88 悲劇の先にあるもの
闇の気配が光と混じり合い、この世界に適応していく。
その気配を一つ感じ取る度、流音は激しい胸の痛みに歯を食いしばった。
「ルノン、やはりきみは相当の無理を――」
「本当に大丈夫だよ。これでこの戦いが終わるなら」
どきん、どきん、とネジの外れた歯車が回るように体の中が軋む。恐怖を押し殺して笑えば、ユラが悲しそうに顔を歪めた。
「わっ、出た!」
ヴィヴィタが空中で急停止する。
前を見れば、黒い竜が行く手を阻んでいた。
その背には泥だらけになった薫がいた。流音を睨み付ける彼の瞳には、これまでとは比べ物にならないほどの憎しみが浮かんでいる。
「薫くん、これ以上は」
「うるさい。言っただろ。俺は絶対に改心しない。……やれ、デュア」
デューアンサラトが咆哮とともに赤黒い炎の弾丸を発射した。しかしスピードと威力の両方とも、以前襲撃されたときとは比べ物にならないくらい弱々しかった。ヴィヴィタの機動力で十分に回避できるレベルだった。
「ヴィヴィタ、反撃です」
「どんと来い!」
流音が舌を噛まないようにしている中、ユラは魔術の詠唱を始めた。惜しむことなく、なみなみと注がれていく魔力の圧に流音はぞっとした。
【風と炎の翼よ、最果てまで一閃し、我らが敵を退けよ】
瞬間的に周囲の温度が上昇した。
【てんぺすと・いんふぇるの!】
ヴィヴィタの咆哮にユラの魔術による攻撃が上乗せされ、目にも止まらぬ速さで空を焼いた。
あまりの衝撃に流音は「ひぃ」と小さく呻いた。
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手の平に収まった剣を見て、シークは噴き出した。
「やっぱりお嬢さんは規格外だねぇ」
死にかけていたくせに、何もできないお子様のくせに、絶望のどん底にいた兵士たちの心を引き上げた。
「奇跡は起きた! まだ諦めるな!」
「取り囲め! 援護を!」
「世界に平穏を取り戻すんだ!」
士気を取り戻した兵士たちが声を上げている。
おそらくだが、古の魔物たちは負の感情を好物としている。反対にやる気やら熱意やらの暑苦しい感情は苦手なのだ。
その証拠に近くに墜落した幽鬼ジェレーゲンは、戸惑うように液体の像を揺らし、無数の赤い目が逃げ場を探している。もちろん流音の降らせた癒しの雨の効果も大きいだろう。
「古の魔物を救え、ね」
シークは手にした聖魔剣アンネイに意識を傾ける。すると鮮明な映像が脳裏を駆け抜けた。
かつて、この剣を生み出した鍛冶師は、愛する女性を手にかけた。恋人が浮気をしたと思い込んだからだ。しかしそれは二人の仲を妬んだ男に仕組まれた罠だった。勘違いに気づいた鍛冶師は絶望し、恋人を殺した剣で自らの喉を掻き切り、あらゆるものを憎んで死んだ。
鍛冶師の怨念が宿った剣はアラクレと呼ばれ、持ち主に力を与える代わりに不幸にした。時に持ち主が疑心を抱く度、意に沿わぬ殺しをさせてきたのだ。
魔剣アラクレは知っていた。
鍛冶師が最も憎んだのは、愛した女性を信頼しきれなかった自分自身だ。
「滑稽だね」
剣は言った。
もう二度と信頼を裏切りたくないと。
剣から伝わってくる決意をシークは鼻で笑った。
「でもまぁ、とりあえず今は利害が一致してるか」
流音の帰還によって、この戦いが面白くなってきた。圧倒的不利な状況からの大逆転だ。このまま勢いで押し切って終わらせる。
兵士たちの間をすり抜け、シークは幽鬼ジェレーゲンの元へ向かった。
ちょうど顔見知りの騎士が周りに指示を飛ばしていた。
「前衛は近づきすぎるな! 奴は魔力を吸収する! 光魔術を集中させて弱らせろ!」
他の魔物とは違い、闇巣食いからの魔力供給がなくともジェレーゲンは動けるようだった。液体の触手を伸ばし、兵士たちを攻撃し、魔力を奪おうともがいている。
「どいて」
シークと対峙したジェレーゲンは一瞬動きを止め、即座に全身を針のように尖らせて突撃してきた。
――ごめんね、お嬢さん。きみの望みは叶えてあげられない。
彼女は「魔物たちを救って」と言った。
しかしこの幽鬼を救う手だてはない。
剣が教えてくれた。
幽鬼ジェレーゲンは異界の戦場で死んだ戦士たちの結晶体だ。意志も望みも希望もない。あるのは周囲への憎悪だけ。ただの亡霊だ。
彼らを癒し、救済する術はない。アラクレの時のように融合して無害化しようにも、守護者とカードの数が足りないのだ。
――望みを叶えられない代わりに汚れ役を買ってあげるよ。
シークは痛む体を無理やり動かし、触手一本一本を光る剣で焼き切った。
