エンジェル・ダスト
「事は成就した。
私はアルファであり、オメガである。
最初であり、最後である。
私は、渇く者には、命の水の泉から、価なしに飲ませよう。」
──ヨハネ黙示録 21章6節
◇
『アメリカン・パトロール』が流れる中、絞られた照明の下。中折れ帽とトレンチコート姿の黒い男は一人、苦い酒を呑んでいた。バー『夜烏』には、今夜も閑古鳥が鳴いている。
男がマスターにグラスを差し出し振って見せると、蝶ネクタイのマスターは男の手首を握って首を左右に振った。
「今夜はその辺でやめときな」
マスターの視線が男の手元にある週刊誌に流れる。
開いたページに踊っているのは、『曽良場市、毘野呂市広域連続多発猟奇殺人事件の怪』と、一度は解決したはずの事件の続報だった。
男が再び酒を催促すると、
「今回は組織に任せておけ」とのマスターの言葉に、
「俺の仕事だ」と男が返す。
男は気分を害したのか、万札を置くと、酔いなど感じさせぬ所作でスッと席を立つ。
マスターはまたも首を左右に振りながらも、男の広い背中に「羽村」と呼び止め、小さな輝きを投げる。
男、羽村がそれを受け取ると、軽い金属音がした。
「プレゼントだ。諏訪町光月極の五番だ」
羽村は雑誌を手に、店を後にする。
◇
翌日、羽村は煙草をふかしつつ、新しい車に乗っていた。トランジスタからは、耳の痛い報道が聞こえてくる。
『──警察の発表によりますと昨夜十時ごろ、曽良場市新町二丁目の路上と毘野呂市本陣町の農道でまたも大型の獣に襲われたとみられる男性の遺体がそれぞれ一人づつ発見され──』
「狂的神秘原理主義者ども──!」
羽村は煙草を吸殻入れに押し付けると、そう吐き捨ててはアクセルを踏み込んで、橋を渡る。
◇
羽村が向かった先の事件現場は毘野呂市本陣町の農道。そこには警察車が何台も停まり、簡単な規制線が張られていた。羽村は乱暴に車を停めると、規制線に近づいてゆく。
途端、羽村を呼び止めた影。制したのは毘野呂市警の刑事だった。
「来たか。この時間には珍しく、化け物の仕業と言う目撃証言もあったが、上のほうはちっとも耳を貸さなくてね。今回の一連の事件にはもう懲り懲りだぜ。拝み屋、こいつはあんたの領分だ。堅気の俺にはついていけねえよ」
初老の刑事はそう言いつつ、羽村の胸を軽く叩くと、規制線の中へと戻ってゆく。羽村も用は済んだとばかりに、新車に引き返す。だが、羽村は足を止める。乗せてきた覚えもないのに、腰まで届く碧髪、黒のスーツを着こなす赤いルージュの似合う美女が待っていたからだ。
「エンジェル・ダスト。皮肉なものね。まさか他人が天国に行くための道具にされるだなんて、思わないでしょうね、──って!?」
羽村は車の前にいた、邪魔な女の唇を奪っては突き離し、
「江戸川、俺の仕事だ」と、車に乗る。
羽村の背中に声、
「静華もそう思うわ。神子守様もあなたに期待していてよ。羽村、あなたが出てきたのなら、私の出番はないわね」
羽村は女の言葉を最後まで聞かずに、アクセルを踏んでキーを回した。
◇
夜。
羽村は以前の現場の一つ、御影町三丁目に車を回していた。事件は以前の現場をなぞるように、それも何度も繰り返し繰り返し起きていた。今夜、この場所で事件が起こるか否かは最早、確率の問題と言ってよい。そして羽村は、
──賭けに勝つ。
気配を感じた羽村は車から降り、途端、飛び退いた。鈍い音、車から降りてすぐのアスファルトが割れている。羽村を振り返る赤く光る眼、羽村は青い球形の物を取り出すと、怪人へと投げつける。
怪人は挑むようにそれを手で受け、割っては濡れる。奴は水が触れた場所から、たちまちのうちに融け崩れては、悲鳴を上げていた。
「聖なる水風船の味はどうだ?」
羽村はアーミーナイフを取り出すと、今だ苦しみ悶える怪人の首を切り落とす。
◇
羽村はアパートに戻ると、餌を催促する金魚に茹で卵の黄身をやる。羽村は残りの黄身と白身をかじりつつ、電話を待った。
果たして深夜、激しい電話のベルが三回。
静かに羽村は、
「アルファだ」と落ち着いた声にて受話器を取れば、
「俺だ」と、一瞬の沈黙。
続く言葉に、
『──鑑識に回した結果、送ってくれた粉だが……麻薬だな。『エンジェル・ダスト』──最近、高校生から大学生のワル頃の連中の間で流行っているブツだ。で、仏さんの身元だが、私立海星大学付属、高等部の三年生だ。親御さんの話によると、受験のことでずいぶんと悩んでいたらしい。でも、こんな薬にまで手を出していたとなると、親御さんもいたたまれんね──』
「恩に着る」と羽村は告げて、受話器を置いた。
◇
太陽が西に傾く頃、羽村は扉を蹴って踏み込んだ。
薄汚れたアパート、夕日に照らされた破れたふすまに卑猥な落書き、転がる瓶からアルコール、そして缶から漂う煙草の匂い。
目をトロンと融かした幾人かの影がある。
制服姿の少年少女が羽村を見上げては、予期せぬ闖入者を見つけて、剣呑な目つきに変貌してゆく。
