後日談2 図書館の乙女の決意
彼は言った。
『オレは、そんなに鈍くないつもりだ』
それはこちらのセリフだとスピカは思ったが、言葉にすることはできなかった。曖昧に微笑んで、首を横に振った。
あの日、勇気を出して一歩を踏み出せば、夢見た未来を掴めたかもしれない。
何度かそう思ったけれど、結局それは叶わなかった。叶えようとしなかった、が正しい。
――だって、ウチには身分不相応だから。
叶ってしまったら、もう頑張れない。
大丈夫、後悔はない。
宝物のミサンガが役割を終えたように手首から落ちた。
スピカは丁寧に本を並べ直して、ため息を吐いた。
ここは、モノリス王国王都モーナヴィスにある国立図書館。
勉強の息抜きとばかりに、ぐちゃぐちゃになっていた書架を直して自己満足に浸る。
利用者が目当ての本をすぐに見つけて、一秒でも長く本の世界に耽っていられますように。今は満足に好きな本を読めない自分の代わりに。
自習机に戻り、スピカは王国史の本を広げる。普段の読書のときのような楽しさはなく、黙々とページをめくり、メモを取る。
歴史に興味がないわけではない。むしろ大好きだ。にもかかわらずスピカが本の内容を楽しめないのは、数日後に迫る試験のせいだった。どんな問題が出題されるのか、考えただけで胃が痛くなる。
今年無事に高等学塾を卒業したが、未だに就職先が決まっていなかった。
第一志望は、国に仕える城勤めの文官である。
モノリス王国の文官の採用試験は基本的に年に一度しかなく、しかも平民の採用枠は少ない。去年、在学中に試験を受ける予定だったのに、プレッシャーに負けて熱を出してしまって受験を断念した。情けなくて未だに涙が出る。
――もう後がないの。今年受からなかったら……。
二度と採用試験は受けない。そう父親に約束をしていた。
王都モーナヴィスにおいて、良くも悪くもスピカは注目に晒されていた。
四年前の〈魔性の喚き〉との聖戦における勝利の立役者の一人として。
あるいは、モノリス国王アシュレイドの友人として。
――恥ずかしい結果は残せないの……。
周囲の期待が失望に変わるのには慣れたけれど、自分だけではなく、家族や大切な人たちまで見くびられるわけにはいかない。
自分を心配してくれる両親と姉のため、元の世界に帰ってしまった大好きな親友のため、今もなお憧れてやまない彼のため、スピカは必死に勉強をしてきた。
本当は、試験を受けずに文官に就くこともできた。
スピカにはそれだけのコネがある。何せ国王の友人なのだから。
しかしだからこそ、この繋がりを恥じたくないがために、スピカは正当な方法で夢を叶えたかった。
実力のない人間に、国家を運営する資格はないと思う。
だから努力だけは、言い訳にできないくらいしてきたつもりだ。それでも不合格になるのなら、自分には最初から無理だったのだ。すっぱりと諦めて、違う道を進むしかない。
そうして自分を追い詰めつつも、気持ちを保っていた。
「ふぅ……」
一区切りがついたので顔を上げると、いつの間にか斜め前の席に見慣れた人物が座っていた。分厚い本を手にしている。
「お疲れ様。今日も頑張っているね」
「リブラくん……あ、それ、ズズシャ先生の」
「うん。今のところ、とても僕好みの物語だ。スピカさんのオススメに間違いはないね。ありがとう」
彼は高等学塾での同級生だ。読書が趣味ということが判明してからは度々会話するようになった。王立図書館でもよく顔を合わせ、最近読んだ本を語り合う仲である。
スピカにとっては大変珍しい、異性の友達だ。
リブラは小柄で線が細く、物腰が柔らかい。中性的な雰囲気を持つ彼だからこそ、まともに喋れるのであって、他の男子とは在学中はほとんど会話ができなかった。
幼い頃のように男子にいじめたり、からかわれたりはしない。当然と言えば当然である。スピカは世界を救った聖女の親友で、この国の若い国王とも親しく、有名な天才魔術師やレジェンディアの騎士とも面識がある。
スピカ自身も今は聖魔獣と言われるレグメリーの主だ。メリッサブルの襲撃によって半壊した高等学塾の生徒たちから、一目置かれる存在になってしまっていた。
塾が再開してからは、あの戦いのことを根掘り葉掘り聞かれて、困り果ててしまうほどだった。
――でも、リブラくんだけはいつも普通に接してくれたの……。
英雄譚に憧れてまとわりついてくる男子を追い払ってくれることもあった。感謝してもし足りない。
「気に入ってもらえてよかったの。読み終わったら感想を教えてほしいの」
リブラに勧めたのは、数多の騎士物語の中でも硬派で恋愛要素のないもの。騎士、というよりは武人、という感じの男らしい人物が主人公だ。どこかのナンパが趣味の騎士とは正反対で、モノリス王の腹心の兵団長に近いものを感じる。
内容は、紆余曲折を経て生き別れた弟に忠誠を捧げるドラマチックな話だ。思い出したら、久しぶりに読みたくなってしまった。試験後の楽しみが増えたと思うことにする。
「もちろん、また語り合えるようにメモを取ってる。……ああ、ごめん、勉強の邪魔をしてしまっているな。そろそろ僕は失礼するよ」
「え、全然大丈夫なの」
「そういうわけにはいかない。考えてみれば、試験勉強を頑張っている人の側で、趣味に耽るのは無神経だった。ごめん。少しでも顔が見たくて……いや、試験が終わったら、その、また声をかけるよ」
「う、うん」
頑張ってね、と小さく笑ってリブラは去っていった。
なんだったんだろう、と思わなくもない。高等学塾を卒業してから、やたらとリブラと顔を合わせる。でも、いつも短い時間で会話を切り上げてしまうのだ。
――忙しいのか、それとも気を遣わせているのかも……?
