帰ってきたおっちょこちょい
俺の部屋…か。ぐるりと見回してみる。
うん、ついさっきまでと全然変わらない。PCはそのままだしクッションに冷蔵庫、カーテンも同じ物。いや、微妙に違っている部分もある。
買い置きの食べ物が見当たらない。常備していたカップラーメンやチョコ、ポテチ等の菓子類もだ。
すると冷蔵庫の中身はどうなったんだろう?
冷蔵室の取手に手をかけ、グッと力を込めて扉を引いた。
「えっ?なんだこりゃ。」
俺の手は確かに冷蔵庫を開いている。しかしそれに重なって、開かれていない冷蔵庫もそこにある。
これってもしかして冷蔵庫の…霊?生物でも無いのに霊なんてあるのか?すると、さっきまでの部屋も霊だった?…いや少し違う気もするな。
この重なっている冷蔵庫の霊を通して空っぽの中身が見える。どうやら電源は入っていないらしく真っ暗だ。
PCもランプが着いていないので玄関まで行ってみると、なるほどブレーカーが落ちていた。
一見何も変わっていない様でいて、よくよく見ればあちこち違いがある。かと言って他の誰かが使っている訳でも無さそうだ。
おかしいな?まさかこの部屋って放置されているのかも。いや、そんな…まさかな。
俺は死んでから一体どれ位の時間が経っているんだろう?皆から忘れ去られたりしてないよな?それは流石に嫌なんだが。
思わず「ははは」と乾いた笑いが出た。こうなれば開き直って皆の様子を見てやろう。忘れちまった奴は背後から小突いてやろうかな?なに、どうせこっちの姿は見えないだろう。
…まさか死んでまで空元気を出す事になるとは思いもしなかった。
一度大きく深呼吸して、今度は玄関のドアを開けてみる。
触ってみるとやはり冷蔵庫と同じ様に重なった霊のドアがある。ご丁寧に鍵まで全く同じだ。
開くと安っぽい音がするのも一緒。
靴に足を入れるとやはり靴の霊が履けたので、そのまま部屋の外に出てみた。
やはりここはさっきまでのヘンテコ空間とはまるで違う。光、音、そして何もかもがはっきりした形を持つ刺激に満ちた場所だ。
自転車に乗った学生や駅へ向かうサラリーマンが見えるので、ぼやぼやしていて通勤通学の時間になったらしい。太陽もすっかり登っている。
さて、とりあえず一番気になるのは自宅だな。そこから会社を回って後は…。
いやその前に部屋の戸締まりはどうしよう?幽霊が施錠するなんて聞いた事も無いし、怪談なんかではだいたい神出鬼没なものだ。
…そうだ!壁なんかもすり抜けたり出来るのが幽霊ってもんだろ?
試しに思いっきり壁を叩いてみた。右正拳突きだ。
「うおぉぉぉぉ!」
パコッ
右手はすり抜けるどころか信じられない程情けない音を立てて壁に弾き飛ばされた。そして激しい衝撃!痛くは無いのだが、その代わりにじんじんとした強烈な痺れが拳から腕へと伝わって来る。
「…んんっ???」
痺れは全身に回るとそのまま体全体から発散される様にして消え去った。
「う、うん。かっ壁抜けは…出来無さそうだな。」
誰かに見られる筈も無いのに妙に恥ずかしい。
それにしてもある意味不満だ。幽霊って壁を抜けたり空を飛んだりとか、もっと自由な物だと思っていたけどこれじゃあ生きている時とほとんど変わらないじゃないか。
ジーンズのポケットをまさぐると鍵の束が出てきた。これも生きている時に使っていた物と同じで、落としてもすぐ判る様に鈴の音が鳴るマスコット人形も一緒に付けてある。
霊のドアを閉めるとしっかり施錠してアパートの階段を降りた。
一瞬ここから飛んでみようかとも思ったが、壁抜け失敗の二の舞いは御免だ。
申し訳程度に付けられた屋根がギシギシと音を立てているが勿論これも霊の階段の話。でもかなりの音量なんだけど、これでも霊にしか聞こえないのだろうか?もしや…まっ良いか。
階段の裏には駐輪場がある。数台の自転車に混ざって俺のスクーターも停めてある筈なのに見当たらない。自分でもどうしたのか覚えていないし、まさか処分でもされてしまったのだろうか?
そう距離も無いし、とりあえず徒歩で自宅まで行ってみよう。
空き地や建物は記憶とさして変わらない。が、青々とした街路樹はやけに懐かしく感じる。
体がやたらと軽いのは霊だからなのか?自然と小走りになっていたが疲れる気配も全く無い。
段々と自宅に近づいて来ると、更に複雑な想いが胸にこみ上げる。
これは学生の頃よく待たされた信号機。
あれは子供の頃、小銭を握りしめて買い物に来た駄菓子屋。
よく吠える犬の居る家もある。ああ、今も吠えてやがる。
そして自宅…俺の家。
よく乱暴に閉めるなと怒られた玄関。その横にある花壇には母自慢の草花が植えられているが、手入れが大変なのか少し萎れかけている。
何にしても懐かしい我が家だ。
しかしここで足が止まってしまった。こうして帰ってこられたのは正直に嬉しい。嬉しいのだが…やはり肝心な時にいつも俺は二の足を踏んでしまう。
あちこちの家からドアの音がして人間が出て来た。よくある朝の風景だ。
近所の主婦が集まって毎朝恒例の井戸端会議を始めている。この人達は噂話ばかりしているので余り好きでは無いけれど、今ばかりは顔を見られて良かった。
ーこれで満足。そうしよう。
自宅に背を向けて歩き出した瞬間、聞き覚えのある鈴の音がして思わず振り返る。これは俺の鍵のマスコットと同じ音…もしや妹か?
「おばさん、おはようございます」
「あら、聡美ちゃん学校?おはよう」
「いってらっしゃい」
気が付けば妹と同時に会釈をしていた俺は、やはり兄妹らしい。ただし誰にも見えていない筈なのに挨拶したのはちょっぴり間抜けだったかとも思う。
俺は妹の側に駆け寄った。グレーのスカートにシャツ、これは高校の制服だ。
久し振りに会った妹は見た目も記憶とそう変わらない気がする。おそらく俺が迷惑をかけたと思うのだけれど、しっかり者の妹に限って留年等はしていないだろう。
…という事は俺が死んでそう時間も経っていない証拠でもある。
元気そうな妹の姿が嬉しくて涙が出そうになるが、そもそも幽霊って泣くものなんだろうか?こんな時でもいちいち余計な事を考えてしまうのも俺の悪い癖だ。
学校へ向かう妹を見送ると、今度こそ自宅に入る決心をした。こうなったら親の顔も見て行くか。
すると主婦達の話が耳に入ってきた。
「いやぁねぇ、ニコニコしちゃって」
「まだ一年経たない位でしょう?お兄ちゃんが可哀想よねぇ」
お兄ちゃんって俺か?するとこれは妹の事…だよ…な?
いや待て、ちょっと待ってくれ。部屋といい今の話といい。
まさか…まさか本当に、俺は家族から忘れ去られているのか?