89 終焉を告げる天使
――あと、二体……。
流音には感覚で分かった。仲間たちによって古の魔物の脅威は取り除かれつつある。
残っているのは黒竜デューアンサラトと堕天使フェルンの二体だけだ。
ニーニャカードは三枚ある。
しかし目覚めているの〈オニキス〉だけで、〈死神〉と〈魔法の杖〉のカードはおそらく使えない。
時間もない。胸の痛みはとうに限界を超えていた。
あとどれくらい耐えられるだろう。
ヴィヴィタに乗ったまま、流音とユラは吹き飛んだ黒竜を追った。
薫とデューアンサラトは大地に滑るように落ち、兵士たちに取り囲まれている。薫はまだ戦意を喪失しておらず、傷ついて小さなサイズになった黒竜を抱きかかえ、ナイフを握りしめて周囲を睨み付けている。
「薫くん、もうやめて。降参して、みんなに謝って」
「ふざけるな。誰がそんなことするか。このまま捕まって処刑されるくらいなら、ここにいる幸せな奴ら全員道連れにして破滅してやるよ」
その言葉に頭がかっとなった。
もはや流音には言葉を選ぶ余裕はなく、心のままに叫んだ。
「いい加減にしてよ! 薫くんだって幸せになりたいくせに!」
情けなくて、悔しくて、流音は瞳にたまった涙を拭った。
「薫くんが辛かったの、何となくだけど分かる。みんなと違うせいで、いろいろ大変な思いをして、傷ついて……それは周りのみんなが悪いと思う。でもだからって、自分がされて嫌なこと、無関係の人にしたら同じだよ! そんなことしてたら幸せになんてなれるわけないもん!」
「そんなこと分かってる! でもお前に分かったふりをされるのはまっぴらだ!」
薫は唇を噛みしめて俯いた。
流音自身、人を傷つける言葉を投げつけるのは嫌だった。でもここで言葉を濁したり、偽ったりしれも意味がない。薫の心には響かないだろう。
「ママが言ってた。子どもが幸せになれないなら、それは社会や周りの大人のせいだって。薫くんだけが悪いわけじゃない。謝って、反省して、そうすれば――」
「なんだよ、それ。馬鹿にしてる。お前は俺が謝ったら許すって言うのか?」
「謝ってくれても許せないかもしれない。でも、このまま終わるなら、ずっと許せないしお互いに嫌な気持ちのままだもん。だから、みんなにちゃんと謝ってくれたら、わたしは薫くんを助ける。処刑なんてさせない。誰が何を言っても絶対、見捨てたりしないもん。いつか薫くんを許せる日が来るまで、目を離さないから」
薫は震えながら笑った。
「馬鹿だな、お前。そんな子どもの理屈が通じるわけない」
「わたし子どもだもん! 大人の都合なんて知らない!」
薫が罪に問われるのは避けられないし、それは仕方がない。それだけのことを薫はした。
だけど、やっぱり死んでほしくない。牢の中でも生きていてほしい。
薫だってまだ子どもだ。考え直し、やり直す時間を与えられてもいいはずだ。
それは、恐ろしいエゴかもしれないと分かりつつも、言わずにはいられなかった。
薫は押し黙り、周囲はざわめいた。
「ルノン、分かっていると思いますが、彼の味方をすればきみも疎まれてしまいます。それでも彼を庇うんですか?」
後ろでユラが淡々と問う。
「ごめんね。ユラもヴィーたんもひどい目に遭ったのに。でも薫くんのこと、やっぱり他人事だとは思えないから」
「きみは……子どもだと自覚していながら、好き勝手にやって無責任です。誰が尻拭いをすると思ってるんですか」
「う」
怒られたことにショックを受けつつ恐る恐る振り返ると、予想に反してユラは微笑んでいた。
「でも、いいですよ。ここできみが彼を見捨てたら、俺はがっかりしたかもしれない。俺も大概です」
ユラはそれ以上何も言わなかった。
やがて戦場に静寂が訪れ、その場にいる全員が薫の答えを待った。
――お願い、薫くん。
流音の祈りが通じたのか、薫がナイフを構える手を下ろした。
「俺は、お前に許してほしいなんて思わない。でも、もしも……」
そのとき。
「いやあああああああ――っ!」
静寂を少女の絶叫が切り裂いた。
「ルナ!?」
強烈な魔力の波が戦場を駆け抜けた。ヴィヴィタに乗っていた流音たちも、地上にいた戦士たちも虚を衝かれて怯んだ。その中で薫は歯を食いしばり、黒竜を抱えたまま波動の中心へと駆けた。一拍遅れ、流音たちも薫を追いかける。
「嫌、誰か……誰か助けてっ! こんなの嫌!」
向かった先で信じられないものを見た。
堕天使フェルンが造り出した巨大な闇の沼に、神子マジュルナが吸い込まれていく。
一帯に結界のようなものが発生しており、近づきたくても動けない流音たちとは対照的に、沼の淵では一人の男が愉しげに笑っていた。