彼はスピカと同じ平民でありながら、昨年度の文官採用試験に合格している。今日はお休みのようだが、新人文官として既に城で働いているのだ。
彼は試験を受けることすらできなかったスピカのことを気にかけ、心配してくれているのかもしれない。
ありがたいことだ。合格すれば、リブラの一年後輩として城勤めをすることになる。なんだか変な感じだが、非常に心強い。
気合を入れ直し、スピカは再び歴史書に視線を落とした。
もう少し頑張ったら、アパートに戻ろう。待っていてくれるレグメリーにお土産を買って。
筆記の採用試験は無事に終わった。
終わった瞬間に机に突っ伏すほど消耗したが、今できる最高の解答を記せたことは確かだ。これで不合格なら、本当に自分に城勤めは無理だ。
――うう、でも、筆記に受かっても面接が……。
むしろスピカとしては、そちらの方が憂鬱だった。とはいえ、面接を受けるのは筆記試験の合格者だけ。筆記試験の合否が分かるまでの数日は、どうしても気が抜けてしまう。
――むしろ、リラックスして過ごした方がいいかもしれないの。
面接の練習だって腐るほどしている。当日、緊張でパニックにならないように、偉人の伝記でも読んで勇気をもらおう。そう結論を出して、スピカは試験会場を後にして、王立図書館に向かった。
久しぶりに好きな本が読める。そう思うと足取りが軽い。
――なんだか、初めてここに来た日を思い出すの……。
あのときは流音が一緒だった。彼女がユラに頼んでくれたから、憧れの王立図書館に来ることができたのだ。読んだことのない大量の本を前に我を失ったことを、未だに忘れられない。
懐かしくて、少し恥ずかしい。
そういえば、ニーニャの魔法に目覚めて旅立った流音と再会したのも図書館だった。
――あのときは、王都の暮らしに慣れなくて毎日泣いていた……。
流音は一緒に高等学塾に来てくれて、そこでメリッサブルの襲撃を受けた。あのときの恐ろしい獣が、今ではちょっとクールで甘えん坊な猫になっているなんて信じられない。
――ルノンちゃん、元気かな……。
彼女はスピカにたくさんのものをくれた。
彼女自身はたくさんのものを失って、この世界を救ってくれた。
もう一度、会いたい。
たくさん話したいことがある。頑張っている自分を見てほしい。そして、改めて感謝を伝えたい。
そんなことを考えていたからだろうか、艶やかな黒髪が視界の端をよぎり、スピカは反射的に足を止めた。
図書館のカウンターの前に、一人の少女が立っていた。司書の女性に何かを尋ねている。
似ている、と思ったとき、心臓が高鳴った。
少女が胸に抱いているオレンジ色のドラゴン。傍らに立つ美しい青年。
彼らとは年に一度は顔を合わせているので、見間違えようがない。ならば、彼らと一緒にいる少女は、もしかしたら。
「スピカちゃん! スピカちゃんだよね!」
自分を振り返った少女が、黒い瞳をきらきらと輝かせる。その顔に、その声に、スピカは胸がいっぱいになった。
「ルノンちゃん……!?」
気づいたときには駆け出して、彼女に抱きついていた。
「ううう、どうして? どうしてこっちにいるの? これは夢なの?」
「夢じゃないよ。ユラが、迎えに来てくれて……」
スピカは涙を拭い、親友の笑顔を見た。幸福に満ちたその様子に、スピカの視界がまた滲んだ。
「わたし、こちらの世界で生きていくことを決めたんだ。それで、みんなに会いに来たの」
流音とユラを交互に順番に見て、スピカは悟った。四年間、二人は決して想いを絶やさなかったのだ、と。
尊敬と安堵と吐き出すように言った。
「本当に良かった。嬉しいの。おかえりなさい、ルノンちゃん」
◆
かつての仲間に会いに行くと決め、真っ先に流音の頭に浮かんだのはスピカのことだった。
ユラとヴィヴィタを除けばこの世界で最も近しい相手であり、一番の親友だと思っている。今何をしているかとても気になるし、元気にしているか心配だった。
それに、最も所在を掴みにくいのもスピカである。
アッシュにはモノリスの城に行けば会える。シークには騎士団経由で連絡を取ることができる。キュリスに会うことは難しいかもしれないけれど、サイカの戦場に根付いた花園に行けば挨拶はできるだろう。その近くには、もう一人の守護者も眠っている。
