後日談1 ただいま
ふわり、と血の気が引くような浮遊感が消え、着地すると同時に流音はバランスを崩した。時空を超えるのはこれで三回目だが、慣れるものではない。過去と同じように転ぶ覚悟をしたが、今回は支えてくれる腕があった。
目を開ければ、ユラが淡く微笑んでいた。
時空転移の恐怖がときめきに変わり、心臓が休まる暇がない。慌てて目を逸らして、流音は深呼吸をした。
満点の星空。
胸に去来した懐かしい感覚。
肉体の心臓の他にもう一つ脈打つのは、魔力機関と呼ばれる見えない心臓であった。向こうの世界で転移する前にユラが処置をしてくれた。だから流音の体には今、魔力が宿っている。
『少し、我慢をしてください。〈洗礼〉を済ませます』
ユラの声が頭の中で響いた。彼は自らの親指をナイフで切ると、流音の左の耳たぶ、右の耳たぶ、喉元の順に触れていった。
【大いなる英知よ。再びこの地を踏む生命――ルノンに、言霊の加護を与えたまえ】
柔らかい光に包まれると、全身が安らいでいった。
この世界は流音を受け入れてくれている。子どもの頃は未知の世界だったけれど、今は違う。よく知っている。
ずっと戻ってきたかった。忘れたくなくて、何度も何度も思い出しては涙を流した。
――今度はママたちのいる世界を恋しがるかもしれないけど……。
でも、もう泣かない。心に従って決めたことだ。
別れの悲しみを慰めるように、穏やかな夜風が頬を撫でた。
流音は両手をぎゅっと握りしめた。喉の奥が痛い。
「ただいまって、言ってもいいかな?」
「そういってもらえると、俺は嬉しいです。……おかえりなさい、ルノン」
流音は目を細めた。
「ただいま、ユラ」
四年の時を経て、流音は帰ってきた。
再会後、ユラは宣言通り流音の両親に会い、異世界に連れていく旨を伝えた。
当然、猛反対された。ユラが簡単な魔術を見せたことで異世界の存在はなんとか信じてもらえたものの、三日三晩の説得でも両親は折れず、もう駆け落ちとしかないと二人は諦めかけた。
しかし――。
「心から愛する人を喪って再び誰かを愛せるなんて奇跡、そうそうない。その人が流音の唯一無二の相手なら……」
義理の父が流音の背を押してくれた。
前妻を事故で失くし、流音の母と出会うまで塞ぎ込んでいた、そんな彼の言葉には実感がこもっていた。愛する人が生きていて、再び一緒に暮らすチャンスがあるのなら、引き止めることはできない。たとえ流音が異世界に旅立ち、会えなくなっても。
寡黙な父はそれ以上何も言わなかった。
母はそんな父の腕を支えにして泣いていた。
最初はユラを睨み付け、絶対に流音を渡さない、認められないと言っていた。その気持ちは変わっていないだろう。それでも二人の決意が揺らがないことを知ると、最後は認めるように頷いた。
「流音が帰ってきてからずっと隠れて泣いていたこと、知っていたわ。もう泣いちゃだめよ。……その人を選ぶのなら」
流音は顔を上げて涙を拭った。
「うん。約束する。お父さん、お母さん、ごめんなさい。陸くんと椎ちゃんによろしくね。今までありがとう。……どうか元気で」
ひどい親不孝をしている自覚はあった。今までずっと苦労と心配をかけてきたのに、また悲しい想いをさせてしまう。
だけど、流音は選んだ。ユラと一緒に異世界に戻る。家族とユラのどちらも大切なことには変わりないけれど、これからもずっと一緒に生きたいのはユラだった。
流音は母に誓った。この世界のことが恋しくなっても泣かない。だけど絶対に家族や友達のことを忘れたりしない。離れていてもお互いの幸せを祈り続けると。
「ルノンのことは俺が必ず守ります。もう二度と泣かせたりはしません」
ユラが最後に告げると、二人は悲しげに笑っていた。
流音は両親から誕生日にもらった腕時計を撫でた。
この世界ではあまり意味をなさないけれど、生涯手放さないと思う。壊さないように大切にしなければ。
再びこの世界に帰ってこられた喜びと、家族との別離による悲しみがせめぎ合い、流音は言葉少なにユラとともに森を歩いた。心がふわふわとして夢の中にいるようだった。
懐かしい森の一軒家に辿り着くと、風切り音が聞こえた。
