その夢から覚めてはいけない(3)
リコはさっさと柵を跨いで路線内に入っていた。
詩乃も小さな体で柵をよじ登る。
しぶしぶわたしも柵を乗り越えた。
線路に敷かれた砂利の感触を靴の向こうに感じた。
「じゃあ手を繋いで。目を閉じて。ゆっくり歩くから」
詩乃の手は小さくてひんやりしていた。詩乃は線路の方へ歩き出す。引かれるようにリコとわたしも歩き出す。砂利を踏む感触。少し傾斜した小石の足元。次の一歩を踏み出す。こつん、と固い床に思わず目を開けた。
「何処、ここ」
リコも目を開けていた。
「まだ目を開けなくていいのに」
詩乃がつぶやくように言った。
「見なくていいものを見ちゃうよ」
え?
「ダメ、目を閉じて」
詩乃が小さな声で強く言った。
わたしは慌てて目を閉じた。さらに何歩か歩いていくと、また足元の感触が変わった。これは、草?
「目を開けて。手を離しても大丈夫」
ゆっくりと目を開けると見覚えのある場所だと気がついた。あの駅のロータリーだ。歩道の脇の芝生の中だった。
「いったい、なんだったんだ、さっきの場所は」
リコは大きく息をしていた。
「目を閉じなかったんだね、リコ」
詩乃は呆れたように言った。
「当たり前じゃないか。せっかく非現実的なワープしているのに見逃すのは損じゃないか」
「覚醒レベルが上がると、目が覚めちゃうかもしれないよ。息を整えて」
「うん。わかった。それにしてもさっきのはなんだったんだ」
「誰かの夢の廃墟だと思う。教会だったね」
「ああ。けど、椅子に座っていたやつら、みんなゾンビみたいだったぞ」
「だから廃墟だって言ったじゃない。忘れられた夢は朽ちていくだけだから」
よかった、目を開けなくて。リコは大きく深呼吸をして、よし、と声を出した。
「愛理香を探そう」
詩乃はじっとリコを見ていた。
「もう大丈夫だって。さっさと愛理香を見つけて連れ戻そう。そのために来たんだし」
リコは駅の中へと歩き出した。
誰もいない薄暗い駅。
静まり返った入り口。
エスカレーターは止まっていた。階段を上がると真っ暗な改札があった。何度も見たはずの改札。けれど、それはまるで入ってはいけない場所のようだった。リコはそれでも躊躇わずに歩き続ける。改札を乗り越えてプラットフォームへ降りる階段へ進む。月明かりが窓から差し込んで、グレーの景色の中を降りていく。
プラットフォームは薄暗かった。常夜灯だけが線路を照らし出す。
「愛理香」
リコが叫んだ。返事は無い。
「愛理香」
もう一度リコが呼びかけるように叫ぶ。動くものは何も無かった。
「リコ、愛理香はいないんじゃない?」
わたしが言ったけれどリコはプラットフォームを歩き出した。
「愛理香は、あいつは地縛霊みたいなものだと思うんだよ」
地縛霊って・・・
「絶対にここにいる」
「なんでそんなこと言い切れるの?」
リコが振り返る。
「あいつが、ここで人を殺しているから、だ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。何言っているの?リコ」
わたしはリコの腕を掴んだ。リコは立ち止まってわたしを見た。
「愛理香が人を殺しているって何を言っているの?目覚めなくなる前から愛理香を知っているって言うの?」
リコは首を振る。
「違う。愛理香は夢の世界から覚醒するギリギリの場所に居続けているんだよ。あいつはプラットフォームで見知らぬ誰かを引っ張った」
「前にも言っていたよね。何時間か前にプラットフォームで愛理香に出会ったとき。なんのことなの」
「そのままの意味だ。愛理香が腕を引っ張った。現実世界の被害者は特急に撥ねられて死んだ」
「それって、腕が見つからないっていう人身事故のこと?」
「そうだよ。腕が見つからないのは、その腕が現実世界ではなく、こちら側に落ちているからだよ、たぶん」
なにを言い出したんだリコは。
「詩乃、愛理香を探せ。見えてるはずだよね?詩乃には」
詩乃は頷くと暗いプラットフォームを歩き出した。闇の支配する空間に詩乃はなんの躊躇いもなく一人で入っていく。恐怖がじわじわと心の中から浮かんでくる。抑えきれない恐怖が、得体の知れない何かが体のうちから湧き出してくる。
詩乃には一体何が見えているのだろう。
詩乃はこれまで何を見続けてきたのだろう。
あの、死体しか出てこない廃墟と墓場と迷宮の中で、どうして詩乃は一人で平気なんだろう。
でも、むしろリコの方も怖かった。何をどうしたら愛理香が殺人をしたことになるのか、わたしにはさっぱりわからない。
「沙織、そんな顔であたしを見ないでくれる?これは推理の結果なんだよ。何も変な力で真相を暴こうってしてるわけじゃないの」
リコが困ったような顔でわたしを見た。
「シノ、愛理香を見つけた」
急に後ろから声をかけられてわたしは半歩ぐらい飛び退いてしまった。あやうく線路へ落ちるかと思った。
「3人で愛理香を連れ戻そう。シノ、今度は絶対がんばる」
リコが頷く。
わたしはいやだ。
「沙織、今さら何言ってるの。愛理香を目覚めさせないと終わらせられないじゃない。ほら、行くよ」
リコがわたしの腕を掴んだ。詩乃もリコの腕を掴むと「用意はいい?」と言った。景色が一瞬、真っ暗になる。意識が飛びそうな感じだった。
すぐにさっきと変わらないプラットフォームに戻ってくる。
いや、何か違う。
音だ、音がする。
遠くの方から車の走る音がしていた。さーっというタイヤの音。
「だいぶ現実に近い感じだね」
リコが言う。詩乃は頷く。
「もう覚醒ギリギリ。このまま歩いていっただけで目が覚めるようなところ」
「夢から覚めないようにしないと、ね」
リコがそうつぶやいた。詩乃は再び頷いた。
いや、むしろわたしは目覚めたい。もう充分だから。
リコが手を離したのがわかった。わたしは顔を上げた。愛理香が線路を見下ろしていた。
「愛理香・・・」
リコが声を掛けた。
あいかわらずというか、愛理香はこちらを無視している。地縛霊、と言ったリコの言葉が心の中で浮かんできた。たしかに地縛霊のようだった。そこから離れられない魂。
「さあ、愛理香。立つんだ」
リコが愛理香の元へ近付くと、腕を掴んで立ち上がらせた。
わたしはふと、それが愛理香という人間の心でなくても、死んだ人の幽霊で、本当の地縛霊でもそうやって触れられるのではないかと想像していた。現実ではないのに、それは現実である奇妙さ。わたしは混乱しかけていた。
「戻らなきゃいけないんだ」
愛理香が顔を上げてリコを見つめた。
「もう、戻れない」




