ファング
「立て、
行こう。
見よ、
わたしを裏切る者が来た。」
マタイによる福音書 26章46節
◇
はち切れんばかりの筋肉は、服の下の上皮を押し上げ、鞭のようにしなる肉体を作り上げていた。逆毛の男は乱ぐい歯をむき出しにして涎を垂らしながら壁に、車に、道路標識に当たり散らし、己の肉体を武器にして暴れ始める。
男。数分前まで男であったそれ。
黄色の眼を血走らせて暴れる男は、今では人ではなく、怪物と言えた。
◇
バー、夜烏。
照明を絞った暖色の灯りが点され、落ち着いたジャズが静かに流れる店内に、店員が一人、カウンターに客である男が一人。
黒衣の男は物事をことさらおかしく書き立てる週刊誌を広げて、ため息一つ。
「いつものを」
マスターが手慣れた手つきでグラスに氷を入れると、その上から琥珀色の液体を注いでは客に渡す。
そして、苦虫をかみつぶしたような表情の客にグラスを手渡しながら一言。
「羽村、気にしない方が良い。お前は良くやっている」
羽村の目の前に広げられた週刊誌に躍る文字。
===収まらぬ曽良場市、毘野呂市広域連続多発猟奇殺人事件! 裏で見え隠れする麻薬組織の影!!===
「中途半端な仕事をするわけにはいかない」
「依頼は来ていない」
マスターは静かにグラスを磨く作業に戻る。
羽村は口をつぐんでは、なおも週刊誌の記事に目を落としていた。
◇
羽村は寝台の上で飛び起きる。
悲鳴が聞こえたのだ。強い力で金属と金属を擦り合わせたような鋭く長い悲鳴。
羽村にはわかる。それは天使の叫びだ。エンジェルダスト。
かの製造工場で聞いた物言わぬ天使たちの無音の悲鳴と同じ。
上体を起こし、寝台から降りた羽村は流し台に行き、コップに水を注ぐと喉を鳴らして飲み干した。
「エンジェルダストか」
◇
再びバー、夜烏。
店内にどちらも黒衣の客が二人。男一人、女が一人。
「依頼されていないんでしょ羽村。なにもタダ働きすることはないわ」
「以前の件が尾を引いている」
「でも一度終わった事件よ」
「俺の中ではまだ続いている」
女はため息一つ、
「キリが無い案件よ、羽村?」
男、羽村は答えない。
ただ彼は、酒を前に、なにかを考えるように目を閉じた。
◇
羽村は橋を渡り、瞬く街灯が夜道を照らす御影町四丁目を歩いていた。
日付ももうじき変わろうかという頃、羽村は獣のうなり声と、女の悲鳴を聞いた。
羽村は駆ける。音の出所へ向けて走っていた。
◇
羽村は筋肉を異常発達させた巨人を見た。
その巨人は肩からバックを提げた女性に今にも襲いかかろうとしていた。
銀光。
街灯の明かりを照り返し、羽村の抜いたアーミーナイフが鈍く光る。
一歩。
踏みしめる。
羽村は巨人を突き飛ばした。
腹に掌底を受けた巨人は後ろに二三歩よろめくと、唾液を垂らし、乱喰い歯がのぞく口元もそのままに、血走り黄色くよどんだ眼で羽村を睨み付ける。
羽村の背後で女性は崩れ落ちた。失神したのだろう。
巨人は拳を握ると羽村の頭に振り下ろす。
羽村はナイフを滑らせて拳の表面を撫でた。
鋭いナイフは拳にめり込み、指を一本切り落とす。
巨人の拳から、赤い花が咲いた。
ところが巨人は呻くどころか、怒り狂って羽村になおも拳を叩きつけてくる
拳にさらに花が増える。
羽村は巨人の肘に蹴りを入れ、拳の先を掴んでは関節を逆に折った。
巨人が高く高く悲鳴を上げた。
それは道路に転がりたちまちのうちに、その筋肉が縮みゆき、巨人は口から泡を吹いた。
小さくなり、巨人と呼べる者は消えた。
やがてそこには、皮と筋だけになった年齢不詳の男と、気を失った女だけが残った。
◇
「この様子、またもエンジェルダストか?」
離れた路上で羽村は一人ごちる。
「羽村」
そんな羽村に声をかける黒衣の影がある。
羽村は驚きもせずに、その闇に融けた人影を見つけた。
