、リネアは日焼けしにくい体質なんでしょうね」
女同士、気兼ねなくお喋りを楽しむことで、どことなく嬉しそうなリネアの声に、アルフォンスは思わずため息をこぼした。
いや、正確には『リネアの声に』ではない。その声を『聞いた人物に』だ。
「……。セルグ、逆上せる前にあがったら?」
「い、いや、まだ……」
まだとかそういう問題じゃない……、と思いつつも、自分もニーナの声を聞き漏らすまいと一生懸命なので、鼻血が出そうなセルグは放っておくことにした。
ーー確かにこの露天風呂というのは、イイ。向こうの様子が分かるが音声だけというのは、何とも男心をくすぐるら、というか妄想を掻き立てる。
なおかつ、これ以上の積極的な行動を起こさなければ罰せられることはない。
(……最高かも、これ)
ああ、やっぱり自分も男だな。
ニーナの楽しそうな声に耳を傾けつつ、そんな情けない自覚をした夜であった。
やがて入浴を終え、アルフォンスたちは就寝のために部屋に戻った。――アルフォンスとセルグは少々逆上せ気味であるが。
途中、セルグは風呂上がりの飲み水を貰うため、人を探しに母屋に一人向かった。
「――親父?」
その途中で、縁側に座って一人で月見酒に洒落込む、父親の姿を見つけたのだった。
「おお、セルグか。どうした?」
「いや、ちょっと風呂上がりの水を貰いに……」
「ああ、そりゃ抜かったな。――おい、お客人に水をお持ちしろ。それとこいつにも」
そばを通りかかった家人に指示を出すと、ブラッドはセルグに座れ、と目で促した。
逆上せ気味で少し身体がだるかったセルグは、特に迷うこともなく父の隣に腰を下ろした。
「……明日、発つんだな。まったく、もっと扉の場所を詳しく調べてから来いよ」
「無茶いうなよ! この山にあるってだけでも重要な手掛かりじゃねぇか」
「そうだ、扉はレント山脈にある。で、ここは誰の土地だ?」
「え? そりゃ本家の……」
そこまで言って、セルグは驚きに目を見開いた。
「ようやく気付いたか。――お、水はそこに置いといてくれ」
「ちょ、親父! どういう意味だよ?!」
盆に水差しと湯呑みを乗せて持ってきた家人からそれを受け取り、ブラッドは自ら水を注いだ。
「ほれ、とりあえず水を飲め。そうしたら説明してやる」
「――っ!」
渡された湯飲みの水を、セルグは一気に飲み干した。
ブラッドはそんな息子の姿を見つめながら、くい、と酒を口に含んだ。口元には成長した我が子を愛しむ笑みが浮かぶ。
「なぜ元は貴族でないレナード家が、このジーパでこれほどの権力を持っているか……。不思議に思ったことはないか?」
「……だって、それは、古い家柄で……」
その言葉を信じていた。疑ったことはなかった。古来よりの伝統は、続くだけの価値があるからだ。
「だとしても領主と商人を兼業したりと、おかしなところは沢山あるだろう。……いいか、セルグ。レナード家には、もう一つの呼び名があるんだ」
「……呼び名?」
「そう。本家の直系と今上、若宮様しか知らない、本来のお役目の名だ」
その言葉にセルグは納得した。
あの、親しさは。若宮の驚くほどの心安さは、そういうことか。
――俺だったからじゃない――。
「……」
「それが『扉の守り人』。『扉守り』とも言うがな」
「とびら、もり……」
セルグはその言葉に、不思議な懐かしさを感じていた。それは幼い頃の記憶というより、誰もが抱く心の原風景のような、そんな懐かしさだった。
「人界から獣界に繋がる扉は、レナード家が管理している。それが扉守りの一族としての役目だ」
「じゃあ、レナード家は扉守りだったからここの領主に?」
「まあな。領主と同時に貴族にもなったが、あくまで隠れ蓑だ。分家をつくってまで隊商を保ち、扉守りに必要な特殊石なんかを探し求めた。今は殆ど支給されるからその役目は形骸化したが、本来は本家と分家、両家が揃ってこその扉守りだ」
扉を守る本家と、それを護る分家。
また一口、ブラッドは酒を口に含んだ。その姿をセルグは呆然と見つめる。
力のある貴族には珍しく、当代レナード家は本家と分家の仲がとても良い。そのためブラッドは本家の西の対、つまり兄の家に同居している。かなり広いとはいえ同じ敷地内、セルグも本家の子供たちとよく一緒に遊んだ。
