83 闇巣食う少年
「あははっ、そう……これでもうルノンのことは気にしなくていいのね?」
マジュルナの華やかな微笑みに薫は頷きを返した。
手や頬に付いた血は綺麗に拭い去ったのに、まだ生々しい感触が残っている。
自分より年下の少女をこの手で壊した。
流音のことが羨ましかった。妬ましかった。目障りだった。憎らしかった。
彼女が何も悪くないのは知っている。悪いのは不平等な世界と、性根が腐った自分の方だ。
だが、自分に正義の心や道徳が備わっていれば、端から世界中を敵に回したりしない。もうずいぶん前から薫の善悪の基準は一般人と隔絶していた。正しくないと分かっていても、衝動を止められないのだ。
自分の心の望むままに動いた。
だから、なんてことないと思っていた。
実際、手を汚した瞬間までは躊躇わなかった。
しかし、時間が経つにつれて薫の心には恐怖が芽生えていた。
これまで魔物の封印を解いたり、デューアンサラトに命じたり、間接的には数えられないほどたくさんの人間を殺した。
被害者は異世界の名前も知らない他人だった。
しかし流音は違う。
元の世界でひと夏を共に過ごした非力で病気がちの少女だ。
――俺は後悔してるのか……?
胸の中が今まで以上にドロドロになり、吐きそうだった。
「それにしても、良かったのかい? あのまま攻めれば落とせたんじゃないか? グラビュリアの封印」
ウロトがマジュルナに苦笑いを向ける。
「良いのよ。世界のみんなには、思い知ってもらいましょう。自分たちが虐げ、忌み嫌っていた者たちの怨念を。そのための時間をプレゼントしてあげたのよ」
「そうかい。頼りの聖女ちゃんがいなくなったんじゃ、みんな絶望するしかないだろうなぁ」
薫が流音を刺してすぐ、各地に散った古の魔物たちに撤退命令を出した。騎士団にも各国の兵団にも甚大な被害が出ているはずだ。仲間を亡くし、怪我人を抱え、さらに救済の象徴だった流音が敗北したと知れば、残された者たちの戦意は落ち込むだろう。
「ルノンはいなくなることで、ものすごく私の役に立ってくれたわ。感謝しなくちゃね。もちろん一番の感謝はカオルにあげる。……ありがとうね。私のために、本当にありがとう」
マジュルナが無邪気に笑う。他人が死んでも不幸になっても、彼女はいつも通りだ。
いや、他人だけではない。マジュルナのために身を砕き、心を潰して働く者たちが死んでも、涙は見せない。彼女が泣くのは自分のためだけだ。
――俺のためには泣いてくれる人は、この時空に一人もいないんだ。
それでもいい。分かっていたことだ。
しかしきっと、流音の死にはたくさんの人が泣くのだろう。
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ユラが変わり果てた流音に対面したのは、メテル襲撃の報せから丸一日以上経ってからだった。
術式の構築に没頭し、脳が極限まで憔悴していたところに最悪の報せが舞い込んだ。
古の魔物がメテルを襲撃し、撃退の手伝いに行った流音が薫に刺されたという。
頭の中が真っ白になり、未だに信じられなかった。
現実だと認めたくない。
部屋の中にはキュリスローザを除くニーニャカードに選ばれた者たちと、チェシャナとヒルダがいた。誰もが沈痛な面持ちをしていて、結界術師に伴われたユラに道を譲った。
「……ルノン」
ベッドに横たわる少女の青白い頬に、ユラは恐る恐る触れた。
淡いぬくもりがある。まだかすかに呼吸もしているらしい。
だが、目を閉じて横たわる流音からは生気を感じなかった。
まるで陶製の人形のようだ。
「出血は止まった。傷口も塞がっている。だが、ルノンは目を覚まさない」
チェシャナは彼に似合わない暗い声で告げた。ユラには返事をする気力すらなく、呆然と少女を見つめる。
「あの転空者の少年――カオルって言ったか。奴の魔法によってルノンの精神は破壊されちまった。生命を維持しようとする意思を根こそぎ奪われたんだ。魔術学会の治癒専門の魔術師たちに診せたが、手の施しようがないそうだ。魔術で精神に干渉しようにも、ルノンの魔力機関がボロボロで……下手なことをすれば苦痛を与えるだけになる」
ほんの少しだけ躊躇うような間の後。
「数日と経たず、ルノンは息を引き取るだろう」
残酷な宣告が部屋に響いた瞬間、嗚咽が潰れた。
「ウチの、ウチのせいなの! 危険だって分かってたのに、ルノンちゃんを一人にしたから……っ!」
ごめんなさい、とスピカは繰り返し呟いた。彼女はこの場の誰よりも憔悴していて、目の周りは真っ赤に腫れ上がっていた。
「スピカのせいじゃ……故郷があんな風になれば、誰だって動揺する。それを言うならオレだって、ルノンのそばにいてやらなかった。もう少し早く気づいていればっ」
アッシュは肩を震わせ、拳を震わせた。その表情には自分に対する怒りが強く滲んでいた。
「騎士団の命令なんて聞かなきゃ良かった。お嬢さんに付いているべきだったよ……主より生き永らえる騎士なんて、とんだ恥さらしじゃん」
シークは薄く笑っていたが、声には全く余裕がない。
流音の枕元にはニーニャカードが数枚置かれていた。その中には〈薔薇〉も入っている。力の源である流音が倒れると同時に、キュリスローザはカードに戻ってしまったらしい。無念だろう。
皆、自責の念でいっぱいだった。
ユラもだ。
――どうしてそばにいなかったんでしょう……。
闇巣食いのことなど開き直って、一緒にいれば良かった。守ろうとして遠ざけて、結果失ってしまうなんて思いもよらなかった。
せめてもう少し優しくしていれば、出発の前に遠慮せず声をかけてくれただろう。知っていれば、ヴィヴィタを連れていかせたのに。
「ルゥ、もう目を覚まさない……?」
ヴィヴィタはユラの肩から流音の枕元に降り、頬を寄せた。
「やだっ! ルゥ起きて! おいらまだルゥと遊びたい……っ!」
ぽろぽろと銀色の瞳から涙がこぼれていく。
すんすん、と嗚咽を漏らすヴィヴィタ。ユラは黙ってその様子を眺めていたが、次第に視界が滲んでいった。
もう会えない。
流音の笑顔は見られないし、名前を呼ばれることもない。
温かい小さな手と繋ぎ合って町を歩くこともなく、食事をおろそかにして怒られることもなく、ともに鮮やかな魔術式を紡ぐこともない。
全ては失われた。
流音がいる光景がどれだけ幸福なものだったか。彼女の微笑みが自分にとってどれだけの価値を持つか。
ユラは思い知り、堪らず天井を仰いだ。
この一年、彼女とともに過ごしてきた時間の全てが悲痛なものに代わる。
「…………っ!」
心臓が脈打つたびに言葉にならない痛みが全身を巡った。悲鳴のような耳鳴りが視界を揺らし、ユラはその場に崩れ落ちる。
ユラは泣いていた。
自分の涙を見たのはいつ以来だろう。魔境の森に捨てられたときも、牢に囚われたときも、友に裏切られたときも、これほどまでに深い悲しみに駆られることはなかった。
涙を反射的に拭うと、シークが息を飲んだ。結界術師たちが瞬時に反応する。
理解した。ついに自分は完全なる闇巣食いに堕ちたのだと。
火の属性を失い、古の闇に支配された今、瞳が赤に変わったのだろう。
何の感想もない。今までずっと闇巣食いを治すことだけを考えてきたのに、いざ手遅れになってしまうと、どうでもよくなっていた。
流音の喪失の前では些細な問題に感じてしまう。
「この結界はそう長く持ちません。このまま専用の牢へ移送します」
術師が事務的に告げた。
「待って! せめて、ルノンと一緒にいさせてあげて……」
そう叫んだのはヒルダだった。
他のみんなもその言葉に賛同する。流音に残されたわずかな時間を、ユラに与えようとしていた。
自分にそんな資格があるだろうかと自問し、ユラは項垂れる。流音にしてやれることは何もなかった。
自分は何のために生きてきたのだろう。
完全な闇巣食いになり、世界は破滅する寸前で、慕ってくれた少女との約束も守れなかった。
――俺は、生きていてはいけなかった……。
ユラが召喚しなければ、〈魔性の喚き〉と衝突しなければ、闇巣食いでさえなければ、流音は苦しまずに済んだのだ。
深い後悔と悲しみにより、体や魔力機関だけでなく、心まで闇に蝕まれていくようだった。
結界術師たちは困惑気味にお互いの顔を見合わせる。
「いえ、しかし……」
「責任は私が取る! グライにはそう伝えろ!」
チェシャナは泣き崩れたままのユラに告げた。
「セミレイ山の私の秘密基地に行こう。あそこなら人はいないし、結界も張りやすいし安心だ。な?」
冬の間過ごした場所だ。封印術式の構築に没頭して、たまに流音と魔術の訓練をした。思い出は無数にある。
「あ……」
ユラはコートのポケットに手を入れた。
つい先日、流音にオニキスのお守りを渡したとき、代わりにもらったものが入っている。
セミレイ山に住む悪戯好きの精霊が造ったという魔沃石の欠片。
チェシャナを探して洞窟で一夜明かしたとき、不思議な夢を見た原因となったものだ。
――ルノンのためにできること……一つだけありました。
ユラは胃がねじ切れるような思いで、小さなピンク色の欠片を握りしめた。