「化け物でしょう。今の戦闘、静華が突き止めたんだけど、トレースされていたわよ? 逆探知出来たけど、行く?」
羽村は静華の黒スーツ姿を見つめた。
◇
外車のエンジンがうなりを上げる。夜のしじまを突き破り、それは一路雑居ビルへと向かった。
赤々と灯りの点った部屋がある。
羽村を先頭に駆け上がった先、鉄の扉が立ち塞がる。
羽村はゴム手袋をし、ドアノブを握ると共に力任せに押し開ける。
鉄の扉は悲鳴を上げて、真夜中の訪問者を受け入れた。
明るい室内に、姿形、顔形も瓜二つの二人組がいた。彼らは見つめていたパソコン画面から目を離しては振り返ると、羽村と静華に向き直る。羽村は男の頭に正拳突きを、紫電の速さで二人に見舞う。男たちは機械部品をぶちまけながら床に転がった。
静華はサーバーを調べる。静華が通信履歴を眺めると、いくつかの特徴的な連絡先に気づいた。そのアクセス先を確かめると、ある男の名前が出てきた。静華が自分の端末で照会する。
「これって、あの男?」
──それは灰色のスーツの男の名前だった。
◇
次の日。雑居ビル。
黒衣の男と女が灰色のスーツの男を呼びつけていた。
金の瞳が緩みを帯びて、目の前の二人に微笑みかける。
「……さすが早いお仕事です。ばれてしまっては仕方が無い。実はですね、新規特殊装備技術開発について、我々のチームの成果を売り込むために、少々手荒な方法ですが、臨床データを取る必要がありまして……」
拳が唸る
黒衣の男、羽村は灰色のスーツの男の顔面、左側面に向けて拳を飛ばした。
「冗談にしては出来が悪すぎる」
スーツの男の左耳から血が流れ出る。
「申し訳ありません、はい。ですが──」
男が指を鳴らすと、雑居ビルに銃で重武装した黒衣の男たちがなだれ込んでくる。
──逆転劇。
男がにやりと笑った。
銃を突きつけられた黒衣の女、静華が息を呑む。
心配げなその瞳には、躊躇いの色があった。
「羽村……」
羽村は首を振る。
「俺は殺人を好まない」
灰色のスーツの男は重武装の男たちにてで合図し、銃を降ろさせる。
「平和的に行きましょう。平和的に。なにかの行き違いなんです」
「戯言はそれまでにしておけ」
羽村はアーミーナイフを抜き放つ。
「羽村!? ──ミサイルプロテクション!』
静華の力ある言葉を聞くとまもなく。
灰色のスーツの男が叫ぶ。
「撃て!」
途端、弾ける連続音が立て続けに起こった。
弾丸の嵐が羽村と静華を襲う。
機材に穴が空きスパークを放つ。
硝煙が去った後、果たして羽村と静華は健在であった。
一発の銃声が轟いた。
静かに灰色のスーツの男が後ろに倒れる。
突き出された静華のベレッタ92F。
灰色のスーツの男の眉間に穴が空いていた。
どうと倒れる、男が一人。だが倒れてまもなく起き上がる。
──それこそ何事もなかったかのように。
男の眉間から一筋の血が流れ落ちる。
羽村はアーミーナイフを構えると、十字を切って聖句を唱える。
「エイメン!」
アーミーナイフの刃から、緑の燐光を放つ光の刃がギラリと伸びる。
男は両手を刃に変えると羽村に突き出した。
羽村はサイコソードで刃を弾き、いや、切り落とすと前に出る。
胴に蹴りを入れては足を踏み込みサイコソードを横薙ぎに払う。
男は両腕で受けてサイコソードに寸断される。
男の両手に赤い花が咲く。
男の顔が驚愕に歪むも、
「人外よ、邪な計画と共に去れ!」
羽村の剣が頭頂から一閃した。
剣は鼻先をかすめて股間に落ちる。
「あ、ああ。……今すぐ去るとも」
と、鼻先から血を流しながら、九死に一生を得て男は背後の軍団に担がれるようにして這々の体で逃げ出したのであった。
◇
バー、夜烏。黒衣の男と黒衣の女が、落ち着いたジャズの流れる店内でグラスを交わす。お互いの手にする琥珀色の液体が揺れていた。
──そして。
この店に、二度と灰色のスーツの男が顔を見せることはなかったのである。