フィッシャーマン
なぜ、わたしは母の胎にいるうちに
死んでしまわなかったのか。
せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。
なぜ、膝があってわたしを抱き
乳房があって乳を飲ませたのか。
それさえなければ、今は黙して伏し
憩いを得て眠りについていたであろうに。
──ヨブ記 3章11-13節
◇
天上の星々よりも輝く強い光、ネオンの瞬く夜、バー『夜烏』に男がいる。
黒い中折れ帽とこれまた黒いトレンチコートを着た男が今夜も一人、カウンターについていた。
軽快なジャズの調べに合わせるように、マスターが男に琥珀色の氷山を作る。
今、ドアベルが鳴り、スピーカーから流れ出ていたスネアドラムの音が乱された。
マスターが目を向ければ、そこには灰色のスーツ姿の男が一人。
その男はカウンターに付くなり、マスターを見もせずに、その金色の目を黒い男に向ける。
「ミスタ、アルファ」と、手鞄から書類の入った茶封筒を取り出すと、琥珀色の氷山の揺れを小さく抑えた、黒衣の男に向けてカウンターの上を滑らせる。
オンザロックを挟んだその距離は、マスターの言葉「羽村、今度こそ止めておけ」との言葉の届く距離よりも遠い。
しかし黒衣の男、羽村は「一度乗った船だ」と、マスターの言葉に耳を貸さず、海図、瀬戸内の島々を抜ける海図の零れた茶封筒を取る。
羽村はしばらく眺めた後、おもむろに携帯を取り出すと、一連の番号を押す。
コール三回、羽村の耳を打つのは涼やかな女の声、
『──はい、こちら江戸川探偵事務所です』
羽村は開口一番、
「クルーザーを中津港に回せるか?」
『──っ! 羽村!?』
羽村は溜息。
『なにをいきなり! また危険な事なのね? そんな事、止めなさいよ!』
「仕事を決めるのは俺だ」
電話の向こうで息を呑む声、
『中津港は無理ね。リスクがありすぎるわ』
「別の港は?」
『……門司港に明日の18:00、32番ふ頭よ』
「恩に着る」
『~~っ!』
女の吐息が荒くなる。だが、羽村はそれ以上言葉を聞かずに電話を切った。
羽村はオンザロックを一息にあおると、万札を一枚カウンターに置き、席を立ったのである。
◇
サーチライトが夜の海を照らす。レーダーが回る。オールグリーン。羽村はクルーザーを操る黒いスーツの女の隣に立ち、呑気に煙草を吸っては煙を吐き出す。
「静華は今回の件、本当に止した方が良いと──んぐっ!?」
羽村は静華の赤いルージュを奪い、胸に白煙を分けた。ややあって、互いの唇が離れる。紫煙が糸を引いて、二人を繋ぐ。
「……いつも強引なんだから!」
──とはいえ、女は怒ってはいない。
それから。
カンテラの手信号が示す小島の船着き場まで、二人は無言。
男女の間に沈黙と信頼が流れた。
◇
「羽村、一人で行くの?」
「問題ない」
女の問いに、羽村は流す。
「大ありでしょ!」
「俺の仕事だ」
食い下がる女に、突き離す男。
「そんな話じゃなくてね、もう!」
女はそれ以上の追及を諦めたのか、黙して歩みを止めた。
女と別れ、羽村はカンテラで合図を繰り返していた老漁師。彼を前に、聖句を紡ぐ。
「見よ、開かれた門が天にある。
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、
全能者たる神、主。
かつておられ、今おられ、やがて来られる方。
主よ、我に御使いを遣わし給え」
終えると、羽村の背後で光が膨れ上がる。
光は老漁師の目を焼き「なんじゃそれは!?」と、視力が回復して文句を言いだす頃には光はいずこかへと失せていた。
老漁師の船に一人乗り込んだ羽村は、漁師に操船させる。
朝焼けが船の両岸に分かれた二つの岬を照らし出す。
漁師が急にしゃがむと、岬の双方から機関銃の斉射音が朝焼け空を切り裂く。
火花が消えたとき、漁船の窓に飛沫くは命の赤。
同時に、剣持つ天使の光が岸で煌めく。
剣は機関銃の銃身を破裂させ、驚きは対岸へも伝わる。
