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1-3

その人は、乾杯から十分ほど遅れてやってきた。

予め告げられていた交流会の会場は、渋谷センター街の中にある、中規模の居酒屋だった。

参加者は新入生と上級生合わせて30名ほどで、一区画のテーブルを全て占拠するような形になっていた。

僕とその他の新入生は、まだ緊張が解けないので、同席した上級生に話の主導権を握ってもらいながら、運ばれてきた酒を飲み、料理をゆっくりと口にしていた。

少し離れたテーブルに座っていた北沢さんが立ち上がり、皆に声をかけた。すでに起こっていた喧騒を静める、大きくはっきりした声だった。

「えー、みなさん。遅れてきた最後のメンバーが到着しましたので、紹介しまーす」

皆が一斉にそちらの方を向いた。僕もそれに合わせた。

そして、固まった。

「新入生の皆さん、初めまして。私は湯島弥生と申します」

外見から動作に至るまで、全てが整って美しい、そんな女性の姿がそこにはあった。

どこかのテーブルからは歓声が起こった。男子のものだったと思う。無理もない、その人は美人という言葉では言い表せないほど美しかった。

木管楽器の音色を思わせる透き通った、それでいてはっきりとよく通る声で、彼女は挨拶をした。ぺこりと頭を下げるその姿も端麗だった。

そして湯島さんは、北沢さんに案内されて、近くの空いているテーブルに腰を下ろした。

僕はそれからしばらく、その人の方から視線を離せないでいた。

数時間前、ヒーローマスクの下から現れたのをこの目で目撃した、その美しい顔から。


開始から一時間ほどが経過し、会も順調に盛り上がりを見せていた。

上級生を中心に、席の移動が行われ始めていた。新入生でも積極的な人は、同じように別の席に座るメンバーへ話しかけにいっている。

僕はそのまま席に座っていた。気力が落ちていたのだ。僕は酒を飲むと気分が落ち着くように酔っぱらう体質のようだった。初めて酒を飲んだのは、親戚一同で行われた僕の合格祝賀会だったが、周囲の親戚たちが酔っぱらって会話を弾ませる中、僕は一人静かになってしまい、居心地の悪い思いをしたものだった。

だが今席移動をしないのは、それだけが理由ではなかった。僕はずっとその人の事が気になって仕方なかったのだ。

視線の先にいる人、湯島弥生さん。

その周りには、多くの男子学生が集まっていた。どんな話をしているのかまでは聞こえないが、絶えず微笑みを浮かべていて、実に楽しそうだった。

端から見れば、普通の人よりも遙かに美しい女性。

そんな彼女が、少し前まで手作り感満載のヒーロースーツを着て、東大のヒーロー・トーダインになりきっていた。とても信じられるものではない。

彼女と同期の人はその事を知らないのだろうか。挨拶の時に本人の口から言われることは無かったし、紹介した北沢さんからもその事実に触れられることはなかった。

ふとさっきの事を思い出した。素顔を見られた湯島さんは「見なかったことにしてください!」と僕に土下座してきた。つまり彼女はヒーローをやっている事を隠している。

僕はそんな秘密を知ってしまい、しかも秘密を隠した状態の本人を目の前にしている。一体どうすればいいのか。やはり他人には話さないほうがいいのだろうか。そもそもどうしてヒーローの中身なんてやっていたのだろうか。考えても答えは出そうにない、思い切って本人に聞いてみようか。

しかし酒が入ったせいで、思考の速度はかなり落ち始めていた。僕の脳はぼんやりとその事を考えることしかできなかった。

「ほーんごうくん」

そんな僕に、妙に語感の延びきった、甘い声がかけられた。酩酊状態の僕は、反応を返すのが遅れてしまった。自分の方をぼんやりと見つめる僕を不思議に思ったのか

「あれぇ、私のこと分かるよね?大前晶だよぉ」

「あ、あーあー、大前さん、さっきはどうもです」忘れていたわけではない。反応が遅れただけだ。

大前さんの小さい顔は赤に近いピンクを帯びていた。大分酔っている。そんな彼女の片手にはウイスキーと思わしき液体が半分くらい残っている。そして僕の隣の席に座り込んだ。さっきまでは同期の男子が座っていたが、いつの間にか別の席に移動してしまったようだ。

