カラシニコフ
「また、天に巨大な印が現れた。
一人の女が身に太陽をまとい、
月を足の下に踏み、
頭には十二の星の冠をかぶっていた。」
──ヨハネ黙示録 12章1節
◇
鬼がいた。
人がいた。
曽良場市新町二丁目の路上。
鬼は爪で、人はナイフで、両者あい討つ。
鬼の爪が羽村に迫る。羽村は鬼の爪を払うと懐に入り、鳩尾に肘を入れる。
鬼は呻き、上体を浮かせた。
羽村はそのまま潜り込み、体を回転させるとアーミーナイフを鬼の顎へと突き入れる。
夜闇をつんざく鬼の絶叫。やがて赤い鬼の眼から光が失われ、夜を静寂が支配する。
どこからともなく犬の遠吠えが聞こえ、烏の鳴き声と羽音がそれに重なった。
◇
月明かりに照らされて、ネオンの切れかけたバー『夜烏』の看板がひときわ輝く。
『タキシード・ジャンクション』の流れる、灯りを絞った店内には、マスターと客がそれぞれ一人だけ。客の羽村はウィスキーの注がれたグラスを手に歯噛みする。マスターが、羽村の広げた雑誌の記事へ目を流すと──こうある。
『暴力団事務所で謎の不審火。抗争か!?』
『麻薬取引の疑い!? 暴力団の資金源、若者に迫る白い粉の恐怖』
マスターは布巾でグラスを拭いながら、
「思い通りにはいかないこともあるさ」
「……」
羽村は静かに席を立ち、万札を置く。
広い背中が泣いていた。
◇
月明かりの夜、羽村は時から忘れられた古びたアパートにいた。
裸電球の灯りを頼りに、羽村は手桶に一日溜め置きした水道水へと聖句を紡ぐ。
「父と子と、聖霊の聖名において、──エイメン」
羽村の祈りに、水が輝きを返した。
◇
ふと、外で烏の騒ぐ声がする。
その時。羽村の部屋の玄関ドアをノックする、不審な音。
羽村が慎重にドアに近寄り、のぞき窓から外を見たその瞬間、
タタタ! タタタ! タタタタタタ!
闇を引き裂き、ドア越しに機関銃の乾いた銃声が轟く。
羽村は油断していたのかもしれない。
腹を数発撃たれ、血まみれで、ドアに縋りつくように崩れる羽村。
刺客はドアノブを銃で吹き飛ばし、チェーンを外して扉を開ける。
羽村の体重が掛かった扉は大きく揺れて、刺客を押し返す。
倒れこむ羽村を見つけ、刺客が止めとばかりに引き金に指をかけたその瞬間。
ガバリと起き上がった羽村は銃の上から刺客にタックルを仕掛ける。
マウントを取った羽村は刺客の顔を左右に数度殴りつけ、伸びたところで首を絞めた。
相手が落ちたところを確認しようとした、その時に、羽村はふらっと上体を揺らしては、そのままドサリとうつ伏せに倒れた。
アパートの玄関に赤い染みが広がる。
烏の一声高い鳴き声が、夜のしじまに響いていた。
◇
烏の鳴き声に羽村が目を覚ますと、そこはソファーの上だった。
腹に手をやれば、幾重にも巻かれた乾いた布の感触。
額の上には水を含ませた布の肌触り。頭の下からは冷たい冷気が漂ってくる。
「ここは──?」
見回せば、散らかったオフィスだった。
「羽村、よかった。気が付いたみたいね。あなた、丸一日目を覚まさなかったのよ?」
声に目をやると、大烏を胸に抱いた黒いワンピースの美女が見下ろしている。
「江戸川、か」
羽村が女の名を口にすると、赤い唇が動いた。
「ご挨拶ね、それが命の恩人に言うセリフ? 静華がわざわざ助けてあげたのに」
羽村は額の上の布を打ち捨て、起き上がろうとする。
