フレイム
第一の天使がラッパを吹いた。
すると、血の混じった雹と火が生じ、
地上に投げ入れられた。
地上の三分の一が焼け、
全ての青草も焼けてしまった。
ヨハネ黙示録 8章7節
◇
夜。消えかかった街灯を背に、闇が動き、魔が走る頃。
男の目の前には、背に灰色の翼を生やした怪人がいる。
地を蹴る怪人の足に、路面が鳴って、怪人が大きく跳躍した。
背の翼が広がるも、自重を支えきれないのか、翼の意味をなしてはいない。
その意味を知るか知らずか、我が身を餌と見せかけ、待ち受ける黒のトレンチコート。
黒い男はアーミーナイフを取り出すと、怪人の懐に飛び込んでは迫り来る爪をかいくぐって怪人の胸にナイフを打ち込む。
刹那。
怪人の飛び降りた先、えぐられたアスファルトが派手に飛び散っていた。
男の手には確かな手応え、くの字に折れて、にわかに震えつつ活動を停止する怪人。
男の目には、怪人の動きがひどく緩慢に見えていた。
その証拠に、怪人は易々と男に倒される。
怪人が崩れ落ちた。
怪人の上着のポケットから、白い粉の入った袋が、いくつも零れ落ちる。
男は袋を回収すると、怪人の遺骸もそのままに歩き去った。
男は、いつしか煙草を取り出すと、咥えては火をつける。
「──俺は、人間なのか?」
夜。
答える者は、誰もいない。
◇
バー、夜烏。次の日の晩、男はこの店で羽を休めていた。
「……相手は底が知れん。止めておけ、羽村」
マスターはグラスを磨く手を休めることなく告げる。
「……」
「命があっただけでも良しとしないか?」
諭すかのような響き。
「俺は何だ? なぜ容易く倒せるようになった?」
噛みしめて羽村。
「俺のような存在を生み出す組織を見逃す訳にはいかん」
羽村は琥珀色の液体が入ったグラスを握りしめると、ヒビを入れる。
「一人でなにができる」
マスターがゆっくりと告げる。
羽村は答えない。辺りに沈黙の帳が降りた。
「図体ばかり大きく身動きができない巨大組織よりは融通が利く──違いますか、ミスタ、アルファ」
羽村の背後から金属質の刃が突き込まれる。羽村は一条の刃に貫かれた。
だが、羽村は何事もなかったかのように、脇にいる。貫かれたのは残像。
羽村はその刃を紙一重でかわしていた。
振り返る。
第三の人物だった。
闇から染み出すように、灰色のスーツの男が現れる。
その腕は、刃だ。
だがそれも、融けるように男の体に融け込むようなで消え失せる。
「蘇って神通力を得た、という江戸川探偵事務所の報告書は正しかったようですね」
「……」
羽村は黙して答えない。
ただ、その視線が男の黄金の瞳を射抜いていた。
「静華はそんな報告書、上げてなんていないわ」
と、もう一人闇から染み出す影。
黒のスーツを身につけ、唇にルージュを引いた女だった。
だが、男は女を見もせずに、
「これを」
鞄から男が取り出したのは茶封筒。
カウンターを滑らせる。茶封筒は羽村の直前で止まった。
羽村は封筒の中身に目を走らせると、その無茶な依頼にも表情を変えることなく、無表情を貫いた。
「ご協力願えますか?」
男は嗤う。
静華は口を開いては穏やかに告げる。
「羽村、聞いて。こんな依頼なんて受ける必要ないわ。あなたはしばらく休んでおいた方が良い。あなたは疲れているのよ」
「俺が決めることだ」
「あなたは確かに凄いパワーを手に入れたのかも知れない。でもね、なにが起こっているのかわからないのに、これ以上の無理は止めて羽村」
羽村と静華はしばし、見つめ合う。
羽村の眼光は鋭かった。静華の瞳が揺れる。
「──でも、行くというのでしょう。仕方ないわ。これを持って行って。火力が必要なときにでも使うの。何かの役に立つから」
と、一本の巻物を渡される。
なにやら魔法の込められた巻物のようだ。