【我が剣に、清浄なる風の引導を】
そして全身から魔力を絞り出し、最後にとどめとなる一撃を繰り出す。
流音によって力を与えられた剣は、ドロドロに燻ったジェレーゲンを浄化した。黒い液体が弾けて蒸発していく。
無数の赤い瞳が見開かれ、絶叫が響く。異世界の怨霊たちの恨みつらみの声たちだ。
聞くに堪えない醜い声。
その中からシークの耳は微かな声を拾った。
『ありがとう……ようやく終わる』
他の兵士には聞こえなかったのだろう。ただ気味が悪そうにジェレーゲンの最後を見届けていた。そして完璧に黒い粒子が消え去った瞬間、勝鬨をあげた。
感謝されるとは思わなかった。
虚を衝かれたせいか、胸の内に張りつめていた糸が切れてシークはその場に倒れた。体に力が入らない。魔力は底を尽き、血を流しすぎたらしい。
「後味悪いんだけど……まぁ、いいか」
消滅することが救いだなんて、さすがに笑えない。
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戦場を駆け抜け、癒しの雨を戦士たちに届けたキュリスは、流音の願いを叶えるために毒花グラビュリアの元にやってきた。上空から見下ろした魔物の姿は、精霊の感覚を以てしても醜いものに思えた。
歪に膨張した蔦と根、毒々しい色の葉と棘の奥に、今にも萎れそうな赤いマダラ模様の黒い花が咲いている。
根から大地の魔力を吸って回復しようとしていたが、先にキュリスの降らせた雨が浸透しているため、上手くいかないらしい。
孤立したグラビュリアに、人間たちが次々と魔術を放つ。
「周囲全てを害してしまっては、自然の理から外れるのは当然じゃ」
大地から魔力を吸い尽くし、毒を放つ花。倒れた者はまた大地の肥やしとなって、グラビュリアに吸収される。
そうして最後には誰もいなくなってしまう。
「哀れな同胞よ」
キュリスには分かった。
『彼女』が自分と似た境遇の持ち主だと。
毒花グラビュリアは異世界の花園に咲く、名もなき一輪の精霊だった。
周りには珍しく美しい花々の精霊が栄え、彼女は地味で凡庸だった。人々にも他の精霊にも見向きもされない。
ところがある日、一人の青年が彼女の元を訪れ、絵を描き始めた。青年もまた地味で凡庸な絵描きであり、二人は互いを他人とは思えなかった。やがて心を通わせ、幾年月を共に過ごした。二人は人間と精霊という異種族であったが、確かに愛し合ったのだ。
しかし、青年は彼女の元を去った。突然音沙汰もなく現れなくなってしまったのだ。
どれだけ待っても彼は来ない。グラビュリアは深く傷つき、憎しみに囚われた。結果、劇毒の魔物へ身を落としてしまった。
キュリスはぽつりと彼女に告げる。
「彼の者はそなたを見捨てたわけではない。愛を失くしたわけでもない」
グラビュリアも分かっているはずだ。人間と精霊の間には寿命の壁がある。
だが、どうしても認めたくないのだろう。
愛しいヒトにもう二度と会えないことを。世界にたった一人取り残されてしまったことを。
キュリスは自らがかつて愛した男を思い出す。
彼が水薔薇の園を去り、しばらくは悲しみに明け暮れた。彼の帰る先にいる婚約者に嫉妬したこともある。精霊に生まれた身を恨み、いっそ死んで人に生まれ変わりたいと切に思った。
しかしキュリスは思い出とともに生きることを選んだ。
忘れたくない。
あの愛しい時間を失くしたくない。
毒花グラビュリアは愛した人と本当に長い時間を共に過ごした。その分、別れの辛さも一入だったのだろう。
彼女と同じ立場なら、自分も狂い咲く花になっていたかもしれない。
「わらわたちは痛みを分かち合える。今、そなたに安らぎを」
キュリスは花に近づき手を差し伸べる。
「この地に根を張り、大地を潤し、皆を癒す園を造るのじゃ。そして思う存分に恋バナに花を咲かせようぞ」
その呼びかけにグラビュリアは身を震わせ、応えた。
キュリスとグラビュリアが共鳴するように輝くと、戦士たちは攻撃を止めた。
流音の魔法で生まれ変わった体が、また造り替わっていく。
根が伸び、芽が息吹き、葉が青々と生い茂る。そしてキュリスとグラビュリアの今の気持ちを表すかのように、色とりどりの花が咲き乱れていった。そのあまりの美しさに戦いに疲れた男たちが息を飲む。
キュリスは幼い友を想った。
――ルノンや、そなたの恋も報われることはないかもしれぬ。
彼女はもう間もなく残酷な選択を迫られる。本人も薄々気づいているはずだ。
――わらわはこの地で祈り続けよう。
どの道を選んでも、少女の心が安らかであるように。