ならばスピカを探すのを最優先にすべき。流音はそう結論を出した。
「スピカさんとは……あまりお会いしていませんね。年に一度、城か図書館で挨拶をする程度です」
ユラの言葉に流音は何とも言えない気分になった。ユラとスピカは流音を介して顔見知りになった程度の関係なのだ。
「おいらはスピカとレグメリーとたまに遊んでる!」
一方ヴィヴィタはユラが王都モーナヴィスに滞在中、度々スピカを訪ねていたらしい。魔術師よりもその使い魔の方がよほど交友関係が広い。
「ヴィーたん、スピカちゃんの住んでいる場所、分かる?」
「分かる! スピカ、寮暮らし!」
「いえ、確か最近高等学塾を卒業されて、寮も出ていると思います。それでも王都に行けば会えるでしょう。アシュレイド陛下なら所在を知っているはずですし」
諸々の準備や手続きをして、流音たちは王都に向かった。
城を訪ねる前に、と流音は思い出の場所を指さした。
なんとなく、図書館に行けば会える気がしていた。スピカと初めて会った場所も、二人でたくさん過ごした場所も、再会した場所も、図書館だったから。
一目で分かった、と言えば嘘になる。
四年間会えない間に、スピカは随分と大人っぽくなっていた。長い髪をハーフアップでまとめ、白いシャツにフレアスカートの清楚なコーディネートで華奢な体を包んでいる。顔立ちにはかつての面影があるが、気弱な甘さがなくなっている。
端的に言えば、ものすごく綺麗な少女に成長していた。
「本当に良かった。嬉しい。おかえりなさい、ルノンちゃん」
「うぅ、スピカちゃん、ただいま!」
……入口とはいえ、騒いでいたら司書の人に怒られた。
ちょっと散らかっているけど、とスピカが自宅アパートに案内してくれた。
「急にごめんね。本当に良いの? 泊まっちゃって」
「もちろんなの。ウチもいろいろ話したいから」
お邪魔します、と流音は緊張しながら部屋に入る。元の世界で一人暮らしをしている友達はいなかったので、妙にドキドキした。
ちなみにユラとヴィヴィタは宿屋に泊まることになっている。なぜか「ちょうど良かった」とユラが呟いていた。
女子二人で話したいこともあるだろう、という気遣いをしてくれたのかもしれない。
スピカの部屋はちっとも散らかっていなかった。机の上に本と紙の束が載っているくらいで、全体的にきちんと整理整頓され、ほのかに良い匂いがする。
のそり、と豹柄の猫が頭を持ち上げ、怪訝な表情で流音を見た。
「あ、レグメリー。久しぶり……わたしのことは、覚えてないかな?」
レグメリーはすんすん、と流音の匂いを嗅ぎ、ふい、とそっぽを向いた。随分クールな対応である。
「大丈夫。威嚇しないってことは、認めてるってことなの」
「そ、そうなんだ。あの、撫でてもいい……?」
レグメリーは目を細め、尻尾をたーんと床に打ち付けた。
「ごめんなさいなの。今は気分じゃないみたいなの。多分、お腹が減っているから」
「すごい……気持ちが分かるんだ」
スピカが平皿にこの世界のキャットフードらしきものを載せて差し出すと、レグメリーは鼻を鳴らした。優雅に上品に、味わっているかのように食べ始める。
「可愛いというか、かっこいい猫だね」
「そうなの。レグメリーちゃんは王都一の凛々しさなの」
スピカが親馬鹿気味に教えてくれた。
レグメリーは雑誌でも何度も取り上げられる王都で最も有名な猫なのだという。それは世界の救済にかかわった聖魔獣だから、という理由もあるが、単純にファンが多いらしい。
食べ終わったレグメリーが「仕方ないな」と言わんばかりに流音のそばに寄ってきたので、スピカの許可を取って首を撫でた。素晴らしい毛並みだった。しばし至福の時間が流れる。
「あ、ごめんなさいなの。座って」
お茶を淹れると言って、スピカが机を片付け始めた。この国の文字は少しだけ覚えているが、全然内容を読み取れない。
「なんだか難しそう。なんのお勉強しているの?」
「……お城の文官の採用試験なの」
聞けば、ちょうど今日が筆記試験だったらしい。今日の服装も試験を意識した格好だったようだ。
「え、そんな大切な時にお邪魔して本当に大丈夫!?」
「全力は出し切ったの。あとは面接だけだし、全然問題ないの。むしろ、結果が気になって耐えられないから、ルノンちゃんに一緒にいてもらえるとありがたいの」
