ハナミコの村-5
街灯のない村は薄暗く、冷たい風が山から下りてきている。殺風景な過疎集落の奥地で、この日は特別に、神社の灯りが色濃い橙色を放っていた。
「楽しみだね」
学人と大晴の二人は、数十人の観客と共に、拝殿の前へ陣取っている。境内の隅からパチパチという焚き火の乾いた音が響き、村人たちの吐息に晒された学人の耳を潤わせた。
あらぞめ祭が始まって既に一時間近くが経過していた。これから、メインの神楽の幕が開こうとしている。フラッシュ禁止の立札を確認した大晴が、慌てて一眼レフの設定をいじくっていて滑稽である。
山桜の色合いが判別できるかどうかという暗さになった時、神楽の始まりを告げる太鼓の音が鳴り響いた。
「ちょっと待って、感度が」
「最初から準備しとかないからだ」
拝殿の入り口に垂れ下がった簾が、ゆっくりと持ち上げられる。すると、二つの人影が筋違いに現れた。
二時間ほど前の話になる。
「叱責されることは承知です」
その前置きを告げた相手は、宮司の田辺である。まだ小さな焚き火の周りに、木製の長椅子を設置している彼を、学人は呼び止めた。
「この村に隠されたことは、全て分かったつもりです」
田辺は腰を曲げ、長椅子に手を添えた姿勢のまま、動こうとはしなかった。
「そして田辺さん。あなたの胸の内も」
「……だったら、どうする」
「お二人に真相を告げます。もちろん、その後どうするかは、皆さん次第です。僕が口をはさむ権利はないですから」
学人はできる限り、抑揚のない口調で言った。危機感を捨てて鋭利になってしまえば、人間は意外と何でも物申せるようにできているらしい。
「私の胸中を知って、か。なら君のやろうとしていることは、最大限の皮肉だ。実に馬鹿げている」
「そう思われて無理はありません、ごもっともです。ですから田辺さんの胸中は、お二人の反応を見た後でもう一度聞かせて下さい」
学人は後方へ目を遣った。
「おい……」
手水舎の陰から、藤島さんと出岡さんが現れると、田辺は目を見張った。
「お二人とも、あらぞめ祭の前に真相を知るべきだとお考えです」
「田辺さん、お願いします」
「勝手なことを……」
「嘘で固められた伝統は、また争いを生むかもしれません。私たちも、本当のことが知りたいんです。お願いします」
藤島さんの言葉とともに、二人は頭を下げた。ちょうど巫女装束を着る直前だったらしく、二人とも結わえた後ろ髪を純白の和紙に通している。
「ひとつ訊ねておこう。もし真相によって争いが生まれたなら、君はどうする」
「争いが止むまで、この村で働きましょう。無論こいつも」
肩に手をやると、大晴は「聞いてないよ」と言いたげに狼狽した。だが下手な心配はいらない。それだけの自信が、学人にはあった。
「……もう好きにしてくれ」
田辺はぎいっという音を響かせ、長椅子の真ん中に座り込んだ。
神社の参道には、何枚もの花びらが渦巻いている。学人は一度深く息を吸った。
「六十数年前、この村は抗争の真っ只中でした。原因は、神社で見つかった『藤島家と出岡家が花幟を継承する』との古文書」
学人は説明を続ける。
「そして抗争の最中、押田史雄先生がマムシに咬まれて亡くなっています。彼の残した言葉はこうです。
『紅の村はあらぞめに、花は美しく枯れてゆきました』……内容と筆跡からするに、押田先生が亡くなったのは、あらぞめ祭の前後でしょう」
透明な空気の中に、微かに山桜の甘い香りが混じっている。どうしてかこの匂いが、二人の女性から流れてきているように感じられた。
「二つの違和感があります。ひとつは、押田先生の死因。桜の開花時期とはいえ、マムシに咬まれて亡くなったというのは、至極不自然です」
「他に、妙なことがあるっていうの」
大晴が訊いた。
「『紅の村は』のメモ書きのことさ。それこそ大晴の謝罪文を見て気付いた。薄紅色という文字が目に入ってな。薄紅の山桜を形容するのに、紅って色は濃すぎると思わないか」
