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教室前方の黒板に「オリエンテーション会場配置図」の文字と、組ごとの机の配置図が示されている。
学校の教室よりと同じくらいの広さの教室。前方には黒板、廊下側には開閉式のドアが三つ並んでいる。後方は白い壁と赤い柱、そして廊下と反対側には、外を向けた窓が付けられている。
その教室が前部・中部・後部で三つのブースに分けられて、オリエンテーションの会場になっている。それぞれのブースには長机が二つ、その前に十個ほどの折り畳み椅子が並べられていて、長机に座った上級生が椅子に座った下級生に説明をするという形式らしい。
僕は黒板の案内に従って、25組のブースにたどり着いた。
数人の学生がそこには座っていた。僕は座りやすそうな席を見つけ、そっと腰掛けて荷物を床に下ろした。
前を見ると、長机の後ろには誰もいない。机の上には小さなボードが立てかけてあり、「少し待っててください」と書いてある。休憩中なのだろうか。
僕は落ち着かない気持ちを抑えて、大人しく座っていようと心がけた。
「こんにちは」
声は右から聞こえてきた。
女の子が、一つ席をおいて反対側に座っていた。小さくて少し丸みを帯びた顔。こちらに向けられた、子供らしさの残るかわいらしい微笑み。僕と同じように、自分のバッグに加え、封筒やチラシが溢れんばかりに詰まった紙袋を前に抱えていた。
「あ、どうも・・・こんにちは」戸惑いながら僕は返事をした。
「同じクラスなんだよね、私は大前晶っていいます。よろしくね」
「ほ、本郷三四郎です」
周りに男しかいない環境で6年間を過ごしてきた僕が、母親以外の女性とまともに話すのは久しぶりのことだった。
予備校などで周囲に女子はいた。しかし彼女たちとまともに話す機会など無かった。
女子と話すという未知の体験に、僕の心は躍りつつあった。もっとこの大前晶さんと話してみたい。僕の心が叫ぶ。
しかし言葉が出てこない、何を話したらいいのか。こちらからも何かを
その時間は数秒程度であっただろうが、僕には何分も経過したように感じられた。
「えーと、本郷くんはどこの・・・」
大前さんの方から話が来た。こちらから話題を触れなかったのが情けないが、これはチャンスだ。この子と会話が進められる。
僕が答えを口に出そうとしたまさにその時、
「お待たせすいません」
教室の空気の中に響きわたる、爽やかな声。僕たちの会話はそこで中断されてしまった。
声の方から、声にピッタリの絵に描いたような「好青年」が歩いてきていた。
軽い感じに整えられた髪型、整った顔立ち。派手さと地味さの中間にあり、クセを感じさせない服装。
そんな男子が、僕たちの前方の机に座った。
「みなさん、今日は二年生が主催する新歓オリエンテーションに来ていただいてありがとうございます。25組の新歓担当の、北沢永嗣です」
北沢と名乗った彼は、挨拶の中にさっとスマイルを混ぜた。文字通りのイケメンスマイルだった。
僕はちらりと横を見た。大前さんがどんな反応をしているのか気になったのだ。彼女の顔には明らかに楽しげな表情が浮かんでいたような気がした。その事が僕の心に、一滴の黒を落とした、そんな気がした。
「今日は皆さんに大学生活に関する様々なことをお話します。質問にもお答えします」
僕は慌てて前の方を見た。
人のことを気にしている場合じゃない。目の前にいる人は大学生活の先輩だ。自分の大学生活を良い物にするためには、きっとこの人の話が役に立つ。
僕は自分にそう言い聞かせ、北沢先輩の爽やかな語りに耳を傾けた。
先ほどまで周囲を覆っていた喧騒は、遠くにかすかに聞こえるだけだった。
木々や草が風に揺られて奏でる音が、それをかき消してしまう。
僕は目を閉じて全身の力を抜いた。
「……以上です、ご清聴ありがとうございました。これからの大学生活で不安なことや混乱することも多いかもしれませんが、その時は是非僕たち上級生に気軽に質問してください」
周囲の全員が拍手をしていた。僕も拍手をしていたが、決してそのメンバーにつられてと言うわけではなかった。
北沢さんの話は面白かった。授業の話
僕もすっかりそんな語りに引き込まれていた。開始前に落ちた黒の一滴なんかすっかり消え失せていた。
