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【書籍化】リトル・オニキスの初恋  作者: 緑名紺
後日談

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後日談3 不自由な国王の幸福

 


 自由とは程遠い過酷な重責を背負って、皆の希望になるべく努力を積み重ねてきた。

 一度だって王という役目が自分に向いていると思ったことはない。それでもなんとかやってこられたのは、支えてくれる忠臣たちと慕ってくれる民、そして四年前の戦いが齎した決意と覚悟のおかげである。


「もう嫌だ……俺には無理だ……」


 盛大なため息を吐いて、モノリス王国の現国王アシュレイド・モノリス・ジュカリン――アッシュは机に突っ伏した。

 苦手な書類仕事や小難しい会議にも、戴冠してからは一度だって弱音を吐かずに頑張ってきたが、今回ばかりは心が折れそうになっていた。


「ニアベル姫様のことですか? きっと慣れない土地で、気疲れてしていらっしゃるのでしょう。大丈夫ですわ」


 侍女のイティアが苦笑しながら、アッシュの好むお茶を淹れてくれた。他の文官たちも困ったように笑って、てきぱきと仕事の処理を進めている。気を遣わせてしまって申し訳ないが、今は甘えさせてもらおう。


 目下、彼を悩ませているのは、サイカ王国のお姫様のことである。

 一年前にアッシュとニアベル姫――現サイカ国王の年の離れた妹姫との縁談が持ち上がった。

 クーデターにより、モノリス王国の直系王族はアッシュただ一人になってしまった。「少しでも早く結婚して世継ぎを」という臣下たちの熱望は無視できない。サイカ王国の姫君という、考え得る最上級の女性が候補ならばなおさらである。


 とはいえ、唯々諾々と縁談を受け入れるつもりはなかった。

 政略結婚とはいえ、どのような女性でもいいわけではない。いや、政略結婚だからこそ、一番に考えるべきなのは我が国にふさわしいかどうか。モノリス王国と相性が良くなければ断ることを念頭に、アッシュはニアベル姫と対面した。


 初対面の印象はとても良かった。

 二つ年上の深窓の姫君というだけあって品と知性と落ち着きがあって、元奴隷の国王だと自分を蔑む素振りは微塵もなく、とても物静かな……というよりも、「緊張して上手く話せない」と申し訳なさそうだった。家族以外の異性とはあまり交流がなかったらしい。


 その初々しく可愛らしい姿を見て、好感を持った。なぜならアッシュも人生で一、二を争うほど緊張していたからである。自分以上に羞恥に頬を染める相手を見て、随分と気が楽になった。


 それから手紙のやり取りをして、何度か食事をする機会を設けてもらい、徐々に打ち解け、彼女とならば仲良くやっていけそうだとアッシュは判断した。


 生まれはともかく、育ちに天と地ほど差がある。それでも会話が全く噛み合わないということもなかった。

 彼女はいろいろなことを知っていて、難しい話題でも分かりやすい例えを用いてアッシュに説明してくれる。反対に、モノリスの文化や風土に興味をもって、話を聞いてくれることもあった。

 性格はどちらかと言えば大人しいが、自分の意見をはっきり持っていて、所作は王族らしく堂々としている。妃としても申し分ない。臣下たちも歓迎してくれるだろう。


 アッシュは改めて姫に求婚した。

 自分にもモノリスにも、あなたのような人が必要だ、と。


 承諾の返事が来て、心の底から安堵した。

 サイカ王国とモノリス王国では生活水準がかなり違うだろう。しかし決して不自由な思いはさせまいと、気合を入れて彼女を迎え入れる準備を始めた。


 そして、現在。

 婚約の発表と数か月後に控えた国を挙げての結婚式の打ち合わせのため、ニアベル姫が初めてモノリス王国に滞在しているのだが……。


 ――モノリスの空気が合わなかったのか? それとも俺、何か嫌われるようなことしちまったか?