「確かに……だけど、それは単なる言葉の綾じゃ」
「俺も最初はそう考えた。でも、『花は美しく枯れてゆきました』の箇所。ここにも奇妙な言い回しがある」
「奇妙って、そこはハナミコの漢字を表す部分なんじゃないの?」
「もちろんその通りさ」
「枯れる……」
その時口を開いたのは出岡さんである。
「桜は、枯れません」
「そう。出岡さんのおっしゃる通りです」
「どういうこと?」
「桜が枯れるとは言わないだろう。桜は散るものだ」
「……ですが、散るという文字だと、ハナミコの漢字が成り立たないのでは」
藤島さんが言った。黒い髪が、柳の葉のように垂れ下がっていて、その一本一本を揺らす姿には、どこか聡明さが垣間見えた。
「そのことは、後ほど説明しましょう。一旦話を戻します。押田先生はどうして亡くなったのか」
木材の焼べられなくなった炎は、徐々に勢いを弱め、パチパチと喘いでいる。一方の田辺は押し黙ったままである。
「答えはマムシです」
皆が訝しげな表情を浮かべた。
「……最高に拍子抜けだよ。早く続きを聞きたいな」
「まだ風呂敷を広げたままだからな。ここからが重要な部分さ。桜とマムシ、一見すると噛合わない。実は自分も、この矛盾を解く何かが、かつてこの村で起きていたのだろうと考えていました。でも違う。ある仮説を立てれば、これは造作もなく説明できることだったんです。あらぞめ祭が元々年に二回あったものだとすれば」
「二回?」
「はい。そもそも花幟を継承するのは二人で、現に今、藤島さんと出岡さんの二人が巫女装束を誂えようとしている。どうせならば両家が主役の祭りが年に一回ずつあった、なんて仮説も決して不自然ではないでしょう。そう、もう一度……例えば九月ごろなら、マムシの動きも活発なはずです」
「九月に……一体どうしてですか」
「ひとつは単純に今から半年後だからで、すると暦は九月の末になります。そしてもう一つ、その季節へ着地できた、その季節だからこそ説明できる、有力な根拠があります」
学人は、女性二人とちょうど向かい合うように立った。
「彼岸花です。それは紅色の花を咲かせ、枯れればあらぞめ色になる。『紅の村はあらぞめに、花は美しく枯れてゆきました』……花美枯の表記は、彼岸花を描写した言葉遊びだったんです」
二人がはっとしたように口を緩めた。その様子を見て、学人は続ける。
「押田先生が村を訪れたのは今のこの時期ではなく、九月だった。恐らく彼は、十方村の歴史を調べ上げ、あらぞめ祭が年に二回あることを見出したんでしょう。本来九月にもあるべき祭のことを、メモ書きに遺した」
「彼岸花か。確かにそう考えれば、辻褄は合うね」
大晴は眼鏡をかけ直し、幾分かすっきりしたように口角を上げた。
「……でも」
ふと呟いたのは、藤島さんだった。
「どうして先生は、そのことを秘密になされたんでしょう」
そう、十方村の謎はまだ半分しか解かれていない。まだ続きがある。
「それには」と言いかけた時、学人は一瞬躊躇い、田辺の様子を窺った。田辺は、一瞥もくれないまま、息を大きく吐いて体を縮めた。その時の学人には、小さく頷いているのではないかと思われた。
「それには理由があります。まず考えてみて下さい。藤島出岡両家が花幟を継承し、あらぞめ祭は二回行われる。つまり、お二人は違う時期に村の象徴となる。そう組み立てるのが自然でしょう」
学人は囁くように「驚かないで聞いて下さい」と口にした。
「結論から話しましょう。ハナミコは一人しかいません……藤島さん、あなたです」
皆の視線が、一斉に藤島さんへと飛んだ。瞠目した彼女は、口を噤んだまま固まっている。
「藤島さんだけが?」
「そうだ」
大晴が矢継ぎ早に疑問を投げかける。
「じゃあ出岡さんは、違うって言うの?」
「表記に従えば、ハナミコが象徴でいるのは、彼岸花の枯れる九月末から桜の咲くまで。だから今日から九月の終わりまで、別の何者かが村の象徴となるはずです」
