新世界《肆》
結果的には草獣族と和解できた一悶着の後、結局クレアの特別室はそのままに、男女で分かれて寝室を借りることになった。特別室は部屋がだだっ広いうえに寝台も特大なので、女子二人が一緒の寝台で眠ることにした。
その決定はいかにも女の子らしいな、とアルフォンスは思ったのだが、問題は男部屋となった客間にあった。
「うーん、これは予想外」
「……どうされますか?」
部屋に入った途端、思わずアルフォンスは唸った。
最初は寝室の用意がされなかったラルフだが、その発端は客室の数が二つだったことにあるらしい。
一つはクレアなど重要な客人のための特別室。こちらは界王の血族や扉守りなどにあてがわれる。
もう一つはその他の客用の大部屋だ。こちらに当初はアルフォンスとニーナが寝る予定だった、というわけだ。
男二人の悩みは、部屋が汚いとか、お化けが出そうだとかでもない。客室はピッカピカで寝具も清潔。簡素だが五、六人は楽に泊まれる広さで快適。部屋自体に文句など無い。むしろ人界の宿でもっと酷いところがありましたとも。
「まさか僕らも同じ寝具で寝るように用意されてるとは思わなかったよね……」
「ええ、まあ……」
人界の同性は同じ寝具で寝るものだとでも思ったのか、それとも獣界の流儀なのか。
部屋には大きなサイズの敷布、掛布、それに敷布の端から端まで届く長い枕が一つ用意されていた。どうみても『ご一緒にお使いください』の形である。
(あれ、待てよ……? これ、ラルフが外で寝てたら僕とニーナがここだったの……!?)
草獣族と部屋割りの話し合いを終えた後、彼らはニーナの寝具しか新たに用意しなかった。ということは間違いなく、この部屋はアルフォンスとニーナが使うはずだった時のままだ。
アルフォンスは青ざめ、そして沸騰した。
男としての沽券とか、まあ大事にしたいものが色々とある。だが、とにかくこんないきなりな場面は望んでいない。
もし最初のままならば、緊張のあまり一睡も出来なかっただろう。
アルフォンスは本当に寝る場所が変わってよかった……! と神に感謝した。
「アルフォンス殿?」
「ほわっ!? ――っあ、ああ、ごめんねラルフ。今日はもう遅いし。このまま寝ちゃおうよ。この布団大きいから、僕ら二人でもはみ出ることはなさそうだしさ」
「……よろしいので?」
「え、何で? ……あ、そっか、そーだよね、やだよね男同士で一緒の布団とかホントゴメン……!」
村の孤児院で弟・妹との雑魚寝が普通だったアルフォンスとしては、さして気にならなかったのである。
しかし世間一般の常識と照らし合わせれば、確かに同年代の男二人が一緒の布団で寝る、というのは色々と憚られる気がした。
「い、いえ。そうではないのです。ただ……」
「?」
アルフォンスがラルフのほうを覗き込むと、ラルフは珍しく恥ずかしそうに顔を真っ赤にし、俯いてしまった。
しかも何かもごもごと不明瞭な言葉をつぶやいている。
「どしたの?」
「そ、その……。幼い時からの癖のようなもので、誰かと一緒の布団で寝ると……」
「いびきとか寝相の悪さ? そんなの大丈夫だよ、僕」
「い、いえ違うのです!」
もう可愛そうなぐらい顔を赤面させているラルフを見て、何だかアルフォンスは自分が虐めているような気になってしまった。
なにしろラルフはビックリ仰天、赤面のうえ半泣き状態なのである。
「だ、大丈夫だよ。ぼくはずっと院で強烈なおチビたちをあしらってきたんだから! さ、どんな寝ぼけだろうと気にせず話してみて!」
「う……」
「だーいじょうぶだって! 寝たまま立って小便する奴もいれば食糧庫を漁った奴もいたりね! チビッコはみんな恐ろしいもんだよ。それに三つ子の魂百まで、って言うし大人の寝惚けも仕方ない!」
最後の一言を言い切り、いいこと言った自分! とアルフォンスは思ったのだったが――。
「申し訳ありません、やはりもう一組寝具を借りてまいります! 先にお休みください!!」
「えっ、えぇ――!?」
超高速でその場を飛び出したラルフは、何かあったら、と教えられたランディの家へ向かって駆けていった。
一人部屋に取り残されたアルフォンスは、寝具の傍らで呆然としていた。
「そ、そんなにすごい寝惚けなの……?」
と呟きながら。
そしてそれならしょーがない、嫌なものは秘密のままでと思い、ありがたく先に寝かせてもらうのだった。
(畜生畜生畜生畜生……っ!!)