 到着から一週間が経つが、ニアベル姫は一向に部屋から出てきてくれない。

 最初のうちは移動の疲れが出たのだろう、と思っていたが、お見舞いに行っても追い返され、言伝にも返事がない。完全無視である。今までの彼女からは考えられないような対応だった。

 ニアベル姫の従者たちも、戸惑っているようだ。どうやらただの体調不良ではない。式の打ち合わせ自体は、彼らと進めているが、やはり花嫁の意見がないと決めきれない部分が多い。


 このまま破談になってしまうのではないか。不安は日に日に大きくなっている。

 王都を案内したり、郷土料理を振る舞ったり、自慢の臣下を紹介したり、いろいろ計画して楽しみにしていた分、アッシュの落胆は大きかった。


「陛下! 失礼します!」


 執務室に宰相が飛び込んできた。

 悪い報せかと身構えたが、彼の顔には喜色が浮かんでいる。


「陛下にお客様が、謁見の申し込みが……!」

「誰からだ?」


 予想外の名前を聞いて、アッシュは椅子を倒して立ち上がった。


    ◆


 謁見の返事を控室で待つ間、流音はひどく緊張していた。

 元の世界ならば、王族の住まいに足を運ぶ機会なんて一生訪れなかっただろう。基本的な礼儀作法は教えてもらったが、即座に実践する自信はなかった。


 子どもの頃よりも、モノリスの城は美しく立派に見えた。

 ところどころ補修されているのもあるだろうが、以前よりも装飾品が減って、建造物としての本来の美しさが際立っている。掃除も行き届いていて、働いている人間も活き活きと誇らしげだ。ものすごく良い方向に変わっている。


