ハンマーエクスカベーター
『その後、わたしが見ていると、
見よ、開かれた門が天にあった。
そして、さきにラッパの響くような声で
わたしに語りかけるのを聞いた初めの声が、
「ここに上ってきなさい。そうしたら、
これから後に起るべきことを、見せてあげよう」
と言った。』
──ヨハネ黙示録 4章1節
◇
ここは曽良場市御影町三丁目の住宅街。
男が車外に転がり出る。
ヒトガタの怪物、鬼の赤い眼が、男を見──てはいなかった。鬼は後ろを振り向こうとしていた。なぜなら、鬼は金色の眼をし、Gジャンとジーンズを穿いた、ヒトガタの化け物の長く伸びた指に、後ろから胸を刺し貫かれていたのだ。鬼の悲鳴が夜のしじまに木霊する。男は鬼を見、ヒトとしか見えぬ化け物を見、もう一度鬼を見た。
「ご同業か」
立ち上がったトレンチコートの男は、鬼と化け物に興味を失っては、くるりと背を向け、車に戻ろうとした。
その時、闇を切り裂く烏の鋭い鳴き声がする。
男は車とは反対側へ跳び退る。男の耳の傍を風が切り裂く。鬼を降した化け物が、今度は男に牙を剥いていた。金の眼の化け物は、その指先で男の後ろのコンクリート壁を突き崩す。男は転がりざまアーミーナイフを抜き放つと、すくっと立って化け物と対峙する。
「鬼の次は化け物か」
近くで犬が、吠えていた。
◇
庭の犬が吠える。
「やあね、今の音。事故かしら」と夫人が言えば、
「ちょっと外を見てくる」と旦那が返す。
「よしなさいよ、後で変な因縁をつけられるのは、ごめんだわ。見て見ないふりが一番よ」と夫人が悟ったようなことを言い、
「それもそうだな」と旦那が同意する。
最近のドライバーのマナーの悪さには困ったものだと、夫婦は寝室の奥へと静かに消えた。
◇
化け物と男は静かに向かい合い、全ての音が消えた。
化け物が右手の五本の指を伸ばして、男に向けて構える。男がアーミーナイフを胸元まで持ってきたとき、影は動く。夜闇に金色の眼が糸を引いて流れた。男に化け物の影が迫る。突き出された指を払う男。しかし、逆の手の指が、男の肩口を切り裂く。赤い花が咲いた。
男は突き刺さったままの肩の筋肉に力を入れる。化け物は左手を動かそうとするが、びくともしない。化け物は右手で切りかかって来るが、男はアーミーナイフで右手の指を払う。男は化け物の小指の表面を少し削いだ。化け物が悲鳴を上げ、化け物の赤い血が滴る。しかし同時に、男は左肩に何本も指が突き刺さり、その痛みで右肩に入れていた力が緩む。
化け物は左手と右手を同時に引いた。灼熱。焼きごてを押し付けられたような痛みが男の両肩に走る。男は下を向き思わず両肩を押さえる。しかし男が見せた、その致命的な隙に、ついに最後の一撃は来なかった。金色の眼をした化け物は、それこそ風のように、いずこかに消え去っていたのである。男が歩く度に血が滴る。男は朦朧としながらも車に辿り着き、ブレーキを踏みながら、キーを回し、サイドブレーキを下ろして、アクセルを踏んだ。V8エンジンの咆哮が夜闇に吸い込まれては消えてゆく。
月の夜、遠くで犬が吠えていた。
◇
男が目を覚ませば、越してきたばかりの、見慣れぬ天井があった。車に乗ってからの記憶がない。それが、どうしたことか男は自分の部屋のベッドに横になっていた。
「良かった、羽村、気づいたのね」
その声で羽村は覚醒する。痛みはない。恐らく、目の前の女のおかげであろうと思われた。その証拠に、裸の上半身の両肩には包帯がぐるぐる巻きに巻いてある。おかげで肩が思うように上がらない。
「驚いたわ。羽村、あんな状態で車の運転をするなんて。無茶苦茶よ」
「俺の体だ」
「静華が見ていたから良かったものの……いえ、もう無茶しないで。お願いよ羽村」
「できない相談だ」
言うなり、羽村は包帯を解き始める。
「あの金色の化け物、鬼じゃないわね? 静華なりに調べてみたの。神祇局に照会してもらったわ。でも、なにもわからなかった」
「俺の伝手を──」
「ああ、ヤマさん? あまり期待しないほうが良いんじゃない? 神祇局が把握していない怪奇事件を、警視庁捜査第一課が捜査しているとは思えないわ」
包帯を解き終わった羽村の肩には、傷一つついていなかった。
◇
月夜の晩に、バー『夜烏』の看板が一つ。
今は客二人。店員一人。照明を絞り、『シング・シング・シング』の流れる店内で、蝶ネクタイのマスターはグラスを磨きながら、客の二人に向かって言葉を漏らす。
「最近じゃ殺人鬼の話もめっぽう減って、一安心だったと言うのにな」マスターがこぼし、
「手の打ちようがないわね」江戸川が愚痴る。
「ある」羽村は決意の表情。むしろ晴れ晴れとしている。
羽村はただ、ガムを噛み続けていた。
◇
深夜、羽村が江戸川とともに店を出る。
今、羽村らの前に跳びかかる影一つ、それは金色の──!
羽村は左に、江戸川は右へ跳ぶ。
化け物の指がアスファルトを砕く。地面が大きく爆ぜていた。
羽村は唾を飛ばして水風船を投げる。命中。相手は服に水風船のかけらを付着させて濡れそぼる。
『鉄の番人、鋼の息吹、我が敵を討て、鋼鉄の爪!』
そんな化け物の後ろから、鋼鉄の鉤爪が化け物を襲う。飛び散る鮮血、轟く咆哮。化け物は右腕の肘から先を全て持っていかれた。化け物が鋼鉄の爪の召喚者、江戸川に向き直った途端、羽村のアーミーナイフが走る。化け物の右肩を抉る一撃、再度、敵は悲鳴を上げるや、二人の背後へ大きく跳躍し、そのまま闇の中へと逃げ去った。
「トリさん、後をつけて!」
江戸川の後ろで大きな羽ばたきがする。一声鳴くと、大ガラスは月の照る夜に飛び立つも、行った端から戻って来る。
「車で逃げてる、見失ったわ」
「問題ない」
「え?」
羽村は検知器を取り出す。それは数秒おきに針が跳ねていた。発信器の出す電波を拾っているのである。
羽村は煙草を手にすると、口に咥えて火をつけた。
◇
明け方。曽良場市天神町。
繁華街から少し離れた再開発地区に、その天井のない平屋建ての廃墟は、多くの重機と共にあった。
羽村は胸に大ガラスを抱いた江戸川とともに、車で乗り付ける。黒い車が一台停まっており、辺りに人影はない。ただ、見ればその車には、血の跡がべっとりとついていた。検知器の反応も、この場所で最大限に振りきっている。
「変ね」
江戸川が首を捻り、辺りを見回す。すると彼女の視線がとある一点で止まり、眼が細まった。
「ここのようね」
痕跡を見つけたようだ。血の匂いが羽村と彼女をを呼んでいる。血痕は廃墟近くのマンホールへと続いていた。
「俺が行く」
「静華も……!」
「地上に逃げ道があるかもしれない」
「……そうね。でも、せめて眼を」
江戸川が大ガラスを羽村に押し付ける。
「いいだろう」
「なにかあったときに静華が、すぐに救出に入れるように……!」
羽村は言い募る江戸川の唇を口で塞いだ。
黙らせると、彼はその言葉を全て聞かずに、マンホールの下へと降りて行く。
◇
懐中電灯で照らすと、血の跡は、なおも奥へと続き、一つの鉄扉の中へと消えている。
扉に鍵が掛かっているのを目にした羽村は、アーミーナイフを取り出せば、呼吸を整え、聖句を唱える。
「父と子と聖霊の聖名において──」
懐中電灯で十字を切れば、
「──エイメン!」と一振りの長剣、アゾット剣が現れる。
羽村は鉄扉の鍵を蒸発させる。鉄扉は、重々しい音とともに開いた。
中央に液体の入った棺のある、研究所のような施設だった。羽村が見渡せば、奥に一つ扉がある。そして、敵である化け物が、服を着たまま、吸血鬼のように棺の中に横たわっていたのだ。羽村が棺の中に眠る、右肘から先を失った化け物の心臓に、剣を突き刺そうと前に出る。
すると──。
体中にチューブを埋め込まれた、金色の眼をした化け物の体が、チューブを引きちぎりながら跳躍し、羽村の一撃を逃れる。羽村の剣は、棺を切り裂き、液体を床に零れさせた。化け物の右腕から、シュウシュウと音がして止まない。傷口から肉が盛り上がっている。化け物の左手に、五本の指の凶器が伸びた。
羽村に向けて突き出される左手。彼は剣で左手の指をごっそりと切って落とす。化け物の叫び声が上がる。化け物は羽村に向けて右腕を伸ばす。伸ばした先は剣となり、彼の脇腹をかすめた。赤い雫が床に落ちる。瞬間、彼は伸びきった化け物の右腕をわきで固定すると、そのまま勢いに任せて回る。
羽村は化け物と額を突き合わせ、危険な視線を交差させる。それも一瞬のこと、彼は危険を振り払うように、横合いから化け物の頭へ剣を突き刺す。羽村が化け物から手を離すと、化け物は頭から血を流し、幾度か床の上ではね、それきり動かなくなった。
羽村は奥の扉を開ける。すると、ここでもむせ返る血の匂い。
足元に大量の書類と二人の研究員らしき男たちの死体が転がる。羽村が一部、書類を手に取ってみれば、表紙には『極秘 完全防護員計画 防衛庁』の文字が。羽村は目を見開く。
大ガラスが一声鳴いた。
その声に羽村が後ろを振り返る。するとそこには、それがいた。いったいいつの間に現れ、回り込まれたのか。出口を塞ぐように立ちはだかる男が一人、見覚えのある顔立ち。そう、それは熊本県の製薬工場で──。
その瞳孔が細まった。
危険な空気、男の上着の下から取り出される拳銃、羽村が剣で身を護ろうとするも、一歩遅れて間に合わない、ちょうどその時。
ガガガガ! ガガガガ!
床が、天井が。部屋全体が激しく揺れた。
と思えば、天井から落ちてきた巨大なコンクリート片が、怪しい男の頭と体を押し潰す。
怪しい男は全身からスパークを上げつつ沈黙した。
朝の光が破れた天井から差し込む。
見上げれば上に黄色い重機が。その運転席から江戸川の声。
「よかったわ羽村。使い魔のくれた座標は狂っていなかったみたい」
大ガラスが舞い上がり、運転席から飛び降りて来た、江戸川の腕を掴んでは休む。
羽村は眩しさに目を覆った。
◇
月の隠れた夜。星の代わりにネオンが瞬く、バー『夜烏』。
今夜はマスター一人、客二人。
《可愛い娘をみつけた》の流れる、照明を絞った店内。
トレンチコートを身にまとう羽村は、黒いスーツ姿の江戸川と、ウィスキーのグラスを重ねていたのだった。