「仕方がないだろう、マジュルナ。魔物による時空転移に失敗してしまったからね。こうでもしなきゃ、時空の檻は破れない」
「どういうことだ! ウロトさん! 何が起こってる!?」
薫に詰め寄られても、ウロトは涼しい表情を崩さなかった。
「見ての通りさ。マジュルナの女神属性の魔力を捧げ、堕天使フェルンを聖天使に昇華させる。これでも時空の檻を壊せるかは分からない。けど、何もしないよりはマシだろう?」
ウロトは言う。
堕天使フェルンは元々天界で女神に仕える美しい聖天使だった。しかしその美貌が女神たちの嫉妬を買ってしまい、呪われて天界から追放された。生き残るため、フェルンは新たな世界に適応しようと必死になった。
「フェルンは食いしん坊なんだよ。食えば食うほどエネルギーを蓄えて強くなる。彼女の封印を解いて十余年。これまでも魔力値の高い人間をたくさん食わせてきたけど、やっぱり女神の娘の味は格別みたいだ。すごく喜んでいるね」
古の魔物七体による異世界転移計画が頓挫したときの予備策として、ウロトはフェルンとマジュルナを融合させる計画を用意していたらしい。闇属性のフェルンと女神の力を持つマジュルナを一つにするには緻密な魔術構築が必要だった、とウロトはため息混じりに自らの苦労を語った。
「誰かっ……カオル――」
マジュルナの姿が闇に呑まれ、沼が消えた瞬間、フェルンの体から闇の気配が消え、代わりに光の鱗粉が舞った。
「ルナ……嘘だろ……」
結界も消え、動けるようになったが、薫は呆然とその場に立ち尽くしていた。流音たちも同じく、フェルンから放たれるおぞましいほどの魔力に当てられ、身動きができない。
「悲しむことはないさ。カオルとデューアンサラトも一緒に行けばいい。キミたちの破壊の魔法はぜひ吸収したいと思っていたんだ」
ウロトは気安い仕草で薫に笑いかける。すると、フェルンがぺろりと舌なめずりをし、今度は金色の渦が薫の足元に現れた。
「薫くん!」
あっという間の出来事だった。
薫の姿は光の中に溶けるように消えた。
一瞬、薫と目が合った。
空虚な、それでいてどこか自虐的な瞳に、流音の胸はさらに強い痛みに苛まれた。彼は何一つ抵抗しなかった。ただ、胸に抱いていた黒竜デューアンサラトを逃がした。
黒竜は傷ついた翼で弱々しく飛び、少し離れたところに堕ちた。泥まみれになりながらも、薫が消えた先をじっと見つめていた。
「そんな……」
ぽろぽろと涙が落ち、流音の体は恐怖で震えた。目の前で起きたことが信じられず、頭が真っ白になった。
「ルノン、しっかりしてください」
「でも、でも……薫くんが」
消えてしまった。こんなにもあっけなく。
薫の言葉が聞きたかった。まだ話したいことがあった。
やり直せたかもしれないのに。
「呆けている場合じゃないです。あの男が言っていることが本当なら、あの天使は手が付けられません」
フェルンは薫を吸収した反動か、血の涙を流していた。顔に巻きついた鎖がじゃらりとなって、隙間から見えた青白い唇が笑みの形に歪む。
今まで感じたことのないくらい、冷たい魔力を感じた。
闇よりも深く、それでいてどこまでも透き通った氷のような魔力。
本能的に流音は悟った。
この天使はニーニャカードの魔法では無効化できない。敵うはずがない。生物の枠を超え、手に負えない怪物になってしまっている。
「ははは! さぁ、フェルン。マジュルナほどじゃないが、ここにいる人間たちは美味しいよ。全部食べて魔力を蓄えなさい。そして、新たな世界へ――」
高らかに笑うウロトから鮮血が散った。
黒竜デューアンサラトが、ウロトの首筋に噛みついていた。
「このっ!」
デューアンサラトは振り落とされ、ウロトに踏みつけられた。翼が砕ける生々しい音がその場に響く。
ウロトが負ったのは致命傷だった。血が噴水のように溢れ、彼の白衣を汚していく。
倒れたウロトを、フェルンがじっと見下ろし、そして――。
「はっ、まぁいい……この窮屈で退屈な世界の外に行けるなら……本望さ」
フェルンはウロトとデューアンサラトを光の渦の中に吸収した。
流音とユラも、周りにいた兵士たちも、黙ってその様子を眺めていることしかできなかった。
歪んだ思考を持つ学者と古の黒竜を食い、フェルンは獣のように吠えた。
フェルンの翼が鋼のような光沢を持ち、花開くように広がる。すると薄気味悪い魔力が周辺一帯に充満し始め、空と大地の色が灰色に塗り替わっていった。
風が生物のように鳴き声をあげる。
流音はこの世の終わりの風景を見た。