それからお茶を飲みながら、お互いの四年間について語り合った。流音は中学高校の話を、スピカはメテルの町と高等学塾の復興の手伝いから、卒業までの日々を。
世界は平和になったとはいえ、随分と苦労をしたようだ。しみじみとスピカは言う。
「大変だったけど、すごく勉強になったの。メテルの町のことがなかったら、ウチ、ここまで真剣に文官を目指そうなんて思わなかったの」
あの頃からスピカは城仕えの文官を目指していた。
だけど、あの頃とは志す理由が違うようだ。
「あのとき、お城から派遣されてきた役人さんたちが一生懸命働いてくれる姿を見たから、ウチも頑張りたい、役に立ちたいって思えたの」
きっと何もなければ、自分はメテルの町で図書館司書をしていただろう。蔵書が少ないせいで同じ本を繰り返し読んで、退屈な毎日と自分に飽き飽きしながら、現実逃避をしていたに違いない。
スピカはそう言ってふんわりと微笑んだ。
「だから、ルノンちゃんに出会えて、一緒に冒険出来て、本当に良かった。あの一年は、ウチにとっても宝物なの」
諦めずに努力できるようになった、少ないながらも友達ができた、自分のことを信じて一歩踏み出す勇気を持てた。
スピカの四年間はとても輝いていたようだ。そのことに流音は安心し、誇らしい気持ちになった。
でも、と今まで話を聞いて、どうしても気になったことを恐る恐る尋ねる。
「えっと……スピカちゃんは、あの、アッシュのことはもう……」
なんとなく予感はあった。何か進展があれば最初に教えてくれるだろう。
それでも確かめずにはいられない。
スピカは微笑んだままだった。
「アッシュくんのことは、まだ好き。多分これからもずっと好きなの。でもそれは、恋じゃなくて憧れ。ウチの、モノリス国民の、自慢の王様なの」
一口お茶を飲んでから、スピカはため息を吐いた。
「一年くらい前、アッシュくんが教えてくれたの。サイカのお姫様と縁談があるって。断る理由はないって」
腹心の部下以外では、スピカに一番に教えてくれたのだという。
きっとアッシュはスピカの気持ちに気づいていた。四年前からずっと。
だからおそらく、スピカが告白する最後の機会をくれたのだ。
――なんというか、アッシュらしいな……。
残酷なようでいて、どこまでも真っすぐで誠実。不義理なことを絶対にしなさそうな彼らしい。
「ウチは自分の気持ち、言わなかったの。言わない方がいいって、分かった。やっぱり悲しかったし、寂しかったけど、安心する気持ちの方が強かったから。サイカのお姫様はとても綺麗で優しくて……アッシュくんにふさわしいと思う。強がりや誤魔化しなんかじゃないの。本当に、本気でそう思う」
アッシュはモノリスでただ一人の王族。次世代にためにも、女神に祝福を受けた血を遺さないといけない。
妃に選ばれるべきなのは、国にとって一番益になる女性。
サイカ王国という大国と繋がりを得られて、王族としての教養を身に着けた生まれながらに高貴な姫ならば、きっと公私ともにアッシュの支えになれるだろう。
スピカの言いたいことは理解できる。
でも、流音は思う。
スピカもアッシュも、それで本当に幸せなのだろうか。どこか我慢しているのではないか、と。
しかし言葉にはできなかった。二人とも、自分などよりずっと深く長く考えてきたことだろう。その決意を軽々しく否定するようなことは言えない。
――スピカちゃんが、そう決めたのなら……。
言葉は堪えることができたけど、涙は無理だった。
レグメリーがやれやれと流音の膝に飛び乗り、スピカもまたそっとハンカチを差し出してくれた。
一人と一匹の優しさがまた胸にしみる。
「ルノンちゃん、ありがとう。でも、気にしないで。ウチね、今は自分のことを精一杯頑張りたいと思ってる。もし試験に受かったらお仕事を頑張って、不合格ならお仕事探しを頑張って、それで余裕ができたら、いつかまた恋をしてみたい。そのときは、また絶対にルノンちゃんに相談するの」
流音は何度も頷いた。
スピカは大丈夫だ。四年前とは見違えるほど強くなった。素敵な女の子になった。
何も心配ない。
彼女の努力を知り、彼女を好きになる人がきっといる。
自慢の親友だ。幸せになってもらわないと困る。
後日、スピカは無事採用試験に合格した。