出岡さんの目は、相変わらず遠方を見つめているような、特有の瑞々しさがある。学人の体は一瞬、滞った。
「ハナミコが一人である根拠は、籠天狗です。どうして天狗を忌み嫌うこの村に、猿田彦の石碑が残っているのか。どうして出岡家だけが、天狗の稲飾りをつくってきたのか……答えは一つです。村では元々天狗が信仰されていた。そして出岡家は、籠天狗の系譜だったんです」
学人は目を瞑った。出岡さんの表情を目にするのも、田辺の挙動を窺うのも、やはり躊躇われたのである。
「籠天狗……」
「そうです。桜が散って彼岸花が咲くまで。恐らく長い歴史の中、それこそ天狗の祠が風に飛ばされたことも手伝って、伝統は色褪せ、ハナミコが籠天狗を追い払う物語へ変わっていったんです。そしてかつてのハナミコ継承争い。押田先生が秘密を貫き通した理由……それは天狗を忌み嫌う十方村で、出岡家が籠天狗の系譜だと、口にはできなかったから」
消え入るような声になったのは、殆ど無意識だった。話を結ぶと、急に風の気温を感じられて、肌が息づいていることが、全身で感じられた。
「それが真相だったんですね」
明でも暗でもない出岡さんの物言いは、するりと耳に入っては、頭のどこかへ消えていく。しかし、ゆっくり息を吸うと、彼女は面持ちを変えた。
「これで、本当のあらぞめ祭を迎えられます」
「いっちゃん……」
「受け入れられますか」
「勿論です」
いつの時も、女性の心理を読み解くのは困難なものである。でも、出岡さんの笑った顔には、不思議と暗幕のようなものが見えなかった。
出岡さんの答えを聞くと、田辺が徐に顔を上げた。
「全て、君の言った通りだ。我々は出岡家に伝えることを躊躇していた。祖父の代からずっとね」
田辺はゆっくり立ち上がり、拳を開くように、表情を緩めた。
「押田という先生がやって来たのは六十五年前。呼び寄せたのは私の祖父だった。この村の抗争を止めるために、あらぞめ祭のことを調べてほしいとね。若いのに、物腰の柔らかい方だったと聞いているよ。でも先生は運悪く、蛇の寝座でマムシ咬傷に遭われた。当時は医療の発達も不十分でね、結局それが原因で亡くなられた……ちょうど、彼岸花の揺れる季節だったそうだ。先生は病床で、祖父に二つのものを遺した。それがあらぞめ祭の真相と、君の見つけたメモ書きだよ。村の争いを考えた時、とても出岡家が籠天狗だなんて言えなかった。だから、メモ書きを大学の書庫の奥に隠して、いつか解明される日、本当の伝統が甦る日を待とうってね」
拝殿に敷かれた畳の上で、女性が二人、片膝をついた姿勢でしゃがみ込んでいる。両脇の花幟は風に揺らめいていて、描かれた幾何学模様は些か奇妙である。
奥方では、宮司が祝詞をあげていた。御蔭だとか八重雲だとか、有り難そうな言葉が時おり聞き取れる。それより、相撲の行司のような声音が、あの田辺宮司から発せられていると思うと驚かされた。
祝詞が締められ、俄かに拍手が起こると、笛の音がのせられ、手前にいた女性が立ち上がった。
緋袴を揺らし、舞を披露するのは、藤島さんである。稲飾りを両手に持ち、くるくると回転したかと思うと、足を止め、祈りを捧げるように、そっと目を瞑った。身に纏った千早は、まるで自ら藤島さんを包み込むように、ふわりとぶら下がっている。
次に一歩踏み出した時、稲飾りの穂先が鼻先をかすめて、彼女は一瞬苦笑したが、すぐに口元を締めた。そして、ぱっと目を開けた。とても凛々しい表情である。
背中を向けると、藤島さんは本殿に向かって一歩二歩と進み始めた。稲飾りを八の字に三度ほど振り回した時、奥にいたもう一人の女性が立ち上がった。
出岡さんも緋袴を着ている。しかし、白衣の上には黄金色の薄絹を纏い、頭は白頭巾で覆われていた。そして白頭巾に被さるように、赤い天狗のお面が、斜め上を向いており、彼女の顔を幾分か隠している。
出岡さんと藤島さんは向かい合い、互いに両手を広げた。太鼓が足早に三度ほど鳴らされると、二人は歩み寄り、ハナミコの持つ稲飾りは籠天狗の手に渡った。