対岸。そしてその凶行は彼らの身にも事実となってふりかかった。
銃を構えていた男たちの体からはスパークが飛び、おそらくはシールズ社の戦闘員と思われる不埒な者どもであろうか。
彼らは天使の剣にて、無力となっていったのである。
羽村は老漁師の襟首を掴み、すごんだ。
「知っていたのか?」
「ワシにも生活があるんじゃ!」
羽村は漁師を離して突き飛ばす。漁師は船の底に力なく転んだ。
◇
岸に上がった羽村は傷ついた左腕の止血をすると、今だ煙り燻る戦闘員の足元にあったエンジェルダストの詰まったトランクケースを蹴り開ける。そして羽村は、それに火をつけると、灰を海にぶちまけた。
「潰しても潰しても、ウンカのように湧いて来る。奴らの基幹となる拠点はどこだ?」
そして煙の中から立ち上る異形を羽村は見た。
炎と光にエイが浮かぶ。
羽村は中を睨みつつ、黙ってアーミーナイフを引き抜き構える。呼吸を整え、聖句を唱える。
「父と子と聖霊の聖名において──」
痛む左手の指で十字を切れば、
「──エイメン!」と一振りの長剣、アゾット剣が現れる。
虎飛ぶエイは鞭のような尻尾で羽村を打ち据える。
紙一重でかわすなり、尾に一撃。
熱したナイフがバターを切るように切断するかに見えたが、与えた傷は浅かった。
逆に羽村は顎先に尾の一撃を食らい、たたらを踏んで朦朧とする。
苦悶の叫びをあげる敵。
遠ざかろうとする意識の中、その声に羽村は何とか踏みとどまる。
しかし、エイはマントのごとき体で覆いかぶさると、牙を羽村の肩に向ける。
血飛沫が上がった。
羽村は片の肉をごっそり持っていかれた。
が、これは羽村にとって好機でもあったのだ。
同時にエイの背中から光の剣が伸びる。
羽村は力任せに刃を振り切った。
エイの体を引き裂き、二つに割る。
赤き粉として散るエイの体。
羽村は煙草を取り出すと、それに火をつけ一口吸う。
彼は赤き煙に煙草を投げると、赤い霧は激しく燃えて無に還った。
◇
海岸の浜には男が一人、肩から多量の血を流して倒れ伏していた。
黒い女はクルーザーから海に飛び込むと、黒い海をかき分け男の元に泳ぎ着く。
「羽村!」
女の声に男は答えない。
「静華が、静華が何とかするから、何とかしてあげるから、還って来て!」
女の思いは通じたのであろうか。
碧髪を濡らした女の手に抱かれた男が一人。女は慟哭する。
女は男を横たえると、異郷の魔術を行使した。
「マナよ、大地の精よ、大いなる慈悲を持て、この者に命を分け与え給え!』
印を切る彼女の足元に、回転する魔法陣が現れては、男の元へ移り、輝き消える。
男の元に活力がいきわたったはずだ。
されど、男はピクリとも動かなかったのである。
「羽村!」
女は今度こそ叫ぶ。女は男を掻き抱いた。
──だが、男は……!
◇
ここはバー『夜烏』。疲れた鳥が、羽を休める場所だ。
今宵も琥珀色の液体が揺れる。
黒いスーツの女は流れるジャズを聴くでもなく、静かに時を過ごしていた。
無表情に座して何も語らぬ彼女。
彼女には彼女なりの理由があるのだ。
──置時計の時を告げる音。
ドアベルが鳴る。
女は顔を上げた。そして女の白く険しい顔が柔和に融けて、たちまちのうちに血色が戻る。
黒い男はやって来た。黒い女は喜んで彼を迎える。
黒い女と黒い男。
二人はジャズを聴きながら、静かにグラスを手に取った。
◇
──置時計の時を告げる音。
揺り起こされる、女が一人。
「江戸川様、もう閉店の時刻でございます」
「……ん……羽村は……」
「江戸川様、羽村様は本日はお見えになっておられません」
どうやら知らぬうちに寝入ってしまっていたらしい。
しかし、マスターの告げる冷徹な一言が静華の頭の中で繰り返される。
知らぬうち、静華の頬を流れる一滴の涙。
静華は、幸せな夢を見ていたようだ。彼女はカウンターに万札を置いては立ち上がる。
そして。
──静華の開けるドアベルが鳴る。
黒いスーツの女は、夜更けの街に一人融けた。