羽村はロックの入ったグラスを呷ると、カウンターに万札を置いて席を立つ。
それを見た静華は、羽村を追う。
「ねえ、聞いて羽村、あなたは──んっぐ!?」
急に羽村は振り返った。羽村は女の細い顎を捕まえては唇を塞ぐ。
長い長い口づけだった。
静華が自由を取り戻したとき、すでにドアベルは鳴った後。
羽村は風のように夜の街に融け込んで行ったのである。
静華は駆けて、羽村を追って飛び出す。
だがその視線は、すでに夜闇に紛れていた羽村の背中を探すだけで、それ以上の追求は無理であった。
烏は今、飛び立ったのである。
◇
三日後、羽村は空港にいた。
彼はその日、空の人となる。
灰色のスーツの男が持ってきた書類は、羽村を富士山へと誘った。
◇
レンタカーを転がし、辿り着いた先は一面のすすき野。
羽村は車を降りると、風になぶられるトレンチコートを翻して富士山に向けて歩きゆく。
しばらくして。
突然、丘の向こうが光った。
羽村は残像を残して飛び退き伏せる。
爆発、轟音。
耳をつんざく轟音とともに、火の塊が跳んできた。
羽村は起き上がり、光った方角へと走る。
タービン音が続いた。敵は動いている。
だが対する羽村も土を巻き上げ、抉り、凄まじい速さでそれに近づく。
無限軌道が赤土を巻き上げる。
スラローム走行射撃。
ファイア。
ファイア。
羽村の目の前で巨大な炎が焚かれ、後ろで土炎が上がる。
──やがて、赤を放つ90式の濃緑色と褐色のまだらな巨体が見えた。
羽村はアーミーナイフを振り抜く。
刃が陽光を反射し、機銃が羽村の足下を追ってくる。
羽村は機銃掃射よりも速く走った。
羽村は祈り、十字を切る。
「エイメン!」と叫ぶと同時に、羽村はひときわ高く跳んだ。
襲い来る機銃掃射。
羽村の手には、アーミーナイフより伸びた気の刃。
良い的のはずだが、機銃が撃つ場所には羽村はいない。
羽村は腕を振り下ろす。
刃は後部機関を切り裂いた。
鋼とセラミックが溶断される。
羽村は飛び退き、地に伏せた。
走り去った車体が火を噴く。
続けざまに起こる爆発。
羽村は立ち上がり、周囲を見る。
草葉が揺れる。
羽村は駆けた。
草の影から迷彩服の男が現れる。
一人、二人、三人……。
どれも同じ背丈、同じ体つき、同じ顔だ。
彼らの自動小銃が火を噴き、羽村の身に突き刺さる。
だが、残像を残して走り行く羽村には、かすりもしない。
羽村は戦場を掛けながら剣を縦に横に、上に薙ぎ。
三人の兵士の体を切り裂いた。
切断面からスパークを上げる戦闘員ら。
またも立ち塞がる新たな戦闘員の数は三。
彼らの自動小銃は羽村の借りてきたレンタカーを、たちまちのうちに蜂の巣にする。
「……っ」
羽村は静華から貰っていた巻物の封を切る。
そこに記されていたのは意味深な象形文字。
巻物に描かれていた文字は宙に流れ出て炎と化した。
火炎が戦闘員三人を襲う。
彼らは炎に巻かれ、絶え間ないスパークをあげながら、金属の機械機構だけを残して倒れ伏す。
羽村が煙を上げるレンタカーを前に、煙草を取り出していると、やがて一台のジープが通りかかる。
ジープには迷彩服の自衛官と、灰色のスーツの男が乗っていた。
「ミスタ、アルファ。処理の方は完了したようだね、空港まで送ろう」
◇
帰りの飛行機で、羽村は空を見つめる。
灰色のスーツの男の言葉が思い起こされる。
『私たちも内部から侵食されているのです』
「内部から、か……」
羽村はぽつりと呟いた。
富士の山と、緑が遠くなる。
そして空は変わらず青かった。世界はただただ、青いのだ。
◇
照明を絞った店内で、店主一人、客一人。
黒いトレンチコートのその男は、静かにジャズを聴きながら、今日も一人、琥珀色の液体の入ったグラスを揺らしていた。