 ちなみにスピカはいない。採用試験中ということもあって、個人的にアッシュに会うのは良くないと辞退したのだ。真面目な彼女らしい選択だ。


「大丈夫かな。わたし、場違いじゃない?」

「そんなことはありません。ルノンはとても美しいですから」


 ユラが照れた素振りもなく断言するものだから、流音は俯いて恥じ入った。


「ルゥ、お姫様みたい!」

「ヴィーたん、静かにして」


 ヴィヴィタも無邪気に追撃してきて、羞恥で顔が溶けてしまいそうだった。よりにもよってお城でお姫様みたいだなんて、申し訳なさにも似た居た堪れなさを感じる。


「その服も、俺は似合っていると思うのですが……やっぱり気に入らないでしょうか?」

「ううん! すごく気に入ってるよ。ユラが選んでくれたし、本当にとても素敵なデザイン……」


 落ち着いた青のワンピースで、裾の部分にキラキラさりげなく光るビーズで飾り付けがしてある。実に流音好みだった。


「そうですか。泣くほどの嫌なのかと思いました」

「もう、嬉し泣きだって言ってるのに」


 スピカのアパートにお邪魔している間に、ユラがプレゼントとして用意してくれたのだ。生地の質から見ても、かなり高価なものだと思う。

 以前ならば考えられないことである。値段のこともあるが、見た目やファッションに無頓着だったユラが、自分に似合いそうなものを考えて、素敵な服を選んでくれた。

 流音は感動を通り越して感涙してしまったのだった。


「うん。少し落ち着いてきた」


 本来なら気後れしてしまいそうな城への訪問も、無敵な衣装に身を包んでいると思えば、勇気づけられた。


 ――大丈夫だよね。王様に会うと思うと緊張するけど、お友達でもあるわけだし……。


 四年前に想いを馳せていると、どたばたとした足音が聞こえてきた。


「ルノン! 本当にルノンか!?」


 控室に飛び込んできた背の高い少年を見て、思わず体が縮こまってしまった。

 声も顔つきも違う。しかし、肩まで伸びた白と黒が混じる髪に、溌剌とした輝きを宿す金色の瞳に懐かしさを覚える。


「アッシュ……すごく大きくなったね」


 縦にも伸びたが、体つきも男らしくなっている。国王にしてはラフな格好をしていた。それでも城で見かけた誰よりも風格があって、四年前よりもずっと自信に溢れている。

 どこから見ても立派な国王陛下だ。


 ぼうっとする流音を見て、彼は太陽のような笑顔を咲かせた。ここに来てようやく四年前の面影と目の前の彼がきれいに重なった。


「第一声がそれかよ。まぁ、成長期だし、鍛えてるからな! ルノンもその……すっかり女らしくなっちまったな。びっくりした」


 根本的なところは変わっていないのを感じて、流音もようやく安堵して笑みを返せた。


「また会えるなんて、思ってなかった。元気そうで良かった。よく帰ってきてくれた……というか、ユランザさんが迎えに行ったんだよな? やっぱりすげぇよ、あんた」

「そうでもないです。なりふり構わず研究したのに、四年もかかってしまいましたから」


 アッシュがユラを見る目は、どこか羨ましそうに見えた。


「とにかく、こんなにめでたい日はない! 今夜は宴だ!」

「え、いいよ、そんなの」

「遠慮するなよ。親父たちにも会わせたいし、積もる話もあるだろ」

「もちろんアッシュやみなさんとお話しできたら嬉しいけど、忙しいんじゃ……」


 その瞬間、何かを思い出したようにアッシュは固まった。


「あー、そうだな。無茶苦茶忙しいわけじゃないけど、今、大事な客人が来てるんだ。宴はまずいか」


 顔を見合わせる流音とユラに対し、アッシュは言いづらそうに口を開いた。


「サイカの王女様で……俺の婚約者だ。正式発表はもう少し先だから内緒な」


 スピカから聞いていたこともあって、流音は純粋に驚くことはできなかった。親友の切なげな微笑みを思い浮かべながらも、精一杯の祝福を送る。


「お、おめでとう!」

「おめでとうございます」

「めでたい!」


 二人と一匹からの言葉に、アッシュは照れと困惑が混じったような表情で、頬を掻いた。なんだかあまり幸せそうに見えないな、と思っていたら、事情を少し説明してくれた。

 お相手のニアベル姫は体調不良で部屋に閉じこもっていて、未だに歓迎の宴もできていない状況らしい。そんな中、流音の帰還を祝う宴なんてできるはずもない。本当にタイミングの悪い時に訪問してしまったようだ。


「それは心配だね。また今度ゆっくりお話ししよう。今はお姫様のことを気にかけてあげてね」

「お、おう。でも、悪いな。せっかく会いに来てくれたのに。四年ぶりなんだぜ。やっぱり食事だけでも……」

「ダメだよ。私も心配事のないときに、お話ししたいし」


 流音は母の愚痴、もとい教えを思い出した。

 自分の体調が悪い時にパートナーが楽しそうにしていると、それはそれは腹が立つのだと。いくら友人とはいえ、年の近い異性と会うというのも、お姫様の気に障るかもしれない。


 ――うん、私も風邪ひいた時に、ユラが別の女の人とご飯食べていたら悲しい……。


 気をつけて損はない。このように人間関係を気にして自由に会うこともできないのは悲しいが、大人になった証拠だとも思う。

 肩を落とすアッシュに対し、流音は励ますように笑った。


「落ち着いたら呼んで。もうずっとこっちの世界にいるから、いつでも会えるよ」

「そっか、そうだよな!」


 また改めて、今度はスピカも交えてゆっくり歓談することを約束する。


「婚約のお祝いも、今度ちゃんとさせてね」

「それはお互い様だろ!」


 アッシュは屈託のない笑顔で見送ってくれた。


    ◆


 夜、アッシュは一人で中庭のベンチに寝転がっていた。

 いつもだったら私室で爆睡している時間だが、久しぶりの流音との再会を噛みしめていたら、すっかり眠気が飛んで行ってしまった。

 夜風に当たって、ぼんやりできるのは久しぶりだ。


 流音はとても綺麗に成長していた。それに、幸せそうだった。心の底から良かったと思える。


 昔からユラのことは一目置いていたが、今回のことで尊敬する気持ちが増した。過酷な生い立ちに負けずに、目的を達成するために努力を惜しまない。そんな彼だからこそ、不可能を可能にして、最愛の人と結ばれることができたのだろう。

 自由で羨ましい。素直にそう思う。


 玉座に縛られている自分が不幸だとは思わない。

 いろいろな人に望まれて、この地位にいさせてもらえている。王でなければできないことも多い。

 モノリス王国では奴隷の労働環境はだいぶ改善され、そう遠くない未来に奴隷という存在そのものも失くすことができるはずだ。そのためにも、もっとこの国を豊かにしなければ。


 一度決めた以上、やる。

 だけど、毎日充実しているのに、自分が削られていくような心地になるのはなぜだろう。この夢に付き合ってくれる臣下がいるから、終わりの見えない毎日の積み重ねが苦しくても、潰れずに頑張れている。