――家族も同然の付き合いだったのだ。
「そう、か……。俺、何も知らなかった……」
「俺だってお前の立場なら、一生知らずにいたかもしれん。そういうものだ」
「……」
それでも、何か言い表せない感情が――悔しさ、寂しさ、悲しさ。それらがない交ぜになったような感情が、セルグの胸に広がっていた。
そんな顔をブラッドに見られたくなくて、セルグはうつむいた。
「セルグ、顔を上げろ」
そう言ったブラッドの言葉に、仕方なくセルグが顔を上げると、ごつっ! とブラッドの拳が頭に当たった。
「っ!?」
「腑抜けたツラをするんじゃねえ!」
「な、ちょ、親父!?」
「明日、お前らを扉に連れていく。兄貴から、この件に関して代行権を得たからな。……お前らなら、扉を開けても大丈夫だ」
殴られた痛みなど、一瞬にして吹っ飛ぶ父のこの言葉。
「俺たちを、試してたのか……?」
「……ああ」
それは扉守りの役目だ。知った今は、不思議でも何でもない。
父の、扉守りのお眼鏡にかなった。それは嬉しいことなのに、初めて知った様々な事実がセルグに重くのし掛かっていた。
「俺は……。俺たちの一族が扉守りであることを、お前に伝えるべきか迷った。お前は今、ただの旅人の立場だからな。だがな、俺は伝えようと思った。――いいか」
置いたお猪口がカツン、と盆にぶつかって澄んだ音をたてた。
「人は必ず試される。しかも勝手に、何の前触れもなく。だから日々の研鑽を怠るな。……相手が何を思ってその言葉を投げ掛けているのか、常に考えろ」
「……。わかった」
「じゃあ、この文を渡そう」
「え?」
ブラッドがそう言って懐から取り出したのは、小さく折り畳まれた文だった。鳥の脚に結んであったものだろう。
紙を広げると、ふわりと覚えのある匂いが香った。
(これは――!)
文は、若宮からのものであった。
『君が親御と再会し、心通わせることを願う。君たちの旅路に幸多からんことを』
手の平ほどの紙に、優美で、それでいて強さのある筆でそう書かれていた。
(……俺なんかの考えはお見通し、か)
確かに君を『親』を理由に『扉守り』のところへ誘導した。けれど、家族を想って欲しいのは本当なのだよ。
あの優しい声で、若宮がそう言っている気がした。今まで以上の畏敬の念や敬愛が、セルグの中に溢れた。文を持つ手に、自然と力が入る。
「……。俺、部屋に戻るな」
「あ、ちょっと待て。ほれ、最後に一杯」
腰を浮かせたセルグに、ブラッドは酒を差し出した。
「……一杯だけな」
無邪気に笑う父の誘いを断れずに、セルグは再び腰を下ろし、杯を手に取った。
「なあ、親父は獣界に行ったことあんのか?」
「分家を継いだ折に、一度だけな。兄貴は何度もあるぞ」
「へえ、ダカル伯父上が……」
ダカルは才気煥発な人物で、若くして病死した先代の後を、わずか十六歳で継いだ。数々の改革を断行してきたが、その一つが分家当主の問題だった。
レナード家の分家は、本家の次男や三男が継ぐのではない。分家となった時から、本家と同じように分家の中で相続している。この相続には、本家とて口出しは出来なかった。
しかしブラッドが十六になった時、弱冠二十歳のダカルは周囲の反対を押し切り、分家当主にブラッドを据えた。ブラッドの商才を見込んだうえで、本家と分家に堅固な関係を築くためでもある。当時、両家には長年の深い確執が存在していたのだ。
そうして落ちぶれかけていたレナード家に権勢を取り戻し、今の隆盛をもたらしたのだ。
「獣界でレナードの名は通用する。何にでも利用しろ。だが、過信して失敗すればそれまでだ」
「……わかった」
セルグは一気に杯を飲み干し、盆に置いて立ち上がった。
「色々とありがとうな、親父。……俺、頑張るから」
「……ああ。しっかりやれ、お前が決めた道だ」
十年前もそう言って自分を送り出してくれた父親に、ブラッドの背中を見ながらセルグは深々と頭を下げて戻っていった。
その姿を杯に映したブラッドは、高く、杯を月に掲げた。
「……行ってこい、馬鹿息子」