エクソダス
「わたしの主よ、私の願いは全て御前にあり
嘆きもあなたには隠されていません。
心は動転し、力は私を見捨て
目の光もまた、去りました。
詩編 38章10-11節
◇
ネオン。夜更けに瞬く光と影。
瞬きを繰り返すそれは、一人の男を映し出していた。
その姿は黒。中折れ帽とトレンチコートを身に着けたその男は、裏路地にあるその店のドアを開けた。
その店とは──。
バー、夜烏。
今夜もまた、一羽の烏が舞う。
◇
「いつものを」
コートを脱ぎ、カウンター席に座るその黒は、影のように呟いた。
静かなジャズが流れる中、グラスを磨いていた店主は、男の前に、そっと琥珀色の液体が入ったグラスを置いた。
羽村がグラスに手を伸ばそうとした、その時だった。
ドアベルが鳴る。
空気の色が艶を帯びる。
店主が目をやる。
氷が揺れる。透き通ったクリスタルが、淡い光を照り返した。
羽村はロックを呷った。
氷に女の姿が映る。
羽村は目にした。
黒いスーツに身を包んだ黒髪の女を。
女、真っ赤なルージュが開かれる。
「羽村。手伝って」
店主が一瞬、グラスを磨く手を止めた。
「……俺には俺のやることがある」
「あなたも興味がある仕事だと思うわ」
羽村の目が、鋭く光る。
◇
『毘野呂市江森町の商店街に隣接するスーパー、『サンカイ』で人質立てこもり事件が発生しております。犯人は未だ抵抗を続けており、現場付近は警察によって厳重に封鎖されております。以上、現場付近からの中継でした』
◇
「お父さん、人質立てこもり事件ですって」
「恐ろしい話だな」
「そうなのよお父さん。怖いわねぇ」
「大丈夫だ。わしらには関係ない。どうでもいいことだ。それよりお前、早く寝るぞ、明日も早いんだから」
夫人がライトのスイッチを切る。
江森街の灯りが一つ、また消えた。
夜の街に一層闇が増す。人の気配が、また消えた。
◇
車庫をヘッドライトが照らし出す。
V8エンジンが唸りを上げる。
外車がゆっくりと滑り出る。
誰もいない、静かな路上を切り裂く咆哮。
静華はギアをセカンドに入れると、アクセルを思い切り踏み込んだ。
飛び出すように、二人を乗せた車は加速する。
切り裂くヘッドライトの光に映る、流れる街並み、過ぎ去る街路樹。
駆ける。
車は夜更けの街に融けてゆく。
◇
警察車両が集う中、羽村と女は車を降りる。
羽村は規制線をものともせずに、出迎えた刑事に連れられて現場へと出向く。
眩い照明が照らし出す、デパートの入り口。
「羽村の旦那。こちらから先はあんたがたの領分だ。頼んだぜ」
初老の刑事が羽村の肩を叩こうとし、静華の背中を見て止めた。
静華が肩に担いだM16マシンガンの銃口が黒光りして照り返していたかもしれない。
「中は?」
「例の連中でうじゃうじゃだ」
「ライトを落とせ」
静華の問いと、羽村の鋭く低い声。
まもなく照明が落ち、真の闇が辺りに降りた。
入り口から漂うのは、ただ妖気。安心の気配に陽気に初老の刑事は微笑んだ。
白くたなびく霧が、入り口へ向かう二人の足を覆う。
ドアを手動で開く。
闇。
そこは、妖魅の住処であった。
◇
アーミナイフが暗闇に走る。
微かな街明かりを捕らえて伸びる残光。
怪物の白い手が切り飛ばされる。
陳列棚が倒れ、中身が降り落される。
唸りを上げる怪物の口からは、絶えず体液が飛び散った。
弾ける飛沫、漂う悪寒。
転がる缶詰、踏み締められるスナック菓子。
マズルフラッシュの残光を縫い、羽村の姿が駆け巡る。
弾の先に、弾の後に光る剣。
ナイフは怪物の急所を突いて、筋肉を削ぎ落す。
唸る怪物、伸びるその腕。
羽村は駆ける、走る、駆ける。
輝く軌跡は敵を薙ぐ。
巨体が崩れた。膝を蹴って、関節を折る。
伝わる腕は、怪物の喉を薙ぐ。
未だ光り続けるマズルフラッシュ。
蜂の巣になりながらも迫る怪物、間隙を縫って羽村が動く。
羽村の目が流れる時、別の怪物が横合いから飛び出した。
羽村の右手がナイフを躍らす。
掴んだナイフは敵を抉った。
羽村の眼前に迫る敵、それを追うは羽村の銀光。
羽村はナイフを抜き取ると、一文字に切り飛ばす。
一息つく暇もなく、わらわらとあふれ寄る怪物ども。
羽村は一息呼吸を吸い込むと、アーミーナイフを構えては、
「父と子と聖霊の名において──、
羽村は敵に突き進む。
「エイメン!」
一瞬にしてナイフを覆った光は収束し、一本の刃を作り出す。
合図を待っていたかのように、怒涛のように迫る敵。
羽村は剣を右から左に振り回す。薙ぎ払われるは敵の先鋒。
伸びた腕が羽村に迫る。
踏み込み舞うは、羽村の影。
羽村は敵の頭を越すと、背後に回って切り飛ばす。
敵の体を両断しては、残敵が羽村を左右に挟む。
羽村は剣を上段に構えては、敵を順次に切り捨てた。
残るは一つ、構えては、
「これは俺の仕事だ……」
と心に決める。
怪物の巨体が羽村に迫る。
羽村は剣を下段に構えては前。
すれ違うは二つの影。
倒れ伏したのは、怪物の巨体であった。
闇は終わり、男と女は闇の迷宮を脱した。
◇
バー夜烏。
温かい光に包まれた店内で、心地よいジャズを耳にしながら一人の男が琥珀色の液体を愛でている。
飲み干せば、
「もう一つくれないか」
マスターに零れる言葉のかけら。
差し出された琥珀色の液体に、氷に映る時計があった。
深夜。黒衣の男は酒を飲み干すと、万札を置いて店をあとにした。