「あ、最後に連絡です。今夜の飲み会には、この場にいない二年生もたくさん参加する予定ですので、是非ご参加ください」
彼はそう言って、席に着いた。周囲の何人かの新入生が彼に話しかけにいった。
僕はおそるおそる大前さんの方を見た。彼女は荷物を持ち上げ、その場を去る支度をしていた。
僕は内心ほっとして、彼女に続いて部屋を出ていく。
「面白かったね、大学生活楽しみになってきた」大前さんは興奮を隠さないまましゃべっていた。
「そ、そうだね」僕は少し気圧され気味になる。
今度こそ、今度こそこの人との会話を続けるんだ。その思いに押されて僕は言葉を続ける。
「この後飲み会って言ってたけど、まだ時間があるね。大前さんはこの後……」
「あ、私ちょっと友達と約束があるんだ。本郷君、また後でね」
大前さんは笑顔と共に手を振りながら去っていった。
僕はぽつりとその場に取り残される。周囲の学生が僕を邪魔者のように避けながら進んでいく。
僕には何の予定もない。さて、夜の飲み会までどうやって過ごそうか。
ふと足の疲れに気づいた。さっきの説明では座っていたものの、その前の列待機や資料配付で立ちっぱなしだった僕の足。疲れ切るのも無理はない。
どこか座って休める場所を探そう。そう思って僕はゆっくりと廊下を進んだ。
静かな場所を探し求めて歩き続けた。
校舎の中は、同じようなオリエンテーションの会場となっていた。奥の方に食堂もあったが、そこも学生たちの騒がしさで満ちていた。
一人で過ごすことが多かった僕は、一人でゆっくり静かに過ごせる場所を好んでいた。
そしてたどり着いたのが、建物から少し離れたところにある、林の中にぽつりと置かれたベンチだった。
さっきまで周囲を覆っていたベンチは、既に遙か彼方。
代わって僕の耳に届くのは、木々と草が風に揺られて奏でる自然音。それがかすかに聞こえる人の声もかき消してしまう。
僕は背もたれにぐっと体重を乗せ、全身の力を抜いた。
木々のざわめきに、疲れが吸い取られていくような感じだった。
そして僕の脳裏には、今日会った出来事が浮かぶ。それは直近の出来事から先の出来事へと、時間に遡って流れてくる。
女子と久しぶりに話して、話を進めようとして失敗した。ダメだ、この記憶は忘れよう。
爽やかな雰囲気を漂わせる北沢さんに大学生活について、常識から
サークルの勧誘のビラが
そして、ヒーロー。
そう、あのヒーローの姿がよみがえってきた。
黒いボディの上に赤い鎧。そして金色に輝く
バカなことと否定したはずなのに、僕の中でその記憶は輝いている。
そうだ。確かに僕はそれは子供の頃の話だ。
でもそれは、僕の原点だった。
今思えば、なんて幼稚だったんだと思う。
勉強という困難に立ち向かう勇気を、偶然テレビで見ただけのヒーローから貰っただなんて。人には絶対に話せない。
でも僕の中では、確かに記憶として残っていた。
そんな風に思い出に浸っていたときだった。
背後から、ガサリと言う音がした。
それは一度、二度と続いて響いた。風によって奏でられたものではない。何か力が働いて出た音だ。
僕は慌てて顔を音の方に向けた。誰かがやってきたのかと思うと、思い出に浸っていた自分が急に恥ずかしくなった。
音の方にあったのは、人の姿ではなかった。
いや正確には人だが、人と判別できる外見をしていたかったと言うべきか。
枝葉の合間で、金色の銀杏が、
それは、さっきのヒーローだった。名前は何だったかと思って、彼が肩からぶら下げている襷の文字が目に入る。
そうだ、大学戦士トーダインとか言うんだった。
そのトーダインが、いったいどうしてこんなところに。
彼のの襷の掛かっていない側の肩には、大きな袋がぶら下がっていた。その袋は遠目で見ても分かるほどに膨らんでいる。
彼はその荷物を地面の上にドサリと下ろすと、周囲をキョロキョロと見回した。
そして、マスクに手をかけた。
ヒーローマスクの下には、黒い目だしマスクを被っていた。そして、一気にそれを外した。
マスクが外れると同時に、長い髪が枷から解き放たれたかのようにふわっと風に舞い、その後重力に従って下に落ちた。
「えええっ!」
「っ!誰だ!」
トーダイン、いや、トーダインだった人が、僕の声に気づいてバッと首を動かした。
こちらにまっすぐと向く視線、はっきりと僕の姿を捉えていた。
僕も、その相手も、蛇に睨まれた蛙のように固まっていた。
僕は動けないまま、視線の先にいる相手の姿をしっかりと認識した。