 ああ、でも、いつまで耐えられるだろう。今のような王ではない自分に戻る瞬間、ぽっかりと胸に空いた穴が痛むのだ。


「……アシュレイド様」


 か細い声に空耳かと思いながらも体を起こすと、すぐ近くに華奢な少女が佇んでいた。


「わっ、びっくりした」

「も、申し訳ありません」

「ニアベル姫……」


 モノリスに到着した日以来の婚約者の姿に、アッシュは慌てて居住まいを正した。ニアベル姫は供も連れていない。


「こんなところでどうしたんだ」

「お部屋からお姿が見えましたので、こっそり参りました。その、いろいろと申し訳ありませんでした」


 月明かりが彼女の頬を仄かに照らしている。顔色が悪いのは気のせいではないだろう。まるで泣き腫らしたような目元が気になる。


「少し話せますか」

「もちろん」


 アッシュは手を差し伸べて、彼女をベンチに座らせた。今まで避けられていたのを不思議に思いながらも、ようやく話す機会を得られることに安堵した。

 曖昧な状態で居続けるのは苦手だし、考えるのも疲れた。


「体調は?」

「大丈夫です。お見通しでしょうが、ほとんど仮病でしたので」


 アッシュはゆっくりと息を吐いた。


「そうか。……この国のこと、気に入らなかったか? それとも、本当は俺と結婚するのが嫌だったのか?」


 あんなに聞くのを怖いと思っていたのに、踏み込んだ質問がするりと口から出てきた。同時に、今まで多少は取り繕っていたのだが、素の自分に戻っていた。


「違います! 全然、そのようなことはありません!」


 予想外に強い否定が返ってきて、アッシュは呆気にとられた。

 青白かった姫の頬が、仄かに赤くなっているように見える。


「一生分の勇気を振り絞って告白いたします。どうか、笑わないで聴いてくださいませ」

「あ、ああ……」

「わ、私はっ……心の底からアシュレイド様のことをお慕いしています。お会いする前からずっと憧れていて、実際にお会いしてからはもっと……!」


 一瞬何を言われているのか分からなかった。


「あなた様が女神から戴冠されて王となった伝説の瞬間も、“魔性の喚き”との最後の戦いも、旅芸人として各地を巡っていたという逸話も、王会議で出自や年齢を揶揄されても平然と受け答えしていたという話も、何度も何度もいろいろな人間に話を聞いて、ずっと一方的に想いを募らせておりました」


 ようするに、熱狂的なファンです、とニアベル姫は震える声で述べた。

 そのように特別視されているなんて、全く気付かなかった。鈍くはないつもりだったが、鋭くもなかったようだ。


「どうして今まで黙ってたんだ? そんな素振りも見せなかった」

「は、恥ずかしくて……必死に平静を装っておりました。嫌がられたらショックで死んでしまいますもの」


 彼女が視線を逸らせて俯く様が可愛らしく、アッシュの心臓は跳ねた。なんだか全身がむずがゆくて仕方がない。


「分かっていました。私とあなた様の想いの丈には、大きな差があるのです。あなた様にとっては国のための政略結婚でしかなくて……私の想いをありのまま打ち明けることは、恐ろしくてできませんでした」

「姫……」

「それでも、あなた様と結婚できることは嬉しかった。モノリスへの来訪も、本当に心待ちにしていたのです。でも……」


 姫はぎゅっと目を瞑った。


「浮かれる私を哀れに思ったのか、出発前にお兄様に聞かされたのです。アシュレイド様は光救いの聖女様をずっと愛しく想っていらっしゃるのだと」


 今度こそ、アッシュの頭の中は真っ白になった。


「……俺が、ルノンを?」

「はい。お兄様は、シーク・ティヴソンから聞いたと」

「はぁ!?」


 思わず大きな声が出た。


 ――あのナンパ騎士野郎、なんてことを吹聴してやがる!


 怯える姫の手前、アッシュは必死に自分を宥めた。流音への感情は誰にも明言したことはなく、自分でも認めていなかったが、全く身に覚えがないわけではない。

 気持ちを落ち着かせるためにも、今はニアベル姫の話を聞くことに集中する。


「その話を聞いて、私、とても悲しくなってしまって……だって、聖女様は異世界に帰られてしまって、もう二度とお会いすることができないのです。アシュレイド様がお可哀想で……それに、私では絶対に敵わない。世界を救ってくださった聖女様には、一生」


 それでニアベル姫はモノリスに来てもアッシュの顔を見ることができず、部屋に引きこもって泣き続けていたらしい。

 急に態度が変わった理由が分かったが、今度はアッシュが部屋に引きこもりたくなった。


「ですが今日、光救いの聖女様がこちらの世界に帰還されて、それで、オニキスの魔術師様と結婚されるという話を聞いて、本当に驚いて……もう自分でもどうすれば良いのか分からず……感情が追い付かない有様で」


