ハナミコの村-2
十方村の謎が露わとなったのは、二人のハナミコが揃って間もなくのことだった。
「ハナミコは古くから継承されてるんだ。まあ歌舞伎役者のようなもんで、戸籍上の名前はちゃんとある」
「すみません。村にいる間は、外部の方に本名を名乗れない仕来りになっているんです」
藤島さんが言った。なるほど妙だとは思っていたが、ハナミコというのは雅号らしい。彼女によると、
「ハナミコの村歩き」と言って、祭りの前日に着物で村中の家々を訪ね歩くのが、慣例となっているそうだ。
四本足の卓袱台の対面で、征義さんを挟み、二人のハナミコが座した。着物の配色は似ているものの、漂う雰囲気は面白いほど異なっていて、まるで左右の半身が別の気温を浴びているように感じられる。一方で、征義さんの度重なる冗談を、藤島さんが諌め出岡さんは微苦笑する、という図式が出来上がっているから、仲睦ましい様子も窺えた。
「明日のお祭りって、屋台とかも出るんですか?」
大晴が身を乗り出した。ハナミコ同士が顔を見合わせ、予想通り藤島さんが口を開く。
「小さなお祭りなので、そういうのは出ないんですよ」
「そいつは残念です」
そういえば大晴は部類の好色家である。彼はそれらしく、親指と中指でパチンと乾いた音を響かせた。
「あらぞめ祭は無病息災を祈る、言わば神楽のようなものですから」
「その主役が、二人のハナミコさんというわけですね」
学人は言った。調子づく大晴を咎めるような、落ち着いた物言いである。
「二人のハナミコ、か」
「ええ」
「……このことは話しておかないとな」
俄かに征義さんの顔が曇った。大きく息を吸い込んだかと思うと、蝶々結びのように腕を組んでいる。
「ハナミコは本来一人のはずなんだ」
「一人?」
「ああ。君、糸美君だったなあ。藤島さんと会った時に、男の人を見たろう」
「はい。少しだけ」
「彼は田辺泰成と言って、村の神社の宮司なんだ。少し言いにくいが、君たちが十方村を訪れると聞いた日から、お冠の様子でね」
「確かに、遠目でもそんな印象を受けました。でもどうして……」
恨みを買うようなことはしていない。罪状は何であろうか、征義さんが続ける。
「少し長くなるけどいいかい? ……六、七十年前のことさ。神社の倉庫からとある古文書が見つかったんだ。書いてあったのは、二つの家が花幟を継承するってことだった」
「花幟というのは、あらぞめ祭で掲げられる旗のことです」
藤島さんが付け加えた。
「その二つの家というのが、藤島家と出岡家さ」
何だか話が込み入ってきた。二人のハナミコは神妙そうに頷いている。
「だが伝統に従えばハナミコは一人。案の定、古文書が原因で藤島派と出岡派の対立が起きよった。当時はハナミコを出した家が、村の長になるって仕来りがあったからな。それこそ血みどろの争いさ。最終的には中立の家の中からハナミコが選ばれたんだが、争いが引き金で多くの者が村を去ってしまった」
加えて征義さんは、先代ハナミコも昨年亡くなってしまった、と寂しげに伝えた。
「田辺さんが僕らを毛嫌いするのは、その争いに原因があると」
「まあ宮司って立場もあるだろうなあ。せっかく丸く収まったことを、根掘り葉掘り調べられるんじゃないかと、懸念してんだろう。悪いなあ」
「いいえ、田辺さんの気持ちも分かります。それより」
藤島家と出岡家はかつて犬猿の仲だったのだろう。学人の視線は、二人のハナミコの間で行き来した。
「……ひとまず安心はして下さい。今の私たち、藤島と出岡の間に蟠りはありませんから」
藤島さんは「ね」と言うと、出岡さんの横髪をそっと引っ張った。出岡さんは、フクロウのように無表情で首を捻ったかと思うと、少し間を置いて、「こんな風です」とはにかんでいる。