トーダインのマスクの下から現れた、長くて黒い髪の女性の顔を。
北沢さんが一目見て好青年の印象を抱かせたのと同様に、その人は一目顔を見るだけで「美女」の雰囲気を感じることが出来た。
マスクを取った後のためややボロボロとしているが、その艶は失われていない、長くて美しい黒髪。睫毛がしっかりと延びていて、しっかりとその存在を主張している丸くて大きな瞳。形の整った鼻、潤いを帯びたピンク色の唇。
部分部分を見ても、とても綺麗だ。それを見ているだけで僕は恥ずかしくなる。
しかし彼女の顔は、驚きを露わにしたままこちらをじっと見続けている。
「見たな・・・・・・」
先に言葉を発したのは彼女だった。僕の身体がびくりと震えた。
「見てしまったな・・・!」
言葉と共に、彼女はこちらにむかってじりじりと近づいてきた。僕は後ずさろうととしたが、さっきまで座っていたベンチのせいでもう後ろには行けない。
一体何をされるというんだ。僕は思わず目を閉じた。
ザザッと、葉っぱがこすれると音が耳に入った。
僕はそっと目をあけた。彼女の姿は消えていた。
彼女の姿は、視線を下げたその先にあった。
彼女は地面に膝をつき、身体を大きく屈め、頭を思い切り下げている。いわゆる「土下座」のポーズだった。
僕は再び呆然とする。一体何が起こったのか。どうしてこの人はこんな格好を。
「見なかったことにしてください!お願いします!」
伏せられた彼女の口から大声が発せられた。周囲の木々を震わせるかのような大声だった。
僕は戸惑うことしか出来ない。「えぇと、あの……とりあえず顔を上げてくれますか」それを言うのが精いっぱいだった。
彼女はゆっくりと顔を上げた。その勢いで長い黒髪が後ろにいき、その下の綺麗な顔が露わになる。
ぱっちりと開かれた線の綺麗な瞳がまっすぐにこちらを見つめている。
「えぇと、見なかったことにというのは、その・・・ヒーローの中に、あなたが入っていたということをでしょうか?」
「そうだ!」外見に似合わない、力強い返答だった。
「ど、どうして?」
「決まっているだろう!」彼女はいきなり立ち上がると、僕との距離を一気に詰めた。甘い香りが僕の嗅覚を刺激する。
「これは東大のヒーロー、トーダイン!東大生みんなの憧れであり希望なんだ!それが素顔を晒したら、夢も希望も絶たれてしまうではないか!」
熱弁をふるう彼女。しかし僕にはその内容が全く理解できない。話の内容もさることながら、これまで実際に目の当たりにしたことは無いくらいの美人が目の前にいるという事実。鼓動は勢いを増し、脳は熱で沸騰しそうだった。
「わ、分かりました!大丈夫、大丈夫ですから!」訳が分からないまま、僕は叫んでいた。
「本当か!」「ほ、本当です!」
「そうか・・・」その言葉の後、彼女が僕から距離を置いたので、ようやく僕は視線を上げることが出来た。
「ありがとう!」目の前で彼女は深々と頭を下げていた。どうしたらいいものかと僕が迷っていると、遠くの方から別の声が聞こえてきた。
「む、流石にこれ以上はマズイ・・・!」彼女はさっと後方に戻り、荷物袋をシート代わりにして地面に置いていたマスクを持ち上げ、一気に被った。
トーダインの姿に戻った彼女は、荷物を持ち上げると、こちらをチラリと見て
「ではこれで!あ、私の名前は大学戦士トーダインだ!覚えておいてくれよ!」
マスクの下から響く声、低く発せられていて、しかもかなりくぐもっていたから、女性の声と判別するのは難しかった。そんなメッセージを残して、トーダインは彼方へと去っていった。
その場に取り残された僕は、そのままじっと立っていた。背後にベンチがあることを思いだしまたそこに座り込むまでに何分かかっただろうか。
座った後も、何も考えることは出来なかった。ただたださっきまで起こった出来事が、頭の中で嵐のように渦巻いていた。
はっと気が付いた時には、辺りが既に暗くなり始めていた。時計を見ると、コンパの時間が迫っていた。急がなくては。僕は慌てて荷物をまとめ、駅への道を急いだ。
目の前に目的があって、そこに向かって突き進むだけ、その時は何も考えなくていいから、楽なものだった。
さっきまでの怒濤の出来事についても、「後で考えればいいや」から「もうどうでもいいや」へと気持ちは移り変わっていた。
その、はずだった。
その日の夜に、それを見るまでは。