一方、憤懣やるかたないのはラルフである。最初の草獣族たちの対応は、どこからどう見ても悪意で、分かりやすく自分をのけ者にしたからよかった。
悪意には悪意で。嫌味に始まり、いくらでも悪意はお返しできる。しかし、あの寝室はどう見ても好意だ。
賢者の塔に滞在中、旅先の知識を、ということで、いくつか賢者から学んだことがあった。勿論、その中には獣族の文化もあった。
草獣族は家族や友人、仲間など、親しい間柄では寝所を共にする。適齢期の男女であっても、友人宅での宿泊の際、共に寝るのはよくあることらしい。それだけ気を許しあえる間柄、という証明なのだそうだ。
つまり自分とアルフォンスのような間柄なら、寝具を一緒にするのは草獣族として当然だ。
だが、それは外で一人で寝るより、ラルフにとっては何百倍もの安眠妨害だった。理由はラルフの過去にあり、アルフォンスたちにも、ましてや草獣族にも非はない。
(誰かと一緒に寝たら、もしかしたら……)
ぶんぶん、とラルフはそこで強く頭を振った。いま脳内を占めた赤の世界。寝具が赤一色に染まるあの過去の残像。
そんなことは決してあってはならない。この先、また誰かと寝るようなことがあるかもしれない。そのたびに断るなんてできないだろう。そのためにはもっと己を鍛え、律しなければ。
脳裏に浮かぶのは、先ほどの激高したアルフォンスの姿。
(強くなりたい。ただ殺すだけじゃない、本当の力がほしい。アルフォンス殿のような、あんな強く優しい力が……)
そうすれば、きっと乗り越えられる。もう一つ、誰かと寝るのを怯える理由も一緒に。
もう一つの理由。それは、やはり過去に起因する。過去、自分はあまりにも愚かでおぞましい日々を送ってきた。
暗殺対象と「関係」を持つことが多かったため、一緒に寝た人物を殺さずとも、そうした行為に無意識下で及んでしまうのではないか、という不安が拭えないのである。
実際、スードの町に移ってからも、何回か仲間内で未遂を起こしている。あの時は寝ぼけたと言って、無理やり誤魔化したが――。
もし旅の最中に発覚すれば、きっと軽蔑される。きっと嫌われる。
(妖力のことは受け入れてくれたとしても、きっと……)
今の仲間は皆、光の中を暮してきた清い存在ばかり。ただ一人、リネアは仄暗い場所を知っているようだが、それでも自分のように汚泥にまみれた存在とはかけ離れている。
光の道が途絶えそうになったとき、誰かが血に塗れればいいというのなら。誰かが命を引き裂けばいいというのなら。その闇の中から光が出づるというのなら。
――自分は、喜んでその役を引き受ける。
すでにこの身は闇の中だ。迷うことなどない。
ラルフは人界とは全く違う広大な星空を仰ぎ、眺め、しばし立ち尽くしていた。
その頃ニーナとクレアは、四人は並んで寝られそうな大きな寝台で、ゆったりとくつろぎながらおしゃべりを楽しんでいた。
「今日は、いろんなことが起きましたね。今でも混乱気味です……」
「そうね。私も、まさか二手に分かれるとは思わなかったわ」
しばらくは旅の不安をニーナがクレアに打ち明ける形で話が続いたが、やがて話題は、これまでの旅の経験に移っていった。
話を持ち出したのはクレアだ。
ニーナの気をそらすためでもあったが、まだ出会ってからそう経っていない仲間の話を聞きたいのも本心である。
「ニーナちゃんは旅に出て、どんな発見があったかしら」
「発見……ですか?」
「ええ。私は初めて人界に来たとき、驚いたわ。良くも悪くも、とても複雑だったから。他の世界は、とても綺麗に分かれているもの」
何が分かれているのか、それをクレアは明言しなかったが、ニーナもなんとなく理解した。
人界は定まらないのだ。国境、政権、言語、文化、何もかもが。
それは進化だと思ってきたし、今もそう信じている。しかし獣族の、古代からほとんど変わらぬ暮らしを見て、時にはとどまることも必要なのかもしれない、とは感じた。進化、変化には喪失が付き物だ。
出会い頭に言われた、「際限ない欲望」という言葉。人族は本当に欲望で突き進んでいるのかもしれない。でも、その欲望はきっと――。
「……私、皆さんと旅に出る前は、ずっと修行を積んでいました。だから世間知らずで、夢見がちでした。今もきっとそう。でも、信じなきゃいけないことがあると思うんです」
「まあ。――ぜひ聞きたいわ」
「人の変化、進化が、すべて欲望ゆえとは思えません。未来に希望があるから、前に進むんだと思うんです。確かに、何かを望むから、希望も欲望の一部かもしれない。でも、否定すべき思いではないと、私は――」
そこまで言って、ニーナは急に恥ずかしくなった。
自分は今、何を堂々と語っていたのだろう。世間知らずと自他共に認める上、相手は他でもない、界王の血族だというのに!
