ディテクティブ
主は、決して
あなたをいつまでも捨て置かれはしない。
主の慈しみは深く
懲らしめても、また憐れんでくださる。
人の子らを苦しめ悩ますことがあっても
それが御心なのではない。
──哀歌 3章31-33節
◇
裏通りの雑居ビル二階にある自宅兼事務所。
東の空が白み始めるころ、ブラインドを開けた事務所に日が差し込んでくる。
観葉植物の緑も眩しい。ウチワサボテンに水を少しだけ与える。
目覚めた彼女が朝一番にやることだ。
次に東を拝む。一礼。ちょうど朝六時であった。
水で顔を洗って、口をゆすぐ。
軽く化粧水を手にしては、肌に水分を与えた。続けて美容液、乳液、クリーム……軽くファンデーションを終えれば、彼女の本当の朝が始まる。
しかし、その動きは以前と比べて緩慢だ。そう、あの男を気にかけていた頃と比べれば。
彼女はコーンフレークに冷蔵庫から取り出したミルクを掛けようとして手を止める。
星の形をしたイヤリングが光る。予感がしたのだ。
ほら、電話の呼び出し音が鳴る。
彼女の手は、ゆっくりと受話器に伸びた。
「──はい、こちら江戸川探偵事務所」
『……様の件です』
緩い声音が突然、緊張を帯びる。
「はい、ご用件はそちらで。こちらは一向にかまいませんが」
彼女は全て譲歩した。いや、逆に相手を急かす。
「はい、承知致しました。なるべく早い時間帯……十三時……いえ、朝十時には約束の場所まで伺います」
そこからの彼女は、魂の窯に石炭を投げ入れられたように忙しく動き始める。
静華はコーンフレークにミルクを注いだ。
リンゴとキウイ、そして熟れたトマトを切って皿に添えると、スプーンとフォークで食べ始める。
置時計の針を見る。八時三十分。約束の時間には充分間に合う。が、彼女は電話の受話器を取ると、警察署に電話し始めた。
「毘野呂署会計課? 江戸川と申します。今からそちらに拾得物を引き取りに行きたいのですけれど、──さんは勤務中でしょうか?」
「そうですか。では、今から三十分後に江戸川、江戸川静華が行くと伝えておいていただけますか? 申し訳ありません、よろしくお願い致します」
静華は鏡を前にしては、化粧崩れの確認もそこそこに、唇に赤いルージュを引いてしめる。
そして、机の引き出しから彼の使っていたアーミーナイフを取り出すと、鞘ごと腰に吊るした。
数分後。
雑居ビル一階の駐車場から黒い外車が一台現れれた。外車のV型8気筒エンジンが唸りを上げては、ユーロメタルを流しながら街中に消えて行く。
◇
「親父さん」
「静華ちゃん、親父さんは止めてよ」
腹の出た五十がらみの男性が制服を着ては静華の相手をする。
「じゃあ、おじさん」
「なんだい?」
「わかってるくせに」
静華はそっと男性の右手に手を重ねる。
「その腰のものはなんだい。銃刀法違反で引っ張るよ? 危ない橋を渡るのは止めた方が良い」
男性は離れようとした静華の手を少々強めに握り返す。
「お守りよ、お守り」
「そうかい?」
「そうよ。彼が力をくれるの」
「それじゃ、拝み屋によろしく言っておいてくれ」
男性の引き留めもこれまで。男性は静華に台湾製の拾得物を渡したのだった。
「もちろん。じゃあね、ありがと、親父さん!」
静華はウィンク一つ、男性に投げた。
いま、静華の胸元にはズシリとした重みがある。
男性にも告げたように、使わないに越したことはない、護身のための重みだ。
◇
ネオンの消えた、バー『夜烏』前の小路で、昼間に蝶と毒蛇が出会っていた。
「ミス、エドガワ。ミスタ、アルファ氏の居場所について、あなたにお話ししたいことがありまして」
男は開口一番そう言った。
静華は灰色の背広の男、黄金の目の男と出会う。
静華は胸の重みに神経が集中する。
抜くか、抜かないか。
静かに考える時間はなく、口を突いて出たのは先を促す言葉だけ。
「立ち話?」
「こちらの書面を」
男から静華へと渡される茶封筒。