「本郷くん、あの人のことずっと見てたよね!」

「え、あの人って・・・?」

「とぼけないでー!あのスッゴい美人さん、名前は・・・そうそう湯島さん!確かに私から見てもスゴく綺麗な人だと思うよ!私の席に座っていた新入生男子、みーんなあの人の近くに行っちゃったし。やっぱり男子は美人が好きなんだ!うー、悔しいよー!」

グラスの中身を口に運びながら、怒りを含んだ語調で、大前さんは迫ってきた。オリエンテーションで可愛らしく座っていた人と同じ人とは思えない。酒はここまで人を変えてしまうものなのか。

彼女の美しさに全く惹かれていないと言えば嘘になる。

僕は気圧されながら、ただただそれを聞くしかない。しかし悪い気分ではなかった。大前さんが

「やぁ、楽しんでくれてますか」

しかしそこに、さらに別の声が入ってくる。

北沢さんがジョッキを片手に、僕と大前さんの会いだに入ってきた。喧騒の中でもよく通る爽やかボイス。その顔は若干赤みを帯びているが、落ち着いた様子で、特に酔っているという印象は無かった。

「先輩!きいてくださいーみんなが湯島さんの方ばっかり見るんですー!美人だからー」

「大丈夫、キミも十分に可愛いから」

「・・・」拍子抜けといった表情を浮かべ、大前さんは無言でグラスに口を付ける。なるほど、これが先輩の返しと言うものかと僕は勝手に納得した。

「ねぇ君たち、ちょっとだけ話をさせてもらっていいかな?サークルの話なんだけど」大前さんが黙ったのに合わせて北沢さんは話し始める。

「実は僕は、東大ドリームクラブっていう学生団体のリーダーをやっているんだ。ドリームクラブなんて名前は胡散臭いかもしれないけど、別に宗教みたいな怪しいことはしていないよ。学生の夢を具体的な、きちんとした形で応援する団体なんだ」

「何それ何それ!」大前さんが見事に食いついた。

「大学時代は4年、院に進んだり留年したりすれば」

大前さんは赤べこのように首を動かしながら、北沢さんの話に聞き入っていた。北沢さんも彼女の反応が嬉しいのか、話し方に熱が入り始めていた。

僕はすっかりと居場所をなくしてしまった。同じテーブルを見回したが、すでに新入生同士での会話が弾んでいて、そこに参加するのは難しそうだった。

人との関わりが無くなったとたん、思い出したように尿意を感じた。

誰にも気づかれないようにすっと立ち上がり、トイレへと向かった。席からは結構離れた場所にあるトイレまでの道のり、少しだけ足下がふらついた。


冷たい空気の漂うトイレの中で、少し気分が落ち込んだ。心の中にモヤモヤが溜まっていた。

楽しげに話している中に再び入れるのかどうか、不安な気持ちがあったのだ。戻ってもまた一人寂しくなりそうな、そんな不安があった。

何より元の席に戻れば、そこで待っているのは自分のサークル活動について優しげに話す北沢さんと、それを赤い顔で楽しそうに聞く大前さんの姿だろう。それを思うと余計に心の曇りが増していく。

手を洗って鏡を見た。日向の猫のように眠そうな表情を浮かべる自分の姿。僕はそこに言い聞かせた。こんなところでグチグチ悩んでいても始まらない。とりあえず席に戻ろう。席に座っていれば、誰かが話しかけてくれるかもしれない。話しかけてくれなくても、勇気を出して会話に参加すればいいだけだ。

勢いづいた僕は、少し力を込めてトイレのドアを開けた。

そして外に出たとたんに、声がかけられた。僕の勢いは一気に静まった。


ドアを開けたそのすぐ目の前に、人の影があった。

忘れもしない、その顔。

「うわっ・・・」

声を上げようとした僕の口に、アイアンクローを食らわせるかのように右手を突き出し、彼女は僕の口を押さえ、そのままトイレのドアにゆっくりと押しつけた。ガタンという小さな音が鳴る。

僕を含め、新入生たちの視線を独り占めしていた存在。

湯島弥生さんが、トイレの近くの薄暗い空間の中で、僕を壁に押し付けている。外見は同じなのに、雰囲気はさっきまで新入生相手に優しく微笑んでいた人と同じものとは思えなかった。

