アーミーナイフとウイスキー
月のない夜。星の代わりにネオンの切れかけたバー『夜烏』の看板が光る。
「苦いな」
今は客とマスターが一人づつ。照明を絞り、『茶色の小瓶』の流れる店内で、蝶ネクタイのマスターはグラスを磨きながら、ただ一人の客、安酒に、そうこぼした黒ずくめの男に目をやった。
男は中折れ帽とトレンチコートのいかにもな男で、何枚かの切りぬかれた新聞記事と破られた雑誌のページをかわるがわるに眺めつつ、ウイスキーをちびりちびりとやっている。
「くだらん」
男は紙の切れ端をわきに除け、残っていた酒を飲み干すように、グラスを一気に空けると席を立つ。
「いつもの口座に振り込んでおいた」
マスターの言葉に、男は帽子をなおしてカウンターに戻る。煙草を取り出し口に咥える。マスターが火、紫煙が流れた。
「仕方ない」
男は煙草を口に、切り抜きをコートの内ポケットに仕舞うと再び立ち上がる。店を出ていこうとした男にマスターは、「羽村」と、呼び止め光る小さなものを投げた。男はそれを軽い金属音と共に受け取る。
「ん」
「お守りだ。駅の四号だ」
男、羽村はそのマスターの言葉を背に、店を出て行った。
◇
深夜、羽村は駅で手に入れたブツを手に、自分のアパートに戻る。そこは外見も部屋の中も、お世辞にも綺麗とはいいがたい、時代に取り残されたような場所だ。羽村はコートを脱ぎ、椅子に掛けると、金魚に餌をやる。
そしてカーテンを閉め、弱々しい裸電球の光の下で彼は駅のロッカーに入っていた、一振りのアーミーナイフを取り出す。軋む板張りの床、流しでナイフに、砕いた岩塩とオリーブ油をかけて、指で十字を切り呟く。
「父と子と聖霊の聖名において、エイメン」
呟きは祈りであった。
◇
カーテンの隙間から朝日が差し込む。固いベッドから身を起こすと、コップに水を一杯次ぎ、喉に流し込む。そして、冷蔵庫から生卵を取り出すと、それを割ってコップに入れた、これを三回繰り返して牛乳を注ぎ、一気に呑み干す。
簡単な朝食を終えた羽村は散らかったテーブル上のゴミをすべて払いのけ、地図を広げる。バーでもらった記事が示す地名に丸印を書き込み、次の事件の発生場所を絞り込んでゆく。
ゆがんだ五角形が浮かび上がり、その中心こそ次の襲撃場所であると思われた。羽村は地図を頭に叩き込む。ベルトにナイフをさし、コートを引っ掛けるとアパートを出る。
五角形を六角形と見たときに示される頂点のある新町。五角形の中心である御影町。羽村は迷ったが、勘を頼りにトランジスタを流しつつ五角形の中心、御影町の四丁目にセダンを回す。
──そして、夜を待つ。
人気のない住宅地、御影町四丁目。今、静かな車の中で、車内が煙草の香りに包まれる。
『──今夜十時ごろ、警察の発表によりますと曽良場市新町二丁目の路上で大型の獣に襲われたとみられる男性の遺体が発見され、男性はその所持品などから曽良場市新町に住む会社員、田辺健一さん、四十八歳と確認されました。田辺さんは会社からの帰宅途中に熊などの大型の獣に襲われたとみられますが、付近の住民からはそのような獣の目撃例は報告されておらず、先日からの猟奇殺人・死体遺棄事件との関連から警察は事故と事件の両面から捜査をしています──』
羽村の耳に飛び込む悪い知らせ。羽村は口に咥えた煙草を吸殻入れに殴りつけるように押し込むと、「ちっ」と舌打ち一つ、セダンを自宅アパートへと回した。
◇
──次の日の夜。
またも人気のない住宅地、御影町三丁目にセダンを停めた羽村がいる。ここが事件発生点を線で結んだ正六角形の中心地なのだった。セダンの前、後ろ、側面と、ここ一時間の間、人影を一人として見かけていない。そして、トランジスタから聞こえる時報の音。