「見ても?」
「もちろん」
渡された封筒の中身に静華の顔色がみるみる変わりゆく。
「これを知っていて、あなたは! あなたたちはなぜ!?」
「協力願えますか、ミス、エドガワ。ミスタ、アルファと同じように」
静華は男の物言いに下唇を噛みしめる。
「あなたたちの好きにはさせない! でも、これは、今回だけは、あなたたちの駒になってあげる!」
「なんのことだか、さっぱりわかりませんね、ミス、エドガワ」
静華は男の顔に唾を吐きかける。
男の頬が、唾で汚れた。
◇
昼過ぎ。
山奥の久住山系は晴れていた。
外車でのひと時。良いドライブである。
トンネルのそのまた奥に、彼女はいる。
静華の靴音が、甲高く反響しては吸い込まれるように消えた。
聞こえるは、水滴の音。
しかし、雑音が混じった。
静華は地図で示された先で、見逃せない人影を見る。
黒い男だ。
静華が一歩詰めると、男は一歩先を行く。
静華は後をつけた。
静華が小走りに詰めると、男は走り出した。
中折れ帽に、トレンチコート。黒ずくめの、見知った、いや、良く知ったはずの男に似た影。
その姿が霧の向こうに消える。
静華は叫ぶ。
返事はない。静華はその姿を追った。
彼女は消える影を追って、奥へと向かう。
霧を抜け、トンネルを抜けた。
目の前に広がる断崖絶壁。
静華はたたらを踏んだ。
目の前に、追跡していたはずの影はいない。
ただし、一体の存在があった。残念かな、敵意を放つ者である。
静華は懐に手を入れる。
黒のトレンチコートに中折れ帽。ただし、その顔は人のものではなく、豹だった。
「あなたは誰?」
静華は銃、ベレッタ92Fを構え問う。
「我はあのお方の影。そして、貴様のような俗物を釣り出すための餌」
「なに!?」
気づけば多数の人の気配。
静華は囲まれていたのだ。
コートをマントのように翻して消える豹男。
代わりに立ち塞がるのは黒いスーツの男たち三人。どれも姿かたちは同じで三つ子の兄弟のよう。
男が懐から銃を取り出すのを見て、静華は迷わず発砲する。
命中、左端の男が目を撃ち抜かれてスパークを上げた。人ではないのだ。
佐世保のクルーザーの時と同じ。
この連中は間違いなく羽村が追っていた連中の仲間に違いない。
中央の黒服と、右端の黒服の銃が続けざまに火を噴いた。
静華は横に転がって、銃弾を避けつつ発砲する。地面と静華の頬を掠める銃弾。
放った弾は中央の黒服の眉間を撃ち抜く。
「寄ってたかって!」
静華は滑るように横へ転がり移動しつつ、右端の黒服の頭へ標準を合わせ、引き金を引いた。
倒れる機械人形たち。スパークを起こしながら、静華の放つ止めの二発目を受けて完全に灯が落ち、動かなくなる。
静華は豹頭の男を探す。どこに隠れたのか、軽れる場所などどこにもないのにその影もない。
灰色のスーツの男から渡された地図にあるのは、トンネルを抜けたちょうどこの位置。
ならばと思い、横たわって崖下を覗くために首を出す。
果たして、横穴が見えた。
静華は立ち上がると呼吸を整え、魔法の呪文を唱える。
「マナよ、光の翼と化さん。我に翼ある靴を与え給え! フライ!』
魔法で静華の体が浮き上がる。静華は銃を持ち直すと、両手を広げて崖に身を躍らせた。
風が静華の髪とスーツを弄る。彼女は垂直に崖から落ちて行く。
静華が洞窟へ入る、ペンライトで奥を照らすと、多くの蝙蝠がキィキィという鳴き声と共に外へ向けて飛び立って行った。
洞窟には明らかに人の手が入った跡がある。足元と天井が平らに均されているのだ。
ペンライトの光は一つの影を捕らえた。
中折れ帽にトレンチコート。
そして、豹の頭。
最早、一瞬たりとも躊躇わない。静華は三発の銃弾を豹頭の怪物に放つ。
銃弾はトレンチコートの奥に吸い込まれ、それだけだ。
「ならば! マナよ、猛る神々の雷となりて敵を撃て! 走れ、ライトニング!』
