シノ(3)
わたしの部屋についた。
詩乃は落ち着かなさそうに立っていた。
わたしは買ってきたペットボトルの紅茶とポテトチップスをテーブルの上に置いた。
「座って、座って」
と言いながらクッションを差し出す。詩乃はクッションの端のほうに座ってバランスを崩して床に手をついた。
「まあ落ち着いて。紅茶でも飲もう」
詩乃は頷くとクッションに座り直した。
「昨日、佳奈と話したんだ、この部屋で」
わたしは独り言のように話し始めた。詩乃は部屋に入ってから、まだ一言も話していなかったけれど、聞いていないわけではなかった。たぶん、何からしゃべっていいのかわかんないだけなんだと思う。
「詩乃は佳奈の見ていた夢の出口が見えるんだってね。だからみんなの手を引いて悪夢から出ることが出来た。だからきっと愛理香の時も詩乃は手を繋いでどこかの出口へ行ったんじゃないかって。佳奈の予想では、愛理香は途中で手を離してしまって夢と現実の途中みたいなところで迷ってるんじゃないかって」
詩乃はじっとわたしを見ていた。
しばらく沈黙が続いたけれど、ようやく小さな声で「わからないの」と詩乃は言った。
「手を離したかどうかわからない。でも愛理香は途中で消えちゃった」
「消えたってどういうこと?」
「いつもなら消えちゃったら目が覚めるのだけど、その時はそうじゃなかった。もう大丈夫だなっていう感じがしなくて、シノは不安だったけど目を開けた。愛理香はまだ眠ったままだった。しばらくしても目が覚めなくて。どんどん不安になって・・・」
「それで北島さんに電話したの?」
詩乃は首を横に振った。
あれ?
愛理香は担任の佐々木が知り合いの医者の車で病院に連れてったって言ってたよね?たしか。
「シュンイチは、勝手に来たの。いつも目が覚める頃に来るの」
「そうだったんだ」
「それで、とっくに薬の効果は切れているはずだ、って言って。愛理香を揺すったけど起きなくて。それで一度病院に運んだ方がいいって言い出して」
詩乃は涙目になっていた。
「それから、起きないの。一度も、起きないの」
「今までに、そういうことって無かったの?」
「なかった。シュンイチが言うには、寝不足でストレスを極度に溜め込んでいた場合に意識を失って2、3日くらいは目覚めないことぐらいあるよって言ってたけど」
「もう4日目だね」
詩乃は頷くと不安そうな目でわたしを覗き込む。
「シュンイチは愛理香の状態について説明してくれたけれど、シノにはよくわからなかった」
「愛理香の親にはなんて説明したの?睡眠薬を飲ませたって言ったらやばいよね」
「慢性的な睡眠不足で意識を失ったんだと思いますってシュンイチは説明してた。睡眠薬って言っても、普通の市販薬なんだってシュンイチは言ってた。ほとんど精神をリラックスさせる程度の効果しかないもので、1時間くらいしか効かないように量を調整してるからって。だからその話は愛理香の両親にはしていない」
「そんな薬で本当に眠れるものなの?実はやばい薬だったとか」
「シノにはわからないけど、シュンイチは嘘は言ってないと思う。たいていはシノに相談に来る子って睡眠不足になってるから。何かきっかけさえあれば寝ちゃうんだよ。大切なのは過敏になっている意識をリラックスさせることなんだとかシュンイチはいつも言ってる。本当はビタミン剤とかでも寝ちゃうんじゃないかって言ってた。偽薬効果?みたいな?」
「睡眠薬なんだって思って飲むだけでも寝ちゃうくらい睡眠不足だって?」
うん、と詩乃は頷いた。
「でもシノにはわかるの。愛理香は夢から覚める方法がわからなくなったんだって。どこかで迷ってるから目が覚めないんだって」
詩乃は今にも声をあげて泣き出しそうな顔をしていた。
誰にも言えなかったんだろうなとわたしは思った。
「そっか。つらいね、詩乃。その話、誰にも言ってないんでしょ?」
「言えるわけない。言っても、信じてもらえない」
「わたしは信じるよ。だからきっと愛理香は目を覚ますって思うよ」
「沙織、シノはどうしたらいい?」
涙声だった。
本気で泣き出すかもしれない。わたしは詩乃がかわいそうに思えてきた。おかしな能力があって、それを頼る人がいて。
それで詩乃は助けてきた。それが初めてうまくいかなくて詩乃は困っている。とても心配しているんだなって思った。
「まあ一度泣いちゃいなよ」
わたしは、そう言って詩乃の横へ座り直した。
「ほら。落ち着くまで泣いちゃった方が冷静になれるかもだよ」
詩乃は一度わたしの顔を見たけれど、すぐに下を向くとわたしの制服の裾を掴んで静かに泣き始めた。わたしは詩乃の頭に手を当てて、よしよしと撫でていた。
詩乃が泣いている間、わたしは頭の中を整理していた。
とにかくここまで関わってしまったのだし、詩乃のためにも愛理香のためにもなんとかしてあげたい気持ちになっていた。
でも、この数日の出来事はなんだか怖かった。
得体の知れない何かが日常のすぐそばで真っ暗な闇を広げていっているような気さえしていた。それはとても怖かった。それについて考えることがとても怖かった。だからずっと聞くだけの態度だったと思う。何か聞いても自分では何も考えないようにしてきた。考え始めてしまったら、もうその恐怖からは逃れられない気がする。
でも、とわたしは思う。
誰かを助けたいと思ったら、そんなことじゃ駄目なんじゃないか。
詩乃が困ってる。
愛理香は夢から戻ってこない。
会ったこと無いけど愛理香の両親だって心配してると思う。
佳奈も心配してた。
わたしにも何か出来るはず。
根拠は、無かった。
無いって言うか、詩乃がわたしに助けを求めたから。
そもそもなんでわたしなんだろうか。
わからない。
でも、今は。
考えよう、と思う。怖いけれど。
愛理香を悪夢から目覚めさせるにはどうしたらいいか。
それと・・・
この伝染していく悪夢をどうやったら止められるのか。
たぶん、その時のわたしは少し中二病だったと思う。不思議少女がわたしを頼ってきて、そしてわたしの制服の裾を掴んで泣いている。これで全てを見捨てて逃げ出したら駄目じゃん。
いっそとことんやってやろうじゃん。
すっごくわたしっぽくなかったんだけど・・・その時はそう強く心に誓ったんだ。