冷たさを帯びた彼女の右手に包みこまれる感触が、僕の顔を覆う。しかし心の中は混乱で満ちていた。どうして、一体どうして。

「静かにして・・・二人きりで話すチャンスを狙ってたんだ」

言葉とともに、彼女の右手の力が緩んだ。僕は慌てて息を吸いこむ。顔を上げると、湯島さんがこちらに真剣な目つきを向けていた。

「っ・・・一体、何の用ですか」とりあえず僕はとりあえず疑問をぶつけた。声を上げるとまた抑えつけられそうなので、声の音量は絞って。

「まさか、こんなに早く再会できるなんてな。だが、私の正体を知った人間がこんなに近い存在だった。これは一つの運命なのかもしれない」

湯島さんは静かに語る。それは僕に言い聞かせるというより独り言のようにも思えた。しかし視線は僕の方から離れない。

「キミ、名前は?」

「本郷、三四郎です」

「本郷君、連絡先を教えなさい」彼女はそう言いながら、黒いガラケーを取り出した。

僕は慌ててスマートフォンを取り出した。完全に酩酊状態と勢いに負けた状態だった。拒否してもよかったはずだが、出来なかった。

大学入学に合わせて買った新型機種、迷いながらの操作を経て、何とか自分の連絡先を表示する。

「えぇと、赤外線でいいですか・・・」

「・・・いや、電話番号を見せてくれ」

湯島さんの方に画面を向けると、彼女はその画面と自分の携帯の画面を見ながら入力を行った。赤外線送信を知らないのだろうか。

数十秒ほどで入力を終え、「ありがとう」と言ってスマートフォンを返してきた。

湯島さんは満足そうに自分の携帯を見ると、再び視線を僕の方に戻した。

「ふむ、では後でまた連絡するとしようか。では本郷君、またね」

再び優しげな微笑みを僕に向けると、彼女はすうっと去っていった。

それと同時に、安心と疲れと混乱が一気に押し寄せてきた。僕はへなへなとその場に崩れ落ちていた。

その場を通りかかった店員さんに声をかけられるまで、ずっとそんな状態だった。


家に帰り着くと、23時を過ぎていた。両親は既に床の中だった。僕は静かに荷物を置いてシャワーを浴びた。

自室に入ると、僕はベッドにゴロリと倒れ込んだ。酔いはすっかり冷め切っていていた。その代わりに期待と興奮が自分の中で渦巻いていた。

画面に映るのは、二行ほどの小さなメッセージ。電話番号用の回線を使って送付するショートメッセージだ。

「明日の朝8時、駒場キャンパスの林の中に来なさい」

宴会が終了し解散した後、帰りの電車の中で受信したメッセージだった。

家に近づき、酔いが冷めていくにつれ、僕の思考も通常運転に戻りつつあった。

さっきまであった出来事を思い起こされる。

それに連れて、僕の鼓動がどんどん高く鳴り始めた。

上級生の中で、いや東大生の中でも際だった美しさを持ち、新入生たちの視線を釘付けにした湯島さん。

そんな彼女が、僕と二人きりで話をしてくれた。連絡先を交換してくれた。そしてこうしてメッセージをくれ、明日会う約束をしてくれた。

僕の心臓の鼓動は大いに高まった。家についてこうして部屋にたどり着くまで、胸は高鳴り続けていた。

僕の中で期待はどんどん膨らみ、勝手に大きさを増していく。

そこに至るまでの流れの唐突さ、湯島さんの強引さなどは、気にする暇はなかった。

結局席に戻った後大前さんとは話せず、他の新入生や上級生ともほとんど離せないままだったのに、そんな事はもうどうでもよかった。

湯島さんの狙いは何も分からないのに、何をすることになるのかは分からないのに。そもそもいきなり翌日に、しかも朝に呼び出すなどよくよく考えれば非常識極まりないのに。期待が疑問を塗りつぶした。

元々明日はサークルオリエンテーションの予定だった。時間は昼からだったが、それが数時間早まるだけだと言い聞かせた。

朝八時、家を七時くらいに出れば間に合う。今から寝れば寝坊の恐れはない。

部屋の電気を切り、布団に入った。眠気を妨げる興奮を抑えるのに苦労した。

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