「ルゥ! おいら、すっっっごく会いたかった!」
その衝撃は流音の感傷を軽く吹き飛ばした。
「わたしもー! ヴィーたん! 覚えていてくれたんだね!」
「当たり前! おいら、ルゥのこと大好きだもん!」
「嬉しい! わたしも大好きだよ! あ、ちょっと大きくなったね! すごい!」
「ルゥも大人になっている! ものすごく可愛いー!」
飛び込んできたオレンジ色のドラゴンを流音はぎゅうっと抱きしめ、頬ずりした。
やはりぬいぐるみとは比べ物にならないほど可愛い。最初に出会った頃は子猫ほどだったのに、今では成猫よりも大きくなっていた。
一人と一匹は心のままに再会を喜んだ。
「……俺と再会した時よりも、熱烈じゃないですか。ずるいです」
ユラがほんの少しだけ拗ねたような声音で、流音の顔を覗き込んだ。
その距離の近さに息をのみ、流音はヴィヴィタで顔を覆った。
「ルノン?」
「ちょっと待って。ごめんね、まだ見慣れないから……!」
二十一歳になった彼は、当時の面影を残したまま成長していた。美少年から美青年になったわけである。
――格好良すぎるよ……。
少しだけ背が伸びて、ミステリアスな色気が追加され、表情がわずかに豊かになっているためか以前のような人形的な印象は薄れている。
生々しく残っていた目の下の傷も、随分薄くなっていた。
ただでさえ端正な顔立ちをしているのに、流音は長くユラに恋焦がれていた。これからはずっと一緒にいられるのだと思うと、好きすぎて、幸せすぎて、直視するのも苦しい。顔面の筋肉がふにゃふにゃになってしまう。そんな顔をとても好きな人に見せられない。
「ユラ、心配しなくてもいい。ルゥの顔熱い。照れてるだけ!」
「そうですか。安心しました」
「ヴィーたん……言わなくていいのに」
二方向から微笑ましいと言いたげな視線を感じ、流音は面白くなかった。
懐かしの家の中に入ると、流音とユラは向かい合って座った。本やメモ書きが散乱しており、生活感はあまりなかった。相変わらずのようだ。
「さて、これからのことを話し合わなければいけませんね」
「は、はい」
「ルノン、俺はきみに謝らないといけないことがあります」
「え、何?」
「実は……きみの衣食住について何も準備ができていないのです」
ユラは淡々と述べた。
「きみが俺を選んでくれなかったら、準備したものを片付けるのが虚しくなってしまいます。もし選んでくれたなら、それはそれで俺の独断で準備するのが憚られました。ルノンの意見を聞いて決めたかったんです。どの国に住むか、どんな家がいいか、これから何をしたいか。あと、服のサイズなどは見当がつかなかったので……」
流音は大きく息を吐いた。ため息ではない。安堵のためだ。
「ありがとう。一緒に選べるの、嬉しい。わたしのことを考えてくれたんだね」
「当たり前です。俺たちは家族になるんですから」
「家族……」
流音の心の乙女の部分が逸り出す。
再会直後、流音にこの世界に戻る意志があることを確認するとユラは言った。
『では、俺の家族に……お嫁さんになってください』
その言葉は、かつてない衝撃を流音に与えた。喜びと驚愕が花火のように弾けて思考が停止したほどだ。本能的に、というよりも無意識に強く頷いていた。ユラの気が変わらないうちに決定してしまいたかったのかもしれない。
――でも、未だにちょっと信じられないんだよね……。
大切に想ってくれているのは分かる。でもユラのそれが恋愛感情に結びつくとは思えなかった。彼は十二歳の自分しか知らない。
本当に自分のことを好きでいてくれているのか、同じ気持ちなのか、流音は確認できずにいた。
そんな流音の気持ちを知ってか知らずか、ユラは小さく微笑んだ。
「明日になったら、役所に手続きに行きましょう。いいですか?」
「え、ああ、うん。転空者の手続きだよね。前にぺルネさんにやってもらった……」
「はい。しかし今回は少し違います。きみは俺の所有物というわけではなく、ちゃんと家族として届けを出そうと思います。今度は……」
ユラが一瞬言葉を躊躇った。まるで呼吸を整えるためのようだ。
「ルノンを俺の妻として法的に手続きします。いいですか?」