羽村はその中の一人の襟を、左手でねじり上げては一喝、
「こいつをどこで、誰から手に入れた?」
と、目の前に突き付けるは白い粉。
場が凍り、重たい沈黙が支配する。
羽村は力任せに男子生徒を吊り上げて、
「言え」
と脅せば、
「駅だよ、毘野呂駅! 高架下の外人から買ったんだ!」
羽村は男子生徒を壁に投げ捨てると、呻く彼を無視して、今だ沈黙が支配するその場を立ち去った。
◇
宵の口。すっかり日も落ちた毘野呂駅。
鉄と油、そして排気ガスの臭いの漂う、錆びた鉄骨が響く高架下を羽村は歩く。
空き缶とゴミ袋が落ちていた。
そんな場所に口ひげを生やした褐色の大男が二人、羽村を見つけては右の細身の男が両手を広げ、
「ベニマル、マダ集金ニハ早イネ」
「べにまる?」
羽村がいぶかしむと、
「イツモノ兄サン……」
細身の男は左の筋肉質な男に肘で突かれる。
すると男ははっとした表情で、口の端を釣り上げて笑い、
「オゥ、忘レテ! 兄サン、ヘヴン、一袋夏目サン二枚ネ」と告げた。
「全部貰おうか」
男たちは目を剥いて、
「レアリィ!?」と叫ぶ。
羽村は構わず細身の男の鼻っ面に右の拳を叩きこむ。顔面を押さえて転げまわる男を他所に、筋肉質な男が、なにやら叫びながら鬼の表情を浮かべて殴り来る。横っ面を狙ったそれを羽村が紙一重でかわすと、伸びきった腕をそのまま取っては関節を固めて決める。鈍い音。折った。男の悲鳴は電車の音に掻き消される。
羽村の鼻先で風が揺れる。細身の男がバタフライナイフを持ち出したのだ。
羽村は筋肉質な男を細身の男へ向けて突き飛ばし、ナイフを持ち、奇声を上げて躍りかかって来た男に叩きつける。男たちは二人折り重なるように倒れて呻き、羽村はナイフを持った手を思い切り踏みつけると、こう言った。
「ボスは誰だ?」
◇
次の日の朝。
毘野呂市日吉町。羽村は大伽藍の横に居を構える光神会系紅丸組組事務所へ車で乗りつける。
アポも無しに中に入れば、驚き慌てふためく男たち。
「なんだテメェは!」
殴り掛かったて来た男の拳を握るなり、後ろ手にねじり上げては、
「エンジェル・ダスト──頂きに来た」
羽村の言葉に男たちの目つきが変わる。
奥にいた赤いスーツでキメた男が、
「なんの話だか分かりませんね」と両手を広げて左右に首を振る。
羽村は麻薬の小袋を床にぶちまける。
「高架下では、もう商売をしないことだ」
スーツの男が打って変わって鋭い目つき。
「殺せ」
男の言葉を合図に、取り囲んだ手下の手には刃物が並ぶ。
羽村はコートの下から、聖別されたアーミーナイフを引き抜いた。
一斉に躍りかかって来る男たち。羽村は先鋒の腕を引くと、顎へ肘打ち一つ、首をあらぬ方向へと曲げ倒す。
「一つ」
いきり立つ次鋒の、切りかかる刃を避けて手首を取ると、金的に蹴り上げ倒れたところを踏みつける。
「二つ」
間髪入れず襲い掛かって来た、中堅の横っ面をナイフの柄で殴り飛ばすと、副将の鳩尾に膝蹴りを入れる。
「三つ、四つ」
悶絶する四人を見て大将は、赤いスーツの男を振り返り、
「若頭!」
スーツの男は面妖にも、ふわりと宙に浮きあがり、指に挟んだ四本のナイフを投げる。羽村は大将の死角から踏み込み、その体を捕まえると盾にして、
ドッ、ドッ! とナイフの刺さった大将の体を捨てる。スーツの男が嗤い出し、赤い瘴気を溢れさせつつ、肉を盛り上げ怪異のモノに変貌すれば、
「やはり人外か、」と、
羽村は怪異を前に呼吸を整え、アーミーナイフを構えて腹に、力を入れて聖句を紡ぐ。
「父と子と聖霊の聖名において──」
羽村が指で十字を切れば、
「──エイメン!」と刃が融けて光が伸びる。それは気の力を刃に乗せたアゾット剣。
「そうか、貴様があのお方の計画を邪魔する定命の者か」
赤いスーツの男、いや。赤い鎧をまとった怪異は、そう言うと再びナイフを投げつける。
羽村は床を蹴っては、剣でナイフを叩き落す。距離を詰めた羽村は、怪異の胸を一撃、怪異の鎧が割れて、瘴気が溢れる。
「小癪な!」と、怪異は剣を抜き放ち、羽村の剣と打ち合った。怪異の剣は、下段から伸び、羽村はそれに応じて受け流す。怪異の剣が羽村の首を狙うと、避けては羽村、腕ごと怪異の剣を切り落とす。
吹きあがるは羽村の闘気、それは怪異の瘴気を呑み込んで、羽村は踏み込み、怪異を頭頂から二つに両断した。
羽村は煙草を取り出すと、一口吸って、床にぶちまけた麻薬の上へと投げ捨てる。炎が上がり、それは怪異の残滓に飛び火して、瞬く間に事務所中に燃え広がった。
白い粉から煙が上がる。それはさしずめ天使の翼のようだった。
◇
曇天。夜闇にネオンの切れかけたバー『夜烏』の看板が人知れず輝く。
今夜も客とマスターが一人づつ。照明を絞った『イン・ザ・ムード』の流れる店内で、蝶ネクタイのマスターはグラスを磨きながら、その黒ずくめの男、羽村に目をやった。羽村は今夜もウイスキーのグラスを揺らては呷るのだった。