ニーナは、自分の顔に血がのぼるのが分かった。真っ赤になった顔がバレないように、ちょこんと掛布の上に覗かせていた顔を急いで引っ込めた。
「あら、どうしたの? せっかく素敵なお話なのに。お願い、最後まで聞かせて?」
だがクレアは、からかうことも、恥ずかしがることもない。月明かりだけの薄闇の中、真剣な瞳で、じっとニーナを見つめていた。
その瞳に押されるように、ニーナは再び掛布から顔を覗かせた。
「あ、あの。だから、私は――。私は、前に進むことを、恐れたくないんです。間違うことがあっても、それが全部じゃない、未来は明るいって信じたい。アルフォンスさんが望むような世界になれば、ラルフさんのように救われる人がいるはずです!」
早口に、一息で言い切って、ニーナはクレアを見た。
何か言って欲しかった。場を濁す適当な話などではなく、自分の思いに対してクレアの――界王の血族の言葉が欲しかった。
その必死の願いが届いたのかは不明だが、クレアは柔らかい笑みで言葉を紡いでくれた。
「そうね。本当にそう。進化も変化も、絶対なる善でも悪でもない。拒むのも自由。だけど、変わらなければいけない時が、きているのね。剣はその時を教えてくれた……」
「クレアさん……?」
「ふふ。界王は不変で、永遠の存在とされているのよ。けど、アルフォンス君やリネアは、そこに一石を投じた。いえ、一石となったわね。……この世の変化はきっと多くの人が拒み、恐れるでしょう。でも、その先を見据えなくてはならないの。歪みきった世界は、水が注がれ続ける皮袋のように……いつかは弾け、消失するわ」
世界の、消失。界王の血族が迷いなく口にした言葉に、ニーナは戦慄した。
これは比喩ではない。血族はそれを感じ取り、理解しているのだ。明日か明後日か、はたまた何百年、何千年も後のことだとしても――真実だ。
「不変で永遠の存在だからこそ、界王は変われない。変えてもらわなければならないの。……お願い、力を貸してね、ニーナちゃん」
「は、い……」
ニーナは驚いた。先ほどまで、なんて優しい笑みだろうと思っていたクレアの表情が、今は泣きそうな笑顔に見えたからだ。
月明かりが銀の髪を照らす。衝撃の真実を告げた時のリネアのような、星の輝きのような髪を。
そんなクレアがあまりに神々しくて、自分が何ともちっぽけな存在に思える。けれどクレアの表情は、それは違うと物語っていた。界王の血族であろうと一介の民であろうと、大差はないのだ。
普通は重視されている特殊力や界王力など、本来は些末なものなのだ。どれだけ他者を愛し、自分を慈しみ、世界を想えるか――。
必要なのは、それだけ。
クレアの言葉や表情からその想い、考えを受けとめたニーナは、改めてクレアをしっかり見据え、力強い声で言った。
「クレアさん、私、頑張ります。何ができるかわかりませんが、自分にできることは、何でも精一杯やります。そして、その結果がより良いものとなることを、日々祈ります。そうすれば、きっと明るい未来が築けると思うんです」
クレアはニーナの力強い声に、一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐにふわりとやわらかい笑みを見せた。喜びと安堵と、様々なものが入り交じった笑み。
「不安もたくさんあるけど、まずは進んでみましょう。私、クレアさんやアルフォンスさんの力になりたいです」
「ありがとう。ありがとう、ニーナちゃん……」
クレアはニーナの言葉に喜びながらも、涙を流すことはなかった。けれど、敷布を掴むその手は、確かに歓喜に打ち震えていた。