全身が悲鳴を上げ、今度こそ頬がふやけた。体を左右に揺らし、浮いたり沈んだりしてしまった。挙動不審な動作をする流音を、ユラは静かに眺めていた。ほんの少しだけ口元が緩んでいる。
「そ、それって、婚姻届けを出すってこと……?」
「はい」
チャペルの鐘の音が聞こえる。幻聴だ。
しかし不思議なことに、この急展開に流音の頭の芯がスゥっと冷えた。幸福の絶頂に立つと、落ちる不安が生じるものなのだろう。
「あのね、嬉しい。すごく幸せでどうにかなっちゃいそう。でも、婚姻届けはちょっと待ってほしいの」
「何故ですか」
ユラの表情が少し硬くなった。
たっぷり深呼吸をして、言葉を選びながら答える。
「えっとね、いきなり結婚するのがもったいないというか、段階を踏ませてほしいというか……四年会えていなかった分、少しずつ距離を縮めたいなって……ダメ?」
「もしかして、不安ですか? 俺が変わっていないか、あるいは自分の気持ちが変わっていないか」
流音は首を横に振った。そして覚悟を決めて問う。
「わたしは、け、結婚するならユラ以外にはあり得ないと思ってる。それは本当だよ。でも、ユラは? わたしのこと……本当に好き?」
ユラは黙った。
沈黙にいたぶられながら、流音は落ち着かない時間を過ごす。
「……正直に言えば、きみを迎えに行く前は分からなかったんです。同じ気持ちを返せるかどうか。俺は十二歳のきみしか知らない。当然、そういう視線では見ていませんでした」
でも、とユラは自信を持って答えた。
「十六歳のルノンを一目見て、確信しました。俺にとってきみは、全時空でただ一人の愛しい存在です。夢で見た以上に、離れていた間に思い浮かべていた以上に、きみは美しく成長していた。そう……誰かを美しいと感じることだって、きみが初めてです。とてもドキドキしました」
「…………」
「もしかしたら、恋という感情を超越しているのかもしれません。だから厳密に言えば、ルノンと同じ気持ちではないと思います。ただ、きみのことを強烈に愛しいと感じます。誰にも奪われたくない」
もはや、流音に返す言葉はなかった。
いつもみたいな淡々と口調なのに、言葉にはこれ以上ないほど熱がある。さっそく母との約束を破って、泣いてしまいそうだった。あのユラにここまで想われて、どうして結婚を躊躇えるだろう。
かろうじて、絞り出すような声を紡いだ。
「ありがとう……ユラの気持ちはよく分かった。だ、だから、えっと――」
やっぱりすぐにでも結婚しましょう、とはなかなか言い出せなかった。羞恥心が邪魔をする。言葉に詰まった流音を見て、ユラが口を開いた。
「そうですね。いきなりすぎて、ルノンが躊躇うのも無理ないです。では、まず結婚を前提にした交際をするということで良いでしょうか?」
「え? ええ? あ、えっと……はい」
「許してください。俺も初めてのことなので、少し舞い上がってしまいました。でも、ゆっくりでいいです。これからはずっと一緒にいられますから」
ユラは満足そうだった。
その顔を見たら、流音も心が満たされた。
――なんか、すごく恥ずかしいな……。
情熱的な言葉をもらって、愛されていることを実感した。顔の熱が引かず、心がふわふわしっぱなしだ。
今この瞬間から、二人は恋人同士。信じられない思いでいっぱいだ。四年間ユラと離れ離れになり、悲しみに暮れていた自分に今の幸せを教えてあげたい。
「それで、ルノンはこの世界で暮らすにあたって、何か希望はありますか?」
「ユラのお仕事の都合は?」
「気にしなくていいです。俺の仕事は基本的にどこででもできます。それに、しばらくは資料をまとめるだけにして、ルノンのやりたいことに付き合いたいと思います」
この世界でやりたいこと。
ユラと一緒にいられるなら、答えは一つだった。
「……みんなに会いたいな。ただいまと、これからよろしくって伝えたい」
特に四年前一緒に戦った仲間たち――ニーニャの守護者に会いたい。
「そう言うと思っていました。では、会いに行きましょう」
「うん!」
こうして、流音の帰還を告げる旅が始まったのだった。
少しずつ後日談を投稿していきたいと思います。
よろしくお願いいたします。




