84 二人の流音
セミレイ山の麓近くの洞窟。
十分に空間を温め、即席で作ったベッドに流音を寝かせた。チェシャナの魔術やアッシュの造った魔沃石により、洞窟内の環境は整えられていた。入り口には古の闇を漏らさないよう、結界が張られている。
流音は気に入りの黒いワンピースを着せられ、髪を赤いリボンで二つに縛っている。枕元にはニーニャカードの他にも様々なものが置かれていた。ユラが与えた魔法の杖、各国の王宮から届いた色とりどりの花々、モノリスのコックが作った鈴リンゴパイ……。
見目華やかな空間だが、ひんやりと重い空気が漂っている。
洞窟内にはもう、ユラと物言わぬ流音しかいないのだ。
「ルノン、寒くないですか?」
手を重ねて問うが、答えはない。彼女の力ない手の中にはオニキスの石が握られている。倒れたときからずっと握りしめているらしい。
「みんな、戦いに行ってしまいました。寂しくないですか?」
流音をこの山に連れてきてすぐ、毒花の遺跡の方で動きがあったという連絡が入った。シークはもちろん、アッシュもスピカもそちらに向かった。
もうニーニャカードの不思議な力はない。それでも彼らはカードを持ち、戦場に行くことを選んだ。
『我が主に、必ず勝利を』
シークはそう言って、流音の前で騎士の礼を取った。そしてユラには「お嬢さんのこと、頼んだよ」と誰にも聞こえない小声で囁いていった。
『オレは諦めねぇ。あのカオルってやつを捕まえて、どうすりゃお前が元に戻るのか聞いてきてやる。だから、それまで頑張ってくれ』
一度壊れた精神が元に戻るとは思えない。壊した本人にもどうにもできない可能性が高い。
アッシュ自身もそれは分かっているだろう。それでも最後まで希望を捨てないのは彼らしい
『ルノンちゃん、ごめんなさい。ウチ、ルノンちゃんの代わりに、見届けてくるから』
スピカは今にも倒れてしまいそうだったが、それでも毅然と言い切った。彼女なりに何ができるのか考えた結果だろう。
もし毒花グラビュリアが〈魔性の喚き〉の手に堕ちれば、世界は終わる。どこにいても同じならば、事の中心の近くにいたいという。
チェシャナとヒルダは近くにある秘密基地に控えている。最後まで流音を治す方法がないか、知り合いの魔術師に連絡を取ったり、古い資料を漁るという。
予知の能力を持つヒルダは言っていた。
『ルノンが倒れたことで、未来は深い闇に覆われてしまった。何も見えない。でも、全く光がないわけではないわ』
彼女に何が見えているのかは分からない。気休めを言っているようにユラには聞こえた。
『おいら……父ちゃんと母ちゃんに聞いてくる! 何か知ってるかも!』
ヴィヴィタは両親の元へ行った。千年近い時を生きるドラゴンなら、何か似たような事例を知っているかもしれない、と。
こうして全ての仲間がいなくなり、二人は残された。
この場所に連れてくることでユラが流音にできることは終わっている。
「きみはここで、幸せな夢を見てください」
洞窟の奥には精霊が造った魔沃石の塊が鎮座している。自身の願望を夢の中に映し出し、長い眠りを誘うものだ。
壊れてしまった流音の心に人間の魔術では干渉できない。専門家曰く、苦痛を生むだけだという。しかし精霊の魔法ならば、あるいは――。
幸福な夢を見ることで生きる気力が甦るかもしれない。精神が刺激を受け、元に戻るかもしれない。
もちろん夢の中に囚われて帰ってこない可能性の方が高い。それでもこのまま何もしないよりはマシに思える。
――このまま死ぬのだとしても、せめて、最期は幸せな想いをしてほしいです……。
薫に刺されて痛くて怖い思いをしただろう。人生最後の思い出がそれでは辛すぎる。
ユラは重いため息を吐いた。少し気を緩めるだけでまた涙がこみ上げてくる。
流音の枕元で膝を抱え、ユラは祈るように両手の指を絡めた。
――誰でもいい。ルノンを助けてください。俺に差し出せるものなら、何だって捧げます。
もしも今マジュルナが現れ、流音の救済と引き換えに服従を命じられれば、即座に頷いてしまうだろう。
女神でも魔人でもいい。命がほしいなら自分のものを代わりに持って行っても構わない。
自分が死ぬよりも、流音が死ぬ方がずっと嫌だった。
――俺は、いつからこんなにこの子のことを……。
巻き込んだことへの罪悪感から流音を救いたいわけではない。それだけではない。
洞窟に籠る前にチェシャナに言われた。
『ルノンの魔法……ユランザのために生まれたものなんだぜ。本人が言ってたから間違いない。この子は本当にお前のことを大切に想ってたってことだ。お前も似たような気持ち、持ってるだろ? だから最期の時、そばにいてやるべきなのはお前なんだ』
一体いつから、とユラは過ぎ去った日々を思い返す。
流音が秘めてきた想いを、直接本人の口から聞かなければ納得できなかった。
――ルノン、どうか目を覚ましてください……。
どれくらい時間が経っただろう。気づけばユラはドロドロと濁った闇の中を漂っていた。
いつの間にか世界が破滅したのかと思ったが、どうやら違う。
これは夢の中だ。
――こんなときに眠ってしまうなんて……。
現実逃避をしているようで、自分自身に腹が立った。
しかし覚醒しようと努める反面、ここが夢の中ならばと期待してしまった。
「ルノン……いますか?」
願望を色濃く反映してくれるなら、この闇の中のどこかに彼女がいるはずだ。ユラは無意識に歩き始めた。
会いたい。言葉を交わしたい。
十六歳の美しい少女ではなく、十二歳の幼い彼女の姿を探した。
闇にも濃淡があり、少し先ならば見通せる。
やがて、泣き声が聞こえてきた。
黒髪の少女が膝を抱えて蹲り、涙を流していた。見間違えるはずがない。流音だ。
幻影相手だというのに再び会えたことが嬉しく、同時に彼女の涙に動揺した。幸せな夢などどこにもなく、この世界は流音の悲しみで満ちていた。
「どうして泣いているんですか?」
「……怖いっ」
流音は顔を上げず、しゃくりあげた。違和感を覚えた。確かに流音は大人びた見た目の割に泣き虫だが、それにしても目の前の少女の雰囲気はあどけない。
闇に覆われた世界が恐ろしいのだろう。ここにたった一人でいれば、泣き出してしまうのも無理はない。
「もう大丈夫です。俺がそばにいます。一人ではありません」
「違う」
首を横に振る流音。なんだかショックだった。
「一人が怖いんじゃない……大人になるのが怖いの……」
「それは……なぜですか?」
涙をとめどなく流しながら、流音は答えた。
「だって、病気が治らなくて死んじゃうかもしれない。怖い……でも、ママには言えないの。ずっと迷惑かけてきたから、これ以上はもう……何も気づいていないフリしなきゃ。良い子にしてなくちゃ、もっと嫌な思いさせちゃうもん」
ユラは理解した。
彼女は、ユラが出会う前のもっと幼い頃の流音だ。
向こうの世界で流音は原因不明の体調不良で苦しんでいたという。実際は魔力のない世界で〈不適合者〉だったために、自分の魔力で首を絞めていただけなのだが、この頃の彼女はそんなことは知らないのだ。
――こんな風に、自分を責めていたんですね。
死ぬのが怖い。大人になりたくない。でも、病気で迷惑をかけているのだから良い子にしなくちゃ。泣き言を口にすれば母親を困らせるだけ。嫌われてしまう。
幼い流音はこうやって闇の中、一人で泣くことしかできない。
もしかしたらこれはただの夢ではないのかもしれない。
ユラは流音の幼くも複雑な心情を知らない。想像もできなかった。ゆえに目の前に居る流音はユラが作り出した妄想ではない。
――まさか、ルノンの夢と繋がっているのでは……。
全くあり得ない話ではない。ユラと流音は魔力の波形が等しく、度々共鳴し合ってきた。精神が同調してもおかしくはない。はたまたこの地に住む精霊の悪戯か。
どちらにせよ、流音の精神に訴えかけるチャンスである。
ユラがどのように声をかけようか悩んでいる間も、少女は涙をこぼし続けた。
「ママの悲しい顔、もう見たくない。嫌われたくない……このまま時間が止まれば良いのに。大人になんてなりたくな――」
「違うよ! わたしは早く大人になりたい!」
声が響いた途端、目の前にいた流音が泡のように弾けて消えた。
振り返ると、また流音がいた。彼女はそのとき初めてユラの存在に気づいたようで、はっと体を強ばらせた。
「ど、どうしてユラがここにいるの?」
「……きみに会いたくて来ました。俺のことが分かるんですね?」
流音はこくりと頷き、「そうか、夢だもんね……」と苦しげに笑った。二人の夢が繋がっている可能性にはまるで気づいていないようだった。
ユラは近づき、躊躇いがちに問いかけた。
「……きみはどうして大人になりたいんですか?」
「だ、だって」
うるうると黒い瞳が揺れた。
「ユラには言えない……」
「言ってくれないと分かりません」
「分かってくれなくていいもん」
「それは困ります。それではいつまで経ってもきみの涙が止まりません。干からびてしまいます」
伺うように身を引いた流音に対し、ユラは一歩踏み出した。
「俺に良い子のふりなんてしなくていいです。どんな無茶なわがままでも、子どもっぽい世迷言でも、受け止めて見せます。言いたいことを我慢なんてしないでほしい。俺はどんなきみを見ても嫌ったりしません」
本心からの言葉だった。
「きみの本当の気持ちを教えてください」
流音はしばし震え、そして叫んだ。
「だって、だって……大人になれば、ユラを幸せにできるもん! 好きって言っても変じゃないもん!」
その言葉にユラは息を飲んだ。
「ずっと一緒にいたいって言っても、大人じゃなきゃ本気にしてもらえない。相手にしてもらえない。わたしはユラを一人にしたくないの。幸せにしたい。でも、子どものままじゃ何もできないよ!」
 