 中庭にアッシュの姿を見つけて、居ても立っても居られず、会いに来たそうだ。ニアベル姫も随分と興奮して混乱しているらしい。

 頭と心がぐるぐるとかき混ぜられて、自分が今どのような気持ちなのかはっきり分からない。それほど衝撃的な告白だった。


 こういうときは、ゼモンに教わった精神統一法を実践するに限る。

 深呼吸をして、頭と心を空っぽにする。

 そして、最初に浮かんできたシンプルな感情に従う。


 アッシュは少し笑って、今にも泣き出しそうな姫に告げた。


「確かに、俺にとってルノンは特別な人間だ。大切で、かけがえがない……でもそれは、恋愛感情じゃない。俺とルノンはずっと友達だ」


 正確に言えば、恋愛的な意味で好きになる前にその芽を摘んだ。

 アッシュの心が揺れるずっと前から、流音はユラだけを見ていた。あんなにも健気で真っ直ぐな想いを歪めて自分に向けさせようなんて、今も当時も全く考えもしなかった。


「そ、そうなのですか……?」

「ああ」

「その……落ち込んでいるように見えたのですが」


 深夜に中庭でぼんやりする姿が、失恋の傷心を癒しているように見えたらしい。アッシュは思わず声を上げて笑った。


「ああ、悪い。でも、失恋して落ち込んでいそうな俺を慰めようと駆けつけてくれたのか? それで告白してくれた?」

「な、あ、えっと……そのような意図はありません。ただ、こういう時に私が差し出せそうなものが、心くらいでしたので」


 彼女の表情は大真面目だった。

 大人しくて理知的な女性だと思っていたが、とても情が深い人だったようだ。ついさっきまで虚無感に苛まれていたのが嘘のように、胸が温かくなった。


「落ち込んでたんじゃない。俺ももっと頑張らないとって思ってたんだ。ユランザさんは欲しいもののために死ぬ気で努力して、しっかり目標を達成した。俺も見習わないといけない」

「アシュレイド様の欲しいものは、豊かで平等な国ですか?」


 やっぱりニアベル姫は賢い。それに、自分のことをよく理解している。

 しかし、今に限っては、アッシュの考えていたこととは違っていた。


「それはもちろん欲しいけどな。国王じゃなくて俺個人としては……気が置けない家族が欲しい」


 ニアベル姫が息を呑むのが分かった。

 彼女の気持ちを知って、欲が出た。特殊な生い立ちで、この国で唯一の立場の自分。

 それでも普通の幸せを願うことができるかもしれないと。


「俺のことを好きだと言ってくれて、本当に嬉しかった。でも、姫が想像しているより、俺はガキだし格好悪いんだ。巷で語り継がれている英雄譚との差にがっかりさせるかもしれねぇ。だけど、絶対大切にするから……そのままの気持ちで俺のそばにいてほしい」


 羞恥で取り乱しそうになるのを必死に抑えて告げた。

 ニアベル姫は小さく震えながら、それでも潤んだ瞳でアッシュを見つめた。


「わ、私も……あなた様が思っているよりも、浅はかで愚かな人間です。そのままの気持ちでいることは、きっとできません。もっと強く、あなた様に惹かれてしまうでしょう。そ、それでもよろしいのでしょうか?」

「それは望むところだ。本当に嬉しい」


 ニアベル姫は、感極まったように顔を歪ませながら、本当に幸せそうに微笑んだ。


 気づけば、どちらともなく手を繋いでいた。

 それきり言葉はなかったが、胸がいっぱいで満ち足りていた。


 流音は恋のために命懸けで世界を救い、ユラは彼女のために異世界まで迎えに行った。

 一国を背負うアッシュには、そのような情熱的な真似はできない。政治と恋愛感情のどちらを重要視するかは、秤に乗せるまでもなく明らかだ。

 スピカもきっと、恋愛事よりも大切なものがあって、口を噤んだ。その選択は何も間違っていない。


 きっと自分は、誰かを本気で愛して愛されることはないのだろうと無意識に諦めていたが、政略結婚で結ばれる相手が自分を強く想ってくれる。

 これ以上なく幸運なことだ。



 その日から二人の間に遠慮はなくなり、臣下たちが目のやり場に困るほど仲睦ましい関係になった。

 婚約が発表されると国中が祝福し、アッシュは改めて幸福を噛み締めたのだった。


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