極太の電撃が怪人に向けて走った。電撃は怪人の体を打ち、白く染め、その背後の扉をも豪快に破壊する。弾けて開いたその奥には、拘束具で縛りつけられた、上半身裸の男がいた。男の体は鍛え抜かれた鋼の筋肉で覆われていたが、ピクリとも動く様子はなかったのである。
だが、電撃はその男をも撃って、男を捕らえていた拘束具は全て弾け飛ぶ。男の体がビクンと跳ねた。
「女、舐めた真似を……!」
豹頭の怪人は血の滴る歯茎を噛みしめて静華を睨む。
静華は左手を懐に入れると、銃で狙いをつけると同時にアーミーナイフを取り出しては左手に構える。
発砲。そして静華はアーミーナイフを怪人へと投げつけるが、どちらも怪人に易々と回避される。
アーミーナイフが奥の男の傍に突き立った。
怪人は構わず静華との距離を詰める。
「マナよ、その深淵なる混沌をもって敵を開け! 弾けよ、ブラスト!』
静華は続けざまに呪文を唱える。豹の怪人の額がざっくりと裂けた。
怪人はふらりと揺れるが、静華へと進める歩みは止まらない。
「それで? 次はどんな芸が拝めるのかな?」
怪人が静華の喉へとその両腕を伸ばした時、背後で声が響いた。
背後にいた男はアーミーナイフを引き抜き構えた。
呼吸が聞こえる。深く吸って、深く吐く音だ。
続いて神の聖名をたたえる聖句が耳に流れ込んでくる。
「父と子と聖霊の聖名において──」
男は指で十字を切って、
「──エイメン!」と一振りの長剣、アゾット剣の光が現れ、光の刃が豹頭の怪人の胸を貫いた。
「俺の、仕事だと、言っただろう……?」
それは羽村だった。
「羽村……!」
静華は動く羽村の存在を見て、驚きのあまり声を上げる。
「貴様、洗脳もすでに終わっていたはず……!」
怪人は光る刃を掴もうとして、指を全て落としていた。
「女神が迎えに来たんでね」
「なにを言うか貴様……グアッ!」
羽村は刃を上に振り抜く。
途端。
赤い霧がバッと飛び散り、それは人の形をして漂い、中折れ帽とトレンチコートが地に落ちた。
「火を」
「離れて、そしてこれを、羽村」
静華は机の上にあったファイルを数冊全て手に抱えると、羽村に押し付けて呪文を唱える。
「マナよ、光の翼と化さん。我に翼ある靴を与え給え! フライ!』
羽村と静華の体が宙に浮き、洞窟の入り口へと出る。
赤い霧が依然として羽村と静華の周囲を窺うように追ってきていたが、二人は無視する。
洞窟の出口があと少しというときに、どこから現れたのか、黒服の男たちが取り囲む。
「羽村、ちょっと荒っぽいけど静華に掴って──」
「いや、お前こそ俺に掴れ」
「え?」
銀光一閃。羽村と静華の行く手を阻んでいた敵はスパークを残して上下に分かたれた。
羽村のサイコソードは文字通り血路を切り開く。静華は今更ながらに目を見開いて驚愕の色を示す。
「焼け」
「わかってる!」
静華は洞窟を向き直ると口を開く。破壊の呪文を紡ぐ静華。
「マナよ、我が手に集いて混沌の名の元に破壊の王となれ! ファイヤーボール!』
洞窟の奥深く目掛けて打ち込まれた拳大の火球は、赤い霧に火をつけるとともに、その内部から大爆発を起こした。
洞窟が崩落し、弾かれた黒服の人形たちの残骸が崖下へと落ちて行く。
「煙草を持っていないか?」
「もう、言うことはそれだけ?」
爆発を眺めながらの男と女。女の指が男の胸をなぞる。
二人は晴れて、地上へと降り立った。
◇
ここはバー『夜烏』。疲れた鳥が、羽を休める場所だ。
今宵も琥珀色の液体が揺れる。
黒いスーツの女は流れるジャズを聴くでもなく、静かに時を過ごしていた。
期待を胸に躍らせる彼女。
彼女には彼女なりの理由があるのだ。
──置時計が時を告げる頃。
ドアベルが鳴る。
女は顔を上げた。そして女の白く綻んだ顔が柔和に融けて、たちまちのうちに血色が戻る。
黒い男はやって来た。黒い女は喜んで彼を迎える。
黒い女と黒い男。
二人はジャズを聴きながら、静かに琥珀色の液体の揺れるグラスを手に取った。