「村社会の解けた今、古文書に従おうということになって、私たちが次なるハナミコに推されたというわけです。でも、本当にハナミコが二人いていいものか、私たちも思いあぐねています」
藤島さんが口にする間、出岡さんは三回ほど頷いた。
あらぞめ祭は明日の夜である。
学人と大晴は二階の和室へと通された。来客用の部屋だから遠慮なく使ってくれと言われたが、床の間に陶器や掛け軸が飾ってあって、旅館のような佇まいである。
ゆっくり窓を開け、学人は村を一望した。十方村には二、三十軒ほどの木造住宅が散在している。軽トラに段ボールを積み込む夫婦の様子から察するに、村全体が俄かにざわつき始めているらしい。
明日、あらぞめ祭が催される。征義さんの話では、五百年も脈々と続けられてきた、村で一番大切な行事だそうである。そして二人のハナミコ。五百年のどこを切り取っても、ハナミコが並立する事態は異例だろう。言葉は悪いが、一体どちらが「本物」なのだろうか。昔のような軋轢は存在せずとも、住民たちの釈然としない胸中は燻り続ける。
二人のハナミコは今、一階で化粧直しをしている。夜はこの家で前夜祭を行うそうだ。
「そろそろ話を訊きたいな」
後ろ手に大晴が言った。窓を閉めて振り返ると、部屋の真ん中で胡坐をかいている。
「俺が見つけた方の謎か」
「学人は、ハナミコさんのことを知らなかったんでしょ?」
「存在すらもな。だから、最初は杞憂なことだと思っていた」
「その言い回しだと」
「ああ。どうも難しい話になりそうだ」
好奇心の強い大晴が前のめりになった。その姿勢に促され、学人はメモ帳を取り出す。
「十方村行きが決まった後、俺はすぐに学部の書庫へ出向いた。まあ予習のためだ。研究室の先生が言う通り、十方村に関する資料は品薄だったが、帰り際に偶然、十方村のことが記された古いノートを見つけたんだ」
「ほう」
「ノートには押田という署名があった。そこでウチの准教授に話を訊くと、奇妙なことが分かったんだ。六十何年か前に、同じ名前の先生が、この十方村で変死しているらしい」
「変死!」
「ああ。死亡の経緯は伝わってないが、押田先生は、民間伝承とかそういう類のものを、専門に調査していたそうだ」
「なるほど……時期的には、例の抗争とぴったり重なる」
大晴は固唾をのんで聞いている。どうもやり辛いが学人は続けた。
「そしてノートにあったのは、『今日の日』と題されたメモ書きさ。そこにはこう記されていた」
部屋は驚くほど静かである。風の吹く音が、村の夕方を駆け抜けている。
『紅の村はあらぞめに、花は美しく枯れてゆきました』
ノートの文字列を思い出す。斜めに傾いた筆跡はとても弱く、罫線の牢屋に閉じ込められているようだった。死の淵の人間が、身悶えながら書いたと思われる文字である。
「あらぞめ……あらぞめ祭のことか」
「少し引っかかる文言だが、さっきの話を聞いて確信した。そしてあらぞめ色ってのは、ピンクがくすんだような色らしい」
「花びらの散った色ってわけだね」
大晴は敷居が低く剽軽な男だが、それでいて意外と頭が回る。こういう時、学人はこのだらしない見て呉れの男を、できる奴だと思えるのだった。
「押田先生はどうして亡くなったのか」
「ひょっとすると、田辺って宮司の人は」
「ああ。何か知っているのかもしれない」
「鍵を握るのはその人かあ」
大晴は体勢を戻し、腕組みをした。確かにこれを解くためのピースはあまりに少ない。
「押田先生の死については、征義さんにこっそり訊いてみよう」
夜。征義さんから有力な情報は得られなかった。
「押田……さすがに知らないなあ。先代のハナミコさんが生きてりゃあ、何か分かったかもしれないが」
「そうですか」
酒の席で、暗い話を持ち出すのは躊躇われたが、征義さんは快く答えてくれた。故に学人はそれ以上のことを聞けはしなかった。