「春になったね」
隣で大晴がそんな口を聞いた。
「写真、撮らなくていいのか」
「少しは肉眼で見させてよ」
今度は出岡さんが、稲飾りを振り回す。髪の毛は全て頭巾の中へ隠され、彼女の透き通った耳元が窺える。
「ほら、回れえ」
背後から大声を出す人があった。ゆったり両手をあげ、水面の葉のような速さで回転する二人は、少し恥ずかしそうである。声をあげたのは征義さんだった。
「どうだい、あらぞめ祭は」
「日本の美を感じます!」
「よし、君も声をかけてごらん」
実は学人が推理を終えた時合、「いいかい」と言って征義さんが現れた。
出岡さんが「天狗になります」と決断を下した時、村の皆に顛末を伝えて来よう、と申し出てくれたのは、征義さんだった。
「回れ回れー」
神楽ではあるが、客人が正座で見守るような、厳かな雰囲気はなかった。日本酒のカップを片手に、「えいやえいや」と音痴な合いの手を入れる人も出始めている。
「学人は言わないの? 回れえって」
「俺は遠慮しておく」
「せっかくなのに」
「明日帰るんだ。顔をよく見ておきたい」
村人たちは予定と違う神楽に臆することなく、喚声を上げたりしながら、参道へ雑踏をつくっている。暖色の境内の中、そのまま三月のあらぞめ祭は続いた。
黄色いタクシーが、十方村の入り口近くに停まっていた。強風で飛んでしまったかの如く、昨夜の喧騒は消えてなくなり、村は静けさを取り戻している。
旅行鞄を抱えた大晴は、俯いていた。
「二日酔いは辛いよ」
「車、乗れるか」
「それはこの鞄よりも荷が重いね」
「別に上手くないからな」
所々に見える薄紅色の山桜は、心なしか昨日よりも寂しく映る。代わりに、朝日に揺れる春の生命たちが、一段と鮮やかに、呼吸を始めているように思えた。九月には彼岸花が咲き誇っていることだろう。
「二日間、お疲れ様でした」
「いいえ。よそ者が振り回してしまったようで」
「とんでもない、お陰で真相が分かったんですから。名推理でしたよ!」
藤島さんはにこやかに言った。
「名推理でしたよ! だって」
「……そんなこと言っていいのか」
無駄な煽りである。寸刻の後に大晴は萎縮してしまった。なぜかと言うと、藤島さんが右手を構え、「叩いて差し上げましょうか」と言わんばかりに笑っているからである。酒の席でのことは許されたようだが、この短期間で二人の立場は完全に固定されてしまったらしい。
「僕は先生の足跡を、なぞっただけです」
「それでも」と藤島さんは言うが、押田先生の言葉がなければ、十方村の伝統は永遠に眠ったままだったはずである。学人は、十方村の踏査報告に、押田先生の名を記すと決めている。
「出岡さん」
「……はい」
「本当に、良かったんですか」
「ええ。もやもやが晴れましたから」
「今日から、いっちゃんが村の守り神様ね」
「……でも、籠天狗さんって呼ぶのは、よして下さいね」
「心配要りませんよ」
出岡さんは少しばかり身を屈めて笑っている。一昨日から比べたら、ずいぶん生気のこもった表情であるように感じられる。
「田辺さんも、内心では喜んでいるでしょう。本当は、糸美さんの訪れを待っていたのかもしれません」
「あと、岡田大晴のこともね」
藤島さんが素早く「そうですね」と相槌を打つと、ささやかな笑いが起こった。
その余韻の中、ふと十方村を仰ぎ見た。小さな集落ではあるが、成ろうことなら、数十年先も同じ景色が残っていてほしいものである。
「それでは、電車の時間があるので」
「……はい」
タクシーのドアに手をかけながら学人は軽く礼をした。二人の女性は姿勢を正し、腰の高さで手を結ぶと、ゆっくり頭を下げた。
「また、半年後に来ます」
そう告げるのが、何だか少し寂しいような気もした。
タクシーがゆっくりと発進すると、二人の姿が徐々に小さくなっていく。花はいつの季節も、美しく枯れてゆくものなのかもしれない。そう思える春のひと時だった。