『──夜、十時をお知らせします。プ、プ、プ、プーン。夜、十時をお知らせしました──』
それを待っていたのかいないのか、突如ボンネットが爆ぜた。
金属を曲げる音とともに、男がボンネットの上に振って来た。街灯の明かりに照らされた、その上半身裸の男は拳を握り締めるとフロントガラスを殴りつける。フロントガラスにヒビどころか穴が開く。なんたる怪力か。男は奇声を上げると、何度も何度もフロントガラスに殴りつける。
男が車からフロントガラスを取り去ってしまうのと、帽子の上から頭を押さえた羽村が車外に転がり出るのは同時であった。
「狩りの時間だ」
言うなり羽村はアーミーナイフを抜き放つ。弱々しい街灯の灯りを、刃は妖しく照り返す。男は車の上からフロントガラスを羽村に投げつけると、避ける羽村に向けて躍りかかる。羽村はナイフを突き出して迎え撃つ。男がそれを蹴り上げて、羽村の腕を引いては肩に噛みつく。人ならぬ牙が羽村の肉を傷つけた。
痛みを押さえて羽村はナイフを振るう。ナイフは男の腹に突き立つも、男は痛がる様子もない。それどころか男は羽村の肩を食いちぎらんと、顎に力を入れる。
羽村はたまらずナイフを男の腹から抜いて、男の顔へと叩き込む。ナイフは男の頬から頬に貫通し、羽村は男を肩から引きはがさんと、ナイフをぐるりと回して頬の肉を抉る。これはさすがに効いたのか、男は口が裂けるのも構わずに、力任せに顎を肩から外しては、一声吠える。それは男が血にまみれて放つ、身も凍る人外の叫びであった。
◇
庭の犬が吠える。
「やあね、きっと酔っ払いか暴走族が騒いでいるのよ。喧嘩ならよそでやって欲しいわ」と夫人が言えば、
「警察を呼ぶか?」と旦那が返す。
「よしなさいよ、後で変な因縁をつけられるのは御免だわ」
「ちょっと外を見てくる」
「それこそよしなさいよ。やめてよ。怪我するわ。見て見ないふりが一番よ」と夫人が悟ったようなことを言い、
「それもそうだな」と旦那が同意する。
最近の若者の奇行には困ったものだと、夫婦は寝室の奥へと消えた。
◇
男の奇行を眺めてつかの間、肩を押さえて羽村がほっと一息つけば、男の様子が変だった。男の体から煙が立ち上り、シュウシュウと音を立てて肉が盛り上がっていく。羽村が裂いた口はさらに耳まで裂けて、大きな牙と長い舌がのぞく。筋骨隆々とした体に、額に二つ、角が生え。まるで伝説に言う、鬼そのものの姿と化していた。
「こんな玩具じゃ埒が明かん」
羽村は鬼を前に呼吸を整える。そして、血染めのアーミーナイフを構え、腹に力を入れて呟く。
「父と子と聖霊の聖名において──」
羽村が指で十字を切れば、
「──エイメン!」とナイフの刃が融けて、代わりに光が伸びる。それは一振りの長剣、気の力を刃に乗せたアゾット剣。
羽村が光の刃を化け物めがけて上段に構えると、怪物は力任せに地を蹴った。羽村と鬼の距離、恐るべき速さで距離が詰まる。羽村は構わず刃を振り下ろす。光の刃が鬼の穢れた肉を断つ。
体当たりを狙った鬼の体は、己の力で二つに分かたれる。それは瞬き一つする間の時間の出来事であった。穢れた肉は光の粒子となって消えて行く。残されたのは、体を二つに割かたれた男の獣に引き裂かれたような、死体だけ。
そんな無残な死体を街灯が照らし出す。寒空の下、今だ眠れぬ犬が吠えていた。
◇
曇り空の夜。星の代わりにネオンの切れかけたバー『夜烏』の看板が光る。
今は客とマスターが一人づつ。照明を絞り『ムーンライト・セレナーデ』の流れる店内で、蝶ネクタイのマスターはグラスを磨きながら、ただ一人の客、黒ずくめの男、羽村に目をやった。口元を綻ばせた羽村はグレングラントの五年物を開けていた。