一番広い和室で、征義さんと二人のハナミコ、加えて村の者が五名ほどテーブルを囲っている。
「君らも、ハナミコ様に邪気払いしてもらやいい」
村の者が二人に言った。すると大晴が「喜んで!」と手を挙げる。
「籠天狗が悪さをしたらいかんからなあ」
「天狗?」
あらぞめ祭は無病息災を祈る催しと聞いていたが、天狗の話は初耳である。
「籠天狗は悪いやつでなあ。泉を荒らしたり、家の屋根に穴をあけたりするんだ。十方村は年中困り果てよった」
征義さんがしゃがれた声で説明した。畑仕事をしてきたらしく、作業着のいたる所に茶色の染みが付いている。
「面白い昔話ですね」
学人がそう言うと、征義さんは微かに表情を曇らせた。
「……実は、昔の話でもなくてな。三日前に俺の畑が荒らされていたんだ。あれは猪の仕業じゃあない。猪ならそこら中を掘り返すだろう」
あれは天狗がやった、とでも言うのだろうか。それは少し胡散臭い。
思案していると、征義さんの顔元が緩んだ。
「あれはカラスの仕業だな」
征義さんの一言で、卓周りはどっと笑いに包まれた。
「なんちゃって」
「カラスって」
「へへっ、空豆が食われてた。悔しいもんさ」
「そうでしょうね」
「まあともかく、籠天狗の言い伝えがあるのは確かなんだ。で、そいつから村を守ってくれるのが、我らがハナミコ様だ」
征義さんは酒に酔った勢いで手を大きく叩いた。二人のハナミコが目を合わせてから一礼する。親戚の集まりのような雰囲気である。
「ハナミコが居るこの村には天狗が襲って来ないんですよ」
藤島さんが赤面しながら言った。征義さんが「よっ、守り神様!」と発すると、横にいた大晴が「僕らも守って下さい!」と冗談を言う。恥ずかしい。
前夜祭も終わりに差しかかった頃、学人は手洗いのために縁側へ出た。熱のこもった室内に慣れた後では、稜線の風に吹かれているような冷たさを感じた。
「お楽しみ、頂けてますか」
か細い声が、しかも背後から聞こえてきたものだから、学人は卒倒した。
「ああ、はい」
振り返ると、縁側に座っていたのは出岡さんだった。
「出岡さんも藤島さんも、昔からこの村に?」
「はい……」
暖色の灯りが彼女の横顔をそっと照らし、向かいの壁に大きな影が映っている。その時、学人は初めて彼女のすっとした鼻筋に気付いた。
「藤島さんは一つ年上なんですが、よく私を、遊びに誘ってくれました」
「元気そうな方ですよね」
「いつも、助けてもらっていますから」
そう言って出岡さんは笑った。ひょっとすると、二人のハナミコという事態を憂いているのかもしれない。彼女の雰囲気から察するに、気負いを感じているような気がしてならない。
障子の中からの喧騒で、夜はいっそう静まり返っていた。
「……糸美さん?」
で良かったですか、という体裁の語調に、学人は「はい」とだけ返す。
「糸美さんはどうしてこの村へ?」
「実は昔、うちの大学の先生がこの村を訪れていたようなんです。直感ですけど、その人が何か重要なことを知っていたような気がして……」
まさか研究室の皆に押し付けられた、などと言えるはずもない。
「解明したいんですね」
出岡さんは真面目な顔でこちらを見た。
「よそ者が言うと、滑稽ですか」
「……いいえ」
彼女は庭先を見つめた。
「できることなら、私も全てが知りたい」
彼女は庭先を見つめた。沈みゆく夕日を終わりまで眺めているような、儚げな表情である。その時、根拠は乏しいが、「このままあらぞめ祭を迎えてはいけない」と記された紙の切れ端が、頭の中を飛び交った気がした。
「自分は明日、フィールドワークの意味も兼ねて、村の歴史を調査してみようと思います。結果を楽しみにしていて下さい、ハナミコさん」
「ハナミコ……」
その四文字が出岡さんの口から聞こえると、学人は一瞬だけ妙な引っかかりを覚えた。