「無理しないで!」
羽村はよろめき、大烏を放した江戸川に支えられては、
「この場所は安全だから心配ないわ。依頼人以外からは見つけられないように細工がしてあるの。江戸川探偵事務所は迷いの森の中にあるのよ?」
と、羽村は再び横たえられて、
「大地の精よ、大いなる慈悲を持て、この者に命を分け与え給え!』
印を切る江戸川の足元に、回転する魔法陣が現れては、羽村の元へ移り、輝き消える。
羽村の体に活力が流れ込み、彼はいよいよ身を起こす。
羽村は彼女が用意してくれた、塩気の利いたお粥を掻き込みながら、彼女の使い魔の話を聞いた。
月明かりの元、大烏は羽村のアパートを訪れた若い男を見逃さなかった。その革のジャンパーにジーンズを着た若い男はおっかなびっくりと、羽村の部屋に踏み込み、変わり果てた刺客の姿を見る。しかしどこにも羽村の姿がないことを知り、彼は現場もそのままに、急いで引き返す。そして単車に乗り込んで、三度のキックの後に闇に消えた。大烏は羽ばたくと、単車を追った。そして、毘野呂市に向かう橋を渡り、一件の大きな武家屋敷に入ったのを見届けては、またも大きな声で夜闇に一声高く鳴くいたのである。
「相手はあの光神会よ。代紋を刻んだバッジを、あなたを襲った男のポケットから見けたの」
「紅丸組は光神会の傘下だったな」
優しく肩に添えられる江戸川の白い手を振り払い、羽村は立ち上がる。
そして服を着こむと、
「──世話になった」
と言いつつ立ち去ろうとする。
「行っちゃだめ」
「できない相談だ」
引き留めにも、にべもない。
「静華も手伝うわ」
江戸川が慌てて立ち上がり、
「俺の仕事だ」
と広い背中が訴える。
「羽村……」
女のか細い声をそのままにして、
「車を借りる」
羽村は、江戸川が黙って差し出した車のキーを、奪うようにひったくる。
そしてなおも、なにかを言いかけた江戸川の口を、唇で塞ぎ離れて見つめあう。
羽村は唇に柔らかな感触を残しつつ、江戸川を残し事務所を出、一階のガレージに向かった。
◇
借りた車は排気音も高らかに爆走する。羽村は一路、光神会の会長宅へ夜襲をかけに、月明かりの元、川を渡った。トランジスタが今夜も哀れな麻薬の犠牲者の発生を告げる。今夜の煙草は酷い味がした。
◇
毘野呂市本陣町。光神会会長宅。
武家屋敷風のそれは、さながら城郭のたたずまいであった。
羽村はアクセルペダルを踏みこんだ。
途端、車のエンジンが唸り、排気管からは火を噴く。猛スピードで会長宅の外壁に激突しては、
轟音、猛煙、大爆発。火の手が上がる。
羽村は寸前でドアを開け、車外に転がり落ちていた。
羽村は騒動を尻目に、素知らぬ顔をして大穴の開いた壁面から、会長宅へと潜り込む。
非常ベルの鳴り止まぬ邸内で、羽村はヤクザに囲まれる。
ヤクザたちは羽村を見つけると、飛び道具や刃物を抜いて、一斉に躍りかかって来た。
羽村はアーミーナイフを取り出すと、果敢にヤクザたちに切り込んだ。
発砲音、羽村は目の前のヤクザの袖を引き、盾にしては銃を持ったヤクザの手首を蹴り上げる。
銃を奪えばヤクザへ向けて発砲し、押し寄せるヤクザをけん制しては、屋敷の奥へと踏み込んだ。
羽村は暗がりに身を潜め、追いすがるヤクザをやり過ごす。
そして向かうは奥座敷。羽村は鳥の羽音を聞いていた。
《右方向へ曲がった、その奥よ、羽村》
江戸川が道を案内してくれる。
余計なことをと思いつつ、一方では神と江戸川に感謝する羽村であった。
果たして、その奥座敷。
ふすまを蹴破れば、赤黒い靄を立ち昇らせる、一振りの日本刀のような老人が、機関銃を手に立っていた。
「どこの鉄砲玉か知らぬが、わしこそ光神会会長、馬佐良九一よ。蟲が! 去ね!」
と老人は吐き捨てると、羽村に向かって銃撃を開始する。
弾は次々と羽村のそばに着弾するも、羽村は畳を返して視界を封じる。
畳が床に落ちる、その直前に、羽村は老人の影を見つけると、銃を老人目掛けて発砲した。弾は老人のすぐ脇をかすめる。羽村は怯む老人を他所に、その一瞬の隙を突いて、距離を詰めてはアーミーナイフを振りかぶり、ナイフの柄を老人の手に叩きつける。羽村は銃把目掛けてナイフの柄を突き出し、引き金を引こうとする老人の手を粉砕した。
老人は絶叫を上げ、手を押さえて転げまわる。すると老人を覆っていたモヤが分離し実体を取り始めた。
牡牛、人間、山羊の三つの頭、燃え上がる炎の目──。
蛇の尾を持ち、拳に鷹を載せ、熊にまたがったヒトガタ。その奇怪なる存在。それは老人の頭を踏み砕き、
「余の邪魔をする者はなにものぞ」
しわがれた声を発した。
恐るべき怪異を前に、羽村は迷うことなくアーミーナイフを構えなおすと、呼吸を整え、聖句を唱える。
「父と子と聖霊の聖名において──」
足で二枚目の畳を返して、羽村が銃で十字を切れば、
「──エイメン!」と一振りの長剣、アゾット剣が現れる。
「雄々しき人の子よ、余の側につかぬか?」
「戯言を!」
鷹が舞いたち、鉤爪で羽村を襲う。羽村の銃が火を噴けば、鷹は落ちて沈黙する。
熊に乗った怪異が羽村に突進し、羽村はかわし切れずに足に朱が走る。
熊の爪が羽村を襲うと、羽村は痛む足を引きずりながらも、熊の腕を切り飛ばす。
苦悶に呻く熊をよそに、羽村は剣で怪異に切りつける。
怪異はそれをひらりと避けると、羽村の胸を牡牛の角で突く。
迫る角、羽村は剣で角をはねのけた。
そしてそのまま剣を持つ手を強引にねじるれば、雄牛の頭を切り捨てる。
轟く咆哮、漏れ出るは呪いの言葉。
そして生じる一瞬の隙。
羽村は残った二つの頭を揃って串刺しにした。
そして剣を引き抜くや、次の瞬間、羽村は熊にまたがる怪異の胴を、唐竹割に斬って捨てていた。
怪異は赤き粒子となって空気に融けてゆく。
羽村は剣で老人の服を割いては、足の付け根を、布の切れ端できつく縛る。
そして煙草を取り出すと、火をつけては一口吸って、老人の上へと投げ捨てる。
羽村が煙を吐き出し、老人に向けて十字を切った。
鎮魂の炎は残った怪異の残滓に燃え移り、たちまちのうちに燃え上がっては、逆巻くその炎の舌が、屋敷全体を覆うに至る。
足を引きずる羽村の周囲で、火は赤々と燃えがる。
羽村の耳に、烏の羽音が聞こえた。
《正面玄関に脱出口があるの》
混乱の中、羽村は単車で逃げようとしていた男のヘルメットを剣の柄で殴っては昏倒させる。
そして爆炎の上がる屋敷を背に、女神の導きに従った。
羽村は単車を駆り、正門から出でて、一路アクセルを吹かし進みゆく。
◇
月夜の時、バー『夜烏』にはマスター一人、客二人。
《二人の木陰》の流れる店内で、男、羽村は黒いスーツの女と、ウィスキーのグラスを重ね合わせていたのである。