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【書籍化】リトル・オニキスの初恋  作者: 緑名紺
第十章

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83 闇巣食う少年

 

「あははっ、そう……これでもうルノンのことは気にしなくていいのね?」


 マジュルナの華やかな微笑みに薫は頷きを返した。


 手や頬に付いた血は綺麗に拭い去ったのに、まだ生々しい感触が残っている。

 自分より年下の少女をこの手で壊した。


 流音のことが羨ましかった。妬ましかった。目障りだった。憎らしかった。


 彼女が何も悪くないのは知っている。悪いのは不平等な世界と、性根が腐った自分の方だ。

 だが、自分に正義の心や道徳が備わっていれば、端から世界中を敵に回したりしない。もうずいぶん前から薫の善悪の基準は一般人と隔絶していた。正しくないと分かっていても、衝動を止められないのだ。


 自分の心の望むままに動いた。

 だから、なんてことないと思っていた。

 実際、手を汚した瞬間までは躊躇わなかった。


 しかし、時間が経つにつれて薫の心には恐怖が芽生えていた。


 これまで魔物の封印を解いたり、デューアンサラトに命じたり、間接的には数えられないほどたくさんの人間を殺した。

 被害者は異世界の名前も知らない他人だった。


 しかし流音は違う。

 元の世界でひと夏を共に過ごした非力で病気がちの少女だ。


 ――俺は後悔してるのか……?


 胸の中が今まで以上にドロドロになり、吐きそうだった。


「それにしても、良かったのかい? あのまま攻めれば落とせたんじゃないか? グラビュリアの封印」


 ウロトがマジュルナに苦笑いを向ける。


「良いのよ。世界のみんなには、思い知ってもらいましょう。自分たちが虐げ、忌み嫌っていた者たちの怨念を。そのための時間をプレゼントしてあげたのよ」


「そうかい。頼りの聖女ちゃんがいなくなったんじゃ、みんな絶望するしかないだろうなぁ」


 薫が流音を刺してすぐ、各地に散った古の魔物たちに撤退命令を出した。騎士団にも各国の兵団にも甚大な被害が出ているはずだ。仲間を亡くし、怪我人を抱え、さらに救済の象徴だった流音が敗北したと知れば、残された者たちの戦意は落ち込むだろう。


「ルノンはいなくなることで、ものすごく私の役に立ってくれたわ。感謝しなくちゃね。もちろん一番の感謝はカオルにあげる。……ありがとうね。私のために、本当にありがとう」


 マジュルナが無邪気に笑う。他人が死んでも不幸になっても、彼女はいつも通りだ。

 いや、他人だけではない。マジュルナのために身を砕き、心を潰して働く者たちが死んでも、涙は見せない。彼女が泣くのは自分のためだけだ。


 ――俺のためには泣いてくれる人は、この時空に一人もいないんだ。


 それでもいい。分かっていたことだ。

 しかしきっと、流音の死にはたくさんの人が泣くのだろう。



 ************


 ユラが変わり果てた流音に対面したのは、メテル襲撃の報せから丸一日以上経ってからだった。


 術式の構築に没頭し、脳が極限まで憔悴していたところに最悪の報せが舞い込んだ。

 古の魔物がメテルを襲撃し、撃退の手伝いに行った流音が薫に刺されたという。


 頭の中が真っ白になり、未だに信じられなかった。

 現実だと認めたくない。


 部屋の中にはキュリスローザを除くニーニャカードに選ばれた者たちと、チェシャナとヒルダがいた。誰もが沈痛な面持ちをしていて、結界術師に伴われたユラに道を譲った。


「……ルノン」


 ベッドに横たわる少女の青白い頬に、ユラは恐る恐る触れた。

 淡いぬくもりがある。まだかすかに呼吸もしているらしい。

 だが、目を閉じて横たわる流音からは生気を感じなかった。

 まるで陶製の人形のようだ。


「出血は止まった。傷口も塞がっている。だが、ルノンは目を覚まさない」


 チェシャナは彼に似合わない暗い声で告げた。ユラには返事をする気力すらなく、呆然と少女を見つめる。


「あの転空者の少年――カオルって言ったか。奴の魔法によってルノンの精神は破壊されちまった。生命を維持しようとする意思を根こそぎ奪われたんだ。魔術学会の治癒専門の魔術師たちに診せたが、手の施しようがないそうだ。魔術で精神に干渉しようにも、ルノンの魔力機関がボロボロで……下手なことをすれば苦痛を与えるだけになる」


 ほんの少しだけ躊躇うような間の後。


「数日と経たず、ルノンは息を引き取るだろう」


 残酷な宣告が部屋に響いた瞬間、嗚咽が潰れた。


「ウチの、ウチのせいなの! 危険だって分かってたのに、ルノンちゃんを一人にしたから……っ!」


 ごめんなさい、とスピカは繰り返し呟いた。彼女はこの場の誰よりも憔悴していて、目の周りは真っ赤に腫れ上がっていた。


「スピカのせいじゃ……故郷があんな風になれば、誰だって動揺する。それを言うならオレだって、ルノンのそばにいてやらなかった。もう少し早く気づいていればっ」


 アッシュは肩を震わせ、拳を震わせた。その表情には自分に対する怒りが強く滲んでいた。


「騎士団の命令なんて聞かなきゃ良かった。お嬢さんに付いているべきだったよ……主より生き永らえる騎士なんて、とんだ恥さらしじゃん」


 シークは薄く笑っていたが、声には全く余裕がない。


 流音の枕元にはニーニャカードが数枚置かれていた。その中には〈薔薇〉も入っている。力の源である流音が倒れると同時に、キュリスローザはカードに戻ってしまったらしい。無念だろう。


 皆、自責の念でいっぱいだった。

 ユラもだ。


 ――どうしてそばにいなかったんでしょう……。


 闇巣食いのことなど開き直って、一緒にいれば良かった。守ろうとして遠ざけて、結果失ってしまうなんて思いもよらなかった。

 せめてもう少し優しくしていれば、出発の前に遠慮せず声をかけてくれただろう。知っていれば、ヴィヴィタを連れていかせたのに。


「ルゥ、もう目を覚まさない……?」


 ヴィヴィタはユラの肩から流音の枕元に降り、頬を寄せた。


「やだっ! ルゥ起きて! おいらまだルゥと遊びたい……っ!」


 ぽろぽろと銀色の瞳から涙がこぼれていく。

 すんすん、と嗚咽を漏らすヴィヴィタ。ユラは黙ってその様子を眺めていたが、次第に視界が滲んでいった。


 もう会えない。

 流音の笑顔は見られないし、名前を呼ばれることもない。

 温かい小さな手と繋ぎ合って町を歩くこともなく、食事をおろそかにして怒られることもなく、ともに鮮やかな魔術式を紡ぐこともない。


 全ては失われた。

 流音がいる光景がどれだけ幸福なものだったか。彼女の微笑みが自分にとってどれだけの価値を持つか。

 ユラは思い知り、堪らず天井を仰いだ。

 この一年、彼女とともに過ごしてきた時間の全てが悲痛なものに代わる。


「…………っ!」


 心臓が脈打つたびに言葉にならない痛みが全身を巡った。悲鳴のような耳鳴りが視界を揺らし、ユラはその場に崩れ落ちる。


 ユラは泣いていた。

 自分の涙を見たのはいつ以来だろう。魔境の森に捨てられたときも、牢に囚われたときも、友に裏切られたときも、これほどまでに深い悲しみに駆られることはなかった。

 涙を反射的に拭うと、シークが息を飲んだ。結界術師たちが瞬時に反応する。


 理解した。ついに自分は完全なる闇巣食いに堕ちたのだと。

 火の属性を失い、古の闇に支配された今、瞳が赤に変わったのだろう。

 何の感想もない。今までずっと闇巣食いを治すことだけを考えてきたのに、いざ手遅れになってしまうと、どうでもよくなっていた。

 流音の喪失の前では些細な問題に感じてしまう。


「この結界はそう長く持ちません。このまま専用の牢へ移送します」


 術師が事務的に告げた。


「待って! せめて、ルノンと一緒にいさせてあげて……」


 そう叫んだのはヒルダだった。

 他のみんなもその言葉に賛同する。流音に残されたわずかな時間を、ユラに与えようとしていた。

 自分にそんな資格があるだろうかと自問し、ユラは項垂れる。流音にしてやれることは何もなかった。


 自分は何のために生きてきたのだろう。

 完全な闇巣食いになり、世界は破滅する寸前で、慕ってくれた少女との約束も守れなかった。


 ――俺は、生きていてはいけなかった……。

 

 ユラが召喚しなければ、〈魔性の喚き〉と衝突しなければ、闇巣食いでさえなければ、流音は苦しまずに済んだのだ。

 深い後悔と悲しみにより、体や魔力機関だけでなく、心まで闇に蝕まれていくようだった。

 

 結界術師たちは困惑気味にお互いの顔を見合わせる。


「いえ、しかし……」


「責任は私が取る! グライにはそう伝えろ!」


 チェシャナは泣き崩れたままのユラに告げた。


「セミレイ山の私の秘密基地に行こう。あそこなら人はいないし、結界も張りやすいし安心だ。な?」


 冬の間過ごした場所だ。封印術式の構築に没頭して、たまに流音と魔術の訓練をした。思い出は無数にある。


「あ……」


 ユラはコートのポケットに手を入れた。

 つい先日、流音にオニキスのお守りを渡したとき、代わりにもらったものが入っている。


 セミレイ山に住む悪戯好きの精霊が造ったという魔沃石の欠片。

 チェシャナを探して洞窟で一夜明かしたとき、不思議な夢を見た原因となったものだ。


 ――ルノンのためにできること……一つだけありました。


 ユラは胃がねじ切れるような思いで、小さなピンク